「バーバは見えない人なんだって」――五歳の孫の誕生日、大きなイチゴのケーキを抱えて訪ねた私に、優太は笑顔でそう言った。誰がそんなことを?と聞くと「ママが言ってた。今日はバーバを無視する遊びなの」と。長男の光一も妻のさやかさんも、私が声をかけても食卓で肩を震わせて笑うだけ。そう、私はこの家にいない人なのだ。私は静かに玄関へ向かった。すると光一が立ち上がり、「待てよ。ケーキなら置いていけよ」と言…

「バーバは見えない人なんだって」――五歳の孫の誕生日、大きなイチゴのケーキを抱えて訪ねた私に、優太は笑顔でそう言った。誰がそんなことを?と聞くと「ママが言ってた。今日はバーバを無視する遊びなの」と。長男の光一も妻のさやかさんも、私が声をかけても食卓で肩を震わせて笑うだけ。そう、私はこの家にいない人なのだ。私は静かに玄関へ向かった。すると光一が立ち上がり、「待てよ。ケーキなら置いていけよ」と言...

バーバは見えない人なんだって。五歳の孫、優太の誕生日。大きなイチゴのケーキを持って訪ねた私に、優太は笑顔でそう言った。
誰がそんなこと言ったの?
ママが言ってた。今日はバーバを無視する遊びなの。
長男の光一と妻のさやかさんは、私が声をかけても食卓に座ったまま振り返らない。けれど二人の肩は小さく震えていた。私が困る姿を見て笑っていたのだ。
そう、私はいない人なのね。私は静かに玄関へ向かった。すると光一が慌てて立ち上がった。
待てよ。ケーキなら置いていけよ。
その一言でようやく分かった。私が存在しないなら、私も全てをやめる。ただそれだけのことだ。

私の名前はさち子。六十二歳。夫の達夫と二人で暮らしながら、自宅でピアノを教えている。講師を始めたのは下の娘が小学校へ入った頃だった。最初は家計の足しにするためだったが、今ではピアノは私の大切な生きがいだ。できなかった曲を生徒が初めて最後まで弾けた時、小さな指が昨日より少し滑らかに動いた時、その喜びを一緒に味わえることが何より幸せだった。

長男の光一は三十五歳。妻のさやかさんと息子の優太を育てている。二人は長い不妊治療を経て、ようやく優太を授かった。治療にお金がかかり、さやかさんも仕事を辞めた。光一からそう聞いた私は、少しでも力になりたいと思った。
月に五万円でいい。生活が落ち着くまで助けてくれ。
最初は五万円だった。やがて十万円になり、優太のためだから、と言われれば私は断れなかった。
ベビーカーや五月人形、幼児教室に水泳、英語、体操。一つ一つは孫の成長を願って出したお金だ。気づけば仕送りと習い事で二十万円近くを負担していた。少し古くなった私の車も、さやかさんが自由に使ってもらっていた。それでも私は辛いとは思わなかった。ピアノ講師として働く喜びがあり、夫の収入で生活はできていたからだ。稼いだお金が家族の役に立つならそれでいい。そう思っていた。

ただ、寂しいことが一つあった。お金は求められるのに、私が孫の優太へ近づくことを嫌がられたことだ。生まれたばかりの優太を抱こうとすると「まだ手を洗ってませんよね」と言われ、少し大きくなって私へ寄ろうとすると「変な匂いがつくから抱っこはやめて」と光一に止められた。私は傷ついたが、若い人には若い人の育児方針がある。そう言い聞かせた。

優太が二歳になった頃、光一が言った。
五月人形は十万円でいいよ。俺たちで選ぶから現金でくれ。一緒に見に行くのはだめ。
なぜ、と尋ねると、光一は大きなため息をついた。
母さん、その発想がもうダメなんだよ。干渉せずに支援してくれ。金だけでいい。
短い言葉だったが、胸の奥へ深く刺さった。それでも私は堪えた。そうね、ごめんなさい。孫のため、息子のため。私はその言葉を何度も自分に言い聞かせた。

ある日、娘のまなが我が家へ来た。私は長男の嫁、さやかさんと少しでも話を合わせたくて、彼女が好きだという丁寧な暮らしについて相談した。するとまなが、とあるSNSを見つけた。顔は隠されていたが、映っている服や部屋からさやかさんのものだとすぐに分かった。そしてそこには、私のことであろうことが書かれていた。
「義母の手料理は添加物だらけ」「贈り物は趣味が悪くて迷惑」「物はいらないから現金だけ送って欲しい」「これ私が悪いの?共感できる方はコメントください」
私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。贈り物は欲しいものを聞いてから選んでいた。食べ物もさやかさんの好みに合わせていた。それでも彼女にとって私は、関わって欲しくない相手だったのだ。
お母さん、もう援助やめたら?
まなが言ったが、私は首を横に振った。優太には何の罪もないもの。私は息子夫婦と距離を置きながら、求められた支援だけは続けた。

そんな時だ。優太から電話がかかってきた。
バーバ、日曜日に来て。僕の誕生日会だよ。
胸が弾んだ。ようやく歩み寄ってくれた。家族としてまたやり直せるかもしれない。私はさやかさんがSNSで褒めていた店を探し、大きなケーキを予約した。そして誕生日当日、私は無視され、遊ばれ、いない人にされた。

