「申し訳ございませんが、本日は満席でございます。ご予約のないお客様はお通しできかねます」
支配人の言葉は事務的だった。口元は笑顔の形を作っているのに、目はまるで凍っていた。冬月かよは無意識にワンピースの裾を握りしめた。天井からはシャンデリアがぶら下がり、壁にはワインリストらしき額縁がずらりと並んでいる。特別な客のための店だと、空気そのものが宣言しているようだった。
「予約は昨日、電話で入れたはずなんですけど」
隣で夫のひさしが静かに言った。声は穏やかで、礼儀正しかった。
「お名前は冬月です。今日の十九時、二人でお願いしたんですが」
支配人は確認する素振りも見せず、眉をひそめた。
「記録はございません。お帰りください」
かよの胸の奥が痛んだ。ここにいるべきじゃない——そう言われている気がした。恥ずかしい。悲しい。腹が立つ。そのどれもが同時に襲ってきて、喉が詰まって声が出ない。
その瞬間、黒いスーツの男性グループが店に入ってきた。派手な時計、ブランド物のネクタイ、強い香水の匂い。支配人は私たちを置き去りにして、そちらへ向かった。
「社長様、ようこそお越しくださいました。本日も特別席をご用意しております」
さっきまでの冷たい声が、急に甘ったるく変わった。金を落としそうな客には膝を折る。そうでない客にはドアを閉める。
かよは夫の袖をそっとつまんだ。
「ねえ、ひさしさん、もう帰ろう。私たち、恥をかくだけだから」
声は震えて、情けなくなるほど小さかった。だが夫はほとんど表情を変えなかった。ただゆっくりと店内を一度見渡して、ぽつりと呟いた。
「……そうか」
それは怒りでも、負けでもなかった。状況を覚えたという、あの人のいつもの声だった。ああ、この人はまだ何もしていない。まだ一ミリもやり返していない。そして、これから何をしでかすのか、支配人はまだ知らない。
前日の朝、秋の光が柔らかかった。冬月ひさし、八十歳は家庭菜園で土をほぐしていた。指は太く節だらけだが、その手つきは未だに正確で優しい。
「ひさしさん、お茶入れたよ。休憩しておいで」
かよが笑いながら手を振る。その笑い声は、まだ若い頃のままだった。
ひさしは腰を伸ばし、ゆっくりと戻って湯のみを受け取った。二人の目の前には一台の古い軽トラックが停めてある。塗装は剥げ、ボディは傷だらけだった。
「まだ動くんだな、これ」
「当たり前でしょ。うちの初代営業部長なんだから」
かよはくすっと笑った。
五十五年前、二人だけの小さな加工場から始めた食品会社は、今では全国のスーパーに並ぶ「冬月フーズ」になった。有名企業や大手グループが取引を求めてくる。業界では知らない者はいない。だが当人たちの暮らしは、ずっと質素なままだった。ブランドも別荘も興味がない。畑と味噌汁と昼寝と、夫婦の会話があれば、それでよかった。
かよは湯のみを両手で包みながら言った。
「気づけば五十五年ね。あっという間だわ」
「長かったぞ、こっちは」
「嘘。あなた、楽しそうだったじゃない」
「そりゃ、横で戦友がいつも文句を言いながら笑ってたからな」
「ちょっとそれ、褒めてないわよ」
二人とも目尻だけが若返る。その時、ひさしがふとかよを見た。
「なあ、今夜は二人で飯でも行くか」
「飯?」
「ちゃんとしたやつ。星がついてるっていうフレンチ」
「エトワール・シャルルって店」
「ええっ、あなたが予約なんてするタイプだったっけ?」
「しないから、今やるんだよ」
ひさしは古いノートパソコンを開き、少しぎこちない手つきで番号を探して電話をかけた。
「ええと、明日の十九時、二人で。静かに食事ができる席があれば……」
話し方は丁寧でゆっくり、礼儀正しかった。
電話を切ると、かよはぽかんとしていた。それからほんの少し、目が潤む。
「何それ? プロポーズみたいじゃないの」
「今更だ」
「いや、今更が一番効くの」
二人は静かに笑い合った。その時点では、二人ともまだ知らない。あのレストランが客を見た目で判断することも。そして、そこで何が起きるのかも。
予約の時間になり、二人はエトワール・シャルルのドアを押した。特別な格好はしなかった。今更おしゃれをしようとは思わない。清潔でいれば、それで十分だろう。だが入った瞬間、空気が変わったのが分かった。あ、私たち、見られてる——体で分かる。誰も言葉にしないけれど、その場の空気がはっきりと告げていた。
