シャンデリアの光がきらめく高級レストランの中央で、時沢マリナの声が響き渡った。同窓会の空気が一瞬で凍りつく。ブランド物のドレスに身を包んだ彼女が、会場の片隅で質素なジャケットを着た男を指差していた。
「ねえ、柊君、覚えてる?卒業式の時に私が言ったこと。当たっちゃったわね、見事に。月収15万の清掃員だなんて。20年前も今も何も変わってない。これからも変わらないわよ、あなたは」
周囲の視線が一斉にその男、柊惣一郎に集まった。だが、彼の表情に動じた様子はない。静かにグラスの烏龍茶を一口含むと、落ち着いた声で返した。
「そうだな、変わってないかもしれない。でも、恥ずかしいとは思わないな」
時沢が眉をひそめる。「なんでよ?普通恥ずかしくない?清掃員だなんてさ」
「俺が毎朝5時に出勤して磨いた床を、9時になると大勢の人が踏んで仕事に向かう。誰も気にしない。でも、その床がなければ気持ちよく仕事はできない。それだけのことだ」
「はあ?急に説教?清掃員の哲学ってやつ?」
仲間たちが声を上げて笑った。だが、惣一郎は光も屈辱も表情に浮かべない。ただ静かにどこか遠くを見るような目をしていた。
その時だった。レストランの扉が音を立てて開いた。息を切らせた美女が駆け込んでくる。「会長、探しましたよ」
その一言が、笑いに包まれた会場を根底から覆すことになるとは、まだ誰も知らなかった。
朝5時、まだ街灯の光だけが頼りの薄暗いオフィスビルのエントランスに、モップが床を滑る音が静かに響いていた。惣一郎は黙々と大理石の床を磨いていた。42歳。都内のビル管理会社に務めて10年。毎朝誰よりも早く出勤するのが彼の日課だった。
「今日も綺麗に仕上がったな」
ワックスが乾いた床面に蛍光灯の光が映り込むのを確認しながら、惣一郎は満足そうに頷いた。
「柊さん、また一番乗りですか?毎日早いですね」
同僚の若い清掃員が驚いた顔で話しかけてくる。「誰かが先にやらないとな」
「柊さんって本当に不思議な人ですよね。何が?」
「柊さんが来る前って、このビル、テナントの入れ替わりが激しくて雰囲気も暗かったんですよ。それが柊さんが来てから空気が変わったんです」
「床を磨いてるだけだよ」
「でも、外資系のコンサルの人たちも最近朝の挨拶するようになったじゃないですか。前はそんなことなかったのに」
「気のせいじゃないか」
「気のせいじゃないですよ。柊さんって、なんていうか、もっと大きなところにいるべき人っていうか……」
「買いかぶりすぎだよ。さあ、続きをやろう」
同僚をあしらいながら、惣一郎はまたモップを動かし始めた。本当に不思議な人だ、と後ろで呟く気配がしたが、振り返らなかった。
その日の夕方、アパートに戻ると郵便受けに見慣れない封筒が入っていた。差出人は同窓会実行委員会。20年ぶりの高校同窓会への招待状だった。
「会か」
封筒を持ったまま、惣一郎は狭い玄関先で立ち尽くした。学生時代の記憶が、錆びた針のような鋭い痛みと共に蘇ってきた。
あれは高校1年の春だった。元々口数が少なく目立たない生徒だった惣一郎。父は中学の頃に家を出ていき、母が女手一つで育ててくれた。制服は兄のお下がりで、弁当箱は蓋が歪んでいた。それでも惣一郎は毎日学校に通い続けた。
最初に目をつけてきたのが時沢マリナだった。クラスの中心にいつもいる女子。成績も良く、容姿も整っていて、口が達者で誰もが彼女の顔色を伺っていた。そんな時沢が最初に言った言葉を、惣一郎は今でもはっきり覚えている。
「ねえ、あなたの弁当箱、蓋が歪んでるんだけど。貧乏臭くて見てられないわ。本当だ。受ける。新しいの買ってもらえないの?」
笑い声が教室に広がった。惣一郎は何も言えなかった。誰にも笑われたくないし、母が早起きして詰めてくれた弁当を、その日からトイレで食べるようになった。しかし嫌がらせはそこで止まらなかった。上履きに画鋲を入れられる。教科書を隠される。そして何より彼の心を蝕んだのは、周囲の見てみぬふりだった。
そんな中、唯一隣の席に座り続けてくれたのが園田琢磨だった。ある日、いつもトイレで弁当を食べていた惣一郎のところに、その園田が当たり前のような顔で入ってきた。
「ここにいたか?俺も一緒に食っていいか?」
「なんでだよ」
「なんでって?飯は誰かと食った方がうまいだろ」
「お前まで標的にされるぞ」
「なったらなった時だ。それよりその弁当、うまそうだな。お母さんが作ったのか?」
「ああ、てか、ここトイレだぜ」