俯きながら家へ帰ると、夫が私の顔を見て心配そうに立ち上がった。
私は持ち帰ったケーキを食卓へ置いた。
優太の誕生日だったんじゃないのか。
そうよ。どうして持って帰ってきたんだ。
私は一気に座り、今までのことを全て話した。毎月十万円を振り込んでいたこと、習い事の費用も負担していたこと、車も貸していたこと、SNSで悪口を書かれていたこと、そして誕生日会で無視されたこと。これまでの全てを吐き出すように言った。その間、夫は黙っていた。
さち子、なんで言わなかったんだ。どうして今まで一人で抱えていたんだ。
その一言で涙が溢れた。
お金を失ったことが悲しいのではない。家族になりたくて差し出した気持ちが、何ひとつ届いていなかったことが悲しかったのだ。
もうやめてもいい?
私が尋ねると、夫は強く頷いた。
今日で全部分かっただろう。やめよう。
短い言葉だった。でも救われた。

翌朝、私は一つずつ手続きを始めた。毎月十万円の振り込みを停止し、習い事の教室には「今月からは両親へ請求して欲しい」と連絡した。貸していた車も返してもらい、売却することにした。支援の糸を一本切るたび、肩が軽くなっていくのを感じた。

数日後、光一から電話がかかってきた。
母さん、今月の金が入ってないんだけど。
謝罪ではない。最初の言葉がそれだった。
振り込んでいません。
なんでだよ。こっちは予定があるんだぞ。
私も予定を変えました。
習い事の請求も全部こっちに来たんだけど。
そもそも親が払うのは当然でしょ。
急にそんなことされたら困るんだよ。
私は静かに答えた。
私はいない人なのでしょう。
電話の向こうが静かになった。
なんだよ。あの誕生日のこと、まだ怒ってるのか。
まだ?私は思わず聞き返した。
あんなの冗談に決まってるだろう。
幼い優太に人を無視することを教えたのが、母親を財布として扱ったのが、SNSで嘘を書いたことが、全部冗談?
電話の向こうから、何か言いかける気配がしたが、私は続けた。
もう振り込みはしない。習い事のお金も出さない。車も売る。優太には会えないけれど、あなたたちの生活を支える義務は私にはない。
おい、待てよ。そんなことしたら、優太がかわいそうだろ。お前の孫だぞ。
孫だから、あなたの子供ではないのよ。
私の声は思っていたより静かだった。
でも優太には会いたいんだ。それは分かってくれ。
じゃあ、息子としてじゃなくて、一人の人間として来なさい。そして、妻にちゃんと説明しなさい。今までのことを。
電話は、何の返事もなく切れた。
私は受話器を置き、深く息を吐いた。悲しさはまだある。けれど、それはもう苦しみではなかった。私が選んだことだ。自分の人生を、ようやく取り戻したのだ。

その後、さやかさんからも電話があった。支払いのことを何とかして欲しい、と。私は同じ言葉を返した。
私はいない人ですから。
向こうは早口で何か言っていたが、私は静かに電話を切った。その翌週、光一からメールが届いた。
「優太がオートバイに夢中だ。お前、昔バイクに乗ってただろ。見てやってくれないか」
私は返事をしなかった。けれど、次に優太から直接電話がかかってきた時は、受話器を取った。優太の声は、前より少し大人びていた。
バーバ、自転車の練習してるんだ。補助輪、外したんだよ。
上手くできたの?
うん。でも、まだちょっと怖いんだ。見に来てくれる?
胸の奥で、何かが溶けた。傷ついた心の奥で、まだ信じようとする自分がいる。家族は、一つの形だけで成り立つものではない。私が思う家族の形が、正しいわけでもない。
日曜日でいい?
うん!待ってる!
受話器を置いた後、私は玄関の靴箱の上に置いてあった小さな写真立てを見た。優太が生まれたばかりの頃に撮った写真だ。あの頃は、こんなに心が穏やかだったのに。私は写真立てを元の場所へ戻し、深呼吸をした。あの時のように、私は大きなケーキを用意しよう。もちろん、それは誕生日じゃない日の、ただの日曜日のケーキでいい。何も期待しすぎず、ただ優太という一人の人間と、向き合いたかった。
バーバ、来てくれるんだろうな。
優太の声を思い出し、私は微笑んだ。そして私は、ピアノの前に座った。長い間、弾けなかった曲がある。あなたに心を閉ざしていた頃、何度も弾こうとして弾けなかった曲だ。鍵盤に指を置き、静かに旋律を奏でる。目を閉じれば、優太が微笑んでいる。光一も、さやかさんも、まなも、それぞれの顔が浮かぶ。完璧な家族ではないけれど、それでもいい。私が私の人生を、もう一度奏で始める。
日曜日、インターホンが鳴った。玄関を開けると、笑顔の優太が立っていた。その後ろで、少し気まずそうに立っている光一の姿があった。
バーバ、見て!補助輪、取れたよ!
そう言う優太の頭を撫でながら、私は光一を見た。彼は何か言いたげに口を開け、そして小さく頭を下げた。私は何も言わず、うなずいた。すべてが許されたわけではない。でも、もういい。私は優太の方を向いて言った。
すごいじゃない。自転車、見せてくれる?
うん!
玄関を出て、優太に背中を押されるようにして、私は一歩踏み出した。冷たい風が頬に当たる。空は高く、青かった。私は思う。誰かを許すとは、忘れることではなく、傷を抱えたまま前に進むことなのだろう。そして、誰かの人生ではなく、自分の人生を、自分の手で奏でていくのだ。

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