「みほ、明日休みだろ?ケ太たちと温泉旅行に行くことになった。しばらく帰らないから、俺の飯はなしでいいぞ」
夕食の席で、夫の大輝が何気なくそう言った。箸を持つ私の手が止まる。
「え、ちょっと待って。それ本気で言ってるの?」
「いや、急だから怒るよな。ごめん、ごめん。お土産いっぱい買ってくるからさ」
「そういうことじゃなくて。明日が何の日か分かってる?愛花の入園式なのよ。入園式の後はお祝いにレストランに行くって約束でしょ?まさか忘れてるわけ?」
「ああ、そういえば入園式だったっけ?忘れてた」
実の娘の入園式を忘れていた。その事実に、私は怒りを通り越して呆れてしまった。
「はあ。実の娘の入園式でしょ。断りなさいよ」
「もう予約も取ってくれてて、キャンセル料がかかるんだよ。ドタキャンなんて非常識なことできるわけないだろ」
「今まさに娘の入園式をドタキャンしようとしてるくせに、何言ってるのよ」
「入園式なんて母親一人で十分だろう。俺もお荷物だし。それにユアちゃんとの時間を邪魔されたくないから、愛花は連れて行かねえぞ」
「自分の娘よりメイを優先するわけ?」
「そりゃ娘よりもメイの方が可愛いし、温泉に連れて行くわ。愛花は俺に全然懐いてくれない。なら俺はいなくてもいいし、そっちは一人で平気だろ。メイこそが俺の家族だし」
私は箸を置いた。
「あなた、言っていいことと悪いことがあるでしょう。自分の娘とよその娘さんを比べてけなすなんて」
「けなしてないよ。事実として俺は嫌われてるじゃん」
「あなたが露骨にユアちゃんを可愛がるからでしょ」
「とにかく俺は入園式には行かねえから、そっちで頑張れ」
「信じられない。もう何を言っても無駄なのね」
「キャンセルできないんだし、行く方がいいだろう。じゃあ行ってらっしゃい」
翌日、私は一人で愛花の入園式に向かった。式の最中、スマホが何度も震えた。温泉旅行の楽しそうな写真の数々。大輝とユアちゃんが手をつないで歩く写真、抱きしめている写真。最後にメッセージが届いた。
「おい、みほ、こっちは楽しくやってるぞ。俺も写真送ってんだからさ。お前も入園式の写真送ってくれよ」
写真を送れですって。自分からドタキャンしたくせに。
「仕方なかったんだって。でもほら、こっちは楽しんでるぞ。写真見ただろ?」
「ええ、見たわよ。大量の温泉旅行写真をね。何よこれ、気持ち悪い。ユアちゃんを抱きしめたり、手をつないで歩いたり。まあ、それはまだ百歩譲って親の許可があればいいけど、まだ小学生の子に高額なお土産を買ってあげるなんて」
「あのお土産を見てくれ。キラキラしてて可愛いから欲しいって、ユアちゃんが聞いてきたんだ。結構したけど、ユアちゃん超喜んでくれたんだぜ。やっぱこの子が一番可愛いわ」
「自分の娘は可愛くないわけ?愛花は泣いてたのよ。みんなパパもママもいるのに、どうして私だけママだけなのって」
「だって愛花なんかと違って、ユアちゃんは素直でいい子なんだよ」
「それは言いすぎって言うのよ」
「おい、そんな言い方ないだろ。人様の娘に失礼だぞ」
「自分の娘に失礼なことしてるくせに、何なのよ、あなた。本当にユアちゃんのことになったら話が通じないし。おかしいわよ」
「子供はみんな可愛いだろ。自分の子供が一番可愛いって言うけどさ、一生懸命育てても懐かないってなったら話は別だって」
「育ててる?あなたは育児なんてほとんど参加しなかったじゃない。仕事が忙しいって、一番大変な時期にほったらかして、家で寝てばかり。そういうのを子供は見てるのよ」
「そんな小さな時のこと覚えてるわけねえじゃん。まあいいや。俺はこれから温泉でビールを楽しむんだ。それじゃあまた後でな。お前は式典頑張れ」
翌日、大輝が温泉から帰ってきた。私は顔も合わせなかった。帰ってきたのに無視されるのが気に入らないのか、大輝は不機嫌そうに話しかけてくる。
「おい、みほ、帰ってきたのに無視かよ。話しかけても聞こえないふりしやがって」
「私たちは家族じゃないんでしょ。それなら挨拶する義理もないわ」
「いや、そんなこと言ってねえじゃん」
「態度でそれを示したのよ。父親が参加するべき入園式より、メイとの旅行を優先したなら、父親としての役目を放棄したってことでしょ」
「ちょっと話が飛躍しすぎてるって。高が入園式に行かなかっただけで」
「高が?」
