「ねえ、たくと、ちょっと話があるの。」
「ああ、何?俺、仕事中だから手短にしてくれない?」
「さっきも言ったけど、私、体調が悪いって話してたでしょ。それで病院に行って検査を受けたの。そしたらね――大腸に癌があるって言われたの。」
「はあ?……マジで言ってるのか?」
「そうなの。それで、すぐに入院しなくちゃいけなくなるみたいで。」
「え、ちょっと待てよ。その間、仕事はどうなるんだよ。」
「仕事は当然、お休みするしかないわ。」
「マジかよ。収入源が一つなくなるってことじゃん。」
「そうね。あなたには迷惑をかけることになるわ。入院費用とかは、私が自分で払うから。」
「もちろんそうするわよ……でも、その前に、心配してくれてもいいんじゃないの?」
「心配してるよ。俺たちの生活がどうなるか。」
「私の体のことを心配してよ。」
「だから心配してるって言ってるだろ。稼ぎ手がいなくなるって話だろ。」
「そういうことじゃないわ。正直、私だって不安なのよ。入院だって初めてだし、手術が必要だって言われてるの。もう少し私のことを労わってくれてもいいんじゃないの?」
「いい年して、何を泣き言言ってんだ。俺たちの生活だってあるんだから、そんな余裕はないよ。」
「冷たいのね。」
「こっちにはこっちの事情ってもんがあるんだよ。家族だからって甘えられたら困る。」
「分かったわ。もう、あなたには何も頼まないから。」
それから十分後、彼女は大学時代からの親友であるほこに電話をかけていた。
「ほこ、仕事中にごめんなさい。」
「あら、珍しいわね。どうかしたの?」
「実はね、さっき病院に行ったら、癌があるって言われたの。」
「はあ……?」
「それで、すぐに入院しなくちゃいけなくなってね。手術もしないといけないってなったのよ。」
「冗談とかじゃないのよね。」
「そうね。それならどれだけいいか。」
「……分かった。どこの病院なの?今すぐそっちに行くわ。」
「うん、それは気にしないでいい。それよりも、あなたに大切なお願いをしたいの。」
「何?」
「財産分与について、あなたにお願いをしたいと思ってて。」
「ちょっと待って。そんな話はしたくないわ。」
「お願い。あくまで万が一の話よ。私だって、このまま簡単にくたばるつもりなんてないわ。ここまで汗水垂らして頑張ってきたんだから。」
「そうよ。ここまで本当に頑張って稼いできたんでしょ。それを使う前にあの世に行くなんて、私が許さないからね。」
「もちろん。そんなつもりはさらさらないわ。でも、万が一に備えて財産分与の手続きを進めておきたいのよ。」
「まあ、息子さんたちのためにも、そうした方がいいか。」
「そうね。決していい家族とは言えなかったけどね。口を開けば喧嘩ばかりしてるような親子だったわ。とはいえ、親としての責任が私にはあるから、死んでまで子供に恨まれるようなことはないようにしたいの。それに、夫との約束もあるから。」
「分かったわ。協力する。」
「ありがとう。さすが持つべきものは友達ね。」
「大学からの腐れ縁だから、これくらいは当然よ。」
「うん、とっても助かるわ。こんなの、あなたにしか頼めないから。でも、絶対に気持ちで負けちゃだめよ。何があっても生きるんだってことを忘れないでね。」
「もちろんよ。私だって、まだまだやりたいことがあるんだから。それができないまま行ってたまるかって感じよ。」
「うん。それくらい強気でいなきゃだめ。それじゃあ、また連絡するね。病院がどこか教えて。病室でちゃんと話しましょう。」
「そうね。分かったわ。」
その日のうちに、今度は二人の息子のうちの一人、やよいから電話がかかってきた。
「やよいさん、ちょっとお話があるんです。聞きましたよ。癌になったんですよね。」
「たくとから聞いたのね。」
「ええ。それで今からそっちに戻って荷物をまとめるわ。やよいさんは家にいるの?」
「いえ、私はちょっとお用があって外にいます。」
「そう。それは仕方ないわね。申し訳ないですけど、一人で準備はやってください。」
「分かったわ。それじゃあ二日後――」
三日後のことだった。今度は、やよいが病院に押しかけてきた。表情は硬く、手には一通の封筒があった。
