昼休みに「離婚届、明日出しておくわ。好きにしろ」と夫が言った。あまりに突然で、私は言葉を失った。同じ会社の同僚でもある私たちは、円満に別れるつもりだった。なのに彼は「お前との生活には飽き飽きしてた」と冷たく言い放った。私も言い返したが、最後はお互い謝って終わった。その時、彼が「後輩も退職するんだってさ」と呟いた。私は何気なく「病気かもしれないって」と返した瞬間、彼の顔色が変わった。「変な噂を…

昼休みに「離婚届、明日出しておくわ。好きにしろ」と夫が言った。あまりに突然で、私は言葉を失った。同じ会社の同僚でもある私たちは、円満に別れるつもりだった。なのに彼は「お前との生活には飽き飽きしてた」と冷たく言い放った。私も言い返したが、最後はお互い謝って終わった。その時、彼が「後輩も退職するんだってさ」と呟いた。私は何気なく「病気かもしれないって」と返した瞬間、彼の顔色が変わった。「変な噂を...

「じゃあ明日の昼休みにでも出しておくわ。離婚届、好きにしろ」

「好きにしろって……急に離婚を突きつけてきたのはそっちでしょ」

「お前だって納得した上での離婚だろうが。財産分与の話もあったし、慰謝料はなし。今さらごちゃごちゃ言うな」

確かにその条件には合意した。ただ、まさか本当に離婚まで発展するとは思っていなかった。私はそう言った。

「何が『思ってなかった』だ。俺はお前との生活には飽き飽きしてたんだよ」

「飽き飽き?」

「お前は仕事ばかりの人間だし、休みが一緒でもつまらないし、愛も感じなかった。正直ここまで続いたのが奇跡だと思ってる」

「確かに私は愛のないつまらない女よ。でも、私がそういう女だってことは最初から分かってたでしょ?」

「そこまでだとは思わなかったんだよ」

「それなら私だってそう。あなたは急な飲み会で帰ってこないし、家事は一切やらないし、お母さんが子供子供ってうるさいし」

「それはお前も承知の上だっただろうが」

「承知の上で、ここまでだとは思ってなかっただけ。あなたの言い分と何か違う?」

「それは……」

「ああ、やっぱりダメね。これから離婚しようって時に、夫婦で言い争ってたら埒が明かないわ」

確かに私たちは部署こそ違えど同じ会社の同僚だ。円満とまではいかなくても、悪い形で離婚はしたくない。その点はお互い共通している。

「分かってる。変に突っかかったりして悪かった」

「私も意地悪な言い方だったわ。ごめん」

「はい、これでお互い様ってことで終わり」

「分かった。言い返すのはやめる。それよりLINEはこのままでいいんだよな?」

「一応同じ職場の同僚でしょう。もう直接連絡を取り合うことはないと思うけど、念のため連絡先は残しておいた方がいいわ」

「了解。にしてもあれね」

「あれって?」

「悪いことは重なるって言うじゃない。今度うちの後輩も退職するんだってさ。人が離れるタイミングも重なるものなのね」

「後輩? もしかして前に企画書が被ったって言ってた子?」

「そうそう。私と似たような企画を出してきてね。被ったのは偶然だろうけど、これからって時に惜しいわ」

「何か事情があるんだろうね。最近体調を崩しがちだったから、病気かもしれないって」

