夫が定年退職したその日の夜、リビングでくつろいでいた私に、彼はまるで天気の話でもするように言った。「俺、二十三歳の彼女と籍を入れるから、お前は離婚届にサインして出て行ってくれ」三十年連れ添った妻への言葉が、これだった。台所のシンクには夕食の皿がまだ浸けてあった。その日も私はパート先の介護施設から帰り、急いで夕飯を作ったばかりだった。夫は定年後、退職金のほとんどをつぎ込んで骨董品を買い漁り、借…

夫が定年退職したその日の夜、リビングでくつろいでいた私に、彼はまるで天気の話でもするように言った。「俺、二十三歳の彼女と籍を入れるから、お前は離婚届にサインして出て行ってくれ」三十年連れ添った妻への言葉が、これだった。台所のシンクには夕食の皿がまだ浸けてあった。その日も私はパート先の介護施設から帰り、急いで夕飯を作ったばかりだった。夫は定年後、退職金のほとんどをつぎ込んで骨董品を買い漁り、借...

私が二十三歳の彼女と籍を入れることになったから、お前は離婚届にサインして出て行ってくれ。結婚三十年目にして、私は夫から突然の離婚宣告を受けた。目の前が真っ暗になる思いだった。絶望で言葉を失う私を見て、夫は勝ち誇ったように続ける。「一つだけ欲しいものをくれてやるから、さっさと荷物をまとめろ。」その言葉を聞いた瞬間、私は気持ちが一気に前向きになった。まさか、あの法が私の手に入るなんて。まるで夢のような話だ。

私の名前は島田裕子、五十八歳。パートの介護士として働く普通の主婦だ。社会人の息子と大学生の娘がいるが、二人ともすでに独立して一人暮らしをしている。夫の衛さんは、ついこの前定年退職を迎えたばかり。これまで私は子育てと家事とパートに追われる日々で、夫は一流企業で営業の仕事を定年まで全うした。やっと二人きりの穏やかな時間が持てると思っていた。しかし、残酷なことに理想と現実は違った。私たちの夫婦仲は、少し前から冷め切っていたのだ。

どうしてこうなってしまったのか。私の人生の歯車は、いったいどこで狂ってしまったのだろう。結婚したばかりの頃の夫は、会社と家を往復するだけのつまらない男だった。これといった趣味もなく、休日は昼寝か、たまに一人でパチンコに行く程度。子供が生まれてからは、一緒に遊んだり動物園や遊園地に連れて行ったりするのが日課になった。「優しい旦那さんね。うちなんて子供が遊んでって言っても無視して寝てるわよ。」と友人には羨ましがられたが、実際はただの退屈しのぎだった。子供を遊ばせているふりをして、時間を潰しているだけだと、私にはわかっていた。

そんな夫の生活が変わったのは、十年前に義父が亡くなったことがきっかけだった。義父は大手不動産会社の元経営者で、現在は義兄がその会社を継いでいる。夫は義父が趣味で集めていた骨董品を相続することになり、その価値を知って驚愕した。なんと、細い壺が一つ百五十万円という高額で売れたのだ。すっかり骨董品の魅力に取り憑かれた夫は、熱心に収集を始めるようになった。

「見てくれ、この壺。中国骨董の洗車道具なんだ。これで二十万の価値があるらしいが、ネットオークションで五万で落札できたんだぞ。」夫は自慢げにそう言いながら、どこか安っぽい雰囲気の壺を見せてくる。素人が適当に色を塗っただけのような、粗雑な作りに見える。中国骨董は高額で取引されることで有名だが、コピー品も多い。素人がネットオークションで買うのはリスクが高い。そう伝えても、夫は聞く耳を持たない。「せっかく苦労して手に入れた壺を、偽物だとでも言うのか。お前は本当に疑り深くて、ひねくれた心を持った哀れな人間だな。」と、私の性格まで否定し始める始末だ。

夫は、自分が買ったものに少しでもケチをつけられると、すぐに不機嫌になる。喧嘩になるのが嫌で、私はそれ以上何も言わなかった。しかし夫の暴走はさらに続いた。明らかに安物の壺を数百万円という法外な値段で購入し、「売れば数千万の価値がある」と豪語するのだ。適当なリサイクルショップで買った壺に、鑑定書が付属しているはずもない。その壺を見て、娘がぽつりと言った。「同じような壺、百均で見たことあるわよ。」娘は呆れ、息子は不思議そうにその壺を眺めていた。

