夕暮れの銀座。ネオンが灯り始めた街並みを、俺は一歩一歩確かめるように歩いていた。普段なら絶対に足を踏み入れない高級店が立ち並ぶ通りだ。11月の冷たい風が頬を刺し、枯れ葉がアスファルトの上を音を立てて転がっていく。
俺、瀬戸明は56歳。中学校を出てすぐに築地の市場で働き始め、35年間ずっと魚と向き合ってきた。3年前に体を壊してからは、地元の小さな水産加工会社で働いている。今日は特別な日だ。2年前に病気で亡くなった妻・和江の命日。そして、彼女との結婚記念日でもあった。
和江が見てるか。お前が生きたいって言ってた店に、ようやく来られたよ。
和江は何度も言っていた。「いつか銀座の高級なお寿司屋さんに2人で行きたいね」と。しかしその約束を果たすことはできなかった。せめて今日くらいは、彼女が喜ぶことをしてやりたい。半年かけて少しずつ貯めた金で、評判の高い高級寿司店を予約したのだ。実はこの店の大将とは仕事で面識がある。俺が卸している魚を扱ってくれている間柄だ。だが客として店に来るのは初めてだった。高級店だから予約は難しく、何度も電話をかけて、ようやくキャンセルで空いた席を確保できたのだ。
やっと思いが叶う。
店ののれんをくぐると、木の香りがふわりと漂ってきた。カウンター席にはすでに何組かの客が座り、職人が黙々と寿司を握っている。その手元を見た瞬間、長年の職業病が顔を出す。包丁の入れ方、シャリの握り加減、ネタの切り付け、どれも一流の仕事だと一目で分かった。特にマグロの扱いが素晴らしかった。赤身から中トロ、大トロへと移行する部位の見極めが正確で、無駄のない動きに思わず見入ってしまう。
「いらっしゃいませ。瀬戸さん」
大将の顔がぱっと明るくなった。
「まさか本当に来てくださるとは。お待ちしておりました」
「ああ、ようやく来られたよ」
「直接ご連絡いただければ、ご案内いたしましたのに」
「いやいや、特別扱いをして欲しくなかったからね」
「そうですか。お気遣いありがとうございます」
大将に案内された席に腰を下ろす。隣の席では、派手な女とその夫らしき男がすでに食事を始めていた。
「ねえ、あなた。このマグロ、やっぱりここは違うわね」
「そ、そうだな。さすが銀座のお店だ」
「大将の腕は本当に素晴らしいわ」
女の声がやけに店内に響いている。全身をブランド品で固め、首元には大粒の真珠が光り、耳には大きなダイヤのピアスが揺れていた。その隣には、気弱そうな顔をした男が座っている。高そうなスーツを着ているが、どこか自信がなさそうで、妻の後ろに隠れるようにしていた。
派手な客だな。だが俺は俺の時間を大切にしよう。
大将が穏やかに俺に話しかけてきた。
「瀬戸さん、お客さんとしていらっしゃるのは初めてですよね」
「ああ、そうだな」
「今日は何か特別な日ですか? 」
「ああ、亡くなった妻の命日でね。彼女がずっと来たがってた店だから」
大将の目が少しだけ優しくなる。
「そうでしたか。それは大切な日ですね。では今日は特別に最高のネタを」
「いや、構わない。昔みたいに仕事で来てるわけじゃないんだ。普通ので十分だよ」
「何をおっしゃいますか。瀬戸さんほどの方なら、このネタの良さが一番分かるはずです」
「大将は昔から俺を買い被りすぎだ」
「いえいえ、本当に現場一筋でここまで来られたんですから」
「学歴がなかったからな。中学を出てすぐに築地に入った。それしか道がなかっただけだよ」
「それでも35年も続けてこられた。それは立派なことです」
大将の言葉に少し照れくさくなる。隣の席の女がこちらをチラチラと見ているのが気になる。会話を聞いていたのか、少しだけ眉をひそめているのが分かった。
「それより大将、今日のマグロはどうだ? 」
「今朝、目玉から届いたばかりです。後ほどお出しします。瀬戸さんにこそ是非召し上がっていただきたい」
大将が最初の握りを差し出す。鯛の小じめだ。口に含んだ瞬間、俺は思わず目を閉じた。身の締まり方、昆布の風味の浸透具合、シャリとの一体感、どれも完璧だった。
「うまい。鯛の扱いが丁寧だな」
「ありがとうございます」