「病気?」

「仕事中も体調が悪くて席を外すことが多かったのよ。確か年配の女性の方は何か気づいてたみたい」

「おい、やめろよ、そういうの」

「何? 急に何か気に触るようなこと言った?」

「変な噂を流すような真似をするなって言ってんだ。俺たちの離婚だって、変な噂を流されたら嫌だろうが」

「それはそうだけど、過剰に反応しすぎじゃない?」

「いいから、そういうのはやめろ」

「分かったわ。確かに噂なんて所詮は噂だしね」

「そういうこと。本当に気をつけろよ。せっかく円満に離婚するんだから」

「大丈夫よ。それじゃあ、さようなら、かずや」

一ヶ月後。

「ちょっと、かずや。あれ、やめてくれる?」

「何がだ?」

「今日の昼休み中に、うちの部署に乗り込んできたでしょ?」

「お前がさっさと電話に出ないのが悪いんだろうが」

「そうじゃなくて。あれのせいで噂になってるんだけど」

「どんな噂だ?」

「離婚のことで、かずやが納得してないんじゃないかって。大げさにしたくないって話だったよね。なら、さっさと電話に出ればよかったんじゃないの?」

「ああ、だからそういうことじゃないって。というか、あれだけ慌てて来て、何の用だったの?」

「そうだよ、そのことだ」

「何のことだ?」

「お前、慰謝料を払え。二百万だ」

「はあ? 慰謝料はなしって話だったでしょ」

「気が変わった」

「はあ? 寝ぼけるのも大概にして。そもそも請求される理由は何? 私、何もしてないわよね」

「自分で言ってただろうが。クソつまんない女だから離婚されても仕方ないって」

「そこまで自分を卑下したつもりはないけど、似たようなことは言ったわ。あの時は『こちらにも非はあるけど、そちらにもあるよね』って言ったはずよ」

「俺は認めてない」

「子供の喧嘩じゃないんだから、そんな理由で請求できるわけないでしょ」

「お前、確か今の仕事は学生の頃からの夢だって言ってたよな」

「急に何? そうだけど」

「この会社に入るために、随分と努力したんだろ」

「だからそれが何? 今はその話は関係ないでしょ」

「退職はしたくないよな」

「それはそうでしょうね」

「じゃあ、慰謝料を払え」

「いや、意味が分からないんだけど。あなた、私が原因で離婚したと思ってるの?」

「それは……」

「例えば私が不倫してたとか? それとも家事を一切しないで文句ばかり言ってたって?」

「さっきから何の話だ?」

「そういう噂を流すこともできるって言ってるんだよ」

「はあ?」

「ふざけるのも大概にしてよ。それが嫌なら慰謝料を払え。今すぐにだ」

「そんなことで払うわけないでしょ。というか、何をそんなに焦ってるの?」

「焦ってる? 何の話だ?」

「だってそうでしょ? 慰謝料二百万。そんな自分の立場を悪くするような噂を流してまで、どう考えても割に合わないわ」

「何のことか分からないな」

「確かに、今すぐ二百万もらえるなら私だって欲しいわ。でも、そのために今の職場での立場を悪くする? あなたは別に業績も悪くないはず。二百万のために、そのキャリアを捨てる気?」

