もう結婚式の一時間前なのに、リサのスマホは繋がらない相手の名前を何度も映していた。遅延の知らせもない。トラブルらしい連絡もない。ただ、返事がない。
「ねえ、萌えさん、直斗と連絡取れる?」
リサは焦りながら友人にメッセージを送った。萌えは直斗の地元の友達で、二人を紹介した張本人だった。もうすぐ式が始まるというのに、新郎の姿が見えない。招待客はもう会場に集まっている。
三十分後、スマホが震えた。直斗からのLINEだった。
「リサ、急だけど今日の式は中止で悪い。元カノの誕生日と結婚式がかぶってたわ。こっち優先するから式はリスケで」
リサは画面を二度見した。笑い話にしては度が過ぎている。
「何それ?笑えないんだけど」
「悪いな。来週とかで調整してもらえる?」
「来週?今日が何の日か本当に分かってる?」
「いや、だから誕生日なんだって。元々の」
「そうじゃなくて、こっちは結婚式なのよ。誕生日は毎年来るけど、結婚式は人生で今日だけなのよ」
「まあまあ、そう怒るなって」
「怒るに決まってるでしょ。当日ドタキャンって非常識すぎるわ」
直斗は平然と続けた。
「でもほら、元カノがさ、今日だけは一緒にいてって言ってきてさ。そんな風に頼まれたら断れないだろう」
「それで私との結婚式を捨てたの」
「捨てたとかじゃなくて、俺の気持ちが動いたみたいな」
「ふざけないで。一年も準備してきたのよ。招待状もドレスも、全部今日のために」
「でもさ、もうちょっと俺の気持ちも考えてくれよ」
「私より元カノが大事っていうクソみたいな気持ちを、なんで考えないといけないの?」
「まあまあ、来週やってやるからな」
「そう。分かった。あなたとこれ以上話すことはないわ」
「悪いな。明日はまた連絡するから、機嫌直しといてくれよ」
リサは通話を切った。涙は出なかった。代わりに、腹の底から何かが煮えくり返るような怒りだけがあった。
数分後、萌えから返信が来た。
「返事できなくてごめんね。それより、そっち今大変なんじゃない?元カノって、あなただったのね」
リサの指が止まった。
「一体どういうつもりなの?直斗が地元の友達って言ってたけど、あれも嘘だったの?何のつもりで私と直斗に近づいたのよ」
「別に。別れた後も直斗君とはいい友達関係でいたいと思ったから、リサさんには付き合ってたことは内緒にしてってお願いしただけ。直斗君って優しいから、私のお願い何でも聞いてくれるんだもん」
「今どこにいるの?」
「直斗は前の家だけど。直君とケーキ食べてる。誕生日だからね」
「人の婚約者を連れ去って、何が誕生日よ」
「連れ去ってないよ。人聞き悪いな。来たのは彼の意思だし」
「あなた、本気で自分が悪くないと思ってるの?」
「だって私、何もしてないもん。ただ会いたいなって言っただけ」
「それが何もしてないになるわけないでしょ。頭おかしいんじゃないの?」
「そんな攻めないでよ。リサさんこそ、彼に重圧かけすぎたんじゃない?私はただちゃんと式を迎えたかっただけ」
「でもそれって、リサさんの自己満足じゃない?直斗君も疲れてるみたいだし」
「勝手なこと言わないで」
「え、直斗君、ずっと私のこと忘れられなかったって言ってたよ」
「そんなの嘘よ」
「どうかな。だって今も私の隣で笑ってるし。ごめんね、邪魔しちゃって。でも私と直君って、一度別れたとしても、こうなる運命だったのかなって」
「あなたたち、本当に最低よ」
「そうでも、結婚って運命の相手とするものでしょ。その運命を今日まで信じてた私の気持ちはどうなるわけ?私なりに真剣に直斗と付き合ってきたのよ」
「それにあなた、直斗の両親にもなんて説明するつもりなの?」