「誰かと一緒なら、トイレで食う飯もうまいって。いいな。俺のは毎日コンビニだから、羨ましいよ」
何かをしてくれるわけではない。ただ、その男はいつも隣にいてくれた。それだけで惣一郎はどうにか3年間生き延びた。
そして卒業式の日を迎え、体育館からの帰り道、時沢が惣一郎の前に立ちはだかった。取り巻きを数人引き連れ、うら笑いを浮かべながら近づいてくる。その手には惣一郎の鞄から抜き取った弁当箱が握られていた。
「柊君、3年間お疲れ。最後にプレゼントしてあげる」
「おい、それ返してくれ」
「なんで?どうせ貧乏臭い弁当でしょ」
時沢は弁当箱を無造作に廊下に投げつけた。ガシャン、と乾いた音。蓋が外れ、母が朝から丁寧に詰めてくれたおかずが廊下に散らばった。卵焼き、小さなウィンナー、丁寧に切り揃えられた野菜炒め。それが冷たいタイルの上に無惨に広がった。
「うわあ、汚い。片付けてよね。廊下が汚れるから」
惣一郎は膝をついて、散らばったおかずを一つ一つ拾い集めた。屈辱よりも先に、母への申し訳なさで胸がいっぱいになった。時沢はその背中を見下ろしながら、最後にこう言い放った。
「ねえ、柊君。私が予言してあげる。あなた、一生底辺ね。本当それ。あの弁当箱から何も変わってないもんね。これからも変わらないでしょ。ずっと」
笑い声が廊下に響いた。惣一郎は何も言わなかった。ただ散らばったおかずを全て弁当箱に戻してから、静かに立ち上がった。胸の奥に何かが静かに沈んでいくのを感じた。その隣で、園田が悔しそうに唇を噛んでいた。
それから数年後、社会に出てまもない惣一郎のアパートに母が訪れてきた。少し痩せた顔でも嬉しそうに笑いながら、大切そうに抱えた紙袋を差し出した。
「惣一郎、これあげる。ずっと前から少しずつ貯めてたの。働くあなたにと思って選んだ一着よ」
「母さん、無理したんじゃないか」
「無理じゃないよ。胸を張ってきなさい。あなたは真っ直ぐな子だから」
紙袋を受け取り、中からスーツのジャケットを取り出す。上質な生地で、色は落ち着いた紺。何度も店に足を運んで、一生懸命選んだというのが伝わってきた。母は普段、自分の物はほとんど買わない。贅沢をしない母が、どれだけ頑張って貯めたのかと思うと、不思議と恥ずかしくなかった。
「ありがとう、母さん。大事にする」
数週間後、惣一郎は初出勤の日にそのジャケットを着た。苦しくて、居心地が悪くて、いっそ捨ててしまいたい日々だった。しかし、母がくれたジャケットを身に着けると、不思議と背筋が伸びた。
それから20年。惣一郎は一度も会社を辞めなかった。出世こそしなかったが、同じ場所で黙々と床を磨き続けた。
それが今の自分を作った。
同窓会当日、時沢は噂通り、昔と何も変わっていなかった。いや、変わったのは自分の方なんだ、と惣一郎は思う。
「ねえ、何黙ってんの?何か言いなさいよ」
時沢の声が現実に引き戻す。惣一郎は静かに立ち上がった。
「確かに、俺は清掃員だ。でも、教えてくれ。お前は20年で何か成し遂げたのか?誰の役に立った?」
時沢が口を開けたまま硬直する。「な、何言ってるのよ」
「誰かを傷つけること以外で、真剣に何かをやり遂げたことがあるなら教えてくれ。仕事に誇りを持って、誰かのために動いたことがあるか?」
その言葉に、周りがしんと静まり返った。時沢の顔が赤くなったり青くなったりする。言い返そうと口を開けたその時、レストランの扉が勢いよく開いた。
「会長、探しましたよ!」
若い女性が息を切らせて駆け込んでくる。彼女は惣一郎の姿を認めると、深々と頭を下げた。
「総務部長から連絡がありました。至急、本社にお戻りください。株主総会で使う資料の最終確認が終わったとのことです」
「わかった。すぐ行く」
惣一郎は静かに立ち上がり、ジャケットの胸元を整えた。女性がぽつりと言った。「会長が人にそういう話をするなんて、珍しいですね。何かあったんですか?」
「いや、ちょっとな。昔の知り合いに会っただけだ」
時沢は蒼白になっていた。会長、と呼ばれた男が誰か、一瞬で理解できなかった。周りの同級生たちも同じだった。
「ちょ、ちょっと待って。何、会長って?」
女性が困惑した顔で時沢を見た。「そちらの方は?」
「柊会長、東都興業のグループ会社の社長を務めておられます」
時沢の顔が引きつる。「でも、清掃員じゃ……」
「資産家としての隠れ蓑に、でしょうね。柊会長はこれまで一度も表に立たず、会社を大きくしてきまし たが、身元を隠すために各地で清掃員として働いていたことは有名です」
