「社長、タクシーから降りたら、すぐに正談の資料を作ってください。1秒でも遅れたら首ですからね」
シンガポール出張中の玉森は、部長の柏からまたしても理不尽な要求を突きつけられた。56歳で中途入社した自分は、部長にとって格好の標的だった。何かにつけて嫌がらせを受け、彼はすっかり消耗しきっていた。だが、家族を守るためには耐えるしかない。妻の雪乃は病に倒れ、長期間の入院を余儀なくされていた。治療費も、大学生の娘の学費も、すべて彼の肩にのしかかっている。悲観に浸っている暇はなかった。
それでも、この出張は希望だった。社長の宮ノ寺誠一郎の海外出張に、アテンドとして同行することになったのだ。宮ノ寺は温厚な人物で、社員からの信頼も厚い。玉森に対しても誠実に接してくれる。初めての社長同行という大役に、彼は入念に準備を進めた。資料の確認、スケジュールの調整、ホテルの予約。すべてを完璧にこなすつもりだった。
だが、その話を聞きつけた柏が、すぐに玉森を呼び出した。
「お前が社長の出張に同行するんだってな」
「はい。そのように指示をいただきました」
柏は嘲笑うように鼻で笑った。
「お前みたいな中途のおっさんが、社長と一緒に海外だって? 身の程知らずもいいところだ。まあ、せいぜい荷物持ちでもしてこいよ」
玉森は何も言い返さず、ただ深く頭を下げた。言い返せば、立場はもっと悪くなる。それはわかりきっていた。この嫌がらせにも、いつか終わりが来ると信じるしかなかった。
出張初日、シンガポールに到着した二人を、マリーナベイサンズの壮大な景色が出迎えた。
「いい景色ですね」
「ああ。何度来ても感動するよ」
宮ノ寺は穏やかに微笑んだ。ホテルにチェックインした後、二人は翌日の視察に向けて資料の最終確認を行った。そして迎えた二日目。現地企業との打ち合わせのため、約束していた会議室に玉森が資料を準備していると、CEOのケニーが姿を現した。
「宮ノ寺さん。お元気そうだね」
宮ノ寺の英語は流暢で、ビジネス英語も完璧だった。自己紹介が終わると、玉森は用意していた資料を二人に配り、静かにそのやり取りを聞くことに徹した。その時、不意に柏の言葉が頭をよぎった。
「やはり自分は、ただの社長の付き添いでしかないのか」
だが、そんな彼の思いを察したかのように、宮ノ寺が声をかけた。
「玉森君、準備ありがとう。スムーズに進めそうだ」
「あ、いえ。これぐらい、どうってことないです」
その言葉に、玉森の気持ちは少しだけ軽くなった。
出張三日目。午後三時過ぎ、ホテルのラウンジで宮ノ寺と打ち合わせをしていると、玉森のスマートフォンが振動した。画面には柏からの着信が表示されている。一瞬躊躇したが、仕事の電話かもしれないと思い、宮ノ寺に断りを入れて席を外した。
「もしもし。お疲れ様です。玉森です」
「おい、玉森。今すぐ日本に戻って、明日の相談資料を作れ。10分以内に空港に向かうんだ」
玉森は思わず耳を疑った。
「柏部長、申し訳ございませんが、それはできません。こちらにもまだ仕事が残っています」
「何言ってんだ。お前の都合なんて知らねえよ。お前の仕事は、俺の指示に従うことだろうが」
理不尽極まりない要求だった。だが柏は、それだけでは済まなかった。
「中途の分際で口答えするなよ。そんな暇があったら即行動しろ。日本に着いたら10分で会社に戻れ。正談の資料を作れ。1秒でも遅れたら首だ」
そう言い放って、柏は一方的に電話を切った。玉森は深く息を吐き、腹を立てる代わりに気持ちを切り替えた。聞く必要はない。そう自分に言い聞かせ、社長が待つラウンジへ戻っていった。
その夜、スマホを開くと、柏からのメッセージが大量に届いていた。嫌な予感を押し殺して開いてみると、そこには信じられない内容が並んでいた。
「お前みたいな老害は使えない」
「56歳で中途。人生の敗北者だろう」
