「おい、派遣。これ、全部今日中にコピーしておけよ」——朝、席に着くなり積み上げられた50冊のファイル。周りは全員、目を伏せたままでした。私は松野はるか、34歳。今日が派遣3日目の、どこにでもいる地味な事務員です。そう、誰もがそう思っていました。次期社長候補の黒沢次長に、私は何も言い返せなかった。夕方までかかって仕上げた資料を、翌朝彼は自分の名前で上層部に提出し、「派遣に使える資料が作れるわけ…

「おい、派遣。これ、全部今日中にコピーしておけよ」——朝、席に着くなり積み上げられた50冊のファイル。周りは全員、目を伏せたままでした。私は松野はるか、34歳。今日が派遣3日目の、どこにでもいる地味な事務員です。そう、誰もがそう思っていました。次期社長候補の黒沢次長に、私は何も言い返せなかった。夕方までかかって仕上げた資料を、翌朝彼は自分の名前で上層部に提出し、「派遣に使える資料が作れるわけ...

彼女の名は松野はるか。34歳。今日から劇場エンタープライズに配属された派遣社員だ。飾り気のないグレーのブラウスに紺のカーディガン、黒縁のメガネ。誰が見ても、どこにでもいる地味な派遣社員にしか見えなかった。

「はあ、新しい方ですか? ここが松野さんのデスクですよ。」

隣から声をかけてきたのは、入社4年目の日々野という女性だった。26歳くらいだろうか。明るい声の奥に、どこか疲れた影が漂っている。

「何か分からないことがあったら、遠慮なく言ってくださいね。この会社、最初はちょっと独特なんで。」

そう言いかけて、日々野は言葉を濁した。フロア全体に漂う空気は、表面上の活気とは裏腹に、誰もが息を潜めているような緊張感に満ちている。はるかは穏やかに微笑み返した。

「ありがとうございます。よろしくお願いします。」

そう言いながら、はるかはさりげなく周囲に目を配った。デスクの配置、社員たちの表情、フロアを支配する空気の質。その視線は、初出勤の緊張とは少し違う、静かな観察者の目だった。はるかはデスクの引き出しの奥に、分厚いノートをそっとしまい込んだ。誰にも気づかれることなく、この会社での日々が幕を開けた。

着任から3日目の朝のことだ。はるかのデスクの上に、大量のファイルが乱暴に積み上げられていた。ペン立てが倒れ、ボールペンが床に転がっている。コツコツとヒールの音を鳴らしながら、はるかの前に立ったのは、営業部次長の黒沢琢磨。43歳。現社長の甥で、社内では誰もが知る次期社長候補だ。その肩書きを盾にした振る舞いは、この会社では日常のことだった。

「おい、松野。これ、全部、今日中にコピーしておけよ。派遣はコピーとお茶汲みだけやってればいいんだよ。」

ファイルは優に50冊を超えていた。一人で処理するには、丸一日かかる量だ。周囲の社員たちは視線を落とし、誰一人として口を挟まない。日々野が唯一助け舟を出そうと腰を浮かせたが、琢磨の鋭い視線を受けて、再び席に沈んでしまった。

「承知いたしました。本日中に仕上げます。」

はるかは表情を変えることなく、作業に取りかかった。昼食もそこそこに、コピー機の前に立ち続ける。インクの匂いが鼻に染みつく。昼過ぎ、日々野がこっそりとカップのコーヒーと、コンビニのビスケットを置いてくれた。

「よかったら、どうぞ。お昼、食べてないですよね。何か少しでもお腹に入れておかないと。」

「ありがとうございます。助かります。」

はるかが礼を言うと、日々野は周囲を確認してから、小声で続けた。

「いつも、ああなんです。黒沢次長は、誰も止められなくて。私も何度か言おうとしたんですけど……」

そこで日々野の声は、途中で消えた。言い出せなかった。その繰り返しがどれほど続いてきたか、声の消え方が物語っていた。

「はるかさんは、ずっとここにいるんですか? 」

「いえ、私は4年目です。最初は、もっと色々と意見を言えていたんですけどね。……次期社長候補って噂が出てから、さらに言いづらくなったというか。」

「そう、ですか。」

日々野は、それ以上は聞かなかった。しかし、はるかの4年分が、その一言に凝縮されていた。コピーを終えた夕方、はるかはもう一つ気になることに気づいた。琢磨が「整理しておけ」と放り投げた、取引先との古い往来資料の束だ。数年分の契約条件や交渉履歴が、日付もバラバラのまま、無造作に混在していた。

