夕食の支度をしていると、夫と義母が鍵もかけずにドアを開けて入ってきた。ソファに座った義母が、私に向かって笑いながら言った。「あんたの役目は終わりよ。トールに新しい恋人ができたの。社長令嬢と結婚させるから、さっさと身を引いて出ていってね」その瞬間、心臓が止まるかと思った。結婚して四年、毎日耐えてきた。無視され、見下され、義母には「出来の悪い嫁」と言われ続けて。それでも私は家族のために頑張ってき…

夕食の支度をしていると、夫と義母が鍵もかけずにドアを開けて入ってきた。ソファに座った義母が、私に向かって笑いながら言った。「あんたの役目は終わりよ。トールに新しい恋人ができたの。社長令嬢と結婚させるから、さっさと身を引いて出ていってね」その瞬間、心臓が止まるかと思った。結婚して四年、毎日耐えてきた。無視され、見下され、義母には「出来の悪い嫁」と言われ続けて。それでも私は家族のために頑張ってき...

「トールは社長令嬢と結婚させるから、あんたはさっさと身を引いて。」

義母はそう言い放った。夫に新しい恋人ができたらしい。やはりトールは浮気をしていたのだ。

私は近藤し織、三十三歳。夫は二歳年上のトールで、ヘアサロンを経営している。私はそこでチーフスタイリストとして働いてきた。

トールと知り合ったのは約五年前。知人の紹介だったが、優しくて頼りになる人だと思い、私の方から惚れてしまった。当時は別のサロンに勤めていたが、一年ほどの交際を経て結婚し、トールのサロンに移った。

結婚して四年ほど経つが、結婚当初から良くなかった義母との関係は一向に改善せず、むしろ最近はますます悪化していた。義母はトールが小学生の頃に離婚し、今は私たちと同じマンションの別のフロアで一人で暮らしている。私はどうしても義母との同居が嫌で、トールに無理を言って同居しないことになった。最初から関係は良好ではなかったが、同居を拒否したことも影響してか、義母の私への態度は極めて攻撃的だ。

義母は離婚してから女手一つでトールを育て上げた立派な女性ではある。だが、未だに息子の人生の全ての決定権が自分にあると思っている節がある。私たちが結婚する際も、結婚式や新婚旅行、新居選びから日頃の食事に至るまで、何かにつけて口を出してきた。私にも好きなものはあったし、新婚旅行で行きたい場所もあった。しかし私の意見は頭ごなしに否定され、威圧的な態度で攻撃された。

「あんたね、これから義理の母になる私に逆らうつもり?あんたのくだらない意見なんて必要ないわ」

ひどい時は私の育てられ方が悪いなど、両親のことまで悪く言った。義母はトールを育て上げたことに相当な自信を持っているので、私や私の両親を軽んじて見ているのだろう。

私にとって最も辛かったのはトールの態度だ。結婚する前は、義母の言うことに反対はしないまでも、後になって私に義母が言い過ぎたことを謝ってきたり、事情を説明してくれたりしていた。しかし結婚してからは百八十度変わったと言っていいほど、義母に便乗して私を攻撃してくるようになった。

結婚前は、この人なら義母と私が対立しても私の味方になってくれると思っていた。最初は不安だった結婚を決意できたのは、トールが私を守ってくれると思ったからだ。どうしてこんなことになってしまったのか分からないが、先の見えない状況で結婚したことを後悔する日も少なくなかった。

ある日の夕方、私は相談したいことがあってトールに声をかけた。

「ちょっと仕事のことで話があるんだけど」

「無理、無理。俺は今から商店街の集まりがあるから」

トールは前日も青年会議の集まりに行ったばかりで、その前の週も飲み会や接待だと言ってほとんど家にいなかった。私が不満そうな顔で、いつなら落ち着いて話ができるのかと尋ねると、トールは不機嫌な態度でこう言った。

「文句言うなよ。どれも仕事に関わる大事な付き合いなんだよ。そんなんじゃ経営者の妻失格だな」

威圧的で偉そうな言い方に気分が悪くなる。お店は今では三店舗に増え、私は今後の運営について相談したいことがあった。しかしトールは私に自分で考えろと突き放すだけだった。