和江、この味をお前にも食べさせてやりたかったな。心の中で妻に語りかける。いい夜になりそうだ。
しかし、そんな寿司の余韻を味わっている時だった。隣の席の女が大きな声を上げた。
「大将、次のネタはまだかしら? 」
「はい、朝倉様、ただ今お持ちいたします」
「早くお願いね。こっちは連日来てるんだから」
声は高く、店内に響き渡る。大将が「朝倉玲子」と呼んだその女は、常連の特権でもあるかのように、満足げに店内を見渡した。その視線が俺の方で止まる。じっと観察するような目つきに、居心地の悪さを感じた。
玲子の視線は、俺の古びたジャケットの袖口、靴、そしてまた顔へと移動していく。品定めをするような視線には、明確な軽蔑の色が浮かんでいた。
「ねえ、あなた。あの人、一人で来てるのよ」
「玲子、声が大きいよ」
「だって本当のことじゃない。見なさいよ、あの服。量販店で買ったような安物でしょ。こういう店に来るなら、それなりの格好をするべきよ」
玲子は夫に向かって、わざと聞こえるような声で言った。その瞬間、店内の空気が変わったのを感じた。他の客たちも気まずそうに目を伏せている。大将の顔にも困惑の表情が浮かんでいた。
玲子の言葉が明確に俺に向けられている。俺のことを言っている。
確かに、俺の服は高級品ではない。それでも精一杯のおしゃれをしてきたつもりだった。しかしそれを言葉で返す気はなかった。今日は和江のための大切な日なのだ。見知らぬ女の言葉に心を乱されている場合じゃない。
大将が気を遣って、優しく話題を変えた。
「瀬戸さん、お箸は持ちやすいですか?

」
「ああ、ありがとう」
「何だ、この人、無視してるの? 」
玲子の声が再び店内に響く。
「ねえ、大将。こっちのネタがまだなんだけど」
「はい、申し訳ございません。少々お待ちください」
「お待ちくださいって、もう何分待たせるのよ。私、常連なのよ。わかってるの? 」
「申し訳ございません、朝倉様」
大将が頭を下げる。俺はその様子を見ながら、胸の内で複雑な思いが渦巻くのを感じていた。確かに高級店には、色々な客が来るものだ。だが、あそこまで見下す言葉をわざわざ言って相手を辱めるようなことをする人間が、いまだに存在するのか。
俺は目の前の寿司に集中しようとした。大将が、次々と握りを供してくれる。しかし、玲子の声は止まらない。
「ねえ、大将。あっちの人は常連さんなの? 」
「いえ、今日が初めてです」
「初めてで、あの態度?
何か期待してるんじゃないの? 安く済ませようとか思ってたりしないでしょうね」
「朝倉様。瀬戸さんは私の大切な取引先です」
大将の声にわずかな硬さが混ざる。
「取引先? まあ、水道関係の卸業者とか? このご時世、どこも大変よね」
玲子は夫をチラリと見て、含み笑いをした。夫は申し訳なさそうにうつむいている。その顔には、妻を叱るでもなく、ただ困惑しているだけの表情が浮かんでいた。
俺は深く息を吐いた。もう十分だ。この夜の静けさを壊されたくない。俺は席を立とうとした。しかし、その時だった。
「申し訳ございません。実は当店、本日は貸し切りの予約が入っておりまして。まさかお客様方のお席をご用意できないとは、大将の私の確認不足でございました」
「はあ?
どういうことよ、大将」
「申し訳ございません。お会計は結構です。どうかお引き取りください」
大将は深く頭を下げた。玲子の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「何ですって?! 私、常連なのよ!? こんな仕打ち許されると思ってるの?! 」
「重ね重ね申し訳ございません。しかしながら、当店の不手際によるものですので、お代は一切いただきません。何卒、ご了承ください」
「ふん、二度と来るんじゃないわよ」
玲子は財布を掴むと、憎々しげに店内を見渡しながら立ち上がった。夫が何か宥めるように声をかけるが、玲子はそれを手で振り払う。
「いいわよ、もう。こんな店、二度と来ないから」
玲子は出口に向かおうと、足早に歩き出した。だが、その拍子に足がもつれ、下駄の草履が何かに引っかかった。
「あっ!