「そう、そういう認識なのなら、話すことはないわ」
「おい、待てよ。ふざけやがって。せっかくお土産も買ってきたのに」
翌朝、キッチンに立つと、大輝の朝食の分だけがなかった。洗濯物も大輝の分だけが戻ってきていない。
「どうなってるんだよ。朝食は俺の分だけないし、俺の洗濯物だけ戻ってないし。おかげで服がない。しかもスーツも無くて、会社で恥をかいただろう。なんでこんな嫌がらせするんだよ」
「嫌がらせじゃなくて、関わらないだけよ」
「まだすねてんのかよ。俺は家族じゃないとか、そんな言葉言ってないだろ」
「メイこそが俺の家族。覚えてないの?」
「あ、それはメイが家族なのよね。私たちじゃなくて。なら私たちは他人よ。その証拠に、あなたは稼いだお金をユアちゃんのために使ってる。本来大事にすべき妻と子供よりもね。ここまで態度でメイの方が優先ですって言われたら、家族扱いされてもね」
「それはユアちゃんは今いろいろお金がかかるんだよ」
「お金がかかるのは愛花も同じよ。今じゃないでしょう」
「その金は俺個人の金で出してるんだから文句言うな。俺が稼いだ金だし」
「結婚した以上、お金は遺産以外は全て夫婦共通の財産よ。それに、あなたがユアちゃんのために出したお金は、ユアちゃんのために使われてないわよ」
大輝が固まった。私は続けた。
「あなたが定期的に振り込みをしていることは知ってたわ。実は前からあなたの行動が気になってて、でも確信が持てなかったから、あえて何も言わずに様子を見てたの。どこまで図々しくなるか試してたのよ」
「ユアちゃんのために使われてないって?健太がそんなことするわけない。俺を騙して金を取るって、そんなの詐欺じゃねえか」
「だから証拠が必要だったの。あなたが信じられるような決定的な証拠をね。あなた、金づるにされてるだけよ」
「そんな言い方ないだろ。俺は対等に支援してるだけだ。その証拠に、今回の旅費は向こうが出してくれたぞ」
「え?ならその時にお金の催促はされなかった?ユアちゃんのために支援してくれとか、言われなかったの?」
「それは……」
「数万円の旅費を肩代わりして、それ以上の支援を求めてきて、何が対等よ。あなた、バカじゃないの。現実を見なさいよ」
「でもユアちゃんのためなら仕方ないだろう」
「ユアちゃんの名前を出せばお金を貸してしまうから、カモにされてるのよ。あのね、さっきも言ったけど、そのお金、ほとんどユアちゃんに使われてないわよ」
「だから、何を証拠にそんな出鱈目を……」
「やっぱり知らないのね。ケ太さん、他にも三箇所から借金してるみたい。総額五百万円よ。あなたから借りたお金、ギャンブルに使ってたらしいわ」
「ギャンブルに?そんな、まさか」
「ユアちゃんの習い事代なんて嘘よ。あなたたちが旅行に行ってる間に、興信所に頼んで調べてもらったから。すぐにやばいところから金を借りてるって分かったわ。近所でも有名だったみたい。なんなら興信所の証拠写真を見せましょうか」
その頃、ケ太は職場で電話を受けていた。夫の弟からだ。
「ケ太さん、お疲れ様です。旅行から帰ってすぐで申し訳ないんですけど、大輝から二十万円貸してって相談されたんです。でもうちも家計が厳しくて。その件で直接お話しませんか?」
「え?ああ。いえ、そんな大金じゃないです。数万円だけって言ったのに」
「でも嫌ですよね。すみません。兄弟なもので、よくお金の貸し借りをしてて。でもお互い家庭を持ってるのに、配慮が足りませんでした」
「つまり、今まで大輝からお金を借りていたんですね」
「あ、はい。すみません。でもすぐに返してます」
「それはおかしいですね。旅行から帰ってきた大輝が寝てる間にスマホをチェックしました。その結果から、ざっくり計算して、今まで総額二百八十万円、援助してもらってますよね。全額返済していただけますか?請求書は後で送付しますが、先に内容だけ伝えますね」
「二百八十万?そんなに借りてないですって」
「振り込み履歴よ。嫌だな。LINEじゃあ多めに行ったり、冗談で一億円とかやり取りしてて、本当じゃないんですよ」
「誰がLINEのやり取りでざっと計算したと言ったのかしら?私が計算に使ったのは、大輝の通帳の数字なんだよね。同じ口座に何度も振り込まれてるわ。これ、あなたの口座よね。違うって言うなら、口座番号を教えてほしいんだけど」