支配人が歩み寄ってきて、定型文の笑顔を貼り付けた。
「確認したところ、本日はご予約の記録はございません。お帰りください」
かよは喉が詰まって、声が出なかった。
その時、別の声がした。
「恐れ入ります。念のため、もう一度だけ確認させていただけますか?」
若い男性スタッフが一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。胸の名札には「三浦翔太」とある。まだ二十代半ばというところだった。ひさしが名を告げる。
「冬月と言います。十九時で頼んでおいたんだが」
「少々お待ちください」
三浦はホール奥の古い紙の予約台帳をめくり、メモを照らし合わせて、ゆっくり戻ってきた。そして支配人ではなく、私たちに向き直って深く頭を下げた。
「お待たせしてしまい、大変申し訳ございません。冬月様、ご祝いとしてのご予約、十九時で確かにお受けしております。こちらへどうぞ」
かよの目に、自然と涙がにじんだ。支配人の笑顔は一瞬だけ固まった。だが三浦は何も気づかないふりをして、私たちを店の窓際へ案内した。
用意された席は、店で一番いい場所ではなかった。でも、静かで夕暮れの街並みが見える隅のテーブルだった。ちゃんと二人で話せる席だった。
「こちらでよろしければ、特別なお時間を過ごしていただける席となっております」
そう言って三浦はかよの椅子をそっと引いた。
「ありがとう。すごく、すごく素敵だわ」
かよは震える声で言った。メニューを渡しながら、三浦が尋ねる。
「本日は、どんなお祝いでいらっしゃいますか?」
ひさしはほんの少しだけ照れた顔をして言った。
「わしらの会社がな、五十五年になったんだ」
「おめでとうございます。それは本当に、すごいことです」
たったそれだけの言葉なのに、かよの胸の奥にすっと光が灯った。ちゃんと話を聞いてくれる人が、ここに一人いる。それだけで、世界は変わって見えた。
その頃、ホールの反対側では支配人が別のスタッフに命じていた。
「三浦君をあのテーブルに長くいさせないで。今夜は大事なお客様が多いの、分かってるよね」
「ですが、記念日のご様子で……」
「昔は俺もそう思ってた。だがな、もっと価値のあるお客様を優先しなさい」
ひさしは耳だけで、その会話を拾っていた。怒鳴らない。言い返さない。店で暴れない。彼はただ、スマートフォンを取り出した。
「かよ、少し電話してくる」
「え、どこに?」
「心配いらん。ちょっと段取りをつけるだけだ」
店の隅に移動し、ひさしは息子に電話をかけた。
「年也か。今からエトワール・シャルルに来れるか?」
「今日ですか? 何かありましたか?」
「うん。ちょっとだけ、見せたいものがある。役員も連れてきなさい。三十分でいい」
その声は静かだった。それは怒りではなかった。これからステージを用意するという、宣言だった。
年也たちが来るまで、あと三十分。ひさしはワインを口に運び、静かに時を数えていた。支配人は遠巻きに見ながら鼻で笑う。
「高級店の雰囲気、分かってないね。長居されても困るな」
かよはその視線を感じて、小さく身をすくめた。
「ひさしさん、もう帰ろうよ」
「いや、せっかくだ。メインまでは楽しもう」
ひさしの目は柔らかく笑っているのに、瞳の奥は研ぎ澄まされていた。
新人の三浦が皿を運んできた。
「こちら、季節の魚と野菜のロティでございます」
「美しい料理だな。君、いい仕事をしてるね」
「ありがとうございます。お客様に喜んでいただけるのが一番です」
かよの表情がほぐれる。
「あなたの声、気持ちいいわね」
三浦は少し照れて笑った。
その会話を、支配人が下がった目で見ていた。
「新人のくせに、細客に時間を使うなと言ったろう」
「お客様に上下はありません」
「は?」
「さっきも言っただろう。理想論で店は回らないんだよ。どの道ここは飲み屋じゃないんだ。長居するようだったら、帰らせろ」
小声の言い合いを、ひさしは黙って見ていた。この瞬間が、彼らの人間性を映し出していた。
