「金も払えない貧乏人に、おもてなしはできないわ」
霊子の冷たい声が旅館のロビーに響き渡った。嵐の夜、山あいの高級旅館・加藤。この出来事が、一人の少女の人生と旅館の運命を大きく変えることになる。
高校を卒業したばかりのユナが、山あいの高級旅館・加藤で働き始めたのは、今年の春のことだった。難病を患う母の治療費と生活費を稼ぐためだ。加藤は創業八十年を誇る老舗の温泉旅館。山の中腹に佇むその建物は格式高く、都会の富裕層が訪れる高級宿として知られている。おもてなしの心で全てのお客様を迎える、という加藤の理念に共感したユナは、ここで働きたいと応募し、採用された。現在は試用期間中だが、ユナは正社員を目指して、朝から晩まで住み込みの仲居として懸命に働いていた。
けれども、ユナにとってこの旅館は決して優しい場所ではなかった。支配人の大崎霊子がユナを目の敵にしていたからだ。霊子は金にならない客を露骨に差別し、若い従業員には容赦ない言葉を浴びせるような人間だった。金になる客、すなわち企業の社長や政治家、有名人などが訪れると、霊子の態度は一変し、満面の笑みを浮かべてすり寄る。さらに、高額な宿泊プランを選んだ客や、有名人の口利きで予約を入れた客には、勝手に特別サービスを提供してしまう。限定の季節の天ぷらを無料で追加したり、地元でも滅多に手に入らない幻の地酒を無断でお土産として渡したりするのだ。これらの過剰なサービスの付け回しは、全て厨房や現場の仲居たちに押し付けられた。厨房は急な食材変更や追加調理の指示に振り回され、他の客の献立にまで影響が出ることもあった。
そんな霊子の人間性を知らなかったユナが、ある出来事によって真正面からぶつかってしまったのは、勤め始めて数ヶ月が経った頃のことだ。
ある日の夕食、ユナが担当する客室へ料理を運ぶ直前だった。霊子がユナの目の前に立ちはだかった。
「ユナ、あなた、松の間の老夫婦の担当だったわよね」
何事かと思いつつも、ユナは黙って霊子の言葉を待つ。
「松の間のお客様に、季節の天ぷら盛り合わせをサービスしたいの。でも厨房に余裕がないみたいだから、あなたの担当客の夕食から、天ぷらの盛り合わせを抜いて、そちらに回してちょうだい」
ユナは驚きで目を見開いた。彼女の担当客は、山の幸を好み、何度も来館している常連の老夫婦だ。ユナが献立の説明をした際、季節の山の幸を楽しみにしていると、とても喜んでいた。なのに、そんな老夫婦から楽しみを奪えと霊子は言うのか。
「支配人、申し訳ありませんが、それはできません」ユナは震える声で、しかしきっぱりと断った。「私の担当のお客様は、天ぷらをとても楽しみにされていました。それを減らすなんて、加藤の理念であるおもてなしの心に反すると思います」
霊子の顔から一瞬で笑みが消えた。
「何ですって? この私が言っているのよ。それが聞けないっていうの?」
震えながらも、ユナは答える。
「他のお客様へのサービスのために、お約束した料理を減らすなんて、私にはできません」
逆らわれ、霊子は鬼のような形相で叫んだ。
「あなた、旅館を潰させたくないの? あちらのお客様は、将来的にうちを贔屓にしてくれるかもしれない上客よ。あなたの担当なんて、貧乏臭い老夫婦でしょ」
霊子の剣幕に怯えながらも、ユナは一歩も引かなかった。
「それでも、一度おもてなしをすると決めた以上、全てのお客様に誠実であるべきです。それに、もう天ぷらはお出ししてしまいました。温泉上がりに食べたいとのご希望だったので」
これはユナが担当の老夫婦を守るための小さな嘘だったが、怒りに満ちた霊子は気がつかなかった。
「私に逆らうなんて、いい度胸ね。新人仲居の分際で、このままじゃ済ませないからね」
怒りで足を踏み鳴らしながら去っていく霊子に、ユナはほっと息をつき、足早に客室へと向かった。
この一件以来、ユナはますます霊子に嫌われ、辛く当たられるようになってしまった。すれ違う度に、ユナにしか聞こえない小声で「使えない」とか「貧乏人の娘」と言われるのはまだましな方だった。朝の朝礼では、他の従業員の前でユナの失敗を大げさに言い立て、叱りつけるようになった。しかしユナは、母の教えを胸に耐え続けた。人の価値はお金では決まらない。お金持ちかどうかでおもてなしの質を変えてはだめ。その信念だけが、ユナを支える唯一の光だった。
「あなた、動きが鈍いのよ。こんなんじゃ、正社員になんてさせてられないわね」
毎日のように浴びせられる言葉に、何度も挫けそうになる。それでも、病床の母のため、ユナは歯を食いしばって働き続けた。唯一の支えは、ベテラン仲居の長谷川和子の存在だった。和子は厳しくも愛情深く、ユナを陰ながら守ってくれる。
