卒業式の朝、智夏は晴れやかな顔で言った。
「お父さんと一緒に来たんでしょ。もう教室でいいから」
「ちょっと待って、智夏。せっかくの卒業式なのに、つくなり私を置いていくの?」
「誰があなたに来てほしいって言った?」
「そんなこと言わないで。教えてよ、今どこにいるの」
「もう教室。あんたは来るなって言ったでしょ」
「私、あなたの卒業式に出席するために来たのよ。私はあなたの母親なんだから」
「何言ってるの? あんたはお手伝いさんでしょ。運転ご苦労様。外で待っててね」
「私はあなたの卒業式に参列するために来たの。お母さんとして」
「あんたが母親なんて恥ずかしすぎるから、来ないで」
「どうして恥ずかしいの? 直してほしいところがあるなら、今すぐ直すから」
「そのふくれっ面、直しようがないでしょ。高校生の卒業式に、そんな若い母親がいたら目立つに決まってる」
「うるさいな。あと、その古臭い服は何? もっとましな服はなかったの? こんなのが母親として参列するなんて、私にとって一生の恥だよ。マジでお願いだから来ないで」
「そう。そこまで言うなら、私は帰るわね。卒業おめでとう」
「お前に祝われたくない」
「どうしてそんなに私を嫌うの? 私が何かしたなら謝るわ。ごめんなさい」
「謝って済む問題じゃないんだよ。受験勉強中なのに、何回も何回も部屋に入ってくるし」
「それはあなたがお腹を空かせてると思って、おにぎりやコーヒーを届けてあげただけじゃない」
「彼氏ができたら、すぐに詮索してくるし」
「だって相手が社会人だったからでしょ。体目当ての男だったらどうするの?」
「そんなの気にしてたの? 私、自分の体くらい自分で守れるから」
「とにかくあんたは過干渉なんだよ。そういうタイプの毒親は、子供のことを何でも把握してないと気が済まないんでしょ」
「そんなつもりないわ」
「私はあんたの所有物じゃないから。今友達と一緒だから、もう連絡してこないで」
「ちょっと、智夏……」
五分後、電話がかかってきた。
「高明さん、もう席に着きました? 智夏には来るなって言われたけど、近くの駐車場に止めたから、すぐに向かいますね。どこら辺に座ってますか?」
「は? 来るつもりか?」
「そうだけど、何かおかしい?」
「お前は家のことをやってるだけだ。それは変わらない」
「何が言いたいの?」
「他人だって言ってるんだよ。婚姻届けって、紙切れ一枚で形式上家族になっただけだろ。俺とお前の間に血の繋がりはない」
「確かにあなたとは血が繋がってないけど、私は智夏と血の繋がった娘よ」
「半分だけだろうが。それはほぼ他人だよ」
「あの子は私がお腹を痛めて産んだ子供よ。何より十八年間育ててきた。それのどこが他人なの?」
「その割にはお前と智夏は仲が悪いじゃん。本当に血の繋がった親子なら、そんな風にはならないはずだ。その証拠に、俺と智夏は仲良しだろう」
「あなたと智夏は、昔からよく二人で出かけてたものね」
「そうだ。お前と違って、俺はちゃんと父親やってんだよ」
「私だってあの子の身の回りのことなら何でもやったわ。弁当、洗濯物、学校の行事、PTAの役員。あなたはどれか一つでもやったの?」
「どれも智夏に直接向き合ってないじゃねえか」
「そうね。でも、陰でしっかり支えてきたつもりよ」
「その結果がこれじゃあな。智夏に母親って認められてないんじゃ、参加する資格はない。お前は駐車場で待ってろ。もう始まるから。じゃあな」
五分後、智恵美は実家に電話をかけていた。
「お父さん、朝からごめんね。相談があるんだけど」
「どうした?」
「今日、智夏の卒業式だったんだけど、参加させてもらえなかったの」
「どういうことだ? 保護者なのに参加できないなんて、おかしいだろ」
「智夏と高明さんに、来るなって言われちゃった。前々から私への態度は冷たかったけど、ここまで嫌われてるとは思わなかった。母親として情けないよね」
「辛かったな。お前は何も悪くない」
「お父さん……ありがとう」
「智夏ちゃんももう高校を卒業したし、お前はもう無理しなくていいんじゃないか」