電話を終えた年也からメッセージが届く。
「父さん、あと十分で着く」
ひさしは小さく頷き、グラスを置いた。
「かよ。これから少し、驚くことがある」
「また何を企んでるの?」
「いや、正しいことを思い出させるだけだ」
そう言って、穏やかに微笑んだ。
店の入り口が騒ついた。黒塗りの車が三台来ているらしい。慌てて駆け込んでくる支配人は、すぐに顔を作った。
「お車のご到着だな。全員最優先でおもてなししろ」
ドアが開き、スーツ姿の年也が現れた。後ろには役員が数名続く。
「え、冬月様、ご連絡いただいておりましたでしょうか?」
「いいや。父と母に会いに来ただけです」
「父と母……?」
年也の指が指す先。窓際の席の、質素な服を着た老夫婦。一瞬で、店内の空気が凍った。
「え、あの方々が……」
「そうです。冬月フーズの会長と、奥様です」
ワインを持つ手が止まり、皿を運ぶ音も消えた。支配人の顔から血の気が引いていく。年也が父の前に立ち、深く頭を下げた。
「お待たせしました。父さん、母さん」
続いて役員たちも一斉に頭を垂れた。
「会長、副会長。お目にかかれて光栄です」
ひさしは穏やかに笑った。
「みんな仕事終わりで、悪かったな」
一分も経たずに、オーナーの畑山が青ざめた顔で走ってきた。
「まさか、冬月会長様……いつも弊社が納品をお願いしている……」
「化け物を見たような顔だな」
ひさしは穏やかな声で言った。
「この店の高級食材は、全て冬月フーズのものが使われているだろう?」
「は、はい。特別に契約させていただいております」
「いつから利益処理になったんだ?」
「いや、いえ、そんな……」
「今一度、教えておこう。商売の根本ってのは、見た目じゃない。誠実だ」
支配人の膝が笑った。三浦が一歩前に出る。
「会長、ご無礼をお許しください」
「いや、君だけが真っ直ぐだった」
ひさしの目が柔らかく細まる。
「名前を覚えておこう。三浦翔太君」
支配人は、その場に立ち尽くすしかなかった。怒鳴られることも、叱られることもなく。ただ、静かな恥だけが残った。
「畑山さん、あなたを責める気はない。ただ、スタッフをもう一度、やり直した方がいい」
「はい……痛感しております。大変失礼いたしました」
「そして、桐谷君」
支配人はびくりと震えた。
「人を見る時は、服でも肩書きでもなく、目を見なさい」
支配人はただただ震えている。畑山が小声で言う。
「あとでゆっくり、話を聞かせてくれ」
支配人は、返事もできなかった。
ひさしはポケットから名刺を取り出し、裏に何かを書いて三浦に差し出した。
「これがわしの直通番号だ。夢を持っているなら、連絡しなさい」
「夢、ですか?」
「君が言ってただろう。いつか自分の店を持って、心からの接客をしたいと」
三浦の目が潤んだ。
「……忘れません」
「忘れるなよ。誠実は、資本より強い」
年也が父に小声で尋ねる。
「父さん、あれはどういう風の吹き回しで?」
「投資だ。金じゃなく、心へのな」
ひさしは軽く笑い、グラスを掲げた。
「五十五年。ようやく、本当に誠実な人に会えた」
店内の誰も、もう彼を場違いな老人とは思わなかった。その夜は、かよにとっても、素敵な思い出の時間となった。
それから一年後。回転一周年を迎えた小さなレストランがあった。名前は「ラ・セリテ」。入り口のドアを開け、三浦翔太が客を迎える。
「いらっしゃいませ。本日も、誠実をお届けします」
店は大きくないが、評判はすでに地域一番。壁には一枚の額縁がかかっている。
「全てのお客様に、誠実を。—冬月ひさし」
その夕方、店のドアが静かに開いた。
「三浦さん、元気そうだね」
ひさしとかよが、立っていた。
「一周年、おめでとう」
「会長、奥様……おかげ様です」
三浦は深く頭を下げた。かよがにっこり笑う。
「あなたのお店、本当に温かいのね」
「全て、あの日から教えてもらったことです」
二人は窓際の席に座り、暮れていく街を眺めながらワインを傾けた。ひさしが小さく呟く。
「人は、見た目では分からん。誠実さだけだ」
「はい。その言葉が、僕の店の理念です」
外の街灯が灯り始める頃、三人の笑い声が小さく重なった。誠実の光は、世代を超えて受け継がれていった。