「ユナちゃん、辛いことも多いだろうけど、あなたの誠実さは本物よ。それを忘れないでね」
ユナは、どんなに辛くても誠実に働くことを決めていた。これが、母から教わった生き方だったから。人に優しくすることは、自分を大切にすることと同じなのよ。あなたが信じた道を歩きなさい。母の言葉を胸に、ユナは今日も旅館で働く。
試用期間の給料は月に十五万円。そこから寮費と食費を引かれるため、手元に残るのは八万円ほどだった。そのうち五万円を母の治療費として送り、残りで自分の生活費を賄う。毎日の生活はかつかつだったが、母のためを思えば耐えられた。夜、小さな従業員部屋で、ユナは母からの手紙を読み返す。ユナ、いつも本当にありがとう。どうか無理をしないでね。その文字を見るたびに、ユナは母に会いたくなる気持ちを必死にこらえていた。
ユナが仲居の仕事に慣れ始めた十月のある日、一人の老人が山に登っていた。五十年前にこの山で亡くなった親友を偲んで、毎年この時期に一人で登山をしているのだ。しかし突然、天候が荒れ始め、とても登山どころではなくなってしまった。やむなく引き返そうとした老人だったが、激しい雨風に視界を奪われる。急いで山を下ったが、雨で足元が滑りやすくなっていた。足を滑らせ、斜面を数メートル滑落する。老人の足首に激痛が走った。泥の中に倒れ込んだ老人は、携帯電話も財布も、全てをその中に落としてしまった。風は冷たく、体温が徐々に奪われていく。このままではまずいと思った老人は、よろよろとしながら山道を下り始める。寒さで意識がもうろうとしてきたその時、遠くに加藤の灯りが見えた。老人は最後の力を振り絞り、そこに向かう。夜十一時過ぎになって、ようやく老人は加藤の入り口にたどり着いた。
全身泥だらけで、服は破れ、顔は土で汚れている。震えながら中に入ると、一人の仲居が気づき、駆け寄ってきた。
「すみません。山で遭難しかけて、足を痛めてしまって。どうか一晩泊めてください」
息も絶え絶えな老人の声は、聞き取れないほど小さかった。だが、その仲居、ユナは一つ頷くと、迷わず老人をロビーに招き入れたのだ。
「大丈夫ですか? お怪我は?」
声をかけつつ、ユナは老人の泥まみれの服を何とか綺麗にしようとする。だが、その時、霊子の冷たい声がロビーに響いた。
「ちょっと、あなた。何してるの?」
振り返ると、霊子が仁王立ちで腕を組んでいる。
「支配人、この方が山で遭難されて……」
「そうなの。だから何? 大体、こんな汚い格好の人間をロビーの中に入れるなんて、あなた正気なの?」
あまりのひどい言葉に、ユナはとっさに言い返せなかった。すると霊子は老人に目を向け、きつい口調で問いただす。
「あなた、お金持ってるの? クレジットカードか、身分証明書は?」
老人は弱々しく首を横に振った。
「財布も携帯も、山で落としてしまって」
それを聞いた霊子は、顎を上げて嫌な顔をする。
「ほら見なさい。お金もないのに、うちに入ろうなんて図々しいのよ」
そしてユナを睨みつけ、言い放った。
「ユナ、今すぐこの人を追い出しなさい。うちは高級旅館なのよ。こんな格好の、それも貧乏人を泊めるわけにはいかないわ」
慌ててユナは反論した。
「でも、外は嵐です。このままでは命に関わります」
「知ったことじゃないわ。こんな汚らしい老人を泊めたら、他のお客様に迷惑でしょ。お金を払えないなら、うちにはいらないの」
霊子の言葉を聞き、老人は悲しそうに俯いた。
「すみません。泊めてもらおうと思った私が悪かったんです」
老人はよろよろと出ていこうとする。足を引きずり、体を震わせながら歩くその背中は、あまりにも小さく、哀れだった。その姿を見たユナは、もう我慢できなかった。母の言葉が脳裏に浮かぶ。人に優しくすることは、自分を大切にすることと同じなのよ。
「お待ちください」
ユナは老人に向かって叫んだ。そして霊子に向かい、はっきりと言う。
「支配人、私がこの方を責任を持ってお世話します。客室を使わず、私の部屋に泊めますから」
逆らわれ、霊子の顔は怒りで真っ赤になった。
「あなた、何言ってるの? 私の命令が聞けないの? 首になりたいの?」
「申し訳ありません。でも、私はこの方を見捨てることはできません。人として、これだけはできません」
ユナの声は静かだったが、強い意思が込められていた。霊子は舌打ちをし、尖った声を出す。
「勝手にしなさい。でも、何かあったら全部あなたの責任よ」
霊子は足音を荒立てながら去っていく。それを見送った後、ユナは老人に微笑みかけた。
「さ、中へどうぞ。まずは温泉で温まってください。着替えとお食事もご用意します」
老人の目に涙が浮かぶ。
「ありがとう。本当にありがとう」
