「お母さんの年金手帳と通帳、今すぐ出してください」。新居のリビングに最後の段ボールを下ろした瞬間、義理の娘が当たり前のようにそう言った。息子は目すら合わせず「黙って渡してくれよ」と。私は静かに聞いた。「私の年金を何に使うつもりなの?」すると義理の娘が即座に答えた。「どうせ貯金もないんでしょう?だから今から私が管理してあげますよ」。嫌なら今すぐ出て行け、行く場所なんてないだろうとまで言われた。…

「お母さんの年金手帳と通帳、今すぐ出してください」。新居のリビングに最後の段ボールを下ろした瞬間、義理の娘が当たり前のようにそう言った。息子は目すら合わせず「黙って渡してくれよ」と。私は静かに聞いた。「私の年金を何に使うつもりなの?」すると義理の娘が即座に答えた。「どうせ貯金もないんでしょう?だから今から私が管理してあげますよ」。嫌なら今すぐ出て行け、行く場所なんてないだろうとまで言われた。...

明るい日差しが差し込む新居のリビング。最後の段ボール箱が床に下ろされると、義理の娘の玲子さんが、当たり前のように言った。

「お母さんの年金手帳と通帳、今すぐ出してください」

私は段ボールに腰を下ろしたまま、ゆっくりと二人の顔を見た。

「今日から、この家に住むんですから。生活費を入れるのは当然ですよね」

同居を始める前、玲子さんは言っていた。「一人暮らしは心配だから、家族で助け合いましょう」と。確かに私はその言葉を信じていた。だが、息子の光一はというと、私と目を合わせようともせずに言った。

「母さん、家計は玲子に任せてるんだ。黙って渡してくれよ」

私は静かに尋ねた。

「私の年金を何に使うつもりなの?」

玲子さんが即座に答える。

「もちろん生活費ですよ。お母さんが一人増えれば、食費も光熱費もかかりますから。それに老後は2000万円必要だって言うじゃないですか。どうせ貯金もないんでしょう?だから、今から私が管理してあげますよ」

