土曜日の午後、夫の姉から電話がかかってきた。「あなたたちの離婚届、さっき役所に提出してきたわ」。私は手に持っていたカップをテーブルに置いた。夫は朝から出かけていたが、1年半前に会社を辞めている。まさか、勝手に。動揺する私に、姉は得意げに続けた。「弟に養われていたくせに、随分偉そうにしてたわね。今すぐ出ていって」。私は深呼吸して電話を切った。そして押し入れからダンボールを取り出した。実は3か月…

土曜日の午後、夫の姉から電話がかかってきた。「あなたたちの離婚届、さっき役所に提出してきたわ」。私は手に持っていたカップをテーブルに置いた。夫は朝から出かけていたが、1年半前に会社を辞めている。まさか、勝手に。動揺する私に、姉は得意げに続けた。「弟に養われていたくせに、随分偉そうにしてたわね。今すぐ出ていって」。私は深呼吸して電話を切った。そして押し入れからダンボールを取り出した。実は3か月...

土曜日の午後、夫の姉から突然電話がかかってきた。私は手に持っていたカップをテーブルに置いた。受話器の向こうから、夫の姉が得意げな声を出した。あなたたちの離婚届、さっき役所に提出してきたわ。私は一瞬、言葉を失った。離婚届?私と夫のですか?他に誰がいるのよ。二人とも署名してあったから、私が提出してあげたのよ。月末まで待つ必要なんてないと思って。

夫は朝から出かけていた。仕事の打ち合わせがあると言っていたが、1年半前に会社を辞めている。今も仕事は決まっていない。夫には確認したんですか?必要ないでしょ。あの子は上の人間に流されるから、姉の私が代わりに決断してあげたのよ。夫の姉はそう続けた。それに、弟に養われていたくせに、随分偉そうにしていたわね。もう他人なんだから、今すぐ出ていって。

私は一度、息を整えた。本当に、受理されたんですね。ええ、もう取り消せないわよ。今さら泣いても遅いから。ありがとうございます。助かりました。電話の向こうが少し静かになった。え?荷物をまとめるところだったんです。私はそう言って電話を切り、押し入れからダンボールを取り出した。

午後7時を過ぎた頃、夫が帰宅した。玄関に詰まれた段ボールを見るなり、夫は靴も脱がずに声を張り上げた。何をしているんだ?出ていく準備よ。急に何を言ってるんだ?お姉さんから聞いていないの?私は夫の顔を見た。離婚届、今日受理されたそうよ。夫の手からカバンが落ちた。受理された?お姉さんが役所へ持っていったって。

夫は震える手で携帯電話を取り出し、姉に電話をかけた。電話に出た姉に向かって夫は怒鳴った。姉貴?何をしたんだ?電話の声は私にも聞こえた。何って、離婚届を出したのよ。あんたがなかなか出さないから、代わりにやってあげたの。今月末まで預かっていろと言っただろう。離婚するって言ったのはあんただろう。証人欄まで揃えて渡してきたのはあんたじゃないか。数日早めただけよ。何を怒ってるの。これであの人のために使っていたお金を、もっとこっちへ回せるでしょ。

夫は言葉を失った。私は黙って、二人の会話を聞いていた。やがて夫が電話を切り、私に向き直った。姉貴が勝手にやったんだ。分かっている。なら、離婚を取り消せるか確認しよう。私は首を振った。私も離婚を望んでいるから、取り消す理由がないの。夫は床に積まれた段ボールを見回した。そして、テーブルに置かれた新しい鍵に気づいた。その鍵は何だ?私がこれから住む部屋の鍵よ。夫の顔色が変わった。いつ用意したんだ?三か月前よ。

私は岸本直美、56歳。夫の正とは結婚して27年になる。子供はいない。私は結婚後も食品会社の事務職を続け、夫も長く会社員として働いていた。暮らしが変わったのは、1年半前のことだ。平日の昼間、夫が青ざめた顔で帰宅した。会社をやめることになった。業績悪化による人員整理だった。私は夫を責めなかった。20年以上働いてきたのだから、少し休んでから次を探せばいいと思った。しばらくは私の給料で何とかするから、焦らなくていいよ。夫はうつむいたまま頷いた。

ただ、一つだけ頼まれた。姉貴にはまだ言わないでくれ。どうして?余計な心配をかけたくないんだ。夫の姉、雪子は6年前に離婚して、一人で暮らしていた。夫が時々、生活を援助していることは私も知っていた。夫が働いていた頃から、自分の給料から姉を助けていたのなら、私が口を挟むことではないと思っていた。

失業後、夫は家計の支払いを引き受けると言い出した。働いていない俺が、せめてこれくらいはやるよ、と。私の給料が入る口座のカードも、それまで通り夫が持っていた。家賃や光熱費は問題なく払われていたため、私は夫を信じていた。夫は毎朝スーツに着替えて家を出た。知り合いの会社から相談を受けている。今日は仕事の話をしてくる、と。しかし、収入が入った形跡はなかった。夫の姉と三人で食事をした時も、夫は仕事の話をしていた。正は昔から頼りになるわ。会社をやめても、すぐに声がかかるんだから。夫の姉は満足そうに笑った。そして、私へ顔を向けた。あなたも、仕事を続けていることくらい知っているはずなのに。夫の姉はそう言った。夫は訂正しなかった。むしろ、頼れる弟と呼ばれて誇らしそうに笑っていた。