ユナは老人を従業員用の小さな温泉に案内した。
「ここでゆっくり温まってください。私、着替えとお食事を用意してきますね」
老人は深々と頭を下げた。
ユナは食事を用意するため、急いで厨房に向かう。しかし、厨房の入り口で待ち構えていたのは、霊子だった。
「あなた、厨房を使うつもり?」
冷たい笑みを浮かべる霊子に、ユナはおずおずと答える。
「はい。お食事を……」
「はっきり言っておくわ。厨房の食材は、お金を払ったお客様のもの。財布も持っていない貧乏な老人に、うちの高級食材を使うなんて許さないわ」
慌ててユナは言葉を返す。
「でも、あの方は何も食べていないんです。このままでは体が……」
「そんなの知らないわよ。あなたが責任持つのでしょ。どうしても食事を出したいなら、自分の手持ちの食材で作ればいいじゃない。まあ、貧乏なあなたに、分ける余裕があるかは知らないけどね」
霊子の言葉は針のようにユナの心を刺した。確かにユナの部屋には食べ物がほとんどない。給料のほとんどを母に送っているからだ。食事は旅館の賄い飯に頼っていたのである。ユナは一瞬迷ったが、やがて顔を上げ、霊子をまっすぐに見ていった。
「わかりました。それでは、私の明日の朝の賄い飯を、今夜使わせてください」
待っている人を見捨てることはできない。それがユナの信念だった。霊子は鼻で笑った。
「あら、自分が明日の朝、何も食べられなくなってもいいの? 馬鹿ね。見ず知らずの老人のために、自分が飢えるなんて。勝手にすれば」
霊子が去った後、ユナは厨房から翌日の朝食として用意されていた食材を一人分取り出し、料理を作り始める。炊きたてのご飯、熱々の味噌汁、丁寧に焼いた鮭、優しい味付けの煮物。決して豪華ではないが、湯気の立つ温かい食事が出来上がる。自分の部屋で大事に食べていた、母の手作りの漬け物も添えてみた。
しかし、出来上がった料理を前に、ユナは悩み続けていた。明日、自分は何を食べればいいのだろうと、どうしても考えてしまうからだ。でも、大切なのは今この瞬間、目の前で苦しんでいる人を助けること。お母さん、私、間違ってないよね。心の中で母に問いかけつつ、ユナは食事を老人に出す決意を固めた。
お盆を両手に持ち、従業員用の通路を急ぐ。温かいうちに老人に届けたい一心だった。曲がり角に差しかかったその時、ドンと強い衝撃がユナの体を襲う。ユナの小さな体はよろめき、お盆から料理が滑り落ちた。熱々の味噌汁は床に広がり、ご飯や煮魚が無惨にも通路に散乱する。
「何てこと……」
呆然としたユナが顔を上げると、現れたのは霊子だった。ニヤニヤしながら、霊子は口を開く。
「あら、ユナじゃない。どこを見て歩いているの。全く、どん臭い子ね」
謝罪の言葉一つなく、霊子はユナを責める。それでユナには、霊子がわざとぶつかってきたことが分かった。しかし、それを証明することはできない。ユナは唇を噛み、床に散らばった料理の残骸を茫然と見つめる。霊子は鼻で笑い、ユナに言い放った。
「さあ、お客様が通りかかる前に、この汚らしい廊下を綺麗に掃除しておきなさい。あなたが悪いんだからね」
いかにも面白がっているような笑みを浮かべ、霊子は去っていった。ユナは心の中で何度も「負けるな」と繰り返す。今、自分にできることは、目の前の残骸を片付け、老人のためにもう一度食事を作ることだと分かっていたからだ。幸い、厨房には明日の昼食分の食材もあった。ユナは朝食も昼食も抜きになってしまうが、もう一度だけ作れる。
ユナはすぐにモップや雑巾を使って床を綺麗に拭き上げた。掃除しながら再び涙が溢れそうになったが、それを力に変える。大丈夫。まだ頑張れる。ユナは再び厨房に戻った。昼食用の食材で、今度はさらに心を込めて料理を作る。味噌汁とご飯、ハムエッグとサラダ。少しだけ残っていた煮物も温め直して添える。今度こそ温かいうちに。ユナは新しいお盆に食事を乗せると、老人の元へ急いだ。ユナはこの時まだ知らなかった。実は先ほどの一部始終を、温泉から部屋に戻る途中の老人が見ていたのだ。
部屋に行くと、老人は清潔な浴衣に着替え、顔色も少し良くなっていた。足の痛みも、温泉で和らいだようだ。
「なんて美味しそうなんだ」
老人は感動した様子で食事に手を合わせる。
「いただきます」
一口、二口と食べ進めるうちに、老人の目から涙が溢れてきた。
「本当に美味しいです。こんなに温かく、心のこもった食事は、一体何年ぶりでしょう」
老人は箸を持つ手を震わせながら、味わうように食べている。その姿は、まるで人生で最高の料理を食べているかのようだった。
食事を終えると、老人はユナに問いかけてきた。
「あなたのお名前は?」
「仰木ユナと申します」