「こっちだって切羽詰まってるんだよ」

「切羽詰まってる? 何か急にお金が必要になったってこと?」

「お前には関係ないことだ」

「ねえ、かずや。確かにあなたは嫌なところはあるけど、そこまで考えなしな人じゃないでしょ」

「だから、お前には関係ないって言ってるだろうが。とにかくさっさと二百万払え」

「理由も分からず払えません」

「じゃあ、噂を流すだけだ」

「勝手にどうぞ。そんな噂程度で立場を失くすほど、私の人望は薄くないから」

翌日。

「あやかさん、あんた、慰謝料払うんでしょ?」

「そうね。その慰謝料だけど、元義母の私にも払ってちょうだい」

「ああ、お母さん」

「いいえ、正確には元姑ですけど、ややこしいのでお母さんって呼んでいい?」

「あんたに『母』なんて呼ばれる筋合いはないわよ」

「じゃあ、お母さん以外だと『態度だけは大きいクソババア』とかになりますけど」

「はあ?」

「嫌そうなので、お母さんで行きますね。それで、何ですか? 頭でも打ちましたか?」

「売ってないわよ。本当に可愛くない女ね」

「お母さんに見せる可愛げは売り切れましたので」

「いいから、私にも慰謝料を払いなさい」

「なぜですか?」

「あんたが私を傷つけた報いよ」

「そうね。月に百万上乗せで勘弁してあげる」

「あの、なんとなくで喋るのはやめてください」

「なんとなくって何よ」

「月に百万ってことは、継続的に払えってことですよね」

「それが何?」

「そんな慰謝料の形態はほとんど聞いたことがありません。しかも百万って、きりがいいから百万にしたんですか? 馬鹿丸出しですね」

「なんですって?」

「そもそも『傷つけた』とは? 具体的にお願いします」

「あんたが嫁の頃から、私を見る目が気に食わなかったのよ」

「見る目?」

「そうよ。私を馬鹿にしたような目で見て。しかも何かあるとすぐに正論。ええ」

「正論って、自分が間違ってるって分かってたんですか?」

「繊細な私の心がどれだけ傷ついたか」

「繊細って、お母さんとは正反対の言葉ですよ」

「はい?」

「あと、お母さんが訳の分からないことばかり言うからです。何でしたっけ? 『子供を産めない女に用はないから、離婚して消えろ』って」

「言ったわよ。事実だもの」

「それを聞いてかずやはため息をついてましたけど」

「それが何?」

「呆れてたんですよ。私たちは、別に子供欲しさに結婚したんじゃなかったんで」

「そんなの関係ないわ。嫁は子供を産むための機械みたいなもんよ。なのに子供が産めない女はクズ。間違ってないわ」

「なら、私が言った正論とやらも間違ってないのでは? 私が傷ついたって言ったら傷ついたの?」

「黙って慰謝料を払いなさい。支払いは来週までよ」

「来週? 来週に何かあるんですか?」

「え? 一体何のことかしら?」

「お母さん、本当に何よ?」

「何でもありません。そういえば、ずっと気になってたことがあるんです」

「何?」

「私とかずやが離婚する三ヶ月くらい前でしたか? 私のUSBが紛失しましたよね」

「ああ、確か私が泊まりに行った時のことだったわね」

「そうです。あの後、数日してからお母さんが見つけてくれました」

「いいことじゃない。もう終わった話でしょ」

「なぜお母さんがUSBを見つけられたんですか?」

「はい?」

「どういうこと?」

「あれは私が仕事を家に持ち帰った際に使うUSBです。企画書を書いてて、そのデータが入ってました」

「そうだったの? 知らなかったわ」

「そのUSBがうちで見つかるなら分かりますけど、どうして帰った後のお母さんが見つけることができたんですか?」

「それは、その……あれよ。私の荷物に紛れ込んでたのよ」

「ええ。初めて聞きました」

「今言ったでしょ。もういいでしょ。よりも慰謝料よ。慰謝料」

「払いません」

「はあ?」

「明確な理由を提示してくださるまで、払う気はないと言ってるんです」

「あんたの言葉で私が傷ついたのよ。精神的な苦痛を受けました」

「私はお母さんの言動で、それ以上に苦痛を感じました。『弁護士に相談したら慰謝料が取れるって言ってた』って、その弁護士が適当なことを言ってるだけですね。他の弁護士に相談することをお勧めします」

「私の知り合いを馬鹿にするの?」

「知り合いなら、お母さんに気を使ったんでしょうね。現状、特に証拠もないんですよね? それでもらえるほど、慰謝料は簡単じゃありません。お金が欲しいなら他を当たってください」