三か月前の給料日、私は銀行へ向かった。口座の残高が思った以上に減っていたからだ。通帳を確認すると、毎月末、同じ不動産管理会社へ支払いが続いていた。私たちが住む家の管理会社とは違う。さらにその前の月には、通常より大きな金額が振り込まれていた。その日の夜、夫宛てに届いた封筒を見て、すべてがつながった。封筒に書かれていた不動産管理会社の名前は、通帳の振り込み先と同じだった。中身を勝手に開けることはしなかった。ただ、封筒の表面に、夫の姉が住むマンションの名前が記載されていた。

帰宅した夫に、通帳と封筒を見せた。これ、お姉さんの家賃よね。夫は一瞬だけ目をそらした。そうだ。あなたが会社を辞めてから、ずっと払っていたの?夫はため息をついた。お前が会社を辞めてから?違うわ。私は通帳を指さした。あなたが会社を辞める前から、この支払いは始まっていた。家賃だけじゃない。毎月、姉さんに振り込んでいるでしょう。夫の顔色が変わった。姉貴が生活に困っているんだ。仕方ないだろう。それなら、どうして私に相談しなかったの?夫は不機嫌そうに答えた。夫婦の金だろう。俺が働いていた頃は、俺の給料で生活していたんだから、同じじゃないか。同じじゃないわ。お姉さんを助けるなと言っているんじゃない。黙って私の給料を使っていたことを問題にしているのよ。家賃くらい、細かいことで騒ぐな。家賃だけじゃないでしょう。更新に必要な費用まで払っている。家族なら、助けるのが当たり前だ。それなら、自分で働いて助ければいいでしょう。夫の顔が険しくなった。

その時、夫は寝室へ向かった。戻ってきた夫の手には、離婚届があった。すでに夫の署名は書かれていた。そんなに俺の家族が嫌なら、離婚するか。夫は離婚届とペンを、私の前へ突きつけた。今まで俺に養われた恩も忘れて、よくそんなことが言えるな。離婚したら、一人で生活できるのか?私はペンを受け取った。そして、何も言わずに自分の名前を書いた。夫の表情が固まった。書いたわよ。提出しましょう。私が離婚届を差し出すと、夫は乱暴に奪い取った。今月末に出す。それまでに荷物と金の整理をする。今すぐ提出できないの?夫は答えず、離婚届を封筒に入れ、持ち去った。

その後、夫は証人欄を整え、月末まで預かるよう、夫の姉へ渡していた。私は今日の電話を受けるまで、知らなかった。あの時、私は理解した。夫は離婚届を脅しに使いながら、自分に都合のいい月末まで、私をつなぎとめるつもりだったのだ。もし私が折れれば、離婚届を提出せずに済む。私が折れなくても、月末までは私の給料を使える。姉の前で、頼れる弟でいられる。

翌日、私は勤務先の総務窓口へ行った。給与の振り込み先を変更したいんです。担当者が書類を差し出した。私は新しい口座番号を書き、署名した。その場で手続きは完了した。

そこから一週間後、月末まであと数日という日の夜、夫が言った。荷物、片付けたのか?ええ、もう少しで終わるわ。夫は何かを言いかけて、やめた。冷たい空気が流れた。私たちはほとんど会話をしなくなっていた。

月末の前日、私は職場から帰宅した。玄関に夫の靴がなかった。リビングを見ると、テーブルに一枚のメモが置かれていた。直美、今までありがとう。そう書かれていた。夫の荷物は、すでにすべてなくなっていた。彼は私がいない間に、自分の荷物だけをまとめて出ていったのだ。

私はテーブルに座り、そのメモをしばらく見つめた。涙は出なかった。むしろ、肩の荷が下りたような気持ちだった。翌朝、私は新しい住まいへ向かった。三か月前から借りていたワンルームの部屋。夫には内緒で、少しずつ荷物を運んでいた。必要なのは、それで十分だった。

引っ越しを終えた後、私は銀行で通帳の記帳をした。給与振り込みが、新しい口座に切り替わっているのを確認した。その口座は、私の給料だけで回る。自分のためだけの口座だ。私はスマートフォンを取り出し、夫の連絡先を削除した。そして、新しい部屋のテーブルに、余っていた離婚届の控えを置いた。そこに、夫が署名した紙も、姉が提出した証拠も、もう何も必要なかった。

あれから半年が経った。私は今も食品会社で働いている。残業も、自分の好きな時にできる。家には誰もいない。ただ、静かなテーブルで、一人で夕食を食べる。それでも、私は不自由に思ったことはない。あの日、夫の姉が電話をかけてこなければ、私は今もあの家にいたかもしれない。けれど、あの電話が、私を自由にしてくれた。

時々、夫の姉から電話がかかってくることがある。正が仕事を探しているのか分からないけど、何か知らないか、と。私は知らない、と答える。もう、私の知ったことではない。夫の中では、私が助けるべき姉。私の中では、夫も姉も、もう他人だ。離婚届は、あの日すでに受理された。私は、その書類を思い出すたびに、思う。あの日、私が自分で署名したから、今の私がある、と。

部屋の鍵は、今も私の手元にある。夫の家の鍵ではない。私自身が、これから住むために借りた部屋の鍵だ。その鍵を手にした日、私は初めて、自分の人生を自分の手で持ったのだと感じた。

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