「店舗のことは全部しおりに任せてるのは分かってるだろ。学歴もなければ家柄も大したことないお前の唯一の取り柄が美容師のスキルだろう。それを発揮して売上アップに務めるべきで、俺を当てにするのはおかしいよね」

なんて上から目線なんだろうと、うんざりした。一から始めたサロンの経営は好調で、四年間で三店舗をオープンした。しかも年末には四店舗目のオープン準備も進めている。それは大変結構なことなのだが、経営が右肩上がりになるにつれて、トールは周囲から若手経営者として持て囃されるようになった。その頃からトールの態度は私に対して高圧的になっていった。私の何から何まで口出ししてきて、自分が教育者とでも思っているようだ。私の化粧や服のセンス、果てはライバル店のスタイリストを引き合いに出して私を散々にけなすこともある。

さらに厄介なのは、トールの無視作戦だ。私のLINEの返事が遅かったり、頼まれた用事を後回しにしたりすると、私のことを完全に無視するのだ。無視が始まると、まず帰宅が遅くなる。帰ってきても私が用意した夕食を食べずに放置し、そのくせ自分で出前を取ったり、コンビニで弁当を買ってきたりする。時には同じマンションの義母の家に入り浸り、食事から入浴まで義母のところで済ませることもある。声をかけても全く返事をせず、あまりしつこく声をかけると自室にこもったり、何も言わず外へ出ていったりする。

こうしたトールの無視作戦は結婚当初にはなかったことだ。最近になって始まったことで、どうしたらいいか分からない私は怒ることもできず、ただ我慢するしかなかった。食べてくれないかもしれないと思いながらも、トールの機嫌がさらに悪くなるのが怖くて、食事やお風呂などいつものように用意して待った。帰宅しない日があった時は、明け方まで寝ないで待っていたこともある。翌日、家に現れた義母から聞いて、トールが義母のところに泊まったことを知った。

そう、義母が家に来ることもあり、これがさらに私にはきつかった。事前の連絡もなく、いつも突然の訪問で、しかも毎回何かしら毒づいて帰っていく。

「全く出来の悪い嫁ね。トールがかわいそうだわ」

私は義母が何か聞いていると思い、何が原因なのか尋ねた。すると義母は私を見下すように笑いながらこう言った。

「心当たりないの?自分で自分の至らない点が分からない人に、私が何を言っても無駄でしょ」

何一つアドバイスもなく、私を笑い物にするためだけに来たようだった。

しばらくこの状態が続くと、私の神経は参ってしまった。鏡を見ると自分の顔色の悪さに驚くくらいだ。するとトールは突然、何事もなかったかのようにしれっと帰ってくる。

「ただいま。腹減った。早く夕ご飯にしよう」

精神的に疲れていた私は、トールが帰ってきてくれて安心した。しかしまたいつトールの機嫌が悪くなるのかと不安に怯え、無意識のうちに顔色を伺うような暮らしになっていく。

私が自分の精神状態に気づいたのは、この春に入社した新人スタイリストのりこちゃんにずばっと指摘された時だった。その日はトールに無視されている最中で、トールは夕食も食べず口も利かない状態だった。作った料理を捨てるのはもったいないので自分用のお弁当にして、翌日職場に持っていった。それを休憩時間にぼそぼそ食べていると、りこちゃんが声をかけてきた。

「しおりさん、今日のお弁当、いつもと違いますね」

「あ、バレた?昨日の残りを詰めたのよ」

「残りですか?」

そのおかずが残りに見えないと言われたが、確かにその通り。前日私が調理した肉と野菜の炒め物と魚の塩焼き。夕食のおかずをそのまま詰め込んだと思われても仕方ない。普段のお弁当は色取りと栄養バランスを考えて作っているからだ。