「学費も払えないクソ親父」
「前の会社が潰れたのも、お前が無能すぎたからじゃないのか」
さらに柏は、玉森の家族構成や経済状況まで調べ上げていた。
「お前の娘、来年就活らしいな。かわいそうに。無能な父親を持って」
その上、柏は社内グループチャットにも投稿していた。
「玉森は仕事をサボって海外旅行を楽しんでいるみたいだぞ」
「56歳の思い出作りだってさ。いい身分だよな」
「中途のくせに社長に取り入って、会社の金で観光かよ」
「こういう奴がいるから、真面目に働いてる俺たちが損するんだ」
柏の取り巻きたちも、それに同調して囃し立てる。メッセージは寝る前になっても止まらなかった。
「お前、明日の資料作成どうすんだよ。できないなら、給料から差し引いておくからな」
玉森は通知を切り、メッセージを見ないように努めた。だが、一度見てしまった内容が頭の中で渦巻き、その夜は一睡もできなかった。
翌朝、疲労が滲む表情で朝食に同席すると、宮ノ寺が驚いた顔をした。
「顔色が悪いけど、昨夜はよく眠れなかったのか」
「はい。でも、問題ありません」
心配させまいと明るく振る舞ったが、その日の午後には帰国が控えていた。柏が待っているのかと思うと、一気に不安になった。
午前中の最終打ち合わせは無事に終わり、宮ノ寺とケニーは固く握手を交わした。ケニーは玉森にも握手を求めてきた。
「玉森さん、あなたのサポート、最高でしたよ」
「あ、ありがとうございます」
「本当だよ。今回、玉森君がいてくれて助かった」
宮ノ寺も満足そうに頷いた。わざわざ自分のために労いの言葉をかけてくれる姿勢に、玉森はまんざらでもない気持ちで後頭部を掻いた。
その後の帰国便。空港に到着し、タクシーを降りたその瞬間だった。先に降りた宮ノ寺のスーツのポケットから、スマートフォンが玉森の目の前に転がり落ちた。
「社長、スマートフォンを落としましたよ」
玉森はそれを拾い、続けようとした言葉がそこで途切れた。宮ノ寺のスマートフォンは、自分のものとほぼ同機種で、ケースまで似ていたのだ。もし黙って返してしまえば、会社に戻れば柏の嫌がらせが待っている。だが、今スマホを入れ替えてしまえば、柏のメッセージに社長が気づいてくれるかもしれない。その考えが、悪魔の囁きのように頭をよぎった。
「玉森君?」
振り返らずに待っている宮ノ寺が、不審に思って声をかけた。その声で我に返った玉森は、自分のスーツのポケットからスマホを取り出すと、宮ノ寺のスマホと入れ替え、社長に差し出した。
「社長、スマートフォンを落としましたよ」
「おお、すまない」
宮ノ寺はそれを何気なく受け取り、確認することなくポケットにしまった。玉森は最悪の罪悪感を胸に抱きながら、彼の後を追いかけた。どうか気づいてほしい。それだけを願いながら。
七時間後、二人は無事に帰国した。会社に戻ると、真っ先に社長へ飛んでいったのは柏だった。
「社長、お疲れ様でございます。帰国を待ちわびておりました。あの、玉森の件でご報告がございます」
玉森の心臓が激しく打ち始めた。
「社長との出張中に、業務を放棄しまして。重要な相談資料を作成しなかったため、弊社に大きな損害を与える可能性がございます」
「どういうことだ?」
宮ノ寺の表情が険しくなる。それを自分への信頼と受け取った柏は、さらに言葉を続けた。
「実は出張前に提出する約束だったのです。結局、間に合わず。視察の際の書類は、全部私が用意しました。あの男は、仕事中にネットサーフィンばかりしていたんですよ。もううんざりでした」
全てが嘘だった。玉森は思わず声を上げそうになったが、必死に耐えた。すると、その時だった。宮ノ寺が静かな、しかし鋭い口調で言い放った。
「それより、君の方が問題だろう。玉森君に送ったメッセージ、全て見せてもらったぞ」
「え……」