老人はきちんと座り直し、頭を下げて名乗る。
「ユナさん、私は最上寺信吾と申します。今日はあなたに命を救われました」
「いえ、当たり前のことをしただけです」
微笑みながら言うユナに、最上寺はきっぱりと否定する。
「いえ、そうではありません。当たり前のことを当たり前にできる人は、実は少ないのです。特にこの時代、人は損得で動く。金を持っているかいないかで判断する。ここの支配人のようにね。でも、あなたは違った」
最上寺はユナの目をまっすぐ見つめる。
「ユナさん、あなたは素晴らしい。その優しさを、どうか忘れないでください。『恩送り』という言葉をご存知ですか?」
初めて聞いた言葉に、ユナは首をかしげる。最上寺は教え諭すようにユナを見ていた。
「恩送りとは、誰かから受けた親切や恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ることを言うのですよ」
なるほど、と感心するユナに、最上寺は続ける。
「実は、この言葉を教えてくれたのは、五十年前の今日、この山で亡くなった親友なのです。彼は、山で滑落しかけた私を助けて、命を落としました。その親友が亡くなる前、『次はお前が誰かを助ける番だ』と言い、恩送りという言葉を教えてくれたのです。だから私は、あなたから受けた恩を忘れず、必ず他の誰かを助けます」
そう締めくくった最上寺は、ユナの目をじっと見つめる。最上寺がそこまで褒めてくれるとは思わず、ユナは頬を赤らめた。
「ありがとうございます」
そんなユナに、最上寺は断言する。
「ユナさん、あなたの優しさは必ず報われます。私が保証します」
その夜、最上寺はユナが用意した部屋で休んだ。ユナは自分の布団を貸し、自分は仲居の休憩室の椅子で一晩過ごすことになったが、心は満たされていた。しかし、翌朝、椅子で眠るユナを見た霊子は、内心で嘲笑っていた。馬鹿ね。客でもない老人のために、自分が寝る場所を譲るなんて。やっぱり貧乏人は。
翌朝、嵐も上がり、山は静かな朝を迎えた。最上寺はユナに深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました。この恩は忘れません」
ユナは微笑んで言う。
「お元気になられて良かったです。どうかお気をつけて」
最上寺の顔色は良くなり、足の痛みも和らいでいるようだった。
「ユナさん、私は必ず恩送りをします。覚えていてください」
最上寺はそう言い残し、旅館を後にした。
その直後、ユナは支配人室に呼び出される。部屋に入ると、霊子が椅子に座り、腕を組んでユナを睨んでいた。
「ユナ、あなた、本当に馬鹿ね」
霊子は冷たく言い放つ。
「あんな老人を泊めて、何か得があったの? 財布もないんじゃ、千円札の一枚もなかったんじゃないの?」
腹が立つのをぐっと堪え、ユナは反論する。
「私は見返りを求めて助けたわけではありません」
しかし、激昂した霊子は机を激しく叩いた。その音が部屋中に響き渡る。
「あなたのせいで、この旅館の評判が落ちたらどうするの? 貧乏な老人をただで泊める宿だなんて噂が広まったら、金持ちのお客様が来なくなるわ。うちは格式のある旅館。選ばれた客だけをおもてなしするところなのよ。それが分からないの?」
霊子は立ち上がり、ユナに近づく。怯えたユナが一歩下がる。
「この世は、金を持っている人間が偉いの。金がない人間には価値がないの。金を払える客が神様なの。そんな当たり前のことも分からないの?」
皮肉げにそう言う霊子に、ユナは納得できなかった。
「私はそうは思いません」
ユナは静かに、しかしはっきりと言い返す。
「人の価値はお金では決まりません。人を思いやる心、優しさ、誠実さ。そういうものが大切だと思います」
年下の女に反論され、霊子の顔が怒りで歪んだ。
「偉そうなこと言わないで。母親が病気で金に困ってる分際で、何を言ってるの?」
霊子は卑怯にもユナの弱みをついてきたのだ。思わず視線をそらすユナに、いい気味だという顔で霊子が言い放つ。
「いい? 現実を教えてあげるわ。今月から、あなたの給料は三万円減額よ。理由は、勝手に厨房を使ったから。それと、あの老人を泊めた部屋のクリーニング代ももらうわ。布団も新しくしなきゃ。それ、全部あなたの負担にするから」
ユナは息を飲んだ。三万円も減らされたら、母に送れるお金がほとんどなくなってしまう。追い打ちをかけるように、霊子は冷たく言った。
「それと、今月いっぱいで試用期間は終了。正社員にはしないわ。あなたみたいな問題児は、うちには必要ないの。それに、私に逆らうような人間は、どこに行っても通用しないわよ」
霊子は勝ち誇ったように笑った。その笑みは、まるで悪魔のようだった。