息子の新太は、夫の影響で骨董品に興味を持ち、芸術文化大学に進学。現在は骨董品鑑定士として、骨董品や美術品の市場価格を査定し、鑑定書を作成する仕事をしている。一方の夫は、岐阜から相続した遺産を全て骨董品の購入に費やしてしまった。家の中は、夫が買った骨董品だらけ。それも割れ物なのに、棚に飾ることもなく、リビングや和室の床に置きっぱなしだ。つまずいて転んだり、壺を割ってしまったら大怪我をする。私はヒヤヒヤしながら生活する日々が続いていた。

「骨董品だらけで足の踏み場もないわよ。つまずいて転んだりしたら危ないし、片付けるか、せめて少しは処分してくれない?」そう何度も訴えたが、夫は聞き入れようとしない。数万円程度の価値があるものを床に置きっぱなしにしていることの方が問題だと言い返すと、夫はついに私が勝手に骨董品を捨てないようにと、わざわざ金庫まで購入した。金庫の値段も決して安くない。十五万円もする最新セキュリティ付きの大型金庫を、自宅の庭に置くのだ。用心深いのか、不用心なのか、わからない保管方法だ。

さらに夫は、高価な骨董品を多く持っていることで、自分は富裕層だと勘違いしているようだった。定年退職が近づくと、仕事用のスーツや靴、バッグまで全てブランド物で揃えた。そのため、会社では浮いた存在になっていた。夫の社員旅行の写真を見ると、集合写真なのにみんな夫から少し距離を置いている。これが最後の社員旅行かと思うと、見ていて情けない気持ちになった。

そして夫は、ついに定年退職を迎えた。退職金を全額使い果たして、五千万円もする壺を購入。さらには退職金だけでは足りず、借金までしてしまった。まさか借金を抱えてまで高額な骨董品を買うなんて。私はあきれるしかなかった。子供たちが独立した後、夫婦二人で穏やかな時間を過ごすはずだったのに、私たちに老後資金なんてものは一切ない。お金のことで頭を抱えることになってしまった。私たち夫婦の収入は、夫の年金と私のパート代だけ。どうにかやりくりして、夫の借金返済に充てるお金を何とか捻出していた。

そんなある日のこと、夫のスマホに届いたLINEの通知画面が、偶然私の目に入ってしまった。「ねえ、今度いつ会えるの?早く会いたい。」ハートの絵文字付きのそのメッセージに、私は言葉を失った。頭からその文字が離れない。骨董品の購入で散財しているだけでも腹が立つのに、浮気までしているなんて。私は夫を問い詰めようと思った。しかし、夫に先手を打たれてしまったのだ。

「お前みたいなババアといると、俺まで老け込んでしまうわ。俺は二十三歳の可愛い彼女と入籍するから、お前は離婚届を書いて出て行ってくれ。」

結婚三十年間連れ添った夫からの突然の離婚宣言。ショックと絶望で、私は立ち尽くすことしかできなかった。そんな私を見て、夫は含み笑いを浮かべる。「俺は見ての通り、見た目にも気を使っているからな。五十二歳で部長をしていると言ったら、若い女性から告白されたんだ。」そう言うと、夫は嬉々として浮気相手との出会いについて語り始めた。

私は慌ててスマホを取り出し、夫の目の前で録音ボタンを押した。夫はそんな私の様子に気づきもせず、話を続ける。「定年退職後、俺は冤罪だと思い込んでいたんだ。何も悪いことをしていないのに、冷たくされるのが納得いかなかったんだ。でも、彼女に出会って全てが変わった。彼女は俺のことを本当に理解してくれる。お前とは比べ物にならないくらい、心が通じ合うんだ。」

夫は、定年退職してから自分の価値が下がったと思い込んでいたらしい。若い女性にちやほやされて、自分はまだまだ現役だと勘違いしてしまったのだ。私は録音しながら、自分の人生が狂っていくのを感じていた。こんな男のために、私は三十年間尽くしてきたのか。悔しさで涙が止まらない。