「今はそんな難しいことは考えてないけど。でもさ、壊したのはリサさん自身じゃない?ちゃんと彼を見てなかったんでしょ?私ならもっと大事にできると思うの、直君のこと」
「そう。じゃあ、せいぜい幸せに」
「ああ、でもリサさんって気が強そうだから、すぐには忘れられないかもね」
「あなた、わざとやってるわよね」
「そうでも、すでに式場もキャンセルするしかないでしょ。残念だったね」
「費用、全部私持ちだったのよ。二百五十万がパーだわ」
「え、マジで?直斗君、何も言ってなかったけど」
「そりゃ、そんな格好悪いこと言わないんじゃない?三ヶ月以内に半額払う約束だから、それだけは請求させてもらうわよ」
「なんだ、じゃあ払う稼ぎはあるってことね。安心した」
「一括で支払ったのは私だけどね」
「本当、リサさんって怖い。直君がビビってた理由、分かったかも。じゃあ私たちは幸せになりますんで、さよなら」
リサはスマホを置き、会場の控え室で一人になった。しばらくして、電話越しの母の声が耳に届いた。
「お母さん、ごめんね。こんなことになって」
「泣くのは家に帰ってからにしなさい。今は背筋を伸ばして、来賓の方々に対応するのよ」
「うん」
「あの男は自分の責任から逃げてるだけだから、あなたは一つも悪くないのよ」
「私が何か間違ってたのかなって思っちゃって」
「違うわ。あなたは何も悪くない」
「でも、彼にとって私は重かったのかもって」
「リサ、いい?結婚って、どちらか一方が我慢するものじゃないの。話し合いが足りていなかった。向き合えなかった。後悔することがあったとしても、あなた一人の責任じゃないわ」
「ありがとう」
「向こうのご両親、すごい勢いで謝ってくださったし、すぐに直さんを叱りに行ってくれるって言ってたでしょ」
「そうだね。直斗のご両親は、直斗と同じでちょっと軽いところがあるけど、人には温かい人たちで、私は大好きなの」
「そうね。私もとてもいい人たちだと思うわ。だからこそ、まともな判断でこちらの味方をしてくれて嬉しいわ。それに、参列してくれた人たちだって、どんな理由があるにしても、当日キャンセルする方が非常識だっておっしゃってたでしょ」
「そうだね」
「つまり、あなたに非は一ミリもないの。そんな世の終わりみたいな顔をするのはやめなさい。というか、式を当日キャンセルなんて、向こうの方にダメージがあるのに、何を考えてるのかしらねえ」
「どういうこと?」
「これは契約違反よ。損害賠償や慰謝料を請求する十分な理由になるの。二人は両家に挨拶をして結婚の約束をして物事を進めていた。婚約関係に該当するんだからね」
「でも、そんなこと本当にできるの?ドラマみたいにうまくいかないっていうか、泣き寝入りすることの方がほとんどだと思って」
「あら。私を誰だと思ってるの?」
「私の母で、事務所も開業した現役弁護士」
「その通り。この後は来賓の方々にご祝儀をお返しして、お見送りよ。私も手伝うから」
「ありがとう、お母さん」
「最初に言うわ。泣き寝入りは絶対に許さない」
「うん。もう泣かない。戦うよ」
「よく言ったわ。それでこそ私の娘。あなたの人生、こんな男のせいで狂わせてはだめよ」
数日後、直斗と萌えは二人で部屋で笑い転げていた。
「もう結婚式ドタキャンしてから、親がうるせえのなんの」
「え、まだ怒ってんの?」
「絶縁だってぶち切れ。俺の人生なんだから、ほっとけよって話じゃん」
「それな」
「なんかさ、今になってすごい気楽だわ」
「でしょ?私と一緒だと自然体でいられるでしょ」
「リサって何でも自分で決めたがるからさ」
「うんうん。私が正しいみたいな空気だったよね」
「結婚準備の時も、色味とか料理とか全部勝手に決めててさ」