「どう? 後悔した? 余計なことをしたせいで、あなたのお母さんの治療費が払えなくなったら、どうするのかしら?」
涙が溢れそうになったが、ユナは必死にこらえた。ここで泣いたら、霊子の思う壺だ。
「わかりました」
そう言って頭を下げるユナに、霊子は冷たく告げる。
「分かったならいいわ。じゃあ、さっさと仕事をしなさい。給料分は働いてもらわないとね」
ユナは肩を落とし、部屋を出る。しかし廊下に出た途端、ユナは泣くのを止められなかった。
「お母さん……ごめんなさい」
その後、仕事に戻ったユナの顔を見て、和子が心配そうに声をかけてくる。
「ユナちゃん、大丈夫?」
「和子さん……」
和子は優しくユナの肩を抱いた。
「声がここまで響いてきたから、何があったかは知っているわ。支配人に、何てひどいことを」
優しい言葉に、ユナはまた涙ぐんでしまう。
「私、今月でやめさせられます。お母さんにお金を送れなくなります。私、どうすれば……」
泣き崩れるユナの背中を、和子は優しく撫でながら言った。
「ユナちゃん、あなたは間違っていないわ。必ずあなたの優しさは報われるわ。私が保証する」
しかし、その日からユナの苦難は続いた。給料は減額され、毎日霊子に罵声を浴びせられる。どんなに和子が庇っても、霊子の意地悪は止まらない。ユナはただ耐えるしかなかった。
そして、明日がこの旅館での最終勤務日となった朝。ユナは仕方なく母に電話をし、首になることを告げた。
「お母さん、ごめん。来月から、送れるお金がなくなっちゃうの」
理由を聞いた母は、電話の向こうで優しく言った。
「大丈夫よ。無理しないでね。ユナが元気でいてくれることが一番だから」
その夜、ユナは小さな部屋で一人、涙を流した。
「私、間違ってたのかな……」
翌朝、旅館の外から騒めきが聞こえてきた。早めにお客様が到着してしまったのかと思ったユナは、急いでフロントに向かう。しかし、そこには信じられない光景が広がっていた。
旅館の前の駐車場に、黒塗りの高級車が次々とやってくる。レクサス、ベンツ、センチュリー。どれも普通の人では乗れないような高級車ばかりだ。車の中からスーツ姿の男性たちが次々と出てくる。そして、なぜかその中心に、最上寺がいたのだ。ただし、今朝の最上寺はあの夜とは全く違う姿だった。高級なスーツに身を包み、威厳に満ちた表情で佇む最上寺は、まるで別人だ。その後ろには、秘書や側近らしき人々が十人以上控えている。
ユナは思わず目を疑った。騒ぎを聞きつけた若旦那の潮見が慌ててやってくる。
「これは、最上寺理事。どうされたのですか?」
潮見は最上寺の正体を知っていた。最上寺信吾は、老舗温泉協会の名誉理事。彼の一言で旅館の評価が決まると言われ、全国に二百以上の会員旅館を持つ温泉協会のトップなのである。最上寺は潮見に向かって微笑んだ。
「若旦那、先日は大変お世話になりました」
首をかしげる潮見に、最上寺は続ける。
「実は一週間前の嵐の夜、私は山で遭難しまして、この旅館に助けを求めたのです。その時、ユナという仲居さんに命を救われました」
顔を巡らせ、最上寺はユナを見つけ、声をかける。
「ユナさん、先日は本当にありがとうございました。温泉と心のこもった食事のおかげで、安心して眠ることができました」
最上寺は深く頭を下げた。その瞬間、後ろに控えていた秘書たちも一斉に頭を下げる。ありえない光景に、ユナは慌てた。
「そんな、頭を上げてください」
その時、同じく騒ぎを聞きつけた霊子が支配人室から飛び出してきた。
「最上寺様、あの夜は新人に任せるなど、大変失礼いたしました。私がすぐに対応すべきでした」
霊子は慌てて頭を下げるが、その目は焦りで泳いでいる。何とかあの夜のことを誤魔化そうとする霊子に、最上寺が向けた表情は厳しかった。
「ああ、あなたはあの夜、私を追い出そうとした方ですね」
その場の空気が凍りついた。
「そ、それは誤解です」
言い訳をする霊子を尻目に、最上寺は断言する。
「誤解ではありません。私は全て聞いていました。全て覚えていますよ」
静かだが、重みのある最上寺の声に、その場の全員が耳を傾けた。
「あなたは言いましたね。『汚らしい老人と、金も払えない貧乏人に、おもてなしはできないわ』と」
顔色を変える霊子に、最上寺は続ける。
「『今すぐこの人を追い出しなさい』と、ユナさんを叱りつけていました。『お金を払えないなら、うちにはいらない』とも言っていましたね」
霊子の顔に冷や汗が浮かぶ。
「その上、彼女が私のために用意した食事を、突き飛ばしてわざと台無しにしていました。あれは、彼女が翌日の食事を差し出して作ってくれた、大事な料理だったのに」
