この2日間、私はまともな食事を取っていなかった。腰を痛めてしまい、買い物にも行けなかったのだ。冷蔵庫は空っぽに近かった。水を取りに行くことさえ一苦労だった。
ため息をついたその瞬間、遠くから声が聞こえた。
「お母さん」
目を開けると、娘のみさが泣きながら私の顔を覗き込んでいた。
「救急車を呼ぶから」
みさがスマホを取り出した。私は必死にその手を掴んだ。
「お母さん、何してんの?」
声を出そうとしても喉が張り付いている。それでも私はどうにか一言だけ伝えた。
「お腹が空いたわ」
みさの顔が怒りで歪んだ。
その日の夕方、遊びから帰ってきた長男の高一は、私を見ても心配するどころか、面倒そうに舌打ちした。そして言ったのだ。
「金もない母親なんて邪魔なだけなんだよ」
「そんなに大事なら、お前が面倒見ろよ」
それが、女手一つで自分を育てた母親へ向ける言葉なのだろうか。
けれどその直後、みさが私の前に立って高一を睨みつけた。
「そうね。兄さんたちといたらお母さんは幸せになれない」
そして私へまっすぐ手を差し出した。
「私がお母さんと暮らすわ」
その時、私はようやく気づいた。私はずっと、私を嫌う息子に愛されることばかり願っていた。けれど私の目の前には、すでに私を必要としてくれる娘がいたのだ。
私の名前はさち子。72歳。私には2人の子供がいる。46歳になる長男の高一と、39歳の長女のみさ。
子供たちがまだ幼い頃、私は夫と離婚した。原因は夫の不倫だった。夫は家に帰らない日が増え、生活費もほとんど入れなくなった。話し合いを重ねたが、最後の最後には「家庭に縛られたくない」と言われ、離婚を決めた。
離婚した当時、高一は10歳、みさは3歳だった。高一は父親が大好きだった。夫が休日にだけ見せる優しい父親の顔を、高一は信じていたのだ。
だから高一は、離婚を決めた私を責めた。
「母さんが全部悪い。母さんのせいで父さんがいなくなったんだろ」
高一はまだ子供だった。本当の事情を話すことなんてできなかった。私は「ごめんね」と答えるしかなかった。
離婚後、養育費が支払われたのは最初の1年だけだった。それでも私は子供たちを育てなければならなかった。朝から夜まで仕事を掛け持ちし、眠る時間を削って働いた。
高一が欲しがった参考書も、みさが学校で必要になった道具も、できる限り用意した。高一が私立大学へ進学したいと言った時も、反対しなかった。生活は楽ではなかった。それでも、子供たちには貧しさを理由に夢を諦めてほしくなかったのだ。
高一は無事に大学を卒業し、会社へ就職した。みさも就職し、それぞれ家を出ていった。ようやく肩の荷が下りる。そう思った頃、私の父が亡くなった。
心の準備はできていた。父は「孫も見れたし、十分だ」といつも言っていた。それでも葬儀の時は涙が止まらなかった。
父は地元で小さな会社を経営し、いくつかの土地を所有していた。会社を継ぐことは難しいため、私は土地と預金の一部を相続することになった。その話は高一にもみさにも言わなかった。親子関係にお金を持ち込みたくなかったのだ。
父の葬儀の後、私の生活はとても静かだった。実家で包ましく一人暮らしをする私に、娘のみさは頻繁に連絡をくれた。
「お母さん、買い物は大丈夫?」
「大丈夫よ」
「そう? 今度の休みに行くからね」
結婚して2人の子供を育てながら、みさはいつも私を気にかけてくれた。みさの夫も穏やかな人だった。私が遊びに行くと「もっとゆっくりしてください」と笑ってくれた。
一方、高一は実家へほとんど寄りつかなかった。結婚の報告さえ事後報告だった。妻のれい子さんと一緒に挨拶へ来たこともない。盆も正月も連絡すらない。
それでも私は高一を責めなかった。幼い頃に父と離れた恨みがまだ残っているのだろう。時間が経てばいつか分かってくれる。私はそう信じていた。
