父の葬式ごときで、たかが一日の有給を取るのに何の許可が要るんだ。フロア中に響き渡ったその言葉に、オフィスの空気が一瞬で凍りついた。蛍光灯の白い光のもと、社員たちの手が一斉に止まる。キーボードを叩く音だけが、不自然なほどに途切れた。五十二歳の中途社員、瀬川信吾。目の前に叩きつけられた申請書をじっと見つめたまま、彼は唇を固く結んでいた。
「父の葬儀なんです。せめて一日だけでいいので、お願いします」
「うるさい。お前が休んだら、誰が数字をまとめるんだ。数字を出せない人間が、上に訴えるな。却下だ」
父が息を引き取った。三十年近く、まともに言葉を交わした記憶のない父が、もうこの世にはいない。その事実を胸の奥に押し込みながら、信吾はゆっくりと頭を下げた。
「……わかりました」
「わかればいいんだよ。ったく、使えねえおっさんだな」
黒沢は吐き捨てるように言うと、振り向きもせずに自席へ戻っていった。たった一言。五十代の中途社員が、父の葬儀にすら出られなかったという事実。それが、予想もしない形で自分に牙を向くことになろうとは、この時の黒沢は想像すらしていなかった。翌日、これまでの地位がデスクごと音を立てて吹き飛ぶことになるとは、誰も知らない。
朝七時のオフィスに、コーヒーの苦い香りが漂っていた。始業より一時間以上も早いその時間に、すでにデスクへ向かっている男がいた。瀬川信吾、五十二歳。半年前に劇場ファクトリーへ中途で入社したいわゆる新人社員だ。五十を過ぎてから「新人」と呼ばれる。その立場に、最初はさすがに戸惑いもあった。しかし、今ではそれすら日常の一部になっていた。前職の食品メーカーで二十五年間、営業一筋に歩いてきた。だが、会社の業績悪化に伴う希望退職の募集に手を挙げざるを得なくなったのが、つい一年前のことだ。五十代での再就職がどれほど厳しいか、信吾は身を持って知っていた。何十社も送り続けた履歴書。その中で、ようやく拾ってもらえたのがこの会社だった。
入社初日の新人研修。信吾は、自分より二十歳以上も若い新卒社員たちと肩を並べて座っていた。人事担当者の説明が淡々と続く。
「では次に、名刺交換の練習をします。両手で持って、相手より低く差し出すようにしてください」
二十五年以上、名刺を交わしてきた手が、その日だけは妙にぎこちなかった。隣に座った新卒の若手が小声で話しかけてきた。
「あの、瀬川さんって、前職でも営業だったんですか?」
「ああ、まあ、二十五年前からな」
「えっ、二十五年前って……すごいですね。新人なのにベテランみたいで」
「……そうか。すごいかな」
苦笑いをこらえながら、信吾は静かに前を向いた。住宅ローンの残りと、一人暮らしの母への仕送り。それを考えれば、贅沢は言っていられない。この年齢で雇ってもらえただけでも、感謝しなければならないのだ。毎日、自分にそう言い聞かせていた。
劇場ファクトリーの営業部は十五名で、そのほとんどが二十代から三十代の若手社員だ。五十二歳の新人というのは、どう見ても浮いた存在だった。社内では「おじさん新人」と陰で呼ばれていることも、信吾はとっくに知っていた。それでも、毎朝誰よりも早く出社して、コピー用紙の補充から来客用の湯茶の準備まで、頼まれた雑用を黙々とこなしていた。
昼休みの社員食堂は、若手社員たちの笑い声で賑わっていた。信吾は隅のテーブルで一人、定食を前に箸を動かす。そこへ、同じ営業部の若手社員が盆を持って近づいてきた。
「瀬川さん、隣、いいですか?」
「ああ、どうぞ」
「いつも早いですよね。何時に来てるんですか?」
「そうだな、七時には来てるかな。早い方が、仕事が捗るから」
「え、そんなに早いんですか? 僕なんていつもギリギリですよ」
他愛のない会話だった。しかし、その短いやり取りが、信吾には少しだけ温かく感じられた。そして、その温かさがわずかに胸に染みる。この職場で、自分から話しかけてくれる人間がいる。そんなことを、この年になって思うとは思わなかった。
信吾には、誰にも話していない過去がある。幼い頃に両親が離婚し、母に引き取られてから、ずっと一人で歩いてきた。その過去を、この職場で語るつもりはなかった。ただ、それを指摘された時、自分の居場所がどこにもないことを思い知らされるのだ。