「そ、そんなことをしたのか!」
聞いていた潮見が、堪りかねたように大声を出した。最上寺は潮見に向かって頷く。
「分かってます。それだけじゃありませんよ。私はここの従業員から聞いて知っています。私を助けてくれたユナさんを、彼女は罵倒し、給料を減額したばかりか、今月で首にしようとしていたんです」
潮見は言葉を失った。そんな彼を見て、最上寺は問いかける。
「若旦那。旅館とは、何のための場所だと思われますか?」
潮見は真剣に答えた。
「人を癒し、安らぎを与える場所だと思います」
「その通りです。旅館とは、人を癒し、安らぎを与える場所です。それは、人が持つお金の多少で左右されるものではありません」
そして、最上寺は霊子をじろりと見る。
「しかし、あなたは違った。あなたは金を持たない人間を、価値がないと切り捨てた。これは旅館人として、いや、人として最も恥じるべき行為です」
だが、往生際の悪い霊子はなおも反論しようとした。
「で、ですが、旅館の経営を考えれば……」
最上寺が鋭く切り返す。
「へえ、真の経営とは、目先の利益だけを追うことではありませんよ。人を大切にし、信頼を築く。それが結果として利益につながるのです」
そして、最上寺は側近の秘書たちに指示を出した。
「この旅館に対する温泉協会の評価を、最高ランクのSクラスに引き上げなさい。協会推薦旅館として全国に紹介し、全面的な設備支援、広告宣伝支援を始めてくれ」
秘書たちが頷くのを見た潮見は驚いた。彼を邪険に扱った旅館を、まさかサポートしてくれるとは思わなかったからだ。
「最上寺理事、そこまでしていただくわけには……」
「いいえ、これは恩送りです」
そう言って最上寺は微笑んだ。
「ユナさんの行動は、私に亡き親友の言葉を思い出させてくれました。彼女は見返りを求めず、ただ困っているからと私を助けてくれた。それがどれほど尊いことか。ユナさんのような人こそ、この旅館の、いや、温泉業界全体の宝です。だから私は、彼女が働きやすい環境を作るため、旅館をバックアップしようと決めました。これが、私の恩送りです」
ユナが最上寺を助けたことが、この支援につながったと知り、潮見は驚く。
「若旦那。どうかユナさんを大切にしてください。首にしないでください。私からのお願いです」
潮見は深く頷いた。
「はい。必ず」
二人がやり取りしている間、霊子は立ち尽くしていた。自分が罵倒し、追い出そうとした老人が、温泉業界の最高権力者。この人物が、自分が虐げていた新人仲居を絶賛しているのだ。霊子には絶望しかなかった。
その時、旅館の前にまた一台の車が到着する。車から降りてきたのは、霧島という旅館のスタッフと知り合いの、山岳救助隊員だった。
「若旦那、お話があります」
「霧島さん、どうされたんですか?」
潮見が問い返すと、霧島は思いがけないことを言い出した。
「遭難しかけた最上寺さんを、ユナさんが保護してくれていたことを知り、やってきました。実は最上寺さんの携帯が山の中で動かないのを不審に思ったご家族が、救助要請を我々に出していたんです」
なるほど、と頷く潮見に、霧島は続ける。
「彼女の行動は、正式な救助協力として報告書に記載させていただきます。実はもうすでに地元のニュースになってまして、今後テレビや全国ニュースでも取り上げられると思いますよ」
潮見は驚いた。
「全国ニュースに?」
「県本部からも表彰が出される予定です。ユナさん、私は山岳救助隊として多くの救助現場を見てきました。でも、あなたのような行動をする人は、本当に稀です」
霧島は優しい目でユナを見ていった。そして潮見に向き直る。
「若旦那。この方は、この旅館の誇りです。大切にしてあげてください」
「はい。もちろんです」
力強く答える潮見を見て、霊子は顔面蒼白となった。もしユナがいなければ、最上寺は助けられなかった。そうなると、この旅館は支援を受けるどころか、逆に悪い評判が立って終わっていたかもしれないと考えたからだ。
にこやかに霧島の話を聞いていた最上寺は、ユナに歩み寄ると、懐から小さな箱を取り出した。
「ユナさん、これはささやかですが、私からの感謝の印です」
箱の中には、美しい翡翠の髪飾りが入っていた。
「これは、亡き妻が大切にしていたものです。『優しい心を持つ人にあげたい』と生前言っていました。あなたにこそ、ふさわしいと考えまして」
ユナは涙を流した。
「こんな大切なもの、頂戴できません」
遠慮するユナの手に、最上寺は髪飾りをそっと押し付ける。
「いいえ、あなたにこそ、受け取ってほしい。ユナさん。あなたの優しさは必ず報われます。今日、その第一歩が始まったんですよ」