ケ太は黙った。
「これはあなたの口座ですよ。確かに借りはあったけど、その振り込みは兄さんが勝手に援助してきただけで……」
「旅行中に弁護士さんに相談したら、貸してくれという文言があるので、明確な金銭貸借に該当するそうです。なら返済義務がありますよね」
「待ってください。二百八十万円なんて無理ですって」
「今まで散々お金を騙し取っていたんです。その言い訳は通じませんよ。と言っても、借金だらけのあなたでは返済は厳しいですし、実際お金は大輝が結婚前に貯めていたものから出されていた。私が強く言っても、お金を取り戻すのは難しいですね」
「う、ですよね。なら姉さんは黙っててくださいよ。これは俺たち兄弟の問題なんですから」
「その問題に私たち夫婦も巻き込まれてるの。もちろん大前提、大輝が一番悪い。でもだからと言って、あなたが百パーセント悪くないかと言われたら、そうじゃない。私たちの家庭をめちゃくちゃにしたあなたにも、報いは受けてもらうわ」
数日後、ケ太から私に電話がかかってきた。
「姉さん、一体何やったんですか?」
「何?」
「今まで大輝から借りた二百八十万円の件を、警察に相談しました。主人が弟に騙されているって相談したら、あれよあれよと色々話を聞かれて。それで分かったんですけど、あなた、過去にも友人にお金を借りて逃げたそうですね」
「な、なんでそれを……」
「被害者が被害届を出してたんですよ。あなた、賭け麻雀してますよね。それ違法ですから。警察も賭け麻雀を摘発したかったみたいで、本格的な調査が始まったみたいですよ」
「あんたが余計なことしたせいで、職場にもバレたんですよ」
「そりゃあなたの同僚にも賭け麻雀仲間がいないか調べるでしょ。こういうのはどんどんメンバーが増えていくものですし」
「いくら何でもやりすぎですって」
「娘の入園式を邪魔した報いです。どうですか?他人のせいで家庭が壊れる気持ちは。今、奥さんと随分喧嘩してるそうですね」
「そうだよ。警察とか職場とか巻き込まれて、俺の立場も危ういんですよ。どうしてくれるんですか?」
「どうもしないわ。自業自得でしょ。賭け事で身を滅ぼす人って、どうして人のせいにするのかしら。理解不能だわ」
その同じ頃、ケ太の職場で同僚に声を掛けられた。
「ケン太、さっきネットニュースでお前の勤め先が出てたんだ。職員が数人、賭け麻雀にはまってたって。お前、その中にいないよな?」
「うるさいんだよ、クソ兄貴。あんたのせいで全部台無しじゃないか」
「あ、まさかお前、本当に?」
「ああ、クソが。騙されやすくて、おだてられたらすぐに調子に乗るから、いい金づるだったのに」
「そんな、じゃあユアちゃんのための嘘だったのか?」
「嘘に決まってんだろ。あいつは習い事とかしてねえよ。家によく来てたくせに、ピアノの発表会の写真とかがないことに気づいてなかったの、本当受ける」
「俺を騙しやがって。俺は、メイとはいえ縁があるからユアちゃんを大事にしてたんだぞ」
「本当、兄さんってバカだよな。典型的すぎる。こんなバカのせいで俺の人生狂わされるとか、マジないわ」
「あ、あのさ、ユアって俺の子供じゃないんだよ。奥さんの連れ子だし」
「はあ。でも兄さんが勘違いして可愛がってくれるから、利用させてもらったんだ。今まで援助してくれてサンキュー。でももう用済みだから、連絡してくんな。あんたの嫁のせいでこっちは苦労してんだよ」
「嘘だろ?俺があんなに大切にしてたのに。ユアも『おじさん気持ち悪い』って言ってたぜ」
「なんでそれを今言うんだよ」
「俺はこれから警察を何とかしないといけないんだ。兄さんに構ってる暇なんてねえんだよ」
翌朝、私は夫の顔を見て言った。
「今日は随分ひどい顔をして職場に行ったわね。どうしたの?弟さんに何か言われたのかしら?」
「あいつから、切られたんだ。それだけだ」
「ユアちゃんが連れ子だって言われたんじゃないの」
「なんでお前がそれを知ってるんだよ」
「実は弟夫婦がお金を騙し取っていたって知って、腹が立って、最初は借金の証拠を集めるために色々調べてたの。そうしたら再婚って分かってね。それで分かったわ」
「お前、知ってて黙ってたのか?」
「言う必要ないでしょ。でもね、家庭を崩壊させておいて、向こうだけ家族のままっていうのもムカついたから。ついでにケ太君には、奥さんが浮気してること、ばらしといたわ」