「やよいさん、これはあなたも知ってることなの?」
「どうかされたんですか?」
「たくとの名前で、私宛てに手紙が届いたのよ。見舞いにも来ないで手紙だと思って開いてみたら――絶縁状ってしっかり書かれてたわ。『今後一切、あなたたちと関わりを持つな』って。これはどういうつもりなの?たくとに聞いたわ。それができないのよ。全然返事をくれなくて。」
「でしょうね。あなたたちは何を考えてるの?」
「癌で入院するとか、お母さん終わってるでしょ?」
「終わってる?」
「癌ってそういう病気なんでしょ?」
「昔ほど、今は危険な病気ではなくなってるのよ。」
「だとしても、抗がん剤でまともに歩けなくなったりするって聞いてますよ。うちの親戚でもそんな人がいましたからね。」
「それはそうかもしれないけど――」
「そんなのが家にいるって最悪じゃないですか?介護とか嫌なので。絶縁で。二度と家に帰ってくんな。」
「よくもそんなことが言えるわね。」
「言えますよ。私たちは自分たちの生活が大事なんで。お母さんと一緒に暮らしてたのは、生活費が安く収まるからですよ。お母さんからの仕送りだってありますからね。でも、それもなくなるわけでしょ。稼げもしないやつなんて、一緒にいる価値はゼロですよ。」
「だから私と絶縁をするっていうのね。」
「そうです。利用価値がゼロのやつは家族でも何でもないって、たくとが言ってましたから。だから、お母さんの部屋にあったものは全て処分させてもらいました。すっきりしたので、ここを荷物専用の部屋にさせてもらいます。」
「はあ……なんでそんな勝手なことをするのよ。」
「ゴミを捨てるのに許可なんていりませんよ。しかも、他人のあなたにはね。」
「どこまでも私のことを値切るつもりなのね。」
「これでもう、あなたの帰るところはなくなりましたよ。うちにはもう帰ってこないと約束してくれますか?……病院から生きて出られたらの話ですけど。」
「……そう。分かったわ。」
「やった。じゃあ、これであなたたちとは何の関係もないってことでいいわね。」
「もちろんですよ。」
「まあ、ある意味いいきっかけかもしれないわ。」
「強がるの草。」
「手術が三日後になったのよ。」
「へえ、そうなんですね。」
「もちろん、お見舞いになんて来ないわよね。」
「行くわけないでしょ。」
「分かった。それじゃあさようなら。たくとにも伝えておいてくれる?『今から謝っても許したりしないからね』って。」
「だから強がるなんて――」
翌日、やよいの元にまた電話がかかってきた。
「やよいさん、ちょっと連絡事項があってね。」
「何ですか?やっぱり許してってことですか?」
「そんなことじゃないわ。仕送りだけど、もうやめさせてもらうことにしたから。」
「なんだ、そんなことですか?それで私たちが困るとでも思ってるんですか?」
「そんなことにはならないと思ってるから、そうしたのよね。」
「そうですよ。ちなみに、仕送りの額っていうのは三十万なのよ。」
「へえ……そんなに送ってたんですか?まあでも、どうせあなたが働かなくなった時点でなくなるようなものでしたから、しょうがないですよね。仕送りもなくなるし、介護も面倒だし、切るので問題なしですよ。」
「私ね、仕事も頑張っていたけど、それと同時に株で資産作りにも励んでいたのよ。」
「資産作り?」
「そうよ。じゃないと将来が不安だったからね。特に女手一つで子供を育てるなんて大変でしょ。だから若い頃からずっと株を運用し続けてたの。そのおかげで、ありがたいくらいの資産を作ることができたわ。あなたたちへの仕送りは、そこから出していたのよ。つまり、私が働けなくなっても、仕送りは続けられたの。でも、あなたたちはもう家族でも何でもないからね。」
「ちょっと待ってくださいよ。それ、たくとは知ってるんですか?」
「知らないわ。こんなこと話したことないから。」
「ちょっと待ちなさいよ。それを知ってたら、たくとだって絶縁なんてしませんでしたよ。」
「お金があるからまだ家族のままでいてくれたってこと?」
「そうに決まってます。」