私はしばらく黙った。そして、ふと笑顔がこぼれた。

玲子さんが眉をひそめる。

「何笑ってるんですか? 嫌なら今すぐ出て行ってください。行く場所なんてないでしょうけどね」

「ありがとう。助かるわ」

私の言葉に、二人は困惑した顔をした。

私は、自分が持っていた封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

「光一に届いていたわ。あなたたちが私の家に相談に来た日、アパートの前に落としていったでしょ」

中には住宅ローンの支払いに関する書類が入っていた。金融機関から光一宛の通知。そこには、支払いが三か月滞納していると書かれていた。

「生活費のため、じゃないんでしょ? 私の年金で、住宅ローンの穴を埋めたかったのね」

光一の顔から血の気が引いていく。

「な、なんで知ってるんだ。あれはちょっと遅れてるだけだ。すぐに払える」

「何で払えるの? あなたたち、二人とも給料はもう入ってこないって散々言ってたじゃない。それなのに、どうやって払う気?」

二人は黙り込んだ。私は一枚の引き落とし明細を取り出した。

「あなたたち、家計用のお金を勝手に使ってたんでしょ。光一は外食や趣味に。玲子さんは服や美容に。お互いに使い込んだ額を隠して、引き落とし口座をカラにして」

「あなたが使いすぎたからでしょ!」

「お前だって、勝手に引き出しただろうが!」

二人が、私の前で責任の押し付け合いを始めた。私は静かに手を叩いた。

「もういいわ。つまり、あなたたち二人で使い込んだんでしょ。そして、二人で私の年金を当てにした。そういうことね」

短く言うと、二人は同時に口を閉じた。光一が観念したように言う。

「……でも、母さんが住んでた家を売れば何とかなるんだよ。再開発が決まれば高く売れるかもしれない」

それを聞いて、私は全てを理解した。ようやく本音を言った。私を同居させれば、母が住む家を売れる。その代金で住宅ローンを立て直せる。そう考えていたのだ。

「母さんの家なんだから、いずれ俺が相続するだろ」

私は光一を見つめた。

「誰が、あの家が私のものだって言ったの?」

光一の顔から、みるみる色が消えていく。

「え?」

「あの家はね、借りていたのよ。昔の上司の人が、管理してくれるならって条件で貸してくれてたの。私は家賃を払ってないとは言ったけど、持ち家だとは一度も言ってないわ」

光一はその場にどさっと座り込んだ。玲子さんが声を荒らげる。

「だったら最初から言いなさいよ! 私たちはあの家が売れると思って全部……」

言いかけて、玲子さんは口を押さえた。遅すぎるけど、もう遅い。

思い返せば、ずっとこうだった。私は息子を甘やかしてきた。夫を亡くした後、息子が困るたびに、私は金を渡してきた。大学の学費も、就職後に作った借金も。「一度だけ」と言い訳をしながら、何度も肩代わりしてきた。あの頃の私はそれを母親の愛情だと思っていた。でも違う。私は息子を支えていたのではなく、自分で責任を取る機会を永遠に奪い続けてきたのだ。

光一が玲子さんを連れてきたのは、夫の葬式から半年ほど経った頃だった。最初の挨拶で玲子さんが言った。

「結婚式の費用、出していただけますよね? お祝いも別にいただきますし」

私は息子のために、とお金を出した。すると彼女はさらに続けた。

「ご祝儀は別ですよね」

その言葉を聞いた時、少し変だとは思った。でも、それが私の息子の幸せのためならば、と払った。

結婚後も玲子さんの要求は続いた。孫の結衣が生まれると「孫の服を買ってください」と、買い物に誘われるようになった。行けばどんなに小さな買い物でも、必ず服を買ってもらえる。私がお財布を開くと、決まって玲子さんが言うのだった。

「おばあちゃん、お願いね」

けれど、会計の場になると、そこには結衣の服だけでなく、玲子さん自身の服まで並んでいた。

「これ、私の分はいいですから、結衣の分だけでいいので」

断ろうとすると、玲子さんはたちまち涙声になる。

「孫に何も買ってあげられないの?」

その声に周りの目が集まる。私は気恥ずかしさに負けて、服代をそのまま支払ってしまった。

結衣が小学校へ入ると、今度は放課後の世話まで頼まれた。

「私、仕事を始めますので、結衣の面倒を毎日お願いしますね」

それは相談ではなく、決定だった。私が「私にも仕事がある」と伝えると、玲子さんは深いため息をついた。

「では、結衣を見ず知らずの人に預けろと?」

「放課後児童クラブって言って、最近は……」

「あなた、本当に孫が大事じゃないんですね」

その言葉に、私は胸が痛んだ。結衣を思えばこそだと思った。結局、私は約束を増やして、仕事の時間を減らした。

それでもよかった。どこか息子に似ている結衣は、素直で優しい子に育っていた。学校から帰ると先に宿題を済ませ、台所に立つ私をよく手伝ってくれる。一生懸命になれた。

ある日、一緒にホットケーキを焼いていた時、結衣が小さな声で言った。

「おばあちゃんって、ケチなの?」

私は手を止めた。

「え?」

「パパとママが言ってた。おばあちゃんは、うちに何もお金を出してくれないケチな人だって。でも私は、おばあちゃんがケチだとは思わないよ」

「誰に言われたの?」

「近所の人に言ったら、『お母さん、結衣に何言ってるの』ってママに怒られたの」

私は結衣の髪を撫でた。

「結衣、人間はね、自分で考えて、自分で感じていいのよ。おばあちゃんは結衣が感じたことを大切にする」

その日から、結衣は私の前でよく笑うようになった。しかし、玲子さんが迎えに来ると、急に口数が減る。廊下に連れ立ち、遊んだことを詳しく話したがらない。私が言い聞かせたのではなく、結衣は「おばあちゃんと遊んだらママが悲しむから、言わないの」と我慢しているようだった。私はこの子のそばにいたいと思った。

