「今のうちに家を出るぞ。深夜を回った頃、明日の昼に出す煮物の具を刻んでいた私の手を、夫の光一が強く握りました。」
「え、どうしたの?まだ終わってないわ。孫たちに出す素麺も切ってないし。」
「そんなのはもうどうでもいい。」
普段は穏やかな夫の光一が、低い声で言いました。
「このままじゃ、お前は帰って来られなくなる。」
私はお盆に手術を受ける予定です。息子一家も入院の準備を手伝うために帰省してきたばかり。それ以外は何の変哲もない夏の夜。そう思っていたのは私だけでした。
ところが夫は私へ上着と鞄を押し付けた。
「通帳と印鑑、家の書類は俺が持った。田中さんの家へ行くぞ。」
その時、二階から息子夫婦の声が聞こえたのです。
確かに聞こえました。
「手術で入院したら、もうこの家には戻さなくていい。」
膝から力が抜けた私を、四十二年連れ添った夫の手が支えていました。
私の名前はさち子。六十八歳。夫の光一と二人、静かな住宅街の一軒建てで暮らしています。住宅ローンは完済し、退職金と年金で穏やかな老後を送っていました。一人息子の達也は四十二歳、妻の美和さんと二人の子供を育てています。今年も一家で泊まりに来ると聞き、私は仏壇を掃除し、孫たちの好物を用意した。
家族揃ってお盆を迎える。そんな穏やかなお盆になると信じていたのです。
ただ、ここ数ヶ月、美和さんからの電話が増えていました。
「手術は何日ですか?入院はどれくらい?お金は大丈夫ですか?」
私は心配してくれているのだと思い、素直に答えていました。夫は質問の細かさに警戒していましたが、私は笑って流しました。息子を疑いたくなかったのです。
息子夫婦の住宅ローンが苦しいことは知っていました。それでも、私たちを利用するとは想像すらしていませんでした。
八月に入り、息子一家が大きな荷物を抱えて帰省しました。孫たちが笑顔で駆け寄り、私は胸がいっぱいになりました。夕方には皆で餃子を焼くことができた。今年も家族が揃った。それだけで幸せだと思いました。
けれど美和さんは家へ入るなり室内を見回していました。
「この花瓶、結構高いものじゃないですか?この家、今売ったらいくらくらいになるんでしょうね。」
台所では戸棚や引き出しを勝手に開けました。
「入院中、通帳とか印鑑はどこへ置くんですか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「急な支払いがあったら困るじゃないですか。」
その顔は笑顔だった。でも目だけは笑っていませんでした。
夕食後、息子が私たちへ頭を下げました。
「百万円だけ貸してくれないか?住宅ローンと教育費が重なって、今月かなり厳しいんだ。」
困っている息子を見て、私の心は揺れました。家族が困っていると聞けば、私はいつも自分を後回しにしてきた。学費も結婚費用も、できる限り助けた。
しかし夫はすぐには頷きませんでした。
「何にいくら必要なのか、紙に書いて持ってこい。」
達也の顔が曇ります。
「親子なのに、そこまでしないとダメなのかよ。」
「親子だからこそだ。」
光一は静かに返しました。
その直後、リビングから美和さんの声が聞こえました。
「おばあちゃんが手術をしたら、ここに住めるかもしれないわよ。」
私は持っていた湯呑みを落としかけました。まだ私はここで暮らしています。これからもここで暮らしていくのに、美和さんは私がいなくなった後の話を孫たちへしていたのです。
その夜、眠れなかった私は台所で翌日の準備をしていました。窓の外では夏の虫が泣いている。
そんな時、夫が降りてきて私の肩へ手を置きました。
「さち子、二階の話を聞け。」
私たちは息を殺して、階段のそばに立ちました。美和さんの声が聞こえます。
「手術の日に通帳と印鑑を預かるの。入院の書類だと言って、光一さんにもハンコを押してもらう。お母さんが入院したら、お父さんには一人暮らしは危険だって言って、短期の施設へ入れてしまえばいいのよ。」
達也が小声で答えました。
「でも、母さんは膝の手術をするだけだぞ。退院したら普通に戻ってくるだろう。」
「階段のある家は危険だし、また転んだら困るとか、そう言っておけばいいのよ。その間に家を売るの。売ったお金でうちのローンを返す。分かったわね。」
そして短い沈黙が流れました。私は心の中で、達也が止めてくれることを願いました。息子なら、私が育てた息子なら、きっとそんなことはできないと言ってくれるはず。
しかし達也は言いました。
「確かに、百万円借りるだけじゃ焼け石に水だもんな。」
その一言で、胸の奥が冷たくなりました。達也は美和さんに騙されていたのではありません。分かっていた。分かった上で、自分が楽になる方を選ぼうとしていたのです。
「今の会話は録音した。」
夫が小声で言いました。
「今のうちに出るぞ。でも、孫たちが……」
「あの子たちを守るためにもだ。俺たちが家も金も失ったら、何もできなくなるだろう。」
私は台所に並べた料理を見つめました。孫たちが喜ぶ顔を想像しながら、一つ一つ用意したものです。私の愛情は本物でした。けれど、愛情が本物であることと、裏切りを受け入れることは違います。
私は鞄を持ちました。その時、美和さんが台所へ降りてきた。部屋着なのに、髪も化粧も整ったまま。
「まだ起きていたんですか?」
そして、私たちの鞄を見て表情を変えた。
「この時間にどこへ行くんですか?」
「少し外へ。」
「こんな夜中に、高齢者だけで出歩いたら危険ですよ。」
美和さんは勝手口の前へ立ちました。
「それより、手術前に通帳と印鑑を預からせてください。退院後の施設ももう見つけてありますから。」
「私は施設へ入りません。」
私が答えると、美和さんの笑顔が消えました。
「でも、手術したらこの家では暮らせませんよ。」
「それを決めるのは私です。」
「お母さんのためを思って言ってるんです。」
私は初めて、彼女の言葉を遮りました。
「私のためなら、なぜ家を売って自分たちのローンを払うの?」
美和さんは驚いた顔をしました。
話を聞いていたのか、達也が階段を駆け降りてきました。
「母さん、違うんだ。」
「何が違うの?話を聞いてたのか?」
「全部聞きました。」
私は息子をまっすぐ見ました。
「私は手術を受けるだけです。人生まで、あなたたちへ預けるつもりはありません。」
私たちは勝手口から外へ出ました。熱のこもった夜風が顔へまとわりつく。でも、そんなの今は気にならない。後ろから、服を着替えた息子夫婦が追いかけてきています。
「母さん、待ってくれよ。近所に聞こえるだろ!」
私は振り返り、追いかけてきた二人へ言い放ちました。
「深夜に親を追い回して、何がしたいの?」
あの夏の夜、私は六十八歳にして初めて、息子へはっきり言いました。
「いいえ」と。
その一言で守ったのは、家や貯金だけではありません。光一と私がこれから一緒に生きていく時間でした。