そんなある日、高一が突然れい子さんを連れて実家へ来た。10年近くまともに顔を見ていなかった息子だ。玄関に立つ高一は、私が覚えている青年よりもずっと疲れて見えた。
「母さん、今まで悪かった」
そう言うと、高一は私の前で頭を下げた。
「これからは俺に親孝行させてほしい」
私は言葉を失った。ずっと待っていた言葉だった。この時、この瞬間を、どれだけ願っていただろう。離婚を恨まれ、嫌われ、避けられ続けた息子からようやく差し出された言葉だ。嬉しくないはずがなかった。
「一人暮らしの母さんを、俺たちが支えたい。よかったら3人で暮らさないか」
高一の言葉を信じたい。でも急すぎる。本当に大丈夫だろうか。嬉しさはあったが、少し迷いもあった。
私はみさに相談した。
「高一が同居したいって言ってきたの」
電話の向こうで、みさは明らかに警戒していた。
「お母さんのためっていうより、自分たちの家賃を浮かせたいだけじゃない? でもね、高一が頭を下げたの。『今まで悪かった』って」
みさはしばらく黙った。
「お母さんは、兄さんと暮らしたいの?」
私は正直に答えた。
「もう一度家族になれるなら、そうしたいと思っている」
「分かった。何かあったら必ず連絡してね。我慢しないで」
「分かったわ。ありがとう」
そう答えて電話を切った。
同居が始まったばかりの頃、高一夫婦は優しかった。高一は毎月決めた生活費を渡してくれた。れい子さんも食事の後に食器を運んでくれる。3人でテレビを見ながら笑った夜もあった。私はようやく高一と家族に戻れたと思った。
けれど変化はすぐに始まった。
まず、生活費が遅れるようになった。
「今月は出費が多くて、来月まとめて払うよ」
高一はそう言った。次の月も、その次の月も理由は同じ。やがて、一円も渡されなくなった。
れい子さんは家事をしなくなった。朝は遅くまで眠り、起きるとソファーへ横になる。テレビを見ながらお菓子を食べ、空いた袋もそのまま置き去りだ。2人の洗濯物、食事、掃除、買い物まで、全て私がやるようになった。
「れい子さん、たまには夕食をお願いできる?」
思い切って頼んだことがある。れい子さんは嫌そうに眉をひそめた。
「私、料理が苦手なんです。お母さんはずっと主婦をしてきたんだから、慣れてますよね」
私は何も言い返せなかった。情けなかった。
それでも私は耐えていた。高一はいつか分かってくれる。私はそう信じたかった。かつて夫を許せなかったように、高一もまた愛する人を許せないでいるのだろうか。
そんなある日、私は体調を崩して寝込んでしまった。熱がある。ふらふらしながらキッチンへ向かうと、高一がソファーでテレビを見ていた。
「高一、悪いんだけど、今夜はコンビニで何か買ってきてくれないかしら」
高一はテレビから目を離さずに言った。
「俺、今日勤務だから無理。れい子に頼めば?」
「れい子さんは、まだ帰ってきてないみたいなの」
「じゃあ、何とかしてもらえない? 俺も疲れてるんだ」
私は何も言えず、自分の部屋へ戻った。涙が止まらなかった。
数日後、私は同居を始めることを決意した。いや、決意したのではなく、そうするしかなかった。体は思うように動かなくなり、目もだんだん見えにくくなってきた。一人で暮らし続けることが、本当に怖くなったのだ。
「高一、一つ相談があるんだけど」
「何?」
「私、一人暮らしがしんどくなってきたの。同居してくれないかしら。もちろん生活費は入れるから」
高一とれい子さんは顔を見合わせた。少し間があって、高一が口を開いた。
「母さん、相談があるんだ。こっちも母さんに話したいことがあって」
「何?」
「実はさ、会社を辞めようと思ってるんだ。独立してさ、自分の会社を持ちたい。けど、その資本金が足りなくて」
何が言いたいのか、すぐに分かった。
「母さん、生活費のことは考えなくていい。だから、俺に投資してほしい。会社を作って、必ず返すから」