「でも、これからだってやることあるし。家賃の支払い、大学の入学費用、ほかにも色々な手続きがあるの」
「そんなものは智夏にやらせておけばいい。あの子はもう十八歳だ。成人した大人なんだよ。だから、これからのことはあの子に自分でやらせなさい」
「そうだよね。お父さんと話して、吹っ切れた気がする。私、そっちに帰っていい?」
「もちろんだ。ここはお前の家でもあるんだから」
「うん。私、お父さんとお母さんがいる家に帰る。だって、あの家に私の居場所はないから」
「これまで母親としてよく頑張ってきたな。智恵美も、母親を卒業して帰ってくるといい。この家では、ずっと俺と母さんの娘だ」
「お父さん、本当にありがとう。帰ることにするわ。帰る前に、前から用意してた離婚届を置いてから行くね」
二時間後、高明が智恵美に電話をかけてきた。
「おい、待ってろって言ったよな。なんでいないんだ?」
「なんでって? 私、他人なのよね。駐車場代もただじゃないし、帰らせてもらったわ」
「ふざけんな。お前が帰ったせいで、俺が家に戻れなくなっただろうが」
「タクシーでもバスでも、交通手段はいくらでもあるでしょ」
「無駄な金なんか使えるか。いいから今すぐ迎えに来い」
「あの車は私の車よ。無駄なことにガソリンを使いたくないわね」
「なんだと?」
「普通の他人は、わざわざ他人を迎えに行かないわ。お金が無駄だと言うなら、歩いて帰ったらどう?」
「ここから何時間かかると思ってんだ?」
「とにかく、自分でどうにかして。それじゃあね」
「待て、智恵美!」
五時間後、今度は智夏から電話が来た。
「ちょっと、お手伝いさん。クラス会が終わったから、迎えに来て」
「なんで?」
「なんでって? あんたは私のお手伝いさんなんだよ。迎えに来るのは当たり前でしょ」
「それなりの報酬はあるのかしら?」
「は? 報酬って何? お小遣いみたいなこと? あるわけないでしょ」
「じゃあ、迎えには行けないわ」
「何それ? 私のことが心配じゃないわけ?」
「私は担任でお手伝いさんなんでしょ? そんな私に心配されても、嬉しくないだろうし。自分でどうにかしなさいね。それじゃあ」
五分後、智夏は高明に電話していた。
「ねえ、お父さん、聞いてよ。お手伝いさんにお迎え頼んだら、断られたんだけど」
「何? 智恵美か。俺も卒業式の後、帰れなくて困ってたんだ。どうやら先に帰りやがったみたいでな」
「何それ? 本当に使えないね」
「そうだ。ミカに迎えに来てもらって、今はミカの家にいる」
「へ? 自分だけ彼女とまったりデートとか、ずるい。じゃあ、私のことも迎えに来てよ」
「智夏は本当にミカが好きだな」
「当たり前じゃん。もう友達だもん。超美人で綺麗だし、最近の流行りも分かってるし、私ともすごく話が合うんだよ。あんなお手伝いさんより、ミカさんの方がいいに決まってる。早く離婚して、ミカさんと再婚しなよ」
「でもなあ、怪しまれないようにうまいこと離婚しないと、下手したら慰謝料請求とかされるからな」
「大丈夫だって。あの人、どん臭いじゃん。絶対にバレっこないよ」
「それもそうだな」
「あー、早くミカさんが私のお母さんにならないかな」
翌日、高明が怒り狂って智恵美に電話をかけてきた。
「おい、家に帰ったら離婚届が置いてあったぞ。正気か?」
「やっと気づいてくれたのね。正気じゃなかったら、置かないわよ」
「正気なんだな。分かった。別れるのはいい。許してやろう」
「あら、案外あっさり認めてくれるのね」
「母親の役割を果たさないお前には、うんざりしてたからな」
「そう。じゃあ、良かったわね」
「だが、財産分与はどうするんだ?」
「財産分与するほどの貯金なんてないわよ。あるのは智夏の大学の費用だけ。なら、それを寄越せ。智夏の面倒を見るのは、父親であるこの俺だ」
「あなたは自分が父親だと言うけれど、胸を張って言えるほど、父親をしてきたの?」
「当たり前だ。だから智夏は俺に懐いてるんじゃないか」
「具体的に何をしたのかしら?」