柏の顔が、見る見るうちに蒼白になっていく。実は、宮ノ寺はシンガポールの空港で、スマホが自分のものではないことに気づいていた。運悪く偶然通知を見てしまい、柏が玉森に送ったメッセージを読んでしまったのだ。そして宮ノ寺は全ての事情を玉森から聞き出し、入れ替えていた携帯もお互い元に戻していた。
「こ、これは誤解です! 実はですね、私のアカウントが乗っ取られていたんです。私じゃありません」
柏は必死に言い逃れを図った。しかし、宮ノ寺は続けた。
「じゃあ、こうしよう。実は私も、君の行動は以前から気になっていた。以前、君から嫌がらせを受けた社員が報告してきたことがあった。だが証拠がなくて、見逃さざるを得なかった」
柏は言葉を失った。その場にいた他の社員たちも、動揺を隠せない。柏の取り巻きたちにも動揺が広がった。グループチャットの内容も、どこかで見られてしまったかもしれない。
「な、何勝手に見せてんだよ、玉森。ふざけんなよ」
柏は開き直って玉森に怒鳴りつけた。だが、宮ノ寺が間に入った。
「よさないか。彼は何も悪くない。悪いのは、君だぞ。それに君は、嫌がらせに飽き足らず、不正取引までしていたそうじゃないか」
「な、何を……」
柏の顔から、乾いた笑いが漏れた。
「君のことが気になってな。私からの依頼で君を調査していた人事部長から、先ほど連絡があったんだ。君の不正取引について」
その場にいた全員が息をのんだ。玉森も驚きを隠せなかった。まさか自分が、嫌がらせを止めてもらいたい一心でスマホを入れ替えたばかりに、こんなことになるとは思ってもみなかった。
「詳しいことは会議室で話そう。人事部長も呼んでおいた。玉森君も来なさい」
「は、はい」
玉森は慌てて返事をした。柏は取り乱しながら何か言おうとしたが、宮ノ寺は構わず会議室へ歩き出していった。
会議室に入ると、すでに人事部長の橋が待っていた。
「お待ちしておりました。社長」
「橋部長、報告を受けた柏君の不正取引について説明してもらえるか」
「かしこまりました」
橋は書類を取り出すと、テーブルの上に差し出した。
「こちらが、営業部の柏部長が不正取引を行った契約書です。実際の契約金額と、社長に報告されている金額が違います」
「ち、違う! それは玉森のミスだ。中途のこいつが、間違った金額を記入したんだ」
柏は証拠を見せられても、自分がしたことだと認めようとせず、玉森になすりつけようとした。だが、玉森は首を振った。
「そんなことはしませんよ。取引先に確認すれば、すぐにわかることです」
「いや、そもそも、お前が契約書自体を間違えたんだ」
「三年分の契約書、全て同じパターンで差額が発生しています。これは玉森君が入社する前から続いていたようだ。総額で約二千万円の横領が確認できますね」
宮ノ寺が呆れたように言った。もはや言い逃れはできなかった。柏はその場に崩れ落ちた。
「ち、父の介護費が、どうしても必要だったんです……」
涙を流しながら、弱々しく吐き出したその姿は、普段の高圧的な彼とはまるで別人だった。
玉森は再び驚きを隠せなかった。まさか柏にも、自分のような事情があったとは。妻の雪乃も長期入院をしている。自分もまた、家族を支える身だ。思い詰めてしまえば、彼のような道を選んでいたかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しさが胸をよぎった。
「君の家の事情は知っている。だが、だからと言って、横領を認めるわけにはいかない。しかるべき処分を受けるように」
そんな柏の反論は通じず、宮ノ寺はさらに続けた。
「それに、玉森君に送り付けたメッセージを見る限り、君は彼を誤解しているようだ。彼が今回の出張で何をしていたのか、本当に把握していたのかね」
「え? 荷物持ち……雑務では……」