霧島が言った通り、その日の午後、地元のテレビ局が取材に訪れる。そして夕方のニュースで、大々的に報道された。山で遭難した温泉協会の最上寺信吾理事を、山あいの旅館・加藤の十八歳の仲居が救助。温泉に入れ、心のこもった料理でもてなした、という心温まるニュース。ニュース映像には、ユナの姿が映っていた。
「私はただ、困っている人を助けたかっただけです。それが人として当たり前のことだと思います」
ユナの誠実な言葉に、視聴者は感動した。放送後、旅館には予約の電話が殺到する。あの優しい仲居さんのいる旅館に泊まりたい。本当のおもてなしを体験したい。そう願う客からの電話は鳴りやまなかった。
騒動の取材が終わった後、潮見は緊急の会議を開く。集まったのは潮見、霊子、そして仲居長の和子の三人だ。潮見は厳しい表情で霊子を見つめる。
「支配人、この件について説明してください」
霊子は冷や汗をかきながら答えた。
「あの、あの夜の件は、私の判断ミスでした。まさかあの老人が最上寺理事だとは……」
しかし、潮見は霊子の言い訳をばっさり切り捨てた。
「問題はそこではありません」
潮見の声は静かだが、怒りが込められていた。
「あなたはユナさんに対して、何と言ったんですか? 目の前に困った人がいるのに、『今すぐ追い出せ』と命令したのですか?」
霊子は言葉に詰まった。
「それは、ちょっと言い過ぎました。その場の感情で、つい……」
「感情で、こんなひどいことを? この旅館は、お金持ちだけを相手にする場所ではありません。おもてなしの心で全てのお客様を迎える。それが、祖父から受け継いだ加藤の理念です」
すると、それまで黙っていた和子が口を開いた。
「若旦那、私も後で話を聞いて驚きました。ユナちゃんは、自分が首になるかもしれないと分かっていながら、お客様を守ると言ったそうです。それも、自分の明日の食事を差し出してまで」
和子の声には誇らしさが込められていた。
「自分が苦しくても、人を助ける優しい子なんです。若旦那、それが本当のおもてなしだと、私は思います」
潮見は深く頷いた。
「ユナさんの行動は、この旅館の理念を体現しています。素晴らしいことです」
そして、霊子をじっと睨みつける。
「支配人。あなたには、加藤に勤める資格がありません」
霊子の顔は真っ青になった。
「若旦那、お待ちください。私がこの旅館を今まで支えてきたんですよ」
しかし潮見は全く取り合わなかった。
「いえ、あなたは利益だけを追求し、人の心を忘れています。これ以上、加藤をあなたに任せるわけにはいきません」
潮見は立ち上がり、ながらく霊子に告げる。
「明日付けで、支配人を解任します。そして、ユナさんを正社員に昇格させます」
それを聞き、霊子は力を失ったように椅子に座り込んだ。
その日の夕方、潮見はユナを呼んだ。ユナが緊張しながら潮見の前に立つと、彼はいきなり頭を下げてきた。
「ユナさん、あなたに感謝します」
慌てるユナに、頭を下げたまま潮見は続ける。
「あなたのおかげで、この旅館は救われました。最上寺理事からの支援、そして全国からの予約。全て、あなたの行動がもたらしたものです」
「いえ、私は……」
手を振って断ろうとしたユナだったが、潮見は称賛をやめない。
「いえ、あなたはこの旅館の、いや、温泉全体の宝です」
そして潮見は書類を取り出した。
「明日から、あなたを加藤の正社員として迎えます。給料は月二十五万円。さらに、住居手当として月三万円を支給します」
ユナは目を見開いた。
「そんなにお給料をいただいていいのですか?」
驚くユナに、潮見はにこりと笑いかけた。
「また、お母様の治療費を、全額旅館の方で負担します。これは私からのほんのお礼だと思って、受け取ってください」
ユナの目から涙が溢れ出す。
「若旦那……ありがとうございます」
頭を下げるユナに、照れたように潮見は笑う。
「いえ、当然のことです。ユナさん、どうか私に協力してくれませんか? 一緒にこの加藤を変えていきましょう」
ユナは感動し、涙を流しながら頷いたのだった。
その夜、ユナは母に電話をした。
「お母さん、聞いて。私、正社員になれたの。給料も上がって、お母さんの治療費も旅館が出してくれるのよ。信じられる?」
母は電話の向こうで泣いていた。
「ニュース見たわよ。本当に良かったわね。あなたは、いくら苦しくても人を助ける優しい子。私の誇りだわ」
ユナも涙を流しながら微笑んだ。
「これからも、お母さんが教えてくれたことを守っていくね」