「それはあれだ。月きっちりで、宿題を見てやったんだよ」
「そばにいただけでしょ。ずっとスマホをいじってたわよね」
「分からないことを調べてやってたんだよ」
「智夏のそばなら、怪しまれないと思ったからでしょ」
「何のことだ? わけの分かんないことばっかり言うな」
「それだけで、よく父親面ができたわね」
「他にもやってるさ。お前じゃ行けないようなところにも連れてったりな」
「私じゃ行けないようなところね。そうよね。確かにあそこは、私じゃ無理だわ」
「場所名言ってねえわ。分かって言ってんのかよ?」
「少なくとも、遊園地とか水族館とか、そういう楽しいところじゃないってことは分かってるわよ」
「お前、さっきから何の話をしてるんだ?」
「ごまかすのはいい加減にして。そのせいで、あの子は変わってしまったのよ」
「元々あんな感じだろう」
「あなたは智夏のことを、よく見てなかったのね。あの子は元々とても優しい子で、私と仲が良かったのよ」
「小学四年生までは、お前の前で猫をかぶってただけだろ」
「そうかもしれない。でも、智夏があんな態度を表に出すことはなかった。我慢の限界が来たんだろうね」
「そのきっかけは何かしらね」
「知らねえよ。その話、財産分与と関係ないだろ」
「離婚届、役所に提出してくるわ。じゃあね」
五分後、智夏がまた電話をかけてきた。
「このクソ母親、離婚したのに私のこと迎えに来ようともしないなんて」
「あら、卒業式に私のことをお手伝いさんと言ってなかった?」
「名前の話をいつまで引きずってんだよ。しつこいな」
「普通、母親が引きずるでしょ。十八歳になったら親権は消滅するのよ。だから、迎えには行かないわ」
「は? 何それ? わけの分かんないこと言うなよ」
「それは智夏の方でしょ? お手伝いさんと言うくせに、母親として責め立てるなんて。まるで、私にはちゃんとした母親でいてほしいみたい。本当は私にどうあってほしいの?」
「言わないと分かんないわけ?」
「母親としてできることは、やってきたつもりよ」
「どこがだよ。いつも疲れた顔して、だらしない服で学校に来てさ。ご飯だって、お店みたいな美味しいものが食べたかった」
「あのね、私だって人間なの。こうしてほしいと言われても、限界があるのよ」
「子供のためなら何でもするのが母親でしょ。たく、マジで親ガチャ失敗したわ」
「ひどい。どうしてそこまで言うの?」
「本当のことだろうが。被害者面すんなよ」
「分かった。じゃあ、これからはあなた一人で何とかしなさい。これからは、もう本当に母親じゃなくなるから。何かあっても、もう二度と頼ってこないでね」
「はいはい。言われなくても、そうしますよ」
二日後、高明が智夏に電話をかけてきた。
「ついに離婚できたぞ」
「おめでとう。パパは幸せでいいね」
「ああ。バカな智恵美とはおさらばだ」
「娘の私がついて行ってやろうかと思ったけど、あのお手伝いさん、何も変わってなかったよ」
「長年一緒にいてやったのにな」
「恩を仇で返すとは、このことだね」
「ともあれ、浮気はバレなかったし、慰謝料請求もない。結果オーライだな」
「でも、私、どうしたらいいの?」
「新生活が始まるまでは、一緒に暮らしていいぞ」
「本当? やっぱりパパがいればいいや。パパ、ありがとう」
「どうせもうすぐ二人暮らしだしな。気にすんな」
「お手伝いさんなんていなくても、全然問題ないよね。むしろあいつが邪魔だった。これからの生活、楽しもうな」
「うん!」
一週間後、高明が智恵美に電話をかけてきた。
「智恵美、やっぱりお前がいないと駄目だ。智夏も言ってる」
「何の用よ。私はあなたがいなくても、大丈夫なんだけど」
「お前がいなくなって、痛感したよ。ご飯、掃除、家事がこんなに大変だったなんて」
「十年以上も一緒に暮らして、気づくのが遅くない?」
「気づかせないように働いてくれたんだろう」
「そんなの、気づけるわけがない」
「あなたの目の前で料理や皿洗い、掃除機をかけてたのに。洗濯物を取り込んでとか、食器を棚にしまってとか、声掛けもしたのに」