宮ノ寺は首を振り、鞄からタブレットを取り出して操作した。画面には、シンガポールでの打ち合わせの様子が映し出されている。そこに、流暢な英語でケニーと話す玉森の姿があった。
技術的な専門用語を駆使しながら説明する玉森。製品の詳細なスペック、競合他社との比較、市場分析。全てを淀みなく、プロフェッショナルな対応で行っている。それを目にした柏は、驚きで目を見開いた。
「こ、これ、本当に玉森ですか……」
「ああ。彼は前職で外資系大手家電の営業部長をしていたんだ。グローバル市場を相手に、二十年以上最前線で成果を上げてきた」
画面には、玉森がケニーの質問に的確に答え、時には笑いを誘いながら、信頼関係を築いていく様子が映っている。
「今回の視察は、普段から丁寧な仕事を心がけている玉森君がいなければ成立しなかったよ。私の英語力では対応できない部分を、彼が全てフォローしてくれた」
「そんな……」
柏は言葉を失った。だが、さらに宮ノ寺は続ける。
「彼は視察の合間にも、現地の市場調査をしてくれた。小売店を回り、価格を調査し、消費者のインタビューまで行った。これがその分析レポートだ」
そこには、驚くほど詳細な市場分析が記されていた。
「君は彼の経歴を確認したのか? 実績を調べたか? おそらく何もせずに、中途だからと決めつけていただろう」
柏は頭を抱え、何も言い返せなかった。あの傲慢で高圧的な彼の姿は、もうどこにもなかった。
「すみません。本当にすみません……」
「とにかく、明日から君は出勤停止だ」
「お願いします! どうか首だけは! 父の介護が……!」
柏は宮ノ寺に土下座をした。しかし、状況は変わらなかった。
「これだけの証拠があるんだ。首だけでは済まない。横領の罪も覚悟してもらおう」
玉森はその姿を見て、胸が痛んだ。家族のために必死になる気持ちは、自分も同じだ。ただ、柏が同じことをしなかったのは、母の教えがあったからだ。家族を大切にしなさい。そう教えてくれた母がいたからこそ、自分は間違った道を選ばずに済んだ。柏は家族を守ろうとしたが、その行為が全てを裏切る結果になってしまった。
翌日、柏は正式に解雇となった。そして、柏に加担していた取り巻きたちも、それぞれ異動となり、厳しい上司の下で働かされていると聞いた。玉森は願った。二度と同じ過ちを犯さないように、と。
半年後。柏は再就職した企業で、外注の社員として真面目に働いていた。朝は誰よりも早く出社し、床を掃除する。コピーも、お茶汲みも、文句ひとつ言わずにこなしていた。
「柏さん、この荷物、ロビーの入り口に持っていってもらえる?」
「はい、承知しました」
柏は荷物を台車に乗せ、エレベーターホールへ向かった。以前の彼なら、こんな雑務はすべて部下に押し付けていた。今は違う。与えられた仕事は、何であろうとやる。父の介護費を稼ぐためにも、そうするしかなかった。
使い終わった台車を片付けようとすると、見覚えのある人物が視界に入った。
「え、まさか……」
それはかつて、柏が退職に追い込んだ中途社員の佐々木だった。だが柏は首を振った。見間違いだ。そう自分に言い聞かせ、エレベーターに乗り込もうとした。だが、佐々木がロビーから出ていくのが見え、彼は思わず後を追いかけた。
「佐々木君」
「え?」
声をかけられた佐々木は、驚いて振り返った。その顔は、見間違いではなく、確かに佐々木本人だった。
「佐々木君。あの時は……本当に申し訳ございませんでした」
柏は震える足で彼に近づき、深く頭を下げた。佐々木は呆然としていた。あの嫌がらせの記憶が、トラウマとして残っている。高圧的で、傲慢で、理不尽な人。それが柏の印象だった。今、目の前にいる柏は、謝罪し、頭まで下げている。
「私のせいで、あなたは会社を辞めざるを得なくなった。今更許されるとは思っていません。ですが、謝らせてください。私が間違っていました」
