「視界に入るなよ。豚。目障りなんだよ」—妊娠して幸せの絶頂にいた私に、夫が放った言葉がこれだった。あの日、ソファに座る夫の前を通りかかったとき、彼は舌打ちと一緒にそう呟いた。数日前まで「お前がどうなっても、気持ちが変わったりしないよ」と言ってくれた人と同一人物とは思えなかった。私はただ、お腹の赤ちゃんを守るために必死だったのに。そして翌朝、テーブルの上に離婚届が置かれていた。彼の欄はすべて記…

「視界に入るなよ。豚。目障りなんだよ」—妊娠して幸せの絶頂にいた私に、夫が放った言葉がこれだった。あの日、ソファに座る夫の前を通りかかったとき、彼は舌打ちと一緒にそう呟いた。数日前まで「お前がどうなっても、気持ちが変わったりしないよ」と言ってくれた人と同一人物とは思えなかった。私はただ、お腹の赤ちゃんを守るために必死だったのに。そして翌朝、テーブルの上に離婚届が置かれていた。彼の欄はすべて記...

「視界に入るなよ。豚。目障りなんだよ」

妊娠してからお腹が大きくなって、確かに太った。でも夫は言ってくれた。体型が変わっても、俺の気持ちは変わらないと。それから数日後、家に帰るとテーブルの上に離婚届が置いてあった。

私の名前は樋口結衣。二十七歳の専業主婦。かつてはブティックの店長を務めていて、それが夢の仕事だったけれど、結婚を機にすべてを辞めた。夫が勤める会社はベンチャー企業で、どうやら絶好調らしい。新しいサービスが評判を呼んで、今まさに勢いに乗っている。利益はきちんと従業員にも還元されるようで、夫の給料だけで生活には困らない。ローンではあるけれど、マンションも買えた。今の生活にはとても満足しているし、心にも余裕がある。夫婦仲も良好だ。

夫とは三年前に出会った。一つ年下の彼は、当時私が勤めていた店に客として来てくれた。接客の仕事をしていたから、私は見た目にとても気を遣っていた。毎日ジョギングして体型をキープし、スキンケアやメイクの情報収集にも熱心だった。夫は、そんな風に自分を磨く努力をしていた私に一目惚れしたらしい。後日、彼は食事に誘うためだけに店へ戻ってきた。その思い切りの良さと率直さに、私はすっかり惹かれてしまった。一目惚れ同士だから軽いと思われるかもしれないけれど、違う。出会って三年、結婚して一年半。今でも私たちは熱心に愛し合っている。

だからこそ、私には心配事があった。一週間前、体調が優れないので念のため産婦人科を受診した。案の定、妊娠していると言われた。愛する夫との子どもを授かって、もちろん嬉しい。けれど、新しい命がお腹の中で育つということは、お腹は大きくなるし、見た目も変わるということ。それは子どもが元気に育っている証拠で嬉しいけれど、ずっとスリムな体型を保ってきた私にとっては不安でもあった。夫はもともと私の外見に惹かれて声をかけてきた。今でも頻繁に私の容姿を褒めてくれる。妊娠で体型が大きく変わったら、夫の気持ちも変わってしまうのではないか。考えすぎだろうか。それでも、何もなかったかのように振る舞うことはできなかった。妊娠そのものは本当に嬉しいのだから。

夫が仕事から帰ってきたとき、私は勇気を振り絞って聞いた。

「ねえ、もし私の体型が変わったら、気持ちは冷めちゃう? 例えば、妊娠してとか」

夫は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに興奮したように表情を引き締めた。

「待って、妊娠したのか? 俺の子どもか?」

鋭く問い詰める夫に私がうなずくと、彼は嬉しそうに叫んだ。

「やった!」「やったな!」「俺、ついに父さんになるんだ」

それから私をぎゅっと抱きしめて言った。

「お前がどうなっても、気持ちが変わったりしないよ」「腹が大きくなっても、結衣は結衣だろ?」

その言葉を聞いて安心した。同時に、この人と結婚して正解だったと改めて思って、涙が出た。それからは、肩の荷が下りたように軽い気持ちで、お腹の命を大事に育てることを一番に考えた。胎児に良いとされる食べ物を好みでなくても進んで食べ、クラシック音楽を聞き、体に負担をかけない程度の運動も続けた。体型が変わっても気持ちは変わらないと夫は言ったけれど、それでも変化は最小限に抑えたいと思った。

最初のうちはうまく日々を過ごせていたのに、次の段階に入った途端、私は体調を崩した。食べ物が喉を通らず、胃が空っぽなのに吐き気が絶え間なく襲ってきた。立っても座っても横になっても気分が悪くて、一日のほとんどを寝て過ごしていた。体型を気にする余裕なんて、まったくない。夫はそんな私の代わりに家事をしてくれた。