「そうだっけ? お前の仕事ぶりに見とれてて、聞こえなかったようだ」
「よく言うわよ。新聞やスマホばっかり見てたくせに。とにかく、誰もやってくれなくて困ってるんだ」
「誰もって、智夏以外にも誰かがいるみたいな口ぶりね」
「ミカのだよ。頼む、戻ってきてくれ」
「嫌です。あなたたちに費やした時間は無駄でした。これからは、自分のために使います。あなたも智夏ももう大人なんだから、自分のことは自分でしっかりやってください。じゃあね」
「おい、まだ話は終わってないぞ。おい!」
十分後、智夏が家で高明に言った。
「お父さん、戻ってこないの? どうにか説得したんだけどな」
「どうすんの? ミカさんと別れてから、家めっちゃ汚いよ」
「まさか三日で振られるなんて、思いもしなかったんだよ。私、引っ越しの準備もできてないんだけど」
「仕方ない。家事代行サービスでも頼むか」
「お金ないんでしょ?」
「それについては当てがある。智恵美が溜め込んでた大学費用や貯金だ。あれは俺が渡してた生活費からちょろまかしたものだ」
「泥棒じゃん。てか、それ私のお金でしょ? 勝手にそんなことに使わないでよ」
「そう言われてもな。てか、多分お手伝いさんが大学に振り込むでしょ。だから、私のお金は使えないよ」
「そうだな……いいこと思いついたぞ」
「どうすんの?」
「智恵美の名義で金を借りればいいんだよ。幸い、智恵美の保険証が手元にある」
「へ? なんで持ってんの?」
「俺の不要な書類の中に入ってたから、郵便で返送されたんだよ。これで金を借りれば、支払いは智恵美の方に請求が行くだろう」
「私たちは返さなくていいってこと?」
「その通り。智恵美は世間知らずのアホ主婦だから、何のことかよく分からないまま払うだろうよ」
「何それ? めっちゃ頭いいじゃん」
「いくら借りるの?」
「そうだな。とりあえず一千万借りるか」
「やば、めっちゃ贅沢できちゃうじゃん。そうと決まれば、借りに行くしかない。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
三日後、智夏が智恵美に電話をかけてきた。
「おい、どういうことなの? さっき大学の学生課の人から電話が来て、大学の入学金と授業料、それから一人暮らしの初期費用が振り込まれてないって」
「ああ、それは当たり前よ。だって払ってないもの」
「嘘でしょ? 今まで母親らしいこと、何一つできてなかったんだから。せめて、娘の大学費用くらいちゃんと払えよ」
「そうね。あなたは私の娘だから、何を言われても大学の費用は払おうと思ってた。でも、もう無理だわ」
「何が無理なんだよ」
「お手伝いさん呼ばわりをしたこと。それから、親ガチャ失敗って言われたこと。それが、私の心を傷つけたのよ」
「子供の反抗期に耐えてこそ、母親だろうが」
「都合が悪くなった時だけ、私を母親呼ばわりしないで」
「それはあんたが私をそうさせてんだよ。このクソ母親が」
「ねえ……親ガチャがあるなら、子供ガチャっていうのもあるのかしら?」
「何が言いたいの?」
「私は、子供ガチャ失敗したなんて思ったことなかったわ。可愛くて、リーダーシップがあって、頭が良くて。何を言われても、私にとって智夏は自慢の娘だったのよ。私にとっては、ずっと可愛い娘で、みんなにもそう自慢してきた」
「……へ」
「私の娘だった智夏は、もういないのね。さようなら」
「待って、お母さん!」
一週間後、高明が智恵美に電話をかけてきた。
「聞いたぞ。お前、本当に大学費用払わなかったらしいな」
「だって、私の助けはもういらないんでしょ?」
「それとこれとは別の話だ。お前が持ってるその大学の費用は、元々俺の金だろ。お前が家計管理してたから、ちょろまかして自分のものにしてたんだろ」
「違うわ。被害妄想もいい加減にしなさい」
「嘘をつくな。金を返せ」
「智夏が可哀想だと思わないのか?」
「何言ってるの? あなたから渡された生活費だったかしら? 都合が悪いからって、話をすり替えないで」