数日後。

「なんで慰謝料を払わないのよ。早くしてくれないと困るわ」

「困るのはこちらのセリフです。私、今は勤務中なんですけど」

「そっちの都合なんて知らないわよ。それよりも早く入金しなさい」

「もう銀行も終わってますよ。この間も思いましたけど、かずやもお母さんも、何をそんなに焦ってるんですか?」

「あんたには関係ないでしょう」

「そうですね。関係ありません。関係ないので、慰謝料云々も払う必要はありませんよね」

「それはそれは。これよ。何でもいいから急いでちょうだい」

「そっちの都合なんて知りませんけど」

「もう、減らず口ばかり……なら、こうしましょう」

「どうしましょう?」

「かずやは慰謝料二百万って言ったのよね。お母さんは月に百万上乗せって言ってましたね。そのうち百万だけでいいわ。百万だけでいいから、先に払ってちょうだい」

「これは『百万で手を打つ』って意味ですか?」

「じゃなくて、百万だけ先払いしろってことよ。その代わり、残りは少しだけ待ってあげる」

「却下です。なら、五十でどうですか?」

「これ以上は無理よ。ここは地ですか? ここまで譲歩してるのに、なんでダメなのよ」

「なんで? それはこっちのセリフですが。私はあんたのせいで傷つきました。繊細な私が心に傷を負ったのよ。慰謝料を払うべきでしょ?」

「証拠もなしに、本気で慰謝料が取れると思ってたんですか? 慰謝料というのはお小遣いじゃないんですよ。駄々をこねればもらえるってもんじゃありません」

「なんですって?」

「というか、そんなに繊細なら『要注意』の札くらい首から下げておいてください」

「冗談じゃないわ」

「というかですね。慰謝料を払うのは、あなたたちの方ですよ」

翌日。

「昨日の話は母さんから聞いた。その上で、もうこっちも手段は選んでられない」

「選んでられない? 最初から選んでないように見えるけど」

「噂を流すというのは、今まではただの脅しだった。だが、この状況で慰謝料が払われないなら、その手段を使うしかない」

「は? どういうことだ?」

「あなたが不倫して、しかも相手を妊娠させていたから」

「何を言ってるんだ? そんなこと俺はしてない」

「最初の違和感は、あなたと離婚についてLINEした時よ」

「本当に何を言ってるんだ? 違和感?」

「あの時のLINEのどこに違和感があったって? 私は『後輩が退職する』としか言ってないのに、私の企画書に被った後輩、りんこが退職するんだって、なんで分かったの?」

「それは……なんとなく言っただけだ」

「あれだけならそうでしょうね。実際、我が家でもよく名前を出してた後輩だし。だったら……次の違和感は、りんこが体調不良じゃないかと言った時の、あなたの過剰な反応」

「人の体調の噂なんて良くない。ましてや同じ職場の同僚相手なら、しない方がいいだろう」

「それはごもっとも。でもあなたが過剰に反応したのは、私が『何か気づいてる様子の同僚がいた』と言った後だったわよね」

「それが何だ?」

「つまり、何か不都合なことがあったっていうことじゃない」

「馬鹿馬鹿しい。そんなことで俺が不倫してるだの言ってるのか?」

「違和感はまだあるわ。次は急な慰謝料の請求よ」

「請求できると気づいたから言っただけだ」

「いいえ。あなたは請求できると思ってない。勢いで行けると思ってる。お母さんとは違ってね」

「なんでそう思うんだ?」

「無茶な手段で請求しても払われない。そう思ってるから、柄にもなく脅してきたんでしょ。前にも指摘したけど、あなたはバカじゃない。こんな無茶な方法で慰謝料を請求して、それこそ会社で噂が立てばどうなるか理解してる」

「それは……聞いたよ。二百万と今後の職場での立場、どう考えても釣り合わない」

「それでもやったのは、直近でまとまったお金が必要だから。違う?」

「名探偵気取りか。何が言いたい? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」

「あなたは私と離婚したりんこと再婚する気だった。大方、妊娠したことでお母さんが乗り気になったんでしょうけど、それができなくなった」

「なんでそう思う?」

「再婚できるなら、別に私に慰謝料を請求する必要はないわ。りんこが退職したのは、再婚のためよね。不倫して妊娠したのがバレれば面倒だから」

「やっぱり隠し通せるわけないよな」

「認めるのね」

「お前のことだ。もう、ある程度の裏は取ってあるんだろう。体調不良の原因に気づいてた同僚から話は聞いた。りんこから相談されてたそうだよ。妊娠した時の体調不良の隠し方を」

「お前には悪かったと思ってる。けど、こっちにも事情があったんだ」

「不倫するのに事情もクソもないでしょ。まあ、他にも気になる点はまだあるけど、それはあなたに聞くことじゃないわね」

「母さんか」

「理解が早くて助かるわ。じゃあ、これからどうされるかも分かるわよね」

「慰謝料を請求するって話だろ。いくらだ?」

「三百万」

「三百万? 不倫の相場よりもだいぶ高いだろう」

「ただの不倫じゃないからでしょ。不倫相手が妊娠してる。しかも同じ職場の後輩がね」

「くそ……こっちはそんなことに金を使ってる場合じゃないのに」

「ああ、それとなんだよ」

「あなた、首ね」

翌日。

「あんたのせいよ。あんたのせいで、私たちはもう終わりよ」

「あの、せっかくの休日に何ですか? 元嫁と元姑って、こんな頻繁に連絡を取り合わないでしょう」

「うるさいわね。あんたがさっさと慰謝料を払ってたら、こんなことにはならなかったんだから」

「そうよ」

「まず認識が間違ってます。軽く整理しますけど、元を辿ればかずやが不倫しなければ、そして何よりお母さんが余計なことをしなければ、ここまでこじれることもなかったと思いますよ」