「ああ、なんか分かるかも。相談するふりして、結局自分のやりたいことに決まってたんだろうし」
「それなら最初から一人でやればいいのにね」
「ぶっちゃけ、マジで結婚していいのかなって悩んではいたんだよな。でも年も年だし、今更後戻りするのもだるいし、みたいな」
「それ、もっと早く言ってよ。前はずっと直斗君を待ってたのに」
「今更だけど、萌えとこうして一緒にいられて正解だったと思う」
「やだ、直君ったら」
「リサのドレス姿、昨日SNSに出てたけどさ。正直ダサかったよな」
「多分リサの同僚かな。会場でリサのドレス撮ってSNSにアップしてるアカウントが出てきてさ。つうかあれ古臭くね?なんか昭和っぽいっていうか」
「私だったら絶対選ばないデザインだったね」
「マジで萌えと並べるのも失礼なレベル」
「やだ。でもありがとう」
「リサの職場でもう噂になってんだろうな」
「そういうの気にしない子だと思ってたけど。やっぱ聞いてんのかな」
「でもまあ、俺たちには関係ないし。俺は今の生活の方が断然幸せだわ」
「うん。私もそうだ。リサさんに、私たちが今どれだけ幸せか教えてあげようっと」
同じ頃、リサの元に萌えから一通のスクリーンショットが送られてきた。直斗とのLINEのやり取りを、わざわざ送り付けてきたのだ。リサはそれを母に見せた。
「お母さん、これ見てくれる?萌えさんからのスクショ。直斗とのLINEをわざわざ送ってきて」
数分後、母は落ち着いた声で言った。
「リサ、いい。落ち込んじゃだめよ。むしろ相手がバカで助かったと喜ばないと。あっちから誹謗中傷の証拠を送り付けてくれたんだからね」
「でも、もう会社なんて行けないよ。実際、私のこと『婚約者に捨てられた後』とか『元カノに負けた』とか、こそこそ言う人もいて。恥ずかしいし悔しいし」
「やめちゃいなさい。そんな会社、いい。そっちの誹謗中傷に関しても動くわよ。私、リサの会社の顧問弁護士と知り合いだから、内部で証拠を集めてもらうわ。一人も逃さないわよ」
「リサさんと萌えさんのLINEの内容は、全部保存してあるわね」
「うん。スクショしてある」
「よし。婚約破棄に対する損害賠償と名誉毀損。それから精神的苦痛の請求も視野に入れるわ」
数日後、直斗の元に封書が届いた。
「ねえ、直斗、これ何?怖いんだけど」
直斗は封筒を開け、中身を見て声を失った。
「慰謝料請求、四百万?」
「ちょっと待って、こんなの払えるわけないだろ。連絡してくる」
直斗はリサに電話をかけた。
「弁護士に頼むなんて卑怯だろ」
直斗はリサの母、浜田住江と直接話すことになった。事務所に通された直斗は、目の前の女性が弁護士だと知らされて青ざめた。
「お久しぶりです。あの、直ですけど。あの、慰謝料請求って何なんですか?いきなり慰謝料三百五十万なんてありえないでしょう。そりゃまあ、ドタキャンした分の式場費用とかならまだ分かりますけど。入籍前だし、不倫でも何でもないじゃないですか」
「これは法的に妥当な請求ですよ。結婚式当日のドタキャンは、事実上の重大な背信行為です。式場費用は、あなたが結婚してから三ヶ月以内に半額を払うという約束のもと、全額二百五十万をリサが支払っています。全額請求はできないにしても、二人の関係は婚約関係と同等。一方的な破棄に加えて当日の式場キャンセル。目も当てられないわね。本来なら半額の式ですが、一方的な破棄であることを鑑みて七割の百七十五万円。婚約破棄の慰謝料八十万円。当日キャンセルという精神的苦痛七十五万円。浮気相手との名誉毀損七十万円。合計四百万円。きっちり支払ってもらいますからね」