「お前には何も言わせないぞ。この離婚届にサインしろ。そうすれば、骨董品の一部をくれてやる。」

「骨董品の一部?何を言っているの?あれは借金してまで買ったものでしょ。返済はどうするのよ。」

「それはお前が何とかしろ。俺は彼女と新しい生活を始めるんだ。お前のことはもう必要ないんだよ。」

夫の言葉に、私は逆に冷静になった。この瞬間、私は決意した。この男に、思い知らせてやるのだと。私は黙って離婚届にサインをした。その顔を見て、夫は満足そうに笑った。

「ふっ、やっぱりお前はこうでなくちゃな。物分かりが良くて助かるよ。まあ、せいぜい骨董品を大事にしろよ。高いものだからな。」

夫はそう言い残すと、軽い足取りで家を出て行った。私はテーブルに置かれたままの離婚届を見つめながら、冷めた目で夫の背中を見送った。そして、スマホの録音アプリを確認する。きちんと録音されている。私は通帳と年金の書類を一式まとめると、弁護士の事務所へと向かった。

「離婚請求をします。財産分与も慰謝料も、きっちりと取ってください。」

そう、このために私は黙ってサインをしたのだ。録音データという強力な武器を手に入れた今、私はこの結婚に終止符を打つ準備ができている。夫が若い彼女に夢中になっている間に、私は自分の人生を立て直す。骨董品の価値を教えてくれた夫には、もう感謝しかない。

数週間後、夫から怒鳴り声のような電話がかかってきた。「おい、どういうことだ!離婚届を出したら、鑑定書がないから骨董品が何千万の価値を持たないだと?お前、何か企んでるだろう!」

「いいえ、何も企んでいませんよ。あなたが言っていたのでしょう?あれらはすべて本物の骨董品だと。でも、奥さま方の中には、あなたが買った骨董品に偽物が多いと気づいている方もいるようですよ。」

私の弁護士を通じて、鑑定を依頼した結果、夫が買った骨董品のほとんどが偽物であることが判明したのだ。数百万円も出して買った壺も、実は百円程度の粗悪なコピー品だった。相続した骨董品ですら、価値があると思われていたものはごくわずかで、多くは贋作(がんさく)だったことがわかった。

夫の借金は、骨董品を売っても返済できない額に膨らんでいた。その上、離婚に伴う財産分与と慰謝料まで請求されている。若い彼女も、借金と偽物の骨董品の山を知って、音を上げて逃げてしまった。

「あいつ、私をだましたんだ!」

「お前が自分の欲望に正直になっただけでしょう?私はあなたのために、せっせとパートで働いて借金を返していたのに。そんな私を、『老け込んだババア』と呼んで捨てたのはあなたですよ。」

夫が何か叫び続けているが、私は静かに電話を切った。妻に嘘をつき、借金を重ね、若い女性にまで逃げられた夫。残されたものは、価値のない骨董品の山と、莫大な借金だけだった。

私は今、小さなアパートで新生活を始めている。仕事は忙しいが、気を使わずに生活できることは本当にありがたい。息子と娘も、私の意見を理解してくれている。時々食事に誘ってくれるのだ。夫との借金返済は、財産分与で相殺された。

「お母さん、無理しないでね。今度、いい人を紹介してくれる?」

「何言ってるのよ。私はもう、自由に生きるって決めたのよ。誰かに尽くす人生はおしまい。」

ある日、テレビのニュースを見ながらお茶を飲んでいると、どこかで見た骨董品が映っているのに気が付いた。映像には、驚くほど痩せ細った夫の姿があった。「骨董品に財産を注ぎ込んだ男、立ち直りの道を模索中」というテロップが出ている。

私はテレビを消して、コーヒーを一口飲んだ。あの時の録音データは、今でもそっと引き出しにしまってある。私にもう一度人生があるとすれば、あの日、録音ボタンを押した瞬間から始まったのだろう。私はもう、二度と誰かの犠牲にはならない。その日のために、私はこれからを生きていく。

一人になって、私は改めて思う。夫の暴走は、自分を認めてもらいたいという寂しさの現れだったのかもしれない。しかし、それを妻の私にぶつけるのは間違っている。おそらく、あの夫にこの言葉は届かないだろうが、それでも私は自分の人生を歩んでいく。三十年の結婚生活で得たものは、決して無駄ではなかった。あの日々があったからこそ、今の私があるのだから。

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