私は言葉を失った。生活費すら払っていない高一が、投資をしてほしいと言う。一時は社会人として自立したはずの息子が、また母の金を当てにしている。
「ち、ちょっと待って。お金のことは、また話し合いましょう。まずは同居の話を」
「母さん、頼むよ。俺の夢なんだ」
高一は食い下がった。れい子さんも助け舟を出すでもなく、ただ空気を読んで頷いている。
「分かったわ。少し時間をいただくわ」
私はそう答えるのが精一杯だった。
その夜、私は父の遺してくれた書類を整理していた。すると、中から1冊の預金通帳が出てきた。父の名前の入った通帳を開くと、そこには私の想像を超える金額が記されていた。父は隠し財産として、こっそりお金を貯めていたのだ。これは私への相続分だと分かった。まさか、これほどの額があるとは思っていなかった。
私は迷った。高一に使ってほしい。でも、かつて高一は私を「邪魔なだけ」と言った。今も高一は、私を本当に必要としているのだろうか。それとも、私のお金が必要なだけなのか。
翌日、私はみさに電話した。
「みさ、ちょっと相談があるんだけど」
「お母さん、どうしたの? 何かあった?」
「実はね…」
私は高一が会社を起こしたいと言っていること、その資本金を頼ってきたこと。そして父が遺してくれたお金があることを話した。
みさはしばらく沈黙した。
「お母さんは、どうしたいの?」
「分からない。高一を信じたいけど、あの子、この10年以上、連絡すらくれなかったじゃない。それなのに、急に投資してほしいなんて…」
「お母さん、自分の気持ちに正直に。嫌なものは嫌でいいんだよ」
「…ありがとう。もう一度考えてみる」
私は決めた。高一を信じようと。たとえ借金があったって、ちゃんと働けるなら、やり直せるはずだ。私も自分を犠牲にしないで、高一と向き合いたい。
翌日、私は高一にこう伝えた。
「高一、会社を起こしたいというなら、応援する。ただし、条件がある」
「何?」
「まず、れい子さんと一度、ちゃんと挨拶に来なさい。そして、事業計画書を見せて。1ヶ月以内にできたら、出資を考えるわ。でも、お金は信頼してから。無理だと思ったら、やめるから」
高一は少し迷った。しかし、私の目を見て、うなずいた。
「分かった。事業計画書、作ってくる。それでいいんだな?」
「ええ。私も玄関先で倒れてばかりはいられないものね」
私は震えるくらい嬉しかった。高一が私の言葉を素直に受け止めてくれたから。この時、私は確かに思った。高一とちゃんと向き合って、信じてみよう。何があっても、私は家族を失いたくない。
1ヶ月後、高一が事業計画書を持って実家へやってきた。表紙には、しっかりと名前が書かれている。びっしりと埋まった計画書を、私は時間をかけて読んだ。確かに、現実的で、よくできている。夢だけでなく、ビジネスとしての冷静さも感じられた。
「高一、よく作ってきたわね」
「母さんに見てもらうためです」
「これから、ずっと父さんと決別した道を行くのかもしれないわよ」
高一は真剣な顔でうなずいた。
「それでも、もう逃げない。ここで人生をリセットしたいんだ。母さんを、裏切りたくない」
私は涙を拭うこともせず言った。
「分かった。あなたを信じるわ。ただし、期限は3年よ。それでダメなら、好きにしなさい。でも、それまでは一緒に頑張る」
「ありがとう、母さん」
高一が初めて、心から笑った。私はこの日を待っていたんだ。
それから数年、高一は必死に働いた。事業計画通りにはいかないことも多かったが、少しずつ軌道に乗っていった。私は自分の貯金から、事業の継続資金を出すことはなかった。でも、勝手に高い買い物をすることもできず、近所でパートをしながら、細々と暮らしていた。
ある日、高一がこんな提案をしてきた。
「母さん、よかったら俺の家の近くに部屋を借りないか? 独立して、ちゃんと生活してみたいんだ」