「ごめんね。仕事で疲れてるのに」

「気にするなよ。結衣は体に気をつけて、元気な子を産むことだけ考えてればいいよ」

謝るたびに、夫は笑顔でそう言ってくれた。こんな素敵な人に出会えた私は運がいいと、心の底から思った。吐き気は永遠に続くと思っていたけれど、安定期に入るとゆっくり落ち着いてきた。ところが、この頃から夫の態度が少しずつ変わっていった。口数が減り、目も合わせなくなった。私がようやく体調が良くなって外に出たいと思っても、彼は誘ってくれなくなった。妊娠する前は、休みの日にはよく一緒にカフェや買い物に一緒に出かけていたのに。

そして事件は起きた。

ソファに座ってテレビを見ている夫の前を通りかかったとき、彼が舌打ちを鳴らした。

「目障りだ。俺の視界に入らないでくれないか。太った豚」

小さな呟きだったけれど、はっきりと耳に入った。

「今のなに? ひどいよ」

夫はため息をつく。

「ひどいのはお前だろ。最近鏡見たか?」寝込んでいる間、食欲がなくても赤ちゃんのために無理に食べていた。吐くことが多かったから、少量でお腹いっぱいになるように高カロリーなものを選んでいた。お腹は順調に大きくなったけれど、余計な脂肪もついてしまった。それだけじゃない。長いこと身だしなみに気を遣っていなかったから、肌は完全にボロボロだ。でも……「変わってもいいって言ったのはあなたでしょ」「変わりすぎたんだよ。体調が良くなったなら、痩せる努力をしろよ。もう女じゃないんだから」

その瞬間、あまりのショックで頭が真っ白になった。痩せろって? つらい運動はまだできないって分かっているはずでしょ、と私が言うと、それならせめてその汚い顔をどうにかしろと言われた。ずっと優しかった夫が、そんな無情な言葉を投げかけてくるなんて信じられなかった。怒りというより、ただただ悲しい。私だってこうなりたくてこうなったわけじゃない。二人分の命を必死に守っているのに。涙を堪えながらそう言うと、彼はまた舌打ちをして部屋から出て行った。その日、彼は帰ってこなかった。翌朝も一時帰宅したかと思うと、すぐに仕事へ向かった。そしてその夜も、帰らなかった。電話は繋がらない。メッセージも既読にならない。怒りが冷めたら帰ってくるだろうと思った。クレジットカードもあるし、困ることはないはずだから、待っていよう。しかし数日後。午後に検診に出かけて、買い物をして夕方に帰宅した。すると、テーブルの上に見慣れない紙が置いてある。離婚届だった。手に取って確認すると、夫の欄は全部記入されていた。呆然と立ち尽くしていると、携帯にメッセージが届いた。誰かと思って急いで開けると、やはり夫からだった。『俺が妻だと思っていた人間はもうここにはいない。離婚届を出してくれ』という旨の短い文面だった。私はその場にゆっくりと崩れ落ちて、その後何をしたのかあまり覚えていない。離婚届を出します。翌朝目が覚めると、ベッドにいた。いつの間にか寝室に移動したらしい。もちろん彼の姿はなかったけれど、驚いたことに、彼に対する未練は微塵もなかった。母の本能とは恐ろしいものだ。一晩眠ったら頭がすっきりして、気持ちはすべて子どもを守ることだけに向いていた。彼がどこへ消えたのかは知らないけれど、署名済みの離婚届を置いていくということは、二度と戻るつもりがないのは明らかだった。それなら、私もここにいる理由はない。両親に連絡して、荷物をまとめて、実家へ向かった。途中で役所に寄って、離婚届を提出した。書類は問題なく受理された。マンションを出て行くと伝えると、夫からは「分かった」の一言だけ返ってきた。荷物をすべて運び出したら、あの家に誰を連れ込もうが好きにすればいい。私が体型や肌の変化で悲しんでいたことを彼はよく知っていながら、あんな言葉を浴びせた。結局は心のない人間で、それに早く気づけなかった私が甘かった。むしろ、あんな父親のもとで子どもを育てなくて済んだ私は運がいいくらいだ。母と父の支えもあって、私は無事に健康な男の子を出産した。専業主婦の母が息子の世話をしてくれるおかげで、私は以前の職場に復帰することができた。うちの業界は女性社員が多いからだろう、離婚のことを皆、理解して同情してくれた。

そして、復帰してから数日後のことだった。元夫が店に現れた。彼は、私の外見が接客に向かなくなったと思っていたらしく、私がここで働いているとは想像していなかったようだ。若くて綺麗な女性と一緒にいたのに、私にばかり視線を奪われて、その存在を忘れてしまっているかのようだった。驚くのも当然だ。出産後、私は必死に運動して、以前のスリムな体型と美肌を取り戻していた。一方で、数ヶ月ぶりに見た元夫は、かなりだらしなくなっていた。以前は運動で引き締まった体だったのに、今はところどころたるんでいて、昔の面影はない。顔は吹き出物だらけで肌の色も悪い。急に白髪まで混じっていて、見ているのが気の毒になるほどだった。彼は連れの女性に高いバッグを買わされて、店から連れ出されていった。