「あの、とにかく、あなたが訴えたという弁護士も交えて話をさせて欲しいんですけど。こんなの納得できるわけないでしょう」
「私が弁護士ですが、何か。正式に結婚するまで私の職業は伏せてもらっていたのよ。弁護士って何かと頼りにされがちだから。さあ、正体も明かしたところで、本格的に動かせてもらうわよ。次は浮気相手の萌えさんにも連絡を取らせてもらいますからね」
数日後、萌えの元にも通知が届いた。
「初めまして。浜田理沙の母、担当弁護士の浜田住江と申します。書類には目を通していただいていますよね」
「え、何これ?私も訴えられんの?意味わかんない」
「あなたと直さんがリサに送ったLINEの内容には、リサへの誹謗中傷が含まれていますので、名誉毀損に該当します」
「いやいやいや、冗談で言っただけじゃん」
「裁判所でどうぞそのように証言なさってください。ちなみに婚約破棄。結婚式のキャンセルの責任はあなたにも発生しますので、期限前はきっちり付けてもらいますよ」
数分後、萌えは直斗に電話をしていた。
「ねえ、直君、どうすんの?この慰謝料」
「俺に聞くなよ。俺だってやばいんだからな」
「私、今マジで無理。カードもリボの上限だし、もう支払い遅れてんの」
「お前さ、推しだかなんだか知らないけど、課金しすぎなんだよ。まだ付き合ってた時も金遣い荒いと思ってたけど、まだそんな使い方してたのかよ」
「だって、推しのグッズ全部買わないとコンプできないし」
「俺もう金ないからな。親にも言えないし」
「でも私だって無理よ。派遣の契約更新されなかったの。仕事もないのに、どうやって払えるのよ」
「直斗と結婚すれば楽できると思ってたのに、話が全然違うじゃん」
「は?なんだよそれ。うちに転がり込んできた時も家賃の話とかはぐらかしてたのはそういうわけか。金目当てってわけかよ」
「なんで私ばっかり攻めるのよ。そもそも直君がリサさんと別れるって言ったんでしょ」
「俺が悪いのかよ。お前が誘惑したんだろうが」
「誘惑って何よ。ただ会いたいって言っただけじゃない」
「それが誘惑だっつうんだよ。バカか」
「何よ。最低。リサさんの方がマシだったって言いたいわけ?」
「当たり前だろ。お前と比べたらリサの方が百倍まともだわ。お前みたいな頭空っぽな女を選ぼうとしてたなんて、どうかしてたわ」
「今更何なの?そもそもあんたが」
「もう連絡してくんな。冷めた。無理。家にも帰ってくんな。荷物、外に出しとくから」
電話は切れた。萌えは部屋に取り残された。
数時間後、萌えはリサの家の前に立っていた。
「リサさん、ちょっとお話しませんか?」
「何の用よ。話すことなんてないでしょ」
「そんなこと言わないでよ。あなたのせいで私の人生、めちゃくちゃになったのよ」
「は?私のせい?」
「だって、リサさんが私たちに慰謝料請求なんてしなければ、こんなことにならなかったのに」
「あなたが人の婚約者を奪わなければ、こんなことにならなかったのよ」
「奪ってない。直君が勝手に来ただけなんだってば」
「あなたが誘ったんでしょ?」
「誘ってない。ただ誕生日だから会いたいって言っただけ」
「それが誘いでしょ。結婚式の日だって知ってて、性格終わってるからね」
「だから知らなかったもん」
「嘘つかないで。自分で証拠のスクショを送り付けてきたくせに、何言ってんの?さすがにSNSも見てるし、覚えてないんだとしたら記憶障害だし。計画的に人を見下して舐めた結果よ」
「だから、リサさんが悪いのよ。直君を束縛しすぎたから逃げられたんでしょ」
「束縛?普通に結婚準備してただけよ」
「でも直君、すごく疲れてたって言ってたよ」