」
玲子はバランスを崩し、隣のテーブルの上に手をついた。その弾みで、大将が握っていた寿司ネタの入ったガラスの器が崩れ落ちる。鋭い音が店内に響き、職人たちが息を呑んだ。
「あ、危ない! 」
反射的に、隣の席に座っていた老夫婦が慌てて立ち上がる。しかし、玲子が倒れ込むようにして、老人にのしかかった。老人は細い体で何とか支えようとしたが、バランスを崩してしまう。
「きゃあっ! あっち! 」
玲子の悲鳴が響く。その拍子に、老人の持っていたステッキが床に落ち、カランという乾いた音が店内に響いた。
老人が、おぼつかない足取りで二歩三歩、よろめく。俺は無意識のうちに立ち上がり、その体を支えていた。
「大丈夫ですか!?
」
「おっと、すまないね、若い方」
支えられた老人は、細い体をさらに縮めるようにして、ゆっくりと体を起こした。白髪がきれいに整えられた紳士だ。上質そうな着物に、絹の羽織り。身につけているものすべてが上品で、風格が漂っている。
「いやあ、助かりました。おかげで、けがは免れましたよ」
「いえ、お体は大丈夫ですか? 」
「ええ、大丈夫。年寄りはこう見えて体が丈夫なのが取り柄ですから」
老人は軽く笑った。その後ろで、玲子が転んだ拍子に膝を打ったらしく、ぶつぶつと文句を言いながら立ち上がるのが見えた。
「ちょっと、アンタ! ぶつかってきたのはアンタじゃないのよ! 」
玲子が老人に向かって怒鳴る。近くにいた客たちも、さすがに顰め面だ。老人は、しかし、ひどく落ち着いた様子だった。
「お気の毒に。お嬢さん、お体の具合は大丈夫ですか?
」
「気遣いなんかされてません! もう、何よ! 最高に不愉快な夜になったわ! 」
玲子はそう叫ぶと、震える手でバッグを拾い上げ、よろめきながら店の外へと出て行った。夫なる男が、彼女の後を追うように、申し訳なさそうにこちらを一礼してから、早足で去っていく。
店内に、静寂が戻った。大将が深く息を吐く。
「申し訳ございません、皆様。ご迷惑をおかけしました」
「いいえ、大将。ああいうこともありますよ」
客の一人が気を遣って言った。俺は老人を支えていた手を離し、礼を言った。
「お気遣いありがとうございます」
「いや、とんでもない。あなたが助けてくれなかったら、私は転んでいたところだった。よかったら、お礼を言わせてほしい。連れの者もいるのだが、どうだ、ここで少しだけ。大将、私の分と、こちらのかたの分を」
「あ、いや」
「遠慮なさらないでください。あなたに助けてもらわなければ、私はこの年で大けがをするところでした。せめて、お茶でもご一緒させてください」
老人の目は驚くほど澄んでいた。年齢は70代後半か、80歳近いだろうか。しかし、その目には生気が溢れている。体格は小柄で華奢だが、どこか違うオーラを放っている。
俺は少し迷った。目の前の寿司はまだ食べかけだ。何より、和江の命日に流れの客と邪魔をされるのは本意ではない。しかし、老人は実にいい笑顔で俺を見つめており、断るほうが失礼な気がした。
「では、ご厚意に甘えて」
「よしよし、決まりだな」
その時、老人の携帯電話が鳴った。老人は軽く謝って、電話を取る。
「はい、はい。ああ、うん。大丈夫だよ、少しばかり騒ぎがあったが、もう収まった。あとでまた、そっちを片付けてしまおう。うむ、そうだな。特に問題はない」
老人は短く言うと、電話を切った。その口調に、どこか威厳が含まれている。
「いやあ、すみませんね。連れの者が心配して。さあ、大将。握りを続けてください。この方の前に、最高のものを」
「かしこまりました」
大将は穏やかにうなずき、再び仕事を始めた。俺は席に着き直し、老人と向かい合うように座った。
「改めて、助けていただき、ありがとうございます。私は渋谷と申します」
「瀬戸です」
「瀬戸さん、でしたか。あなたは寿司の目利きがおできになる。先ほど、大将の仕事ぶりをご覧になるお目が、職人の目をしていましたね。あなたも、この道の?」
「いや、もう引退しました。かつては築地で魚を扱っていました」
「ほう、それは驚きました。やはり、目が違いますな。私はああ見えて、食べることは好きでして。趣味でいろいろと食べ歩いております」
淡々としながらも、どこか楽しげな会話が続く。大将が次々に握りを出す。渋谷という老人は実に話し上手で、職人の腕前に感心しながら、ゆっくりと寿司を味わっていく。
「いやあ、うまい。大将、今日はいいネタが入ってますね」
「恐れ入ります、渋谷さま」
「それにしても、先ほどの騒ぎ。まったくああいう輩には困ったものだ」
「おっしゃる通りです。私どもの確認不足です」
「いや、大将を責めているのではない。店の品格の問題ですよ。あの客、私の見たところ、あれで結構な身分にいるようですがな」
俺は黙って、目の前の寿司を味わった。口に入れた瞬間、旨味が溶けていく。
「瀬戸さん、あなたは、ああいう人間をどう思いますか?