入社から半年、信吾の日常はすっかり固定されていた。そんなある朝のことだった。その男が営業フロアに現れると、いつも空気が変わる。営業部長、黒沢義明、四十八歳。常にきっちりと撫でつけた髪型といかにも高級そうなネクタイが、その強い自己顕示欲を如実に表していた。営業成績だけでのし上がってきた男で、「数字を出せない奴は人間じゃない」という言葉を平然と口にする。そんな黒沢が、入社以来、目をつけているのが信吾だった。
ある朝、信吾がいつものように早朝出社してデスクを整理していると、黒沢が大股でフロアに入ってきた。始業前だというのに、その目はすでに険を帯びていた。信吾の姿を認めるなり、一直線に近づき、デスクの上に分厚いファイルをドンと叩きつけた。
「瀬川。これは今日中にまとめておけ。営業先のリスト五百件の更新と、来週のプレゼン資料の下書き、三十ページだ。できないとは言わせないからな」
複数人で数日かけて処理する量を、一日で一人にやらせる。誰が見ても無理な指示だ。しかし、信吾は込み上げてくるものを飲み込み、静かに答えた。
「……承知しました」
「五十過ぎて中途で入ってきてんだ。それくらいの覚悟はあるんだろうな。前の会社じゃどうだったか知らないが、ここでは年齢なんて関係ない。使えなきゃ切る。それだけだ」
周囲の若手社員たちは、居心地悪そうに目をそらした。誰一人として声をあげない。黒沢に目をつけられたら終わりだ。誰もが暗黙のうちに理解していたからだ。
その日のうちに、信吾は指示された業務を全て完了させた。しかし、黒沢はそれを確認すると、ねぎらいの言葉もなく、次の指示をデスクに積み上げた。
「次はこっちの資料も直しておけ。明日の朝までだ」
「承知しました」
「返事だけは一人前だな。まあ、その返事ができるだけマシか」
鼻で笑いながら、黒沢は自分のデスクへ戻っていった。その背中を見送りながら、隣の席の若手社員、鶴田が小声で話しかけてきた。鶴田は二十八歳の若手社員で、以前は自分が黒沢のターゲットだったことを、誰よりもよく知っていた。
「瀬川さん、本当にお疲れ様です。あんな無茶な言い方、ないですよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「無理しちゃだめですよ、本当に」
その一言が、砂漠に落ちた一滴の水のように、信吾の胸にじわりと染み込んでいった。そうした日々が続く中で、信吾が何より耐え難いのは、黒沢が意図的に信吾の経験を無価値なものとして扱うことだった。顧客の機微から求めているものを察知し、先回りして提案を組み立てる。二十五年で培ったその技術は、若手社員にはまだ備わっていないものだ。しかし、黒沢にはそうした信吾の仕事ぶりを評価するつもりなど、最初からなかった。
ある夕方、信吾が顧客との長い電話を終えた直後のことだった。受話器を置いた瞬間、黒沢が自分のデスクから立って、信吾のところへ歩いてくるのが見えた。その手には、また分厚いファイル。
「瀬川。お前、昨日言った資料、まだ完成してないんじゃないか?」
「いえ、あの件は先方の都合で……」
「言い訳はいいんだよ。お前、前の会社ではああやって、効率よくやってたのか? 俺の指示に文句があるなら、今すぐ辞めてもらってもいいんだぞ?」
「……いいえ、そんなつもりはありません」
「なら、さっさとやれ。いつまで使えないおさんさまのままでいるつもりだ」
黒沢は、わざと周囲に聞こえるような声で言った。若手社員たちが、気まずそうにうつむく。信吾は、握った拳に爪が食い込むのを感じながらも、何も言い返せずにいた。
その夜も、信吾のデスクの蛍光灯だけが、深夜のオフィスに白く浮かんでいた。パソコンの画面を睨みつけながら、信吾はふと、自分は一体何をやっているのだろうと思った。五十二歳になって、ここで耐える意味はあるのだろうか。母への仕送りは、住宅ローンは。辞めるという選択肢は、最初からないに等しい。だが、このまま耐え続ければ、いずれ体か心の方が先に壊れてしまう。そんな不安が、毎朝の出勤前に押し寄せては、水のように消えていく。