はるかは定時を過ぎても残って、資料を時系列に並べ直し、条件の変遷を一覧表に整理した。取引先ごとの傾向や、見落とされていたリスク項目まで書き添えた、丁寧な仕上がりだった。自分のためではなく、会社のためを思っての行動だった。

翌朝、琢磨は出社するなり、はるかが整理した資料をデスクの上で広げていた。ページをめくる手が止まる。数字の並びを目で追い、条件の整理を確認する。その顔に、じわじわと満足げな色が浮かんだ。

「……使えるじゃないか。」

誰にも聞こえないような声だった。しかし、次の瞬間、琢磨はその資料を自分のフォルダーに移し、表紙の名前を書き換えた。昼前、琢磨は上層部との打ち合わせに、その資料を持ち込んだ。会議室から戻ってきた琢磨の顔には、いつも以上に得意げな色が浮かんでいた。

「やっぱり、俺が仕上げると違うな。上もすぐ納得してたぞ。」

その様子を見ていたはるかが、思わず声をかけてしまった。

「黒沢次長。その取引資料、昨日、私が整理したものでは……」

フロアの空気が一瞬、固まった。周囲の社員たちが、はるかから視線をそらす。

「何言ってんだ? 俺が手直ししたに決まってるだろうが。派遣に使える資料が作れるわけないだろうが。」

はるかは黙って口を閉じた。反論する言葉が出てこない。その直後、琢磨のデスクにメール着信の音が鳴った。上層部からの賞賛メールだった。琢磨はそれを声に出して読み上げ、周囲に聞こえるように笑った。

「当然だろ。まあ、俺は次期社長候補だからな。」

はるかは、それ以上何も言えなかった。必死で残業して仕上げた資料が、今、別の人間の手柄になっている。その理不尽さを、はるかはただ見つめることしかできなかった。

屈辱で、唇が震える。奥歯を噛みしめ、必死に感情を抑える。周囲が嘲笑を浮かべる中、はるかはコピー機の前で、その光景を静かに見つめていた。……いや、違う。はるかの視線は、琢磨ではなく、その背後の入口に向けられていた。

「……黒沢さん、ちょっといいか。」

その声に、フロアの空気が張り詰めた。現れたのは、現社長、田所誠二だった。58歳。この会社のトップであり、琢磨の叔父でもある。その手には、一枚の紙きれが握られていた。琢磨は慌てて立ち上がり、愛想笑いを浮かべる。

「じ、社長!

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お疲れ様です。何かご用でしたか? ちょうど、上層部に出す資料をまとめていたところでして…」

田所会長は、琢磨の言葉を無視した。ゆっくりとフロアを見渡し、その視線がはるかで止まる。静かな、しかし研ぎ澄まされた目だった。

「……松野はるかさん、だね。」

「は、はい。松野です。」

「少し、私の部屋に来てくれないか。話がある。」

田所会長は、それだけ言うと、背を向けてエレベーターへと歩き出した。琢磨は、突然の展開に呆気に取られている。

「社長! あの、彼女はただの派遣で…」

「君には訊いていない。」

田所会長の言葉に、琢磨はピタリと動きを止めた。はるかは、静かに席を立ち、会長の背中を追った。背中に、社員たちの好奇の視線が突き刺さる。

会長室に通されたはるかは、ソファに座るよう促された。田所会長は、向かいに座ると、しばらく無言で、はるかをじっと見つめた。優しいが、鋭い目だった。

「すまなかったね。辛い思いをさせた。」

いきなりの言葉に、はるかは面食らう。

「え?