翌日から、最上寺の支援が本格的に始まった。老朽化していた温泉設備が最新のものに交換され、客室も一流の職人たちによって美しく修繕される。庭園も整備され、まるで絵画のような美しさに生まれ変わっていた。全国の旅行雑誌には、温泉協会の推薦旅館として掲載された。心のこもったおもてなしの宿。人を大切にする旅館。そんな評判が全国に広がり、予約は三ヶ月先まで埋まる。かつてない活気だ。旅館は、かつてない活気に包まれていた。その後、加藤はテレビ番組でも何度も取り上げられ、「奇跡の旅館」として知られるようになった。
そんなある日、忙しく働くユナの元に一通の手紙が届く。差出人は、あの最上寺信吾だ。中身を読んだユナはびっくりして、思わず声を上げてしまった。たまたま近くにいた潮見と和子が、何事かとかけよる。
「ユナさん、どうしたんだい?」
震える手でユナが差し出した手紙を、潮見は読み上げる。
「『あなたの優しさに触れ、私は人として大切なものを思い出しました。そこで、協会理事として、「思いやり湯」の創設を提案しました』……だって、すごいじゃないか、ユナさん!」
和子も覗き込み、驚きの声を上げる。
「式は来月、東京で行われるのね。『是非、お母様と一緒に来てください』って書いてあるわ。ユナちゃん、良かったわね」
ユナは嬉しさで胸がいっぱいになり、何も言えなかった。その夜、ユナはその手紙を母に見せる。母も感動し、涙を流しつつ、ユナを自慢の子だと褒めてくれた。
そして翌月、東京での受賞式に、ユナは母と一緒に向かう。治療費の心配なく療養できたおかげか、母の顔色は以前よりずっと良くなっていた。受賞式には、全国の旅館関係者が集まっていた。もちろん、そこには潮見と和子の姿もある。最上寺が壇上に立ち、ユナを呼んだ。
「仰木ユナさん、どうぞ、前へ」
ユナは母に励まされながら壇上に上がった。最上寺はユナに表彰状とトロフィーを手渡しながら、満場の人々に聞こえるように告げる。
「ユナさんの行動は、多くの人に感動を与えました。そして、私たちに人として大切なものを教えてくれました。本当にありがとうございます」
会場は大きな拍手に包まれた。ユナは涙を流しながら言った。
「私は、当たり前のことをしただけです。でも、その当たり前のことをするのが、人として最も大切なのだと、今は分かります。これからも、人を大切にする心を忘れずに生きていきます」
会場は、さらに大きな拍手に包まれたのだった。
一方、支配人を解任された霊子は、仕方なく旅館を去った。すぐ別の旅館で働こうとしたが、どこも雇ってくれない。加藤での出来事が業界中に知れ渡っていたためだ。老人を追い出そうとした支配人。新人仲居を虐げた酷い女。そんな評判が付きまとったため、もう一度支配人として返り咲こうとした霊子の思惑は潰えた。結局、霊子は都会の安宿でフロント係として働くことになる。かつて自分が「貧乏人の宿」と見下していたような場所で働き、給料もかつての半分以下。霊子は惨めな気持ちになっていた。
そんなある日、霊子は偶然テレビで加藤の特集を見る。若旦那の潮見と仲居のユナが、二人仲良く笑顔でインタビューに答えていた。
「この旅館は、人を大切にする旅館です。私どもは、全てのお客様に誠実に向き合います」
潮見の言葉に、ユナが続ける。
「人の価値はお金では決まりません。おもてなしの心で、全てのお客様を迎えるのが加藤の理念です。どうぞ、いつでもいらしてください」
画面には、満室の予約表と笑顔のスタッフたちも映っていた。霊子はテレビを消しながら、つぶやいた。
「私が……間違っていたのね」
霊子は初めて、自分が間違っていたと気づく。しかし、時すでに遅し。彼女が積み上げてきた地位も名誉も、失われた後だ。
「私は、お金ばかり見て、人としての心をなくしていたのかもしれない」
霊子は後悔しつつも、どうしようもないと諦めたのだった。
一方、ユナの人生は大きく開いていく。テレビに出た後、どんなに有名になっても、ユナ自身は変わらず誠実に働き続けていた。そんなユナの姿に、若旦那の潮見はどんどん惹かれていく。とある日の夕暮れ、潮見はユナを庭園に呼び出し、真剣な表情で言った。
「ユナさん、あなたに出会って、僕の人生も変わりました。あなたは僕に、人を大切にすることの素晴らしさを教えてくれた」
ユナは潮見の言葉を静かに聞いていた。
「ユナさん。あなたが灯したこの宿の光を、これからは一緒に守っていきたいんです。どうか、僕と結婚してください」
ユナは涙を流しながら頷いた。
「はい」
夕日の中で抱き合う二人の姿を、和子はこっそり影から見守っていた。
「よかったね、ユナちゃん」
和子は涙を拭い、庭園を後にした。
半年後、ユナと潮見は結婚する。ユナは加藤の若女将となったのだ。現在、夫婦二人で経営する加藤は、日本を代表する温泉旅館となっている。いつ来ても温かく迎えてくれると評判の宿だ。おもてなしの心と、恩送り。それが、この旅館には息づいている。