「は?浮気?」
「そうよ。あの夫婦はね、片方は麻雀で借金、片方は浮気をしていて、関係は破綻してたの。でもお互いバレると離婚で慰謝料を請求されるから、必死に隠してたの。形だけね。今後はどちらが慰謝料を払うかで泥沼化するでしょうね。いい気味だわ」
「そんな、そんな大きな話になってたなんて」
「あなたたち兄弟って、変なところが似てるわね。お互い足を引っ張るところとか。それで、二つ家庭を崩壊させたこととか」
「二つ?うちと向こうの家庭よ」
「ど、どういう意味だよ」
「そのままの意味だけど、理解が難しい?離婚するって言ってるの」
「離婚?なんでだよ」
「こんなことしておいて、なんで離婚されないと思うわけ?頭、湧いてんの?離婚届にサインしてくれないなら、調停するから」
翌日、大輝が項垂れて私にすがってきた。
「頼む。もう限界なんだ。弟にも騙されて。その上、財産分与したら俺の金がほとんどなくなっちまう」
「そりゃあんなに貢いでたら、そうなるわよね」
「俺が悪かった。愛花のことをちゃんと愛してるって分かってくれよ。家族に戻してくれ」
「愛してる?入園式をサボって遊びに行ったあなたが、愛花を『ユアちゃんみたいに育ってくれればいいのに』って否定し続けたのは、どこの誰?」
「それは、でもみほだって我慢してくれてたじゃないか。我慢してるってことは、許してくれてるってことだろ」
「あなたって本当に単純ね。私が黙ってるのを、許してるって勘違いするなんて。私はあなたがどこまで調子に乗るか見てたのよ。期待を裏切らず、最低なところまで落ちてくれたわね」
「あ、二百八十万円も騙し取られて、娘を内妻にされて。そんなことを、ただ離婚して捨てるだけじゃ、この怒りは収まらなかったの」
「逆になんであなたは、ことの重大さに気づいてないわけ?」
「俺の個人のお金だったし、お前もとやかく言ってこなかったから」
「個人のお金?そのお金を娘のために使おうとは思わなかったわけ?それとも何?夫婦のお金には手をつけてないから、何とでもなると?残念だけど、財産分与したら半分はなくなるの。個人の貯金も尽きているあなたじゃ、ろうそく貯蓄にもならないでしょうね」
「そんなあなたが個人のお金をポンと軽く出していたのは、個人のお金がなくなっても、夫婦で稼いだお金で生活ができたから。その甘えもあったんでしょ?」
「違う。俺はそんなつもりは……」
「ならどうして離婚するってなって、真っ先に財産分与でお金がなくなる心配をしたのかしら。結局あなたは私たちを完全に見切っていたのに、離婚しなかったのは、できなかったから。経済的に離婚されて困るのは、あなただったものね」
「ごめん、みほ。本当に悪かった」
「もういいわ。遅いのよ。あなたが『メイこそが俺の家族』って言ってくれたおかげで、私も遠慮なく行動できるようになったの。これから大変よ。慰謝料は一括。養育費に関しては、愛花が成人するまで払い続けることになるから」
「そんな金ない。やめてくれ」
「実家にはもう話をしておいたから、誰もあなたの味方なんていない。これからは一人で頑張って生きてね。私たちは家族じゃないから」
「みほ、待ってくれよ」
「愛花と私の人生から消えて。さようなら」
その後、大輝は実家に戻るも、両親から「孫娘を泣かせるなんて」と責められ、居場所がなく、一人で生活しているようだ。ケ太夫婦とは完全に絶縁状態で、ユアちゃんにも会えず、職場でも「娘の入園式をサボって遊びに行った最低な父親」という評判が広まり、片身が狭い状況。一人暮らしのアパートで寂しく過ごす毎日の中で、そんな現状を何とかしようと愛花につきまとい、最終的には警察に通報され、接近禁止を言い渡された。
ケ太夫婦も最悪の末路をたどった。ケ太は逮捕。奥さんも浮気がバレて、ユアちゃんは施設へ。両親に利用され続けたユアちゃんも、今は親戚に大切に育てられ、幸せに暮らしているという。
一方、私と愛花は、二人だけの新しい生活で笑顔を取り戻し、今は静かに暮らしている。愛花も「ママと二人の方が楽しい」と元気を取り戻した。家族が家族となる理由は、法的な手続きだけでなく、愛情も必要だから。私は娘への愛情をしっかり伝え、家族として大切に育てていくつもりだ。それが母親としてできることだと思うから。
