夕方の商店街、焼きそばの香ばしい匂いが漂ってきた。音楽が流れる時計店の前で和服の女将がいつものように微笑んだ。
「おや、今日はおじいちゃんと一緒かい。偉いね」
「おばちゃん、こんにちは。今日はね、銀行なんだよ」
「あら、お金を下ろしに行くの? じゃあ、おばちゃんにも分けてくれない?」
「えへへ、だって、まだ僕のじゃないもん」
軽口を叩き合いながら、総一郎と孫の輪が手を繋いで銀行の自動ドアをくぐった。
金曜日の午前中、銀行のフロアはそれなりに混雑していた。総一郎は番号札を取ると、ソファに腰を下ろして順番を待つ。周囲には派手な客が多い。高級ブランドのバッグを抱えた女性、高いスーツを着た男。窓口では行員たちがテキパキと動いている。その中で、すり切れたジャンパーを着た老人と、その隣にちょこんと座る小さな孫娘の姿は、どうしても浮いていた。
窓口の若い男──名札には「坂木原匠」とある──が、同僚の女性と小声で話している。
「また来たよ、あの怪しい客。最近この手の詐欺に決まってるんだよな」
「でも、決めつけるのはよくないんじゃない?」
「藤堂さんは甘いんだよ。先月も隣の支店で高齢者が受け子に使われた事件があったばかりだろう。俺たちは銀行員としてそういう犯罪を絶対に見逃さない義務があるんだ」
「………。」
藤堂と読まれた女性行員は何も言えずに俯いた。
坂木原匠、32歳。今月の優秀行員に選ばれたエリートだ。机の上には小さなトロフィーが飾ってある。実は、坂木原には忘れられない過去があった。2年前、高齢者の不審な大口取引を見逃し、それが振り込め詐欺の被害だと後で発覚した。上司から厳しく叱責され、昇進も1年遅れた。
その経験が彼を過剰なまでに警戒させる。2度と同じ失敗はしない。怪しい客は絶対に排除する。それが銀行員としての正義だ。
「おじいちゃん、あの人たち、なんでこっち見てるの?」
「気にしなくていいよ。人はね、時々見た目で人を判断してしまうことがあるんだ。でも、それは間違いなんだよ」
「うーん、よくわかんないけど。おじいちゃんがそう言うなら、そうなんだね」
「そうだよ。よくわかったな、輪」
総一郎は目を細めて笑った。
「おじいちゃん、今日も卵焼き?」
「ああ、お前の好きなやつだよ」
八歳の孫娘が眠そうな目を擦りながらテーブルにつく。壁にかかった家族写真。そこには、まだ幼い娘を抱いた息子夫婦の笑顔が写っている。
「リンカ、おじいちゃんの卵焼き、世界で一番美味しいね」
「そうか。そう言ってくれると、おじいちゃんも嬉しいよ」
「学校でね、先生がおじいちゃんの絵を褒めてくれたの」
「ほう。何を描いたんだ?」
「おじいちゃんが卵焼き作ってるところ。すっごく優しそうだね、って言われたの」
「そうか、そうか。それは恥ずかしいな」
彼の目尻に、深いしわが寄った。
朝、一郎は孫娘の輪が通う私立小学校の学費を準備するため、銀行から50万円を引き出そうとしていた。3年前、息子夫婦を交通事故で失ってから、二人暮らしは続いている。
かつて総一郎は日本最大の投資ファンド「桐流キャピタル」を創業し、相場の神様と呼ばれた男。バブル崩壊後の混乱期に独自の投資理論で巨万の富を築き、リーマンショック時も見事に乗り切った。しかし、十年ほど前、第一線を退いてからは、メディアへの露出を一切避け、ひたすら地味な暮らしを選んだ。金や名声よりも、たった一人の孫娘との穏やかな日常こそが何よりも大切だと知っていたからだ。
「さあ、行こうか」
手を繋ぎ、アーケードを抜ける。彼の姿を知る者は、もう誰もいない。
銀行の自動ドアが開き、冷房の効いたフロアへ足を踏み入れた。番号札を取り、ソファに腰を下ろす。
「あっ、おじいちゃん、あれ見て!」