「え? 一体何のことかしら?」

「紛失したUSB。あれ、盗んだの、お母さんですよね?」

「は? 何を言ってるの? そんなわけ……」

「細かいことまでは分かりませんが、お母さんはかずやりんこが不倫してることに気づいた。そしていつまでも子供ができない私よりも、若いりんこと結婚した方が孫ができると思った。仮にそうだとして、USBを盗んだって話とどう関係するのよ」

「りんこは出世のために、お母さんを利用した。私の企画書を奪うために、USBを盗ませて。もちろんお母さんは、私が邪魔なので喜んで力を貸したことでしょうね」

「言いがかりよ。そんなの事実無根だわ」

「でも、問題が起きた」

「問題って何よ?」

「りんこの妊娠ですよ。お母さんは喜んだでしょうし、かずやも再婚を決めた。でもりんこはそうじゃなかった」

「妄想も大概にしなさい」

「その妄想通りだと、ご自分で証明してますが」

「どういうこと?」

「私は会社に仕事を持ち帰る許可をもらってました。ですがUSBが盗まれ、その企画が通った。情報漏洩とまではいかなくても、大問題です」

「そんなの、あんたの管理責任じゃない」

「本来ならそうですね。けど、それが盗まれたのであれば話が変わります。お母さんとかずやは、そのことでりんこに脅されてたのでは?」

「何を根拠に?」

「りんこに金銭を要求され、私への慰謝料請求で払おうとした。だから、支払いを早くしろと急いでたのでは? 『百万でも五十万でもいいから先に払え』って言ってたのが、何よりの証拠ですよ」

「そうよ……あの女に脅されてたの。あいつ、金を払わないと会社に全部言うって」

「そうは言っても、かずやなら跳ね除けられそうなものですが」

「ああ、子供の養育権が問題だったんですね」

「え? 何? どういうこと?」

「お母さんに配慮したんでしょう。孫を欲しがってたお母さんのために、養育権は取ろうと。だから、跳ね除けられない要求を受けた」

「そうそう、そうよ。あの女、子供の養育権も盾にしてたのよ」

「まあでも安心してください。りんこはもうそんなことできませんから」

「え?」

「子供の養育権は知りませんが、りんこはうちの会社から訴えられてます。私の方から今回の件を報告しましたので」

「そうなの?」

「じゃあ、もうあの女に怯えなくていいのね? 金を用意する必要もないってこと?」

「そうですよ。その代わり、お母さんも訴えられますけど」

「は? 訴えられるって、誰に?」

「うちの会社ですけど」

「はあ? なんで私が?」

「USBを盗みましたよね。この事実が原因で、あの企画は凍結となりました。結果として、我が社には一千万程度の損害が出てます」

「なんでよ。元々はあんたの企画だったんでしょ。ならあんたが後を引き継ぐなりすれば……」

「社会って、そんなに簡単じゃないんですよ。社内で起こったこととはいえ、盗まれた企画書です。そんな企画が通ったとバレれば、信用問題になります。だから企画は取りやめ」