惣一郎は何も言わず、ただ静かに笑みを浮かべた。そして、時沢の方を見ると、落ち着いた声で言った。
「たしかに俺は清掃員だ。だが、お前のような人間に一番言いたいことがある」
時沢がごくりと唾を飲んだ。
「お前は今も何も変わってない。でも、俺は変わった。お前の中で、俺はいつまでもいじめられていた少年のままかもしれない。だが、皆の前で恥をかかせておいて、よく他人の人生を見下せたものだな」
時沢は何も言い返せなかった。いや、言い返す言葉が見つからなかった。周りでは、時沢の仲間すらもがうつむいていた。
惣一郎は振り返らずにそのまま店を出ていこうとした。しかし、数歩歩いたところで足を止めた。
「そういえば、ひとつだけ言い忘れてた」
彼は振り返り、時沢に冷たい視線を向けた。
「お前が言ってた予言、覚えてるか?『一生底辺』ってやつ。たしかに俺は出世はしなかった。結婚もせず、貯金もなかった。人生の半分以上を誰に理解されない孤独と闘ってきた。でもな、」
一呼吸置いて、ゆっくりと続けた。
「俺を底辺と思ってるのはお前だけで十分だ。そして、その自分にとって都合のいい予言が、いつまで届くか楽しみにしてろよ」
彼は背を向け、そのまま店を出た。外にはアスファルトに夜の闇がしっとりと降りていた。一歩一歩踏みしめるように歩きながら、惣一郎は思った。俺は間違ったことを言っていない、と。
アパートに戻ると、部屋のドアの前で誰かが壁にもたれかかっていた。園田琢磨だった。
「久しぶりだな、柊」
「園田……いつからいたんだ」
「ずっといたよ。会場の後ろで見てた。お前、カッコよかったぜ」
惣一郎は苦笑した。「もっと早く声をかけてくれればよかったのに」
「いや、お前の同級生ぶってるやつらに会ったら、最後は言い過ぎて殴られそうだったからな。今日は会いに来たのは、お前が生きてるかどうか確認するためじゃなくて、」
園田はポケットからビニール包みを取り出した。「母ちゃんの作った弁当だ。相変わらずお前、一人で食ってるんじゃないかと思ってな。トイレじゃなくて、今日は場違いじゃないところで一緒に食おうぜ」
「……ああ、そうするよ」
二つ並んでアパートの階段に座り、園田が差し出した弁当を開けた。中には卵焼きとウィンナーと野菜炒めが入っていた。惣一郎の目に、あの日の光景が浮かんだ。
「母さん、元気か?」
「うん。あの日、お前のお母さんがうちに来て、『惣一郎のこと、見守っていてやってください』って頭を下げられたんだ。うちの母ちゃんも泣いてたよ。それからずっと、お前のことを気にかけてたんだ」
何も言えなかった。胸の奥で何かが熱くなった。
「……改めて言うね。母さんを助けてくれて、ありがとう」
「何言ってるんだよ。お前はずっと一人で食ってたじゃないか。孤独は体に悪いんだよ」
惣一郎は卵焼きを一口かじった。母が作ってくれた味と同じ、優しい味がした。
「同じ場所で、同じ味を食えるなら、底辺だっていい。俺はそう思うよ」
園田が笑った。「へへ、やっぱお前は変わってないな、柊は」
そう言いながら、園田も自分の弁当を開けた。
「お前が教えてくれたんだ。他人の目を気にするんじゃなくて、自分が信じた道をずっとまっすぐ行けばいいんだって。それでいいんだって。モップをかけながら、そう思ってるよ」
夜空に星が出ていた。恋でも、成功でもない。ただ、今日一日を一生懸命生きたという手応えだけがあった。
翌朝、惣一郎はいつものように5時に起き、ビルへ向かった。大事な仕事に手を抜くことなく、今日も黙々と床を磨いた。蛍光灯の光が新品の床に映り込む。その時、エントランスのドアが開く音がした。
「おはようございます。おや、今日も朝からご苦労さま」
見ると、スーツを着た男性が立っていた。このビルで働くエリートサラリーマンだ。
「おはようございます。お疲れさまです」
「いいえ。柊さんが朝、清掃してくれるから、こうして気持ちよく仕事ができるんです。感謝してますよ」
男性がそう言って頭を下げ、スタスタとオフィスへ向かっていった。
惣一郎は一人になると、そっとモップを握り直した。誰よりも早く床を磨く。それは自分にしかできない、誰かのための仕事だ。
その日、惣一郎はかつてないほど丁寧に、ゆっくりと床を磨いた。彼が磨いた床は、光を受けて静かに輝いていた。あの日、バカにされた弁当箱のように、彼の人生は誰も認めないかもしれない。それでも、彼は今日も、誰かが気持ちよく歩けるように、黙々と床を磨き続けるのだ。