閉店後の片付けを済ませて外に出ると、元夫が待ち構えていた。

「久しぶり。驚いたよ。前より綺麗になって」

自分でも少し自信をなくしているのか、元夫はおずおずと話しかけてきた。両親と息子が待つ家に急いで帰りたい気持ちを抑えて、私は明るい笑顔を向けた。

「ありがとう。あなた、ずいぶん変わったわね。苦労してるの?」

皮肉のつもりだったのに、元夫は同情されたと勘違いして、必死な声で訴えた。「そうなんだ。俺、今本当に大変でさ」

薄々感じていたけれど、彼は私が妊娠している間に浮気していたらしい。しばらく愛人と同居していたけれど、私が出て行った後にアパートに戻ってきたようだ。今はその女と一緒に暮らしているという。若い女は綺麗だけど金遣いが荒く、思い通りにならないと癇癪を起こすらしい。彼は毎日振り回されて精神的に疲弊しているようだった。肌荒れと白髪はそのストレスだろう。さらにその女はダイエットだと言っては料理に手を付けることもなく、結局彼のところへ残される。それで彼が食べてしまうので、どんどん太っていったらしい。彼は私におべっかを使い、すがるように言った。

「お前ほど完璧な女は、中身も外見含めて他にいないよ。なぁ。やり直さないか?」

正直、心底うんざりしたけれど、考えがあって断らなかった代わりに一つ訊ねた。

「これは、いわば最後のチャンスよ。私たちの子どものことは、気にならないの? 父親になれるって、あんなに喜んでいたじゃない」

元夫はしまったと気づいたように顔色を青くした。私は長いため息をついた。

「あなたが欲しいのは、ただのアクセサリーみたいなものよ。見て眺めて自慢できるだけで満足できる何かがね」

「ち、違うよ!」「じゃあ、なぜ私を捨てたの? 私の見た目が落ちたからじゃないの? そうでしょ?」

反論の言葉が見つからないらしく、彼は唇を噥んで黙った。やがて藁にもすがるように何かをつぶやいた。「何ですって」「ねぇ、お前は俺がこんな風になって嫌になったんだろ? お互い様だろ?」

昔の私なら、ここで激昂していた。感情が暴走する前に絶対に怒鳴り返していただろう。でも今の私は驚くほど冷静だった。出産したことで、根底から生まれ変わったのかもしれない。愛しい息子を守るためなら、何だって耐えられるし、誰にだって立ち向かえる。もし私が以前より本当に綺麗に見えるのなら、その強さが光っているからに違いない。私はしっかりとうなずいた。

「あなたとは、変わってない頃からもううんざりしてたけど、今日会って、完全に失望したわ。たとえ元夫が昔の姿で現れたとしても、受け入れる気はなかったでしょうね。あたりまえよ。人の外見なんて、表面的な飾りにすぎない。表面がどう変わっても、中身が同じなら意味がないもの。今さら父親面して現れないで。私を捨てた時点で、あなたは親としての役目も捨てたんだから」

息子は私の胎内で生きていた。お腹の中から、私たちの声を聞いていたに違いない。うつむく元夫に私は畳みかけた。

「二度と私の前に姿を見せないで。あなたみたいな醜い人間は、目障りなんだから」

元夫はアスファルトの上に崩れ落ちた。

あれから一年という月日が、妊娠も離婚も出産も、あっという間に過ぎていった。私は今もあのセレクトショップで働いている。息子はすくすくと育って、私や両親の顔を見て声を出すようになった。「ママ」と呼んでくれる日も遠くなさそうだ。元夫との離婚が成立したとき、私はもう二度と彼と関わらないと決めていた。もう会うこともないと思っていたし、養育費を請求するつもりもなかった。しかし先日偶然会って、彼に再会したとき、私は完全に考えを変えた。元夫は私を傷つけたことを悔いておらず、自分の息子に対する愛情も微塵も感じられなかったからだ。結局あの男は、自分しか愛していない。だから私は、弁護士を通して養育費を請求することにした。同時に、離婚に至った精神的虐待に対する慰謝料も、しっかりと請求することを決めた。調べてみると、離婚が成立した後でも養育費や慰謝料を請求することは可能らしい。元夫は新しい女にたかられて貯金がなくなったと泣きついてきたけれど、そんなの私に関係ない。払う金がないなら、働いて働いて働きまくればいい。マンションにはまだローンが残っているし、すべて自業自得だ。電話で冷たくそう伝えると、彼は言葉を失ったらしい。若い女は、彼に金がないと分かるやすぐに捨てて出て行ったらしい。そうしてまもなく、元夫はあのマンションのローンを払えなくなって、売りに出された。住むところを追われ、アパートを借りる金もままならず、今の元夫はほぼ路上生活を送っているらしい。

とにかく、あの騒動以来、私と息子は両親に全面的に頼っている。両親はかわいい孫の面倒を見られるからいいと言ってくれるけれど、私も貯金がたまったから、そろそろ自立して別に暮らそうと考えている。新しい生活に不安がないわけではないけれど、それ以上に楽しみだ。何があっても、愛する息子と、素晴らしい両親と、支えてくれる同僚がいる限り、私はきっと乗り越えられる。

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