「その損害を私に請求するって?」

「りんことお母さんにですね。一千万の半額ずつ、五百万がそれぞれ請求されます」

「そんな……私は知らないわよ。あの女に言われてやったことだから」

「その手の言い訳が通じるのは、子供までですよ」

「あんた、仮にも一度は私の娘だったでしょ」

「義理のですけど」

「なら、こんなことはやめさせて。お願いよ。今までのことだったら謝るから」

「お母さん、私は『子供を産むための機械』なんですよね? そういったことも謝るから。すみません」

「私、人の感情とやらには疎いんで。なんせ機械ですから。情に訴えられても理解できないんですよ」

数週間後。

「なあ、あやか。頼む、母さんを止めてくれ」

「止めるって、何を?」

「母さんが会社から損害賠償を請求されただろう。りんこと一緒にね。それで、りんこがその金を取り返そうとして……」

「もしかして、あなた、訴えてるの? 不倫の事実を知らなかった。これはプライバシーの侵害だって、慰謝料を要求してる?」

「最後まで汚いことで。というか、そんなの無理筋でしょ」

「無理筋ではある。普通にやれば、こっちは負けない。けど、母さんが狂犬になってて……」

「もしかして、裁判でも始めた?」

「そうなんだよ。ただでさえ、母さんは損害賠償で五百万、俺はお前からの慰謝料で三百万請求されてるのに、こんな風に裁判なんてしたら、金がいくらあっても足りない。裁判をするのだってただじゃないし、弁護士費用だって払い続けてる。俺は今、仕事も首になってるんだぞ」

「身内が盗みに加担してたんだもんね。そりゃ首ですわ」

「お前が会社に報告したせいだろうが」

「逆に、私が報告しない理由がないでしょ」

「そうだけど……とにかく、りんこと母さんで潰し合いだ。二人とも、もう勝ち負けとかじゃなくて意地になってるんだ。お前の方から、なんとか言い聞かせてくれ」

「いや、私が言っても逆効果でしょう。そもそも、なんで私が助けなきゃいけないの?」

「なんでって? 元を辿れば、お前が色々と暴露したせいだろうが」

「暴露されるようなことをしてたのは、誰?」

「俺たちだけど……でも」

「『でもでも』って何? 私はね、かずや。あなたとの結婚生活、意外と気に入ってたのよ。前に言ったと思うけど、多少の不満はあっても、離婚するほどじゃなかった」

「それは聞いた」

「今の仕事だって、学生の頃からの夢だったし。同じ会社で働くあなたと悩みを共有できるのも嬉しかった。二人ともそれなりに給料は高いし、裕福だったしね。だったら……」

「だったら?」

「あなたのせいで全部壊れた。私の生活を自分勝手な理由で壊しといて、自分が困ったら『お前のせいだ。助けろ』? あなたのせいで失った私の生活は、そっちは無視? それ、虫が良すぎるっていうレベルじゃないわよね」

「俺は……」

「あなたに助けを求める資格なんてないわ。私はつまんない女で、愛もないけどね。あなたは、そんな女にすら見捨てられたつまんない男よ」

「俺は、これからどうしたらいいんだ?」

「知らないわよ、そんなこと。ただ、あなたみたいな男には二度と関わりたくない。それが、あなたの言う『つまんない女』の答えです」

その後、お母さんとりんこの、無駄な意地を張った裁判合戦は続行した。どちらもかずやの意見などに一切耳を貸さず、泥沼の裁判を、お互いの資金が尽きるまで戦い続けた。それはもはや裁判というよりも、ただの喧嘩だ。自分の正当性を主張し、相手の意見には一切耳を貸さない。どちらも金銭的な事情から辞められないのは理解できるが、女の悪いところを煮詰めたような争いは、見ていて胸焼けがするほどだった。それを止めることもできず、見ていることしかできないかずやも、同じように身を焦がしていた。

結局のところ、かずやもお母さんもりんこも、三人が三人とも欲をかいた結果、墓穴を掘ってこの醜態を生み出した。私と離婚しただけで満足していればよかった。弱みを握ったからと金銭を要求せず、素直に再婚しておけばよかった。孫が欲しいからと、不倫相手を担ぎ上げるような真似をしなければよかった。ああしていれば、こうしていれば……たらればにはなるが、今回の件はまさにそういう話だった。

今の選択は正しいのか。こっちの選択ならどうなるのか。今回の件を経て、私は一度立ち止まって自分を見返すことの大切さを、改めて理解したように思う。これから先、私にもいろいろな選択があるだろう。たらればにすがらず、自分が納得のいく選択をしていきたい。

Thumbnail