私の異変を察知したりこちゃんは、私がトールの支配に置かれているみたいだと指摘した。

「支配ってどういうこと?」

りこちゃんはトールと私が会話しないことや、トールが私を粗末に扱う様子を見ていたのだ。りこちゃん曰く、無言という手段で私のことを支配しようとしているとのこと。無視することで相手に気を使わせ、自分がいつも優位に立てるようにしているのだという。そうやって腹の中では見下しているのだと教えてくれた。

りこちゃんの両親は、りこちゃんが高校一年生の時に離婚したそうだ。別れる前は父親が母親を同じように無視していたという。

「母はいつも父の顔色を伺っていて、笑顔も屈折するし、そばで見ていてすごく辛かったです」

私はなるほどと思い、りこちゃんの話を真剣に聞いていた。

「しおりさんみたいなタイプのパートナーは、相手が悩んだり不安になっている姿を見て楽しんでるんですよ。ひどい人です」

りこちゃんに指摘され、私ははっとした。そしてその日から私の中の不安はだんだんと消えていく。それどころか冷静に観察し始めると、トールの幼稚さや自分勝手なところ、さらにそれを注意しない義母の品性の悪さがよく見えるようになってきた。

しかしトールと義母の二人は私の変化に気づいたようで、二人して私への高圧的な態度を強めていった。トールが帰宅しない日はさらに増え、帰ってきても自分の部屋に閉じこもり、店舗や会社にも顔を出さないようになる。そうして私は一人で全てを切り盛りする状況になってしまった。

そんなある日の休日、私が家で掃除をしていると、ガチャリと無言で鍵を開けてトールと義母が家に入ってきた。そしてそのままリビングのソファにどかっと座る。

「夫と義母が座ってるのよ。早くお茶でも入れなさいよ」

「相変わらず気の利かない嫁だな」

「まあいいじゃない。こんな嫁ともうすぐおさらばなんだし」

二人の感じの悪さはいつも以上だったが、私は仕方なくお茶を入れてテーブルに置いた。今日は何か話があるようなのが、二人の空気で分かる。すると義母が切り出した。

「あんたの役目は終わりよ。トールに新しい恋人ができたの。だからあんたはさっさと身を引いて出ていってね」

「一週間時間をやるから、その間にこの家から出て行けよ」

私は一瞬呆然としたが、これはチャンスではないかとすぐに気持ちを切り替えた。

「意味が分かりません。詳しく説明してもらえますか」

義母の攻撃的な態度が一層強まる。

「トールは社長令嬢と結婚させるの。だからあんたは邪魔だってことよ」

トールの浮気は薄々感じていたが、やはり私の感は正しかった。聞くとその社長令嬢という女性は実家が金持ちで一流の女子大を卒業しているらしい。また私と同じくヘアスタイリストをしており、本場パリで修行してきたのでかなりの腕前とのこと。しかも妊娠三ヶ月だと軽々しく言う。

浮気をした上、さらに子供まで作って最悪な男だと私は思っていたが、義母はそんな息子を咎めるでもなく、生まれてくる子供が待ち遠しいとまで言う始末だ。さらには私に仕事をやめることまで要求してきた。退職金は払わないと言っていたが、法律的にそんなことが可能なのだろうか。

一方的に話す二人の話を聞きながら、私はりこちゃんから言われたある言葉を思い出していた。私が離婚を考えているとちらっと口に出した時のことだ。

「しおりさんの人生ですよ。しおりさん自身の判断で家事を切るべきですよ。それを決めることができるのはしおりさんしかいないんですから」

それを言われた日から、私は自分の人生について真剣に考えることが増えた。そしてこの展開だ。離婚しよう。このままトールや義母と家族でいなくてはいけない理由は一つもない。私は人生をやり直したいと強く思った。

「分かりました。私が身を引きますね。おそらく後悔することになると思いますが、私には今後一切関わらないでください。自分のやったことはブーメランになって自分に帰ってきますから」