翌朝も、信吾は誰よりも早く出社した。自分のデスクに向かうと、すでに誰かが座っている。否、座らされている。
「何だ、お前は」
黒沢が、自席でふんぞり返っていた。その手には、信吾が昨日仕上げて提出した書類がある。
「これは何だ、瀬川。この数字、俺が指示した通りになってないだろうが」
「いえ、確かに指示通りにまとめましたが、このデータは顧客から送られた最新のものを……」
「こんなもん、俺が決めた数字と違うんだよ。お前は、俺の指示を無視して、勝手なことをしてるんだろうが!」
そう言って、黒沢は書類を信吾の胸に叩きつけた。顔色を変えずに、信吾は拾い上げた。
「……書き直します。今日中に」
「当たり前だろうが。それと……」
黒沢は、フロア全体を見回すと、わざとらしく声を大きくした。
「はっきり言って、うちの部署には、お前みたいな老いぼれは必要ないんだよ。大方の上司に取り入って、気持ちよく過ごそうって魂胆だろうが」
「――失礼ですが、部長。私がこれまでに取り込んだ上司というのは、誰のことをおっしゃっているんですか?」
信吾の口元が、わずかに強張る。周囲の空気が、張り詰める。これまで、信吾は一度もこんな風に言い返したことはなかった。言い返すこと自体を、無意味だと諦めていたからだ。しかし、その言葉は、信吾の口を突いて出ていた。
黒沢は一瞬、口を開けて固まったが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「この野郎、言い返す根性がついたか。いいだろう。お前には、今日から君の仕事がない。営業ラインから外れた、資料整理の仕事に回ってもらう。全ての権限を剥奪するぞ」
「それでも、かまいません。私には、やれることをやるだけです」
信吾の目は、決して負けを認めなかった。黒沢は、たちが悪いと机を蹴ると、フロアを出ていった。静まり返るオフィス。すると、若手社員たちが、立ち上がって信吾の周りに集まってきた。
「瀬川さん、大丈夫ですか? あんなの、酷いよ!」
「俺らが、代わりの仕事を割り振ります。だから始めましょう」
「そうだよ。俺たちが納得しなきゃ、部長の指示通りには動けませんから」
周囲から、信吾を心配する声が聞こえてくる。信吾は、その言葉に驚き、しばらく立ち尽くした。初めて彼らが自分を「同僚」ではなく、「味方」として見てくれていることに気づいたからだ。
その日から、信吾への扱いは変わった。黒沢は、相変わらず高圧的ではあるが、信吾の意見を無視して決定することができなくなった。信吾が作成した書類は、前職の経験が生きた本当に正確なもので、結局は黒沢が間違っていたことを証明する結果になることが多かったからだ。
二週間後、信吾のデスクに、一枚の書類が届いた。
「係長昇進の辞令? 私が?」
書類を見ると、黒沢の判が押されていた。黒沢は、信吾に背を向けたまま、言った。
「……医務室の、前の席なんだが。お前の、あの落ち着き具合を見て、医務室の人間が知り合いでな。どうしても呼んでほしいと言われたんで、俺が推薦したんだ」
「医務室、ですか? 私は、私が……」
「いいから! お前が職場にいると、俺が場を追い出されるんだよ。少しは、俺の立場を考えて動け!」
そう言って、黒沢は足早に去っていった。信吾は、手の中の辞令を見つめた。横で見ていた鶴田が、にやっと笑った。
「おめでとうございます、主成分。黒沢部長も、素直じゃないですね」
「……返信」
信吾は、苦笑いを浮かべた。新しい役職は、会社全体の社員の健康管理を担当する、デスクワーク中心の仕事だ。営業のように数字を追うことはない。信吾のペースで、自分の知識を活かせる仕事。信吾は、深く息を吐くと、初めて自分の居場所が見えたような気がした。
窓の外では、穏やかな秋の日差しが差し込んでいた。信吾は、机の上を綺麗に整え、新しいデスクへ向かうため立ち上がった。悔しさや、悲しさでいっぱいだったかつての日常。しかし、今の信吾には、それを受け止めるだけの心の余裕が生まれていた。誰かに必要とされることが、どれほど尊いことか。やっと、この歳になって知ることができたと思った。