「それに愚痴ってただけでしょ。どうせその時に合わせて、萌えさんが喜ぶようなことを言ったんでしょ。『直さんって大変なのね』って同情して欲しくて、そういう話したんじゃない?直斗、そういうところあるからね」
「もう何でもいい。あんな男もういらない。とにかく謝るから、慰謝料なしにしてもらえない?」
「はあ。無理よ。私には慰謝料を請求する権利があるんだから」
「お金持ちなんだから、これ以上お金なんていらないでしょ」
「なんで私がお金持ってることになってんの?」
「だって、お母さん弁護士だし、リサさん経理なんでしょ?給料高そうじゃん。二百五十万だって一括で払えるくらいだし」
「私に貯金があるとか稼ぎがあるとかいう話と、慰謝料を請求しないっていう話は、全くの別問題よ」
「ケチ」
「じゃあもういい。どうせ払えないから」
数日後、萌えは再びリサの母の事務所を訪れていた。
「あの、すみません。親が、何が何でも払わないと絶縁するって言ってて。だから、配信事務所に入らないかってDMが来て、お金が稼げると思ったから受けたんです。でもそれがなんかやばい感じで、このままだとなんかやばそうで」
「やばい、しか伝わらないわ。語彙力がないのね。とりあえずDMの内容のスクショとURLを送って。一応調べてあげるわ」
「いいんですか?」
「調子に乗らないで。あくまで請求側としての確認の一環よ。弁護士として慰謝料の回収に重きを置いているから、あなたが変な詐欺に引っかかると面倒なのよ」
数分後、母はスマホを見ながらため息をついた。
「ここはダメね。何件も詐欺の被害相談が来てる。DMで釣って、事務所の所属費用だのマネジメント費用だの、高額の費用を請求してくる。で、支払えないと泣きついた若い子たちを騙して、危険な撮影に巻き込むケースが多発してるみたいね。摘発されるのも時間の問題よ」
「私、もうお金なんてない。どうすればいいのよ」
「弁護士に依頼して、債務整理することから始めればいいと思うわ。ただし、私は助けないわよ。私はあなたに請求する側の人間だから。弁護士が困っている人を誰でも助ける正義のヒーローだと思ったら大間違いよ。地獄の底で反省しなさい。このクズが」
数日後、直斗からリサに連絡が入った。
「なあ、リサ。またSNSに俺の名前が出てるんだけど。どっから広まったんだよ、俺たちの話。マジで意味わかんねえって。参列者か。お前の知り合いか。マジでこれ、これこそ名誉毀損だろ。俺が悪いのは分かってるけど、ここまでされる筋合いあるか?会社でも問題になってて、俺、このままじゃ会社にいられなくなる」
「私があなたに復讐してって頼んだわけじゃないから、知らないわよ」
「でも、慰謝料のこともあるし、一度直接話す場を設けてもいいわ。ただし場所は母の事務所。それ以外は認めないわ。今週末なら対応できるから」
「分かった。ありがとう」
三日後、直斗は事務所にいた。
「俺、もう無理。どこ行っても居場所がない。もう会社にも行けないから、会社辞めた」
翌日。
「とりあえずバイトの面接受けたけど、全部落ちた。どこ行っても『あ、この顔』って言われる。もう外に出るのが怖い。金もないし。萌えとは別れて、家賃滞納してたからアパートも追い出された。実家には帰れない。金もない。週末、ごめん。今日はやっぱりリスケさせてくれる?お母さんの誕生日とかぶってたわ」
「お前、何ふざけたこと言ってるの?」
「あなたが私に言ったこと、そのまま返しただけよ。じゃあ、リスケの日程はまた後日相談しましょうね」
一週間後、直斗からメッセージが届いた。
「リサ、俺と話してくれるんだよ。返事してくれよ。頼むよ。無視しないでくれ」
一ヶ月後、リサの母が電話で話していた。
「直さん、行方不明になったそうよ」
「え?そうなの?」