輪が指差したのは、天井近くで静かに回る空調の機械。
「興味深いところを見てるんだな」
「だって、あれ、どうやって回ってるのかなって思ったの」
「そうだな……中に、小さな風の妖精みたいなのがいるんだよ」
「ええ! 本当?」
「ああ、でも、風が来るのを待ってるだけの、すごく怠け者の妖精だよ」
そういうと、総一郎の心の内に、銀行の暗い景色が甦ってくる。既の前の、さっきの銀行員の冷たい視線。あれは別の銀行の話。今日の相手は、果たしてどんな顔をして出てくるのか。
「次の方、どうぞ」
三十数分待って、ようやく総一郎の番号が呼ばれた。窓口には、さっき若い男の行員が座っていた。名札には「坂木原匠」とある。細かい書類をキッチリと整え、高いネクタイを締めている。いかにもエリート然とした風貌という雰囲気だ。
「はい、次の方、ご用件は?」
その声には、初めから警戒の響きが含まれていた。総一郎の姿を一瞥した坂木原の目に、明らかな疑念の色が浮かぶ。先ほどまで柔和だった態度が、一瞬で硬直する。
「この歳で、この出で立ち。いかにも『受け子』の典型だな」
「普通預金から、500万円を引き出したいのですが」
「500万円……ですか。お名前は?」
「総一郎です。静かな、一郎」
「総一郎様ですね。少々お待ちください」
坂木原はパソコンを操作し、通帳をスキャンした。いかにも手慣れた、それでいて丁寧な対応の中に、侮蔑にも似た気配が滲む。彼の指がキーボードを打つたび、微妙に眉をひそめる。残高を確認した時の、複雑そうな表情。
「──────」
ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえた。
「総一郎……様。こちらですね。では、お引き出しいただけますか。どうぞ」
「ああ、済まないね。ここに座って待っててくれるかい?」
「うん。おじいちゃん、頑張ってね」
輪がパイプ椅子からちょこんと手を挙げた。総一郎は席を立ち、指定されたブースではなく、坂木原が座っている窓口へと向かう。坂木原の挙動が、一瞬止まった。
「こちらでよろしいですか?」
「君のところで、いいんだよ」
その一言を聞いた瞬間、坂木原の顔から何かが崩れ落ちた。
「───っ」
「どうした、若いの。顔色が悪いぞ」
「いえ、何でも……それで、ご捺印をいただけますか。こちらの用紙に」
「ああ。───待って。その前に、もう一枚、お願いしたいことがある」
「はい?」
「そっちのカウンターに、君以外の担当者がいるのか?」
「おりますが……」
「じゃあ、その人を呼んでくれ。君には用はない。俺の相手はあちらを立てたほうが、君も気がラクだろう」
一瞬、何を言われたか分からないという顔をした。しかしすぐに、じわりと青ざめた色が広がる。
「な、何を仰って……私は、あなたのお引き出しのお手伝いをしているだけです」
「そうか。なら、さっきの言葉をそのまま言うぞ。『コイツ、たぶんヤキもんだな』。君はそう言っただろう。いや、思ったんだろう。このすり切れたジャンパーを見て、500万円の出所を疑った。それは仕方ない。私は見ての通りのじいさんだからな。だが、君のその目が気に入らない。『何だ、このボロボロの老人は』という目だ。それは、相手を疑う目ではなく、下に見る目だ。銀行員が客にそういう目を向けてはいかんぞ」
総一郎の声は穏やかだった。それなのに、そこには鉄を打つような響きがあった。
「──っ、違います! 私は!」
「君が銀行員として真面目なのは分かる。だが、思い込みは罪だ。そして、その困惑は、君の中の何かがまだそれを間違いだと気づいてないからだ。私が詐欺師ではないと知っているだろう。冷静になれ。ここで大きな声を出せば、周りの客がこちらを見るぞ」