そして、今に至る。

光一が新築の家を買ったのは、半年前のことだ。そして、私の住んでいたアパートの周辺で再開発の話が持ち上がったのは、その直後だった。

「母さんの家の周りも工事が始まるかもしれないんだろ? 一人で住むのも心配だし、俺たちと同居しようよ」

玲子さんも笑顔で続けた。

「結衣も喜びますよ。学校からも近いですし、お互いに助け合えますしね」

助け合い。その言葉に、私は少し違和感を覚えた。だが、結衣が「おばあちゃんと毎日暮らせるの?」と目を輝かせた。孫のその顔を見て、私は同居を決意した。

そして、明日から始まる、と思った矢先の今日。家に来て、まだ段ボールを開けてもいないというのに、義娘は最初の金の要求をしてきたというわけだ。

私は立ち上がり、古びた通帳を取り出した。

高木から、二冊の口座の中の一冊、長年、給料の振込をしてもらっていた分類をこめていた通帳を。

「どれだ?」

「え?」

「貯金は、どれくらいあるの? ここに記帳しに行こう。今からでも、あなたたちの管理は必要ないわ」

高木が言った。

「いいえ、そうじゃない。まだ出てないけど、もう一枚あるはずよ。生命保険の満期金と、退職金。あなたたち、わたくしの年金でこっそり受け取ってたんじゃないの?」

私は俯き、首を振った。

「いいえ。それは受け取ってないわ」

「嘘おっしゃい! あなた、夫が亡くなってから、何かと世の中にはお金がかかるって言って、定期的にせびっていたじゃない!」

松田さんが言った。

「古い蓄えは、もう尽きたわ」

私はそう言って、通帳を置いた。

「なら、私が説明するわ。この家の中を、しっかり調べるから」

私は首を振った。

「いいのよ。もういいの。私には、結衣がいるもの」

「何言ってるんだ、母さん。結衣は俺の娘だぞ。結衣は、俺が育てる」

高木の言葉に、私は顔を上げた。

「育てる? どうやって? あなたたち夫婦には、貯金もない。住宅ローンも滞ってる。それなのに、娘を育てる余裕があるの?」

高木が口を開きかけたが、光一が止めた。

「そうだ。俺たちはこれから、頑張って……」

「頑張って? あなたは昔から、『頑張る』って言うだけで、本当に努力したことが一度もないわ。そして、いつもあなたの周りには、お金の匂いにつられて集まってくる人たちがいたのよ」

私は高木を見た。

「玲子さん、あなたはどう?」

夫人は沈黙した。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……頑張りたいとは、思ってます。でも、女一人じゃ無理なんです。どうせ私の力じゃ、これ以上……」

「お金がないなら、働きなさい。結衣が学校から帰ってくるような時間に家にいても、働き口はあるでしょ。探せば、必ずある」

私の言葉に、玲子さんは何も言い返せなかった。

「おばあちゃん」

声のする方を向くと、階段に結衣が立っていた。パジャマ姿に、裸足で。

「ゆい、起きてたの?」

「ううん。音がして」

結衣はゆっくりと、私たちのところへ歩いてきた。そして、私の手を握りしめた。

「おばあちゃん、行かないで」

私は小さく笑った。

「結衣。おばあちゃんは、ちゃんとここにいるわ。あなたの近くに」

「本当?」

「ええ。家は変わっても、結衣に会いに来るから。学校が終わってからでも、土曜日でも。いつでも、あなたを待ってるからね」

結衣の目に涙が溜まる。

「でも、パパとママに『おばあちゃんに会ってみんながいなくなっちゃう』って、言われたのを聞いちゃったの」

私は結衣を抱きしめた。

「大丈夫よ。おばあちゃんは、この家にいなくなるかもしれないけど、結衣のことは絶対に忘れないから。あなたこそ、そのしっとりした心を大事にしなさい。パパやママが何と言っても、自分の目で見て、自分の感じたことを信じるのよ」