「すり替えてなんかないわ。大学の費用にもつながることよ」
「毎月十万円だろ。いいように記憶を改ざんしないでくれる? たった三万円よ。それでどうやって生活しろというの?」
「お前もパートしてただろ。その金はどうした?」
「もちろん生活費に当ててたわ。私が稼いだパート代、八万円全部」
「それで、なんで足りないんだよ。やりくり下手くそか」
「家のローンが毎月十万円、光熱費が三万円、食費が七万円。これだけでも二十万円を超えてるの。そんな中、どうやって大学の費用を貯めたんだよ」
「大学の費用は、私が副業して稼いだお金を貯めたの。十年間、こつこつとね」
「し、その金を財産分与だ」
「いいえ。このお金は、お父さんに返します」
「あ? なんでそこでお父さんが出てくるんだよ」
「実は生活費は、お父さんに援助してもらってたの。だから、財産分与のお金はないわ。むしろ、お金を返してほしいくらいよ」
「そんなに欲しいなら、お父さんに頼み込んだらどうだ」
「いや、それはちょっと……」
「そうよね。会社での立場が悪くなるかもしれないと思うと、怖くてできないわよね。だって、あなたが今働けてるのは、お父さんのおかげだもの。専務に相談するわ」
「頼む、専務には言わないでくれ」
「もう遅いわ。覚悟しておいてね」
「待ってくれ!」
五分後、智夏が智恵美に電話をかけてきた。
「お母さん、ごめんなさい。今回の入学はもう諦める。だから、来年学費を出してもらえませんか?」
「何がごめんなさいなの?」
「お手伝いさんって言ったこと……親ガチャ失敗って言ったこと……それだけ」
「ほかにあるでしょ」
「他に何があんの?」
「どうやらあなたは、まだ反省が足りないようね」
「ちょっと待ってよ。ちゃんと謝るから。だから、何が悪かったか教えて」
「教えたら、意味ないでしょ。自分でよく考えなさい」
「だって……本当に分からないよ。お母さんが何に怒ってるか」
「あなたがすることは、謝罪の言葉を口にするだけ。それだけで全てが許されると思ったら、大間違いよ。私が智夏のために今まで何をしてきたか。そんな私に、あなたはどんな言葉をぶつけたのか。それをお前、よく考えなさい」
「お母さん、本当にごめん。ごめんなさい。お願いだから許して」
一ヶ月後、智恵美が高明に電話をかけてきた。
「あなた、私の名義を勝手に使って、お金を借りたでしょう」
「なんだ、もうバレたのか」
「そうよ。おかげで五百万円借りられた。ありがとうよ。返済はよろしく頼んだ」
「それは無理ね。弁護士に債務不存在確認訴訟を起こしてもらったから」
「何のための訴訟だよ」
「支払う必要がないことを証明するための訴訟よ。この訴訟にかかったお金は、きっちり請求させてもらいます。あと、不貞行為による慰謝料もね」
「は? 俺、何もしてねえけど」
「嘘つきねえ。私が何も気づいてないと思った?」
「何にだよ」
「そんなの聞かなくても、心当たりがあるでしょ。ずっとおかしいと思ってたの。給料が安いからって、毎月三万円しか渡せないって言ってたのに、その割には収入に見合わない生活をしてた。ブランドの高いスーツと腕時計をつけたりね」
「そりゃ当たり前だろ。俺は営業マンだ。相手に舐められないように、身だしなみはきっちりしないと」
「お昼ご飯や夜ご飯は、私が作るものじゃなくて毎日外食」
「取引先との付き合いのためには、仕方ないんだよ」
「職場から近いからって、ホテルに泊まると言って、毎日帰ってこなかった」
「早朝から深夜まで会社にいるなら、その方が効率いいだろう」
「それだけじゃないわ。その頃から、智夏とよく出かけるようになったわよね。それまで育児に関してはノータッチだったのに」
「そりゃ俺だって父親なんだから、面倒ぐらい見るだろう」
「最初はありがたいと思ったわ。でも、その頃から智夏が変わった。私のことをババアと言ったり、高卒の低学歴と言ったり、私が作ったご飯もろくに食べなくなってしまった」
「反抗期だろ。気にしすぎなんだよ」