集まっていた視線が、一斉に二人を捉えた。その中で、坂木原は一度だけ激しく動揺した様子を見せ、俯いた。
「……申し訳、ありません」
「謝ることじゃない。さあ、別の担当者を頼む。私は素直に待つから」
───しばらくして、隣のブースから女性行員が出てきた。藤堂と名乗るその若い行員が、少し慌てた様子でスーツを直しながら頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありません。こちらでご用件を承ります。ご記入いただいた用紙を拝見いたしますね」
「ああ、頼む」
差し込まれた用紙を受け取った藤堂は、下を向いたまま、素早く内容を確認した。そして、その瞬間、彼女の指が一瞬止まった。
「──────」
「どうした、お嬢さん」
「い、いえ、何でもありません。準備が整いました。では、500万円、お引き出しいたしますね」
「ああ。それで、もう一ついいか」
「はい、何でしょう」
「ここではなんだし、事務所で話を聞いてくれないか? 君の上司も呼んで。さっき若い君には用はないと言ったが、どうにも心配になってきた。知っている人は知っている話で、本当にあの男で良かったのかどうか、君に確かめてほしいと思う」
「は、はい? どういう意味でしょうか……」
「詳しい話は、君の上司を呼んでからにしよう。ここで大声を出すのも、あんまりなんでね」
藤堂は意味が分からず、隣のブースを見た。そこはゼルベルへと続く廊下の奥。私は、何やら重々しい扉の前で立ち止まった。
「済まないが、所長を呼んでくれないか。彼には、私が来たと伝えてくれ。『桐流の総一郎が来た』と。伝えれば分かるはずだ」
副支店長を呼びに行った藤堂は、その後、何かを聞かされて、青ざめた顔で戻ってきた。
「……あの、こちらへどうぞ。支店長がお待ちです」
「どうも、お手数かけたね」
総一郎が立ち上がると、輪がぴょこんと隣に寄ってきた。
「おじいちゃん、何かあったの?」
「何もないよ。ちょっと、大事なお金の話を、このお兄さんたちとするんだ」
「ふうん。じゃあ、早く帰って卵焼き作ってね」
「ああ、約束するよ。───ところで、君」
総一郎は、藤堂に振り返った。
「君が慌てて呼びに行ったってことは、何か聞いてるんだろう? さっきの、若い男より君の方が、話が分かりそうだな」
「…………。」
「銀行という仕事はな、金を管理するだけじゃない。人を助ける仕事だ。時には、引き出せないようにするのが“助けること”の仕事もある。分かってるな」
支店長室──そこには、五十代後半の男が立っていた。この銀行の支店長、河本だ。河本は総一郎の姿を見ると、人違いかと思うほど目を見開き、大きな体を震わせた。
「お、お久しぶりでございます、先生。こんな所まで、何用で? ご用があれば、常々こちらから参るものを」
「河本。久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
「は、はい。お陰様で。しかし、先生がご自分で銀行に来られるなんて、一体全体、何事ですか?」
支店長の目に、疑念ではない真剣な気配が走る。総一郎は、カウンター越しではなく、向かいのソファに腰を下ろした。
「世間話ではないよ。実はな、ちょっと頭の痛い案件があってな。どうにも、我が銀行の一翼を担う優秀な君たちが、粗末なことをしているんじゃないかと心配になってきた」
『粗末なこと』。その言葉に、河本の顔色が変わった。隣に立ったままの藤堂も、一瞬びくりと肩を震わせる。
「一体、何が……」
「あんたのところの職員、坂木原君という若者がいるだろう。あの男、私を見るなり、すっかり警戒してしまってね。まあ、見た目がアレだからな。仕方ないといえば仕方ない。だが、高齢者を疑う前に、彼は“貯まったお金”を何に使うのか、考えもしなかったんじゃないか?」