柏の目から涙が溢れ、時々言葉を詰まらせながらも続けた。自分が同じ立場になり、ようやく自分がしてきた過ちに気づいたのだ。
「顔を上げてください」
静かに告げる佐々木の言葉に、柏は恐る恐る顔を上げた。責められる覚悟はできていた。しかし、佐々木の言葉は意外なものだった。
「謝ってくださっただけで十分です。俺はもう、営業マンとして楽しく仕事をしています。今日も、一件契約が決まったところです」
佐々木の瞳には、過去への未練はなかった。彼は軽く頭を下げ、そのまま立ち去ろうとした。
「それでは、俺はこれで。お元気で」
去っていく佐々木の背中を、柏は静かに見送った。
その夜、柏は父の介護施設を訪れた。
「隆二、お前、最近元気そうだな」
「ああ、父さん。転職先の人たちもいい人で、楽しく働いてるよ」
父は安心したように笑った。しかし、同時に申し訳なさそうな顔をした。
「私が間違っておったな」
「え?」
「学歴だなんだと、お前に押し付けて。人として大切なものを教えられなかった。すまぬな」
父の目には、涙が滲んでいた。あの厳格な父が、そう言うとは思ってもみなかった。柏は驚いて目を見開いた。父は柏の表情や話し方が柔らかくなったこと、そして豆だらけの手を見て、職場が変わったことを勘づいていたのだ。きっと毎日、重い荷物を持ち上げているのだ。だが、笑顔で働いている息子がいる。それは問い詰めることなどできず、ただそっと見守っていた。
「お前からも、大切なことを学んだよ。言うのが遅くなったが、今のお前は、わしの誇りだ」
「父さん……」
柏は父と同じように目を潤ませ、その手をぎゅっと握りしめた。
「ありがとう。俺、頑張るから。今からでも、遅くないよね?」
「ああ、一緒に頑張ろう」
父は微笑み、柏の肩を抱いた。柏も涙を流しながら、父の肩を抱きしめ返した。
その頃、玉森は社長室に呼ばれていた。
「実は今回の出張で、大きな契約が決まってね。ケニーが君を指名してきたんだ。『玉森さんのような誠実で優秀な人と仕事がしたい』とな」
宮ノ寺は嬉しそうに笑いながら、さらに言葉を続けた。
「君を、海外部の部長に任命したい」
「ぶ、部長ですか? 私が? もう56歳で、貢献できる期間は長くないですよ」
「年齢は関係ない。実績と人間性で判断した結果だ。給与も前職以上に引き上げる。奥さんの治療費も、娘さんの学費も、心配いらないよ」
聞いていて、目頭が熱くなった。まさか自分に、こんな話が来るとは。
「うちの会社も、能力と人柄を正当に評価するようになったと思っている。それだけ、玉森君には期待しているということだ」
「社長、ありがとうございます。精一杯、努めさせていただきます」
その夜、玉森は入院している妻の雪乃に電話をかけた。
「雪乃、調子はどう?」
「うん。最近ずっと調子がいいの。あなたの声を聞くのも、久しぶりよね」
「ああ。実は今日、社長から部長にしてもらえることになってね。給料も大幅に上がるらしいんだ」
「本当? よかった……」
「ほら、あなたからも祝ってあげて。お父さん、昇進したんだって」
電話の向こうで、娘の沙希が代わって声をかけた。
「そうなの? お父さん、昇進おめでとう」
「おお、お母さんの見舞いに来てたのか。ありがとう。沙希も、就活頑張れよ」
「うん!」
娘の声を聞いて、玉森の顔にも自然と笑顔が浮かんだ。
それから一年後。玉森は海外営業部長として、会社の業績に大きく貢献していた。雪乃の病状も最先端治療のおかげで安定し、無事に退院を果たした。沙希も希望の企業に就職が決まり、一生懸命働いている。
家族それぞれが新しい日々を歩み出し、ようやく穏やかな時間が戻ってきた。あのシンガポールの出来事があったからこそ、今の幸せを噛みしめられるのだろう。玉森は社長室の窓から遠くの空を見上げ、小さく息を吐いた。