結衣が小さく頷いた。

翌日、私は社会福祉協議会を訪ね、高齢者福祉の窓口を紹介してもらった。そして、一人暮らしをしている高齢者のための生活相談員と連絡を取った。住む場所は、古い公営住宅を案内された。家賃も、収入に応じて減免されるらしい。

家を出る時、私は結衣に一冊のノートを渡した。

「ハンカチおばあちゃんのレシピを書いておいたわ。ホットケーキ、教えてあげたでしょ? 大事に取っておきなさい」

「おばあちゃん、これ、すごく嬉しい」

少女はパラパラとページをめくった。そこには、ホットケーキだけでなく、肉じゃがや唐揚げ、結衣の好きな料理の手順が、丁寧な字で書き記されていた。

「これ、覚えられるくらいに、おばあちゃんが作るところを見せてあげられたらよかったんだけどね。ちょっと遠くなっちゃうから」

「ううん、大丈夫!」

結衣は、ノートをぎゅっと抱きしめた。

「私、作れるようになる! そしたら、おばあちゃんに食べてもらうんだ!」

「ええ、楽しみにしてるわ」

玄関で靴を履いていると、光一が声をかけてきた。

「……母さん、本当にいいのか? こんな形で、出て行ってしまって」

「光一、あなたは私の息子よ。そして、何があっても、それを変えることはできないわ。ただ、あなたはもう大人になったから。自分たちの家計の立て直しをする方法を、真剣に考えなさい」

光一は俯いた。

「……もういいよ。どうせ、何を言っても僕の負けなんだろ」

「そうじゃない。私はあなたを試しているんじゃないの。あなたには、できる力があるんだから。これからは、あなたが結衣を守っていくのよ。他人の年金を当てにするのではなく、自分の力で」

そう言って、私は振り返らずに家を出た。

あれから三か月が経った。古い公営住宅の一室は、寒かった。風通しは悪いし、湯船もない。冬は凍えるほどだ。けれど、その寒さは、実は私にとって心地よかった。誰かの顔色をうかがうことも、あの家の重苦しい空気に耐えることもない。

ある日、児童相談所の福祉員から、一枚の封書が届いた。玲子さんからだった。私は恐る恐る開けた。

一枚のプリント。それは、地域の児童館で開催される「親子で作るお菓子教室」のチラシだった。裏には結衣の字で一言。

「おばあちゃん、今度いっしょにケーキやいてね。パパとママ、おちごとにいくことになったよ」

私は思わず、涙が溢れた。

あの日、光一と玲子は、二人とも失業していたわけではなかった。壊れた家計に嫌気がさして、それぞれ仕事を辞めたのだ。私は、息子に要件を伝えるために、児童相談所と社会福祉協議会に連絡を入れた。

「あなた、いつまで現実逃避してるの?」

玲子さんに、月末の電気代が払えずに冷蔵庫が空っぽだと言ったつもりはない。私は言った。

「私は、もうあなたたちのために、お金を出すことはしないわ。でも、結衣のためには、何だってする。それが、あなたたちが知っているおばあちゃんの姿でしょう?」

それが、高木たちの目を覚ましたことになるのかもしれない。

結衣のノートの余白に、私は新しいレシピを書き足した。

「ゆいへ。おばあちゃんも、新しいことを覚えているよ。今度会ったら、作ってきてあげる。あなたがもう少し大きくなって、辛いことがあった時。何か一つでいいから、幸せを感じられるようになれたら。それがおばあちゃんの、一番の幸せだから」

私は、新しいページを開いた。

「おばあちゃんの人生、もう一度、自分の足で歩き始めるわ」

きっと、それでよかったのだ。

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