「そ、それは、お恥ずかしい限りで……」
「いや、あの男の態度は叱責するために言ってるんじゃない。逆だ。褒めてやってほしい」
河本は言葉を失った。藤堂も、何を言われたのか分からない様子だ。
「職員を教育するのに、こういう場は必要なんだよ。私とあの若者が話をすることで、今後、あの銀行員がどれだけ慎重になるか。身の程知らずの老人の小言だと思って、あの坂木原という男に、そのまま伝えてくれたまえ。彼が間違ってないと。あの程度の慎重さが、偽りのハートを持った客から、銀行も客も守るんだと私は思う」
「えっ……、先生、それでは、あの坂木原の態度は……」
「あの若造はな、疑いを“悪意”と勘違いしておった。疑うことはな、正しい。だが、疑いすぎるのは、“悪意”ではない。『自分はエリートだ』という慢心だ。そこをたしなめただけだ。私はな、あの若者が、これから先、立派な銀行員になってほしいとは思っておらん。もっと勉強しなさい。『老い』と『真心』とを取り違えてはいけない、と。そう伝えてくれ」
河本は深く息をすい、深々と頭を下げた。
「……先生のおっしゃる通りです。至らない者どもで、申し訳ありません。教育を、徹底します」
「みっともない姿を見せた。早いところ用を済ませて帰るとするよ。───おっと、そうだった。用事の本題を忘れるところだった」
そう言って、総一郎はジャンパーの内ポケットから、古びた封筒を一つ取り出した。
「これを、彼らに。といっても、今こうしている間にも、震えているかもしれん。すまないが、高齢者が震えていても難しいことはないだろう。中の金は、私からの心づけだ。私みたいな老いぼれが、若い者に何もできないかと思ってね。新入社員の方にでも、飲み物でもおごってやってくれ」
封筒を受け取った河本が、恐る恐る中を見ると、そこには、銀行の口座を書き付けたメモと、一万円札が何枚か束で入っていた。
「先ほど、こちらの預金から引き出しを頼んだ500万円の中から、だと思ってくれ。老いぼれに付き合ってもらった若いあの子たちに、菓子の一つでも買ってな。では、私はこれで失礼する。訪問を、邪魔してすまなかったな」
こうして、老人と孫娘は、そそくさと支店長室を辞した。
「おじいちゃん、さっきの、怖かった?」
「ん? 何がだ?」
「だって、あの偉い人、おじいちゃんの話、すごく真剣に聞いてたよ。何か怒ったかと思った」
「怒ってないよ。あの人はね、仕事の大切さを、今教わってねるところだったんだ」
「ふうん。仕事って大変だね」
「そうだな。でも、リンカのためなら、おじいちゃんはどんな大変なこともするよ」
銀行の外に出ると、気持ちのいい秋空が広がっていた。指を絡めた手、その温かさが伝わってくる。
「さあ、帰って卵焼きを作ろう。今日は大根おろしも付けるぞ」
「やった!」
小さな手をしっかりと握り返し、二人は家路についた。その足音が、アスファルトの上に軽やかに響く。日向と日陰が混ざり合う帰り道。総一郎は、遠い昔、息子と手を繋いで歩いた日のことを思い出していた。この小さな命が、何よりも宝物だということを、彼は胸の内で噛みしめている。
そして、坂木原匠は、その日のできごとを誰にでも話した。
「自分の疑いが間違いじゃなかったって証明されたら、それはそれでよかったんだ。でも、俺の上司が言ったんだ。『俺たちは、金を見ているんじゃない。人の暮らしを見ているんだ』ってな。あの老人は、それを俺に気づかせるために来たのかもしんねえな。全く、関心したぜ」
彼の目には、ももはや若い者の傲慢さはない。銀行の窓口に立つ一人の男として、確かな自信の光を宿していた。