「それ言われて、私が喜ぶとでも思った?舐めるのも大概にしなさいよ。私がそんな関係で幸せなんて思うわけないでしょう。家族っていうのはそういうことじゃないの。私はずっと、あなたたちを子供だと思ってたから、どんなことでもサポートしてあげたいと思ってた。だから仕送りだってしてたのよ。それなのに、あなたたちは私のことを単なる財布くらいにしか思ってなかったってことでしょ。そんな人たちは、こっちから願い下げだわ。もう二度と、あんたたちの顔なんて見たくないわ。」
「お母さん、ちょっと落ち着いてください。とりあえずたくとに連絡させます。それで、二人でゆっくり話し合いをしてください。」
「私が今どういう状況か分かってるの?手術を控えてるのよ。そんな状況であなたたちと話し合う余裕なんてないわ。」
「分かりました。では、手術が終わり次第話をするように言います。もし可能でしたら、会って話をしましょう。」
「嫌よ。病院の人に、誰も病室には通さないでってお願いをしておくから。」
一週間後、たくとからLINEが届いた。
「母さん、手術はどうだった?大丈夫だとは思うけど心配だよ。もし成功したのなら、成功したって連絡をしてくれないか?頼むよ、母さん。話し合いをしよう。俺たちはちょっとした誤解があったんだ。俺たちに必要なのは話をする時間だ。だからさ、こんなことで離れ離れになんてなりたくない。それだけは分かってくれよ。」
返事はなかった。
一ヶ月後、たくとの下に一人の女性が訪ねてきた。
「初めまして。テイラー法律事務所の宇美穂です。」
「弁護士?どうしてこの連絡先を?」
「水端はるかさんから聞きました。」
「え、お母さん?あなた、お母さんと知り合いなの?」
「そうですよ。私たちは学生時代からの親友です。」
「お母さんは元気にしてるの?手術も無事に成功しましたので。ああ、よかったわ。お母さんに何か必要なものはないか聞いてもらえない?」
「その話はまた後にしましょう。それよりも、私ははるかからの依頼を受けて、あなたに連絡をさせてもらってるんです。」
「依頼?何のことでしょうか?」
「はるかは、あなたのことを刑事告訴しようとしています。それに合わせて、民事訴訟も準備してるんですよ。」
「は?どういうこと?お母さんが私を訴えようとしてるってこと?」
「そうですよ。心当たりはないですか?」
「あるわけないでしょ。私が何をしたって言うのよ。」
「あなたたちは、はるかに対して一方的に絶縁状を送り付けたということらしいですね。」
「それはそうよ。でもあれは間違いだったって、今では思ってる。たくとも私も、もう一度お母さんと一緒に暮らしたいって思ってるのよ。」
「まあ、それは今はどうでもいいんです。絶縁を言い渡した際に、あなたははるかの部屋を奪ったそうですね。」
「少しだけの間ね。でも今はいつでもお母さんが帰って来られるようにしてるわ。」
「それは無理でしょう。」
「なんでよ。」
「だって、あなたははるかの私物を全て処分したそうですね。それは、その中には高価な家具や貴金属類もあったそうです。ちなみに、それはどうされましたか?処分と聞くと捨てたと思いがちですが、そんな高価なものをあなたが捨てますかね?随分とお金に執着のあるタイプだと、はるかは聞いてますけど。」
「ちょっと記憶が曖昧で。」
「あら、そうですか。まあ、きちんと調べてみれば分かることです。警察の人に聞かれたら、嫌でも思い出すでしょうね。」
「ちょっと警察?私に言われても困りますよ。」
「あくまで依頼者ははるかですからね。私ははるかの意思を聞いて動いてるだけです。ちなみに、もしもあなたがはるかのものを売っていた場合は、窃盗そして横領ですね。しっかりとした犯罪行為です。民事訴訟でも損害賠償請求をすることができます。あなたが勝手に処分した分のお金や慰謝料だって請求させてもらうことになると思います。ある程度まとまったお金を用意してくれるとありがたいです。」
「ちょっと待って。勝手に話を進めないで。そんな要求飲めるわけないでしょ。まずはお母さんと話をさせてよ。それでどうするかこっちも決めるからさ。」
「はるかはそれを望んでません。あなたたちとは口を聞きたくないと言っています。」