二人には私の言葉が悔し紛れの負け惜しみのように聞こえたらしく、けらけらと笑っているが、私はそんな二人が哀れに見えた。

「どうぞお幸せに」

私がそう言うと、二人は得意げな顔で出ていった。

その後、私はすぐに荷造りを始めた。いざ行動に移してからは何もかもスムーズに運び、五日ほどで全ての荷物を移動した。まずは実家にお世話になりながら、新しい職場と住まいを見つける予定だ。店にある私物はそれほどないが、トールに会いたくなかったのでりこちゃんにお願いした。今回ばかりはりこちゃんに本当にお世話になったから、落ち着いたら何かプレゼントをしようと思っている。そして知人から紹介してもらった弁護士に諸々の相談を始めた。まずはトールに対して慰謝料の請求と財産分与を求める文書を作成してもらう。その後、できた文書をトールと義母の元に発送してもらい、面会日を設定してもらった。

弁護士事務所での面会日当日。現れたのは、にやにやした義母とトール、そして若い女性だった。その女性が、トールの浮気相手で社長令嬢とか言われていた人で、里見という人だそうだ。義母が楽しそうに私と弁護士に紹介していた。

「トールは私との離婚届を提出したら、すぐにでも里見と婚姻届を出すと張り切っている」

私にとってはどうでもいい話なので、慰謝料などの要求は了承してもらえるのかどうかを尋ねると、こちらの言い分は飲んでくれることになった。そして指定した金額を現金で差し出してくる。その後、二人とも離婚届に記入と押印をして作業は終了。無駄に時間を使いたくない私は、面会時間がものの五分ほどで終わった。

「しおりさん、店が大変です」

離婚から一年ほど経った頃、りこちゃんからメッセージが届いた。りこちゃんがすぐに会いたいとのことだったので、休憩時間を使って待ち合わせのカフェへ向かった。りこちゃんは私が辞めた後もトールの店でスタイリストを続けていた。私が辞める時、自分も辞めたいと相談を受けたのだが、就職して間もないのにすぐ辞めてしまうのは今後の就職などで減点材料になりかねないと思い、私は続けた方がいいとアドバイスしていたからだ。

りこちゃんに聞いたところによると、トールの再婚相手の里見が離婚届を置いてどこかへ逃げてしまったという。しかも店の売上や金目のものを全て持っていって行方不明なのだそうだ。

「もうこれは事件ですよ」

りこちゃんは息を切らす。店だけでなく、トールの家からもかなりの金額が盗まれたらしい。もう店の営業はできず、りこちゃんは今日で辞めることになったと言うから、かなりの騒動に違いない。実は里見がパリ仕込みのスタイリストというのは嘘だったようで、本人に突っ込んでも認めなかったが、腕前を見たスタッフの間では偽装詐欺だと確定していたそうだ。里見が店に入り半年ほど経った頃には、トールと里見の喧嘩が増えて、店の中で物の投げ合いをする始末。徐々にスタッフやお客さんも少なくなり、経営状態も下り坂になった頃、里見が事件を起こしたらしい。今朝、トールが全スタッフを集めて会社を畳むことを発表したらしい。もちろん四店舗全て閉店だ。

私はなんとなく予感がしていたのだが、まさか当たるとは思ってもみなかった。とはいえ、自分のしたことがブーメランで帰ってきただけ。私はすっきりした気分になった。

その数日後、弁護士を通じてトールと義母から手紙が届いたが、私は封も開けずに送り返し、今後一切関わらないと約束したことを守ってくださいと弁護士から伝えてもらうようお願いした。やり直したいとか助けてほしいとか、そんなものだろうが私には無関係だ。

私は現在、都内のサロンでトップスタイリストとして働いている。何度かコンテストにも入賞し、美容系ウェブサイトで人気スタイリストとして取材を受けたりと、毎日忙しくしている。経済的にも順調で、慰謝料や財産分与には未だ手をつけていない。そして先月から、りこちゃんが私のアシスタントを務めてくれている。トールの店を辞めた後に私が店側に紹介して、無事に就職できたのだ。りこちゃんがこの店に来る前に、私は彼女に旅行をプレゼントした。色々とお世話になったお礼として、沖縄でのリフレッシュを勧めた。

りこちゃんに言われた通り、自分がしたい方に家事を切ってから、私の人生は百八十度変わったようだ。自分でも不思議なほど、毎日伸びやかに生きている。

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