」
「人を学歴や見た目で判断する人間ですか」
「まあ、端的に言えば」
「そうですね。かわいそうだと思います」
「おや? 」
「それしか持ってないから、それでしか人を見られないんでしょう。ああ見えて、可哀想な人生なんだと思います」
渋谷は、しばらくこちらを見つめていたが、やがて破顔した。
「面白いことを言う。あなた、実に面白い方だな。しかし、その通りかもしれませんな。学歴や金ばかりで、結局自分の値打ちをその中にしか見つけられないのは、寂しい人生ですな」
渋谷が手を上げて、大将を呼んだ。
「大将、明日以降の予約なんてものは、あるかい? 」
「はい、何なりと」
「では、予約を一本入れておいてください。私の名で。ああ、いや、この男の名でな。この男と、また寿司を食べたくなった。瀬戸さん、あなた、よかったら明日も来ませんか? 私はここにちょっと用があってな。また、話の続きをさせてください」
「いや、私は」
「今日の礼だけでは、あっさりしすぎます。若い者の話を聞かせてもらうのも、年寄りの楽しみです。それに、あなたの話は聞いていて実に面白い」
一方的な誘いに、俺は手持ち無沙汰を感じたが、大将は快くうなずいていた。
「では、瀬戸に一席いただきます。明日の夕方でよろしいですか?
」
「ああ、ちょうどいい。では、その時間で。大将、この男の世話を頼みますよ。何せ、ここの大将の魚の目利きに一番近い男ですから、買い被ってはいけませんよ」
渋谷はニヤリと笑って、そう言った。それは、さっきまでの穏やかな老人とは一線を画す、自信に満ちた笑みだった。
翌日、俺は言われた通り、夕方に再び銀座の店を訪れた。大将が出迎えてくれた。
「瀬戸さん、どうぞこちらへ」
「渋谷さんは? 」
「はい、もうお見えになっていますよ。こちらです」
大将に案内されたのは、昨日とは違い奥の座敷席だった。そこには、渋谷老人の姿と、もう一人。昨日の玲子夫婦が、青ざめた顔で小さくなりながら座っていた。
「やあ、瀬戸さん。待ってましたよ」
渋谷がにこやかに手を振る。
「昨日はありがとうございました。おかげさまで、いい夜になりました」
「どういたしまして。しかし、この方たちが昨夜は失礼をしまして」
渋谷が玲子を見る。玲子は、真っ青な顔で震えていた。夫も同じだ。どう見ても、私的な事情ではない。
「知り合いの中間の者でしてね。まあ、ああいう場での言動が、ある方の目に留まってしまったようですな」
玲子が、震える声でぽつりと呟く。
「わ、私、何も」
「何が、何もありません。あなた、この方を知ってますか? 」
渋谷は俺を指さした。玲子が、よく見ると、昨日の男だろう。恨みがましい視線だ。
「ええ、昨日は店で会いました」
「ほう。では、あなたはこの方が何をしてきた方か、ご存じか? 」
「知りません。でも、教養がないことだけは、会話を盗み聞きして十分に分かりましたわ」
「教養がない?