「そこはあなたが何とかしなさいよ。弁護士でしょ。ちゃんと仕事をしなさいって。」
「勘違いしないでよ。私ははるかの弁護士なのよ。どうしてあなたのために動かないといけないの?それなら、そっちも弁護士をつければいいでしょ。」
「何よ、その口の聞き方は。」
「こんな口調にもなるわよ。私の大事な親友をこんなに馬鹿にされてねえ。彼女は初めての手術を、たった一人で迎えないといけなかったのよ。本来はあなたたちが近くに行って元気づけてやらないといけないんじゃないの?」
「いや、だからそれは――」
「苦しんでる人間を一番に見捨てるような人間を、私は絶対に許すわけにはいかないわ。あなたたちとは徹底的に裁判で戦うつもりよ。そっちもしっかりと覚悟をしてやるように。」
三日後、たくとからまたLINEが届いた。
「母さん、聞いたよ。俺たちを訴えるんだって。どうしてそんなことになったんだ?頼むよ。少しだけでいい。俺の話を聞いてくれ。それだけでいいからさ。」
「……話を聞いたら、このしつこいLINEはやめてくれる?」
「母さん、嬉しいよ。連絡をしてくれるなんて。よかった。ブロックされてると思ってたよ。」
「ブロックもしてたんだけどね。美穂からあなたたちの様子を聞いて、しつこくLINEをしてるんだろうなって思ったのよ。まあ、あなたたちに感謝してる部分もあったし、最後に好きなだけお話をさせてあげようと思ったの。」
「俺はこれが最後になるとは思ってないよ。」
「そう。……ちなみに、感謝って何?俺たちが何をしたの?」
「正直、理不尽なことばかりで辛い気持ちだったのよ。いきなり癌になるし、あなたたちからは絶縁をされたしね。どうして自分ばかりこんな目に合うんだって、とても辛かったわ。でも、だからこそ私は負けたくないって思ったの。夫を早くに事故で亡くしたあの時も、心から辛かったわ。その時も、私はこんな理不尽に負けてたまるかって、自分を奮い立たせてたのよ。それで、子育ても仕事も全部頑張ることができた。私って、逆境になると思えるタイプだなって、今になって分かったわ。」
「俺のやったことが、母さんにパワーを与えてたってことか。」
「そうよ。もちろん、あんたはそんなつもりは微塵もなかっただろうけどね。あの時はそんな風には思ってなかったよ。本当にあんたは最低だったからね。」
「それは本当に思ってるよ。最低最悪だった。これはもちろん言い訳になるけど、仕事がとにかく辛かったんだ。慣れない仕事ばかりをさせられてさ、それでキャパオーバー状態だったんだよ。だからそんな時に母さんの病気の話を聞いて、もう何もかも捨ててしまいたくなったんだ。何もかもが鬱陶しく思えてしまったみたいな感じでさ。」
「それで、癌になった私を見捨てたのね。最低だったと、今なら分かるよ。そして、もう二度とあんなことはしないって誓うよ。だから、もう一度やり直そうぜ。うちに帰って来てよ。やよいだって、母さんのことを待ってくれてるからさ。」
「どうせお金が目当てなんでしょ。私が帰ってきたら生活費が浮くでしょ。仕送りをもらえるようになるでしょ。それが分かってて帰るほど、私はバカじゃないわ。」
「もちろんお金じゃないよ。でも、母さんがいなくなってうちはやばいんだ。生活費がこんなにかかるなんて思ってなくてさ。家賃と光熱費を払うだけでカツカツなんだよ。」
「そんなのもっと前から分かってたんじゃないの?」
「いや、まさかこんなにかかってるなんて知らなくて。」
「まあ、基本的に生活費は切り詰めてたけど、それでも仕送りもしてたからね。あれがあるのとないのじゃ大違いってことだったんでしょ。」
「せめて仕送りだけは復活させてほしい。それはダメかな?」
「ダメに決まってるでしょ。」
「頼むよ。あれがないと、俺たちは生きていけないんだ。」
「私がどうして仕送りをしてたか分かる?同居してるのに仕送りなんて、普通は必要ないわ。それでも私は毎月あなたに仕送りをし続けたのよ。なんでか分かる?」
「いや、分からないよ。」
「夫との約束だったのよ。あなたが生まれたばかりの頃に、夫は仕事でたくさん稼いで、あなたが一生お金で困ることのないようにしたいって話してたの。お父さんも、幼い頃に家が貧乏で苦労したからね。でも夫は志半ばで亡くなってしまったわ。だから、その夢を私が受け継いでやってたのよ。」