「あなたもあなたよ。私が智夏に関わることを、異常に嫌がったわよね。まるで何かを隠してるみたいだった」
「は? そんなもの、何もないけど。俺の方が懐かれてるから、嫉妬してんだろ。俺と智夏は、他の親子より仲が良すぎるだけだ」
「それだけだったら、どんなに良かったかしらね」
「何が言いたい?」
「ここまで来て、まだ認めないの? 浮気してたこと」
「俺が被害妄想か。ここまで来ると、ひどいな。お前の思い込みで浮気って決めつけられるなんて。こっちは何も面白くないんだけど」
「彼女さんの名前、ミカさんっていうのね」
「は? 誰それ?」
「一度だけ、智夏の口から聞いたことがあるわ。その時、智夏はハッとして口を押さえた。行けないことを言ってしまったって感じでね」
「智夏の妄想の友達の名前だろ」
「妄想だとしても、友達を『さん』付けで呼ぶかしら」
「そういう人もいるかもしれないだろう」
「そうかもね。だから、この疑いを晴らしたかった。智夏の高校最後の冬休み。二人が出かけた日に、こっそり後をつけたの」
「お前、こそこそして気持ち悪いな」
「気持ち悪いのは、浮気をしたあなたの方でしょ。後をつけたら見たわよ。家族のように、三人並んで歩く姿を」
「ちっ……ああ、そうだよ。ミカに会ってたんだよ」
「不倫相手に自分の子供を合わせるだけでも最低なのに」
「こっちが本当の母親と言って、私を除け者にした」
「なら、すぐに離婚届を突きつければよかっただろう」
「信じたかったのよ。それでも、二人は私のところに帰ってくるって。でも、私たちはとうの昔に家族じゃなかったのね」
「気づくのが遅すぎなんだよ。あれだけ分かりやすく拒絶の態度を示してたのに、いつまでたっても妻と母を演じるんだもんな」
「そうやって、私を貶めた分、慰謝料を上乗せするわね」
「何の名目で上乗せするんだよ」
「長年に渡る浮気。そして、私への精神的苦痛。合わせて四百万円、請求するわ」
「四百万円? お前に、その価値があると思ってんのか?」
「私自身の価値の話じゃないわ。気持ちの問題よ」
「だとしても、高すぎんだろ」
「あら、弁護士さんは五百万円でも足りないくらいって、そう言ってくれたわよ」
「なんだよ、その弁護士。ヤブなんじゃねえの?」
「ヤブを弁護士には使わないからね。まあ、そう言われたわけだけど、一応結婚までした仲だから、安くしてあげたのよ」
「いやいや、そこまで言うなら、ゼロ円にしろよ」
「今はもう家族じゃないから、無理よ」
「俺、実はもうミカと別れてんだよ。だから、もう少し安くしてくれ」
「別れたからって何? 浮気した事実は消えないわよ」
「金なんかねえよ。お前が一番知ってるだろ」
「一括でも分割でもいいから、しっかり払ってください。それじゃあ、さようなら。他人さん」
その後、高明は浮気していたことが会社にもバレ、信用を失い、取引も次々と打ち切られた。専務である父親はこれを追求し、高明を諭旨解雇。会社の信用を失ったことによる損害賠償も請求したという。「市場で解雇はできないから、これですっきりした」と、智恵美の父は言っていた。
さらに高明は、逮捕されることになる。智恵美の名義を勝手に使用して借金した結果、私文書偽造罪という罪に問われ、懲役一年の判決を受けた。厳しいようだが、執行猶予はつかなかった。
出所後は慰謝料に損害賠償、そして借金を支払う日々を過ごすことになるが、悪徳業者から金をまた借りたらしく、今では行方が全く分からない。生きているといいのだが。
智夏はといえば、給料の良いバイトを見つけて働いているらしい。また大学を受けるつもりらしく、勉強しながら大学費用を貯金していると聞いた。智夏はようやく、私がいろいろやってきたことのありがたみに気づいてくれたのかもしれない。
智夏からの手紙も届いた。そこには、私への感謝と謝罪の言葉が記されていた。許すには時間がかかると思うが、心を入れ替えて謝罪したという事実は受け止めることにした。
私は父が紹介してくれた会社に勤めることになった。これからは、自分のために頑張っていく。またいつか、娘と笑って過ごすことを夢見て。