」
渋谷が面白そうに笑った。
「立派なものですな。あなたの言う教養とは、物の値段がどうこうで決まるものでしたか? この方、中学を出てすぐに築地に入り、35年間、魚の目利きだけを信じて、ここに来るまでに何人もの親方や料理人を育ててきた方です。この店の大将に、寿司の握り方を教えたのも、この方です。あなたの顔を見る機会があったなら、ああいう態度は、人間として間違っていると一言、注意してやることもできたでしょうにな」
玲子の顔が、更に真っ青になる。渋谷は、興奮したものではなく、淡々と話していた。
「しかし、そんなことよりも問題なのは、あなたがとった行動そのものではないですか。あなたは昨日、この方を朝から辱め、店の雰囲気を悪くした。この方の仕事場や、大勢の人の前での評判を落とそうとした。それは、私が許せない」
渋谷が立ち上がり、玲子の夫の方へと向かう。
「あなた、何年生きてますか? 」
「えっ? あ、私でございますか?
」
「あなたも浅はかですな。妻をうまく導くこともできないのか。男として、一族の恥をさらしていることに、気づいておらんか? 」
夫は、何も言えずにうつむいた。玲子が何か言い返そうとした、その時だった。渋谷が静かに言い放った。
「失礼な言い方ですが、あなた方では、ここにいる大将がどれほどの職人かもお分かりではあるまい。この店の名前を、汚すことは許されませんよ」
その台詞には、有無を言わせない迫力があった。
「この度のこと、よろしいですか。あなた方、今日限り、当店と私の縁はお切りください。あなた方がこの店に来ることは、二度とありません。そして、この店と、この方に近づくこともです。ご了承ください」
玲子の顔から血の気が引いて行くのが、分かった。二度と来るな、というわけではない。縁を切る、というのだ。つまり、すべての取引先、社会的な繋がりからも、爪はじきにされることを意味している。玲子の夫が一所懸命に運営しているらしい会社の名前を、渋谷が口にする。
「あなたのところの会社。先週、私のところの系列商事で、融資打ち切りになったそうじゃないですか。それは、あなた方が、人を見下し続けた結果です。いずれにせよ、あなた方のような会社とは、これ以上のお付き合いをする価値はない。そう判断しました」
玲子が、何かを叫ぼうとした。しかし、彼女の喉からは、音が出てこなかった。完全に、力が抜けてしまったのだろう。
「お二人とも、お疲れでしょう。店のものに言って、送らせますゆえ」
渋谷が、そう言って席を立つと、奥の障子の影から屈強な風体の男たちが現れた。彼らは二人の男を立ち上がらせると、文字通り引きずるようにして店の外へと連れて行った。
静寂が広がる店内。大将が、真顔のまま俺を見ていた。
「瀬戸さん、驚きましたか? 」
渋谷が、にこやかな顔で言った。
「こんな話を持ち出すのは何ですが、ああいうのが人を侮るという言葉です。私の部下の中にも、工場見学を馬鹿にした男がいましたが、今は、どこで何をしているのやら」
「渋谷さん、あなたは」
「私は、ただの年金生活者ですよ。まあ、田舎の小さな土地を会社に貸したりして、細々とな。しかし、年金生活者にも意地があります。若い頃、私を助けてくれた人の恩は、きちんと返しておきたい性分でね」
渋谷は茶碗を手に取り、そう言った。それは、すべて、昨日の出来事と脈絡が繋がったような気がした。渋谷は、続けて話す。
「私はね、昔、ある人の作る魚の味に、人生を変えられたことがあるんです。それがどんなに素晴らしいか、あなたに分かってほしかった。ただ、それだけのことです」
俺は、ただ黙って目の前の寿司を見つめていた。大将が、黙々と握りを供する。その寿司が、いつも以上に染みるように旨かった。
まさか、あの女が、かつての俺の営む築地の店の常連で、俺の握りで涙したことがあるなんて、俺は知る由もなかった。
「さあ、瀬戸さん。冷めないうちに、どうぞ。この店は、味の良さだけでなく、そういう人を決める目のない客に対して冷たいのは、私が一番よく分かっていますのでね」
渋谷は、そう言って、盃を差し出した。俺は、その盃を受けて、ゆっくりと口元に運んだ。温かい酒が、疲れた体に染み渡る。今の俺に、この男の全てを理解することはできないだろう。しかし、少なくとも、あの女のやり方が間違っていたことだけは理解できた。