「だったら、父さんのためにも俺に仕送りをくれよ。父さんの気持ちを無視するのか?」
「無理よ。もう、あんたを家族だとは思わない。」
「なんでだよ。」
「部屋の私物を全部処分したんでしょ?あんたもそのことは知ってたはずよ。あそこには、私と夫の思い出の品も、あの人の遺影も残ってたのよ。なのにあんたはそれを平気な顔して捨てた。そんなの、絶対に許せるわけがないじゃない。」
「だからこんなに怒ってたのか。」
「もちろん、癌になった私を見捨てたことだって頭に来てるわ。でも一番は、夫のものを捨てたことよ。損害賠償請求したら、お金は帰ってくるでしょうね。でも、思い出の詰まったものは一生帰ってこないわ。だから、絶対に私はあなたたちを許さないって決めたの。」
「でもさ、これからどうするんだよ。癌の治療だって色々と大変だろ。お金はあっても、生活はできないし。」
「安心して。かなり早期で見つかった癌だったから、手術をして無事完治したのよ。だからもう今は普通の生活に戻れてるわ。もちろん今後も経過観察は続けるけど、今のところ後の経過も良好だしね。」
「そうなのか。」
「おかげ様で。」
「それじゃあ、もう本当に俺たちと一緒になることはないんだな。」
「ないわ。絶対にありえないと思っておいて。」
「金も一足たりとも渡さないんだな。」
「そりゃそうよ。他人なんだから。」
「そんなの通用すると思うなよ。何が相続を受ける権利は俺にあるんだよ。絶縁なんてものに法的効力はないんだからな。」
「あら、そういうのは詳しいのね。」
「一応こっちでも調べたんだよ。」
「あらそう。確かに相続権はあんたにはあるわよ。」
「だろ?だったら別にいい。いつかあんたの財産は全部俺のものになるんだ。」
「残ってたらね。」
「は?」
「私があの世に行った後も財産が残ってたら、それはあなたのものよ。……でも、変なことをするなよ。」
「変なことなんてしないわ。私はね、病気になって自分の人生を振り返ったの。ずっとあなたのために生きてきたような人生だったわ。でも、そんなのはもう馬鹿馬鹿しくなった。これからの残りの人生は、私がやりたいようにさせてもらう。資金だってたんまりとあるからね。とりあえず、憧れだったニューヨークに行って、移住ができないかどうか探ってみるわ。今から本当に楽しみよ。ニューヨークなんて、夫との新婚旅行で一度だけ行ったことがあってね。それからまたいつか二人で行こうねって約束をしてたの。二人でっていう約束は果たせなかったけど、一人でも行ってみようかなって思ってるのよ。」
「ちょっと待ってくれよ。俺たちのためにお金は残しておいてくれって。」
「いや、そんなことするわけないでしょ。」
「母さんのお金がないと、俺たちはこれから大変なことになるんだよ。」
「ちょっと、いい年して泣き言なんてやめてよ。聞いてられないわ。大人なんだから、自分で何とかしなさいよ。」
その後、やよいは窃盗の罪で警察に逮捕された。執行猶予がついたため刑務所送りにはならなかったが、はるかへの損害賠償請求や執行猶予金の支払いのために生活は非常に困難なものになり、たくとからも見捨てられて、今はたった一人でアルバイトをしながら何とか食いついでいるという。
たくともアパートでの一人暮らしを始めたが、今まで仕送りがある生活しか経験したことがなく、生活水準を下げることができず、あっという間に借金まみれになった。そして今は借金取りに怯えながら毎日生活をしているという。
一方のはるかは、ニューヨークでの旅行を満喫していた。夫と新婚旅行の時に訪れた場所を巡りながら、様々なことを思い出す。いつかはこの街で一緒に暮らせたらいいねと話し合ったこともあった。はるかは、亡き夫との約束を果たすべく、就労ビザを取る手続きと英語の勉強を頑張ろうと心に誓った。ありがたいことに、現地で起業している友人もおり、その人たちのサポートを受けることができそうだった。
捨てられた過去はもう取り戻せないが、夫との思い出の詰まったこの街で生活をして、楽しい思い出を作れたらいいなと思っている。