「ええ、両親がね、『息子と連絡つかなくなった』って私に相談してきたのよ。ちょうど一ヶ月前かな。直からLINEが来てたけど、全部無視してて。当然でしょ。この件に関してできることは何もないと伝えてあるわ。自業自得。地獄に落ちただけのことよ。請求した慰謝料は、ご両親が肩代わりで支払ってくれるそうだから安心して」
「うん。ありがとう」
「ついでに言うと、萌えさんは結局両親に泣きついて、うちの事務所に三人で来たわよ。お父さんに頭を掴まれて、叩きつけられる勢いで謝罪させられてたわ。債務整理の依頼と慰謝料の支払いに応じる話だったわよ。もう少したら、リサに利息を抜いた額を渡すからね」
「きっちりしてんね。でもありがとう。あの子の親がまともだったことが救いだね」
数日後、母が口を開いた。
「ねえ、萌えさんの債務整理の件だけど、ちょっととんでもないわ。本来、守秘義務の範囲なんだけど、今回だけは例外とさせてちょうだい。借金が総額五百万を超えてるのよ」
「五百万?」
「リボ払いの利息だけで月十五万よ。やばすぎるでしょ」
「なんでそんなことに?」
「もう自己破産を検討するレベルになるわね」
「待って。そうなると慰謝料は払えないでしょうね」
「でもそれは本人の話だから。慰謝料に関しては、ご両親が支払って、萌えさんが両親に返済する形を取る方向で話を進めているから、安心して」
「そっか。ああ、よかった」
「それで、ご両親、娘を田舎の親戚の農家に送るんですって」
「農家?」
「スマホも取り上げて、お仕事情も一切禁止で、農作業させるって話よ」
「萌えさんには気の毒だけど、自業自得よね」
「そうね。それに農作業で汗を流せば、少しは現実が見えるかもしれないわ。推しに課金することもできないしね。でも、目が覚めるよね。ご両親も必死なのよ。娘を更生させるために、放っておいたらもっと大変なことになってたでしょうね。だから今で良かったのよ、ある意味」
「確かに、五百万の借金って普通じゃないし。スマホとかネットから離れた方がいいのかもしれないね」
「そうね。とにかく、これで一段落ってことで」
「うん。お疲れ様でした」
リサは母に言った。
「ってことでさ、お母さん。受け取る慰謝料でさ、旅行でも行かない?新婚旅行で行きたかったハワイ、まだ諦められなくって」
「あら、いいわね。久しぶりに休みを取ろうかしら。リサもまだ給料休暇中だしね」
「出してよ。まだ転職活動も始めてないのに」
「リサなら大丈夫よ。なんなら事務所の事務員になってくれてもいいし。必要なら資格だって取ったらいいし」
「ああ、秘書もおすすめじゃないかしら。リサって真面目だし、経理の経験もあるし」
「秘書ね。まあ、考えとくよ。今は休みに集中させて」
「はいはい。真面目ね」
その後、リサは会社を退職し、貯金で生活しながら転職活動を続けた。そして、ようやく最終職が決まり、来月から新しい職場で働くことになった。
直斗と萌えだけでなく、職場でリサについて根も葉もない噂を流した同僚たちも、母の知人の弁護士によって特定された。会社は契約社員の契約打ち切りや社員の諭旨処分など、かなりの騒動になったという。直接の復讐ができたわけではないが、それでも心はすっきりした。
恋愛に前向きになれる気はまだしない。それでも、人生を諦めずにもう一度生きようと思えたのは、間違いなく母のおかげだった。新しい就職先は母の弁護士事務所とは異なる。自分が選んで、ここで第二の人生をスタートさせたいと思えた場所だ。不安なことはたくさんあるけれど、母の言葉があるから大丈夫だと思える。
法律を知っている人は、法律に守ってもらえるし、戦える。理不尽に負けるな、と。