」

「黒沢の言動は、以前から私の耳にも届いていた。ここに来るよう言ったのは、取引先の資料を整理してくれたと聞いたからだ。あれは、実に素晴らしい出来だった。おかげで、交渉が随分とスムーズに進んだ。」

はるかは、目を見開いた。まさか、社長の目に触れているとは思わなかった。

「でも、あの資料は次長の…」

「私が、まともなものじゃないと知っている。あの程度の能力もない所か、昨日の付け届けだ。……それよりも、だ。」

田所会長は、一呼吸置いた。窓の外の東京湾を見下ろすように、目を細める。

「君には、もっと重要な仕事を依頼したい。3ヶ月後、この会社は大手グループとの合併を控えている。その前に、内部のしくみを洗い出し、問題点を洗い出してほしい。もちろん、表には出せない仕事だ。」

「内部のしくみ、ですか…」

「そう。この会社の最も危険な部分を、浮き彫りにしてもらいたい。私は、信用できる人間が誰なのかを見極めたい。君は、この4年間、この状態の中で、黙って耐えていた。それは、長所を隠し続ける能力があることの証だ。そして、何より……」

田所会長は、はるかの目を真っすぐに見つめた。

「君のことは、君が思っている以上に、色々と知っている。」

はるかの心臓が、激しく打ち始めた。その言葉の意味を、はかは考える。自分が、ただの派遣社員ではないことを。この会社を調査するために派遣された、会長から信頼された人物であることを、知っている者は、この場に存在する。

はるかは、ゆっくりとメガネを外した。そして、口元に、初めての笑みらしきものを浮かべた。

「……お言葉に甘えて、引き受けることにします。ただし、この件は、徹底的に秘密にさせていただきます。」

その瞬間、はるかの雰囲気が変わった。地味な派遣社員のオーラは消え去り、切れ者を思わせる鋭い眼光が露わになる。鍛え上げられたカリスマ性、それは、ある特殊な組織の人間だけが持っている雰囲気だった。

「ですが、会長。ひとつだけ、確認させてください。」

「なんだ。」

「私が調査している会社のことは、ご存じですよね。私は、この会社を潰すために派遣されたわけではありません。改善させるために派遣されたのです。その目的が果たせるのであれば、喜んでお引き受けします。ただ、もし、あなたが……」

「分かっている。君の腕前は、噂に聞いている。その腕を、ぜひ、会社のために使ってほしい。そして、心配無用。私は、今のこの会社の姿を、正真正銘の姿に変えたいと思っている。無実の人間を苦しめる、そんな歪んだ姿を、もう見たくはないのだ。」

はるかは、会長の言葉に心が動かされるものを感じた。偽りのない本心だと、感じ取れた。

「……承知しました。それでは、共に、この会社を正して参りましょう。」

はるかは、そう言って、会長と固く握手を交わした。その夜、自宅へと戻ったはるかの元に、一通のメールが届いた。差出人は、株式会社リベルタ・コーポレーション。それは、かつてはるかが所属していた、幻の組織だった。

『任務は順調ですか、元、事務官。そちらで見つけた情報は、全て私に報告したまえ。協力し合ったものとして、約束は果たしてほしい。』

はるかは、そのメールを見つめながら、そっとスマートフォンを閉じた。隣には、質素な時計と、パソコンの画面。開かれたファイルには、劇場エンタープライズの社員名簿と、会長へ提出するための報告書が並んでいた。彼女の本当の任務は、会社の改革だけではなかった。彼女は、この会社の闇に迫るための、任務の真っ最中なのだ。

翌朝、いつものように出社したはるかを、琢磨が待ち構えていた。

「よう、派遣。前の社長、目が眩んで正体も知らないようだが、俺様が何しても構わねえんだぞ。ここは、俺様の城だ。お前みたいな、根拠のないプライドの象徴が、いつまで生き残れるのか、楽しみにしているぞ。」

そう言って、琢磨は高笑いをしながら、自分のデスクへと歩いていく。はるかは、それを冷めた目で見つめていたが、突然、あるデスクの上に置かれた書類に目を止めた。それは、琢磨のデスクだ。その上に、見慣れない書類が置かれている。

はるかは、周囲に人がいないことを確認すると、素早くその書類に目を通した。そこには、3ヶ月後の合併を前に、内部の取引先、そして、社内の金の流れを操作するための、画策が見え隠れしていた。

「……こりゃ、面白い物を見つけた。」

はるかは、口元に笑みを浮かべた。この日、はるかの長い戦いが、本格的に始まった。しかし、それを知る由もなく、琢磨は高見の空から物を言っていた。自分の知らないところで、自分という存在が、少しずつ追い詰められていることも知らずに。