私は驚いた。
「でも、お前の家は…」
「俺は実家を出て、一人でやってみる。れい子にも俺の気持ちを話した。あっちは、あっちで好きにやればいい」
つまり高一は、れい子さんとも離婚するということらしい。
理由を聞くと、高一はこんなにも苦しそうな顔で言った。
「俺は、ずっとお前に捨てられた気持ちでいたんだ。母さんが他の男を作ったから、家を追い出されたんだと思ってた。でも、父さんが悪かったんだ。母さんが悪いんじゃなかった。父さんは単に、家を欲しがってなかったんだ。ようやく分かった。ここまで気づくのに、時間がかかった」
私は何も言えなかった。高一はずっと、私を恨んで生きてきた。事実を知った今、その苦しさが重くのしかかっていた。
私はそっと高一の手を握った。
「高一、あなたは何も悪くない。私も夫として、最高の父ではなかったけれど、あなたの母でいることを休んだことはないわ。ずっとあなたの母よ」
高一は泣いていた。男の子が、大人の男が、目の前で声を上げて泣くのは、本当に久しぶりだった。
その夜、みさに電話をした。
「みさ、高一と話をしたの。ようやく、高一が本当のことを受け入れられたみたい」
「そう…お母さん、よかったわね。私も嬉しい」
「みさも、ありがとう。あなたがいたから、私は何度も救われた」
「私はお母さんの娘で良かった」
「私も…あなたの母で良かった」
それから、私は実家の土地と父の遺産の一部を処分し、高一とみさにきちんと分け与えた。高一はそのお金で借金を返し、会社を続けることができた。みさは家族の家を購入した。私もまた、父が遺してくれたお金を、無理のない範囲で使わせてもらい、残りはそっと貯金した。もう誰かのために、むしゃくしらなくてもいいように。
あれから何年かが過ぎた。私は今でも、一人で暮らしている。足腰は少し痛むけれど、自分で食事を作り、掃除をし、生活をしている。高一は時々、顔を見せに来る。そして、私の作った味噌汁を一言、「うまい」と言って飲んでくれる。それが何よりの幸せだ。
みさは家族で実家に遊びに来てくれる。孫たちが「ばあば」と抱きついてくる。あの日、命からがら助け出されたあの日から、私は何度も何度も、この瞬間のために生きてきた。
ある日、高一が私にこう言った。
「母さん、ありがとな」
「何が?」
「全部だよ。母さんが生きていてくれて、俺を産んでくれて。そして、俺のことを嫌わないでいてくれたこと」
私は笑って答えた。
「高一、私があなたを嫌いになるわけがないでしょ。あなたは私の息子なんだから」
その日、私は家の縁側で、父が遺してくれた古い日記を開いていた。父は生前、取引先の記録とは別に、毎日日記をつけていた。ページを捲ると、驚くべきことが書かれていた。
昭和62年、父は大手商社の会社経営に失敗していた。しかし、父は決して倒産などせず、自分の力で会社を立て直してきたのだ。だが、その過程で父は、自分の信用を傷つけるような取引を、一人の男に裏切られていた。それが、私の夫だった。
父は、その男が私の夫だと知った時、離婚してほしいと頼んだ。だが、父は私の幸せを願って、最後の最後まで知らせなかった。唯一、日記の中だけに、その怒りと悲しみを書き綴っていた。
「父さん…」
私は日記を胸に抱いて、しばらく動けなかった。涙が止まらなかった。父は私に、同じ苦しみを与えるまいと、黙って耐えていたのだ。その上で、私の幸せを願って、ただ静かに見守っていたのだ。
あの日、私が高一に「父さんのことを知ってるのか」と聞けたのは、この日記があったからだ。高一は「ああ。俺が高校の時、祖父さんから聞いた。本当は俺が許せなかった。でも、許さないと、前には進めない」と言った。
私は高一の手を握った。
「ごめんね。本当に…ごめんね。もう、過去にしないわ。ここから始めよう。あなたのペースで」
高一は涙を拭いて、笑った。
「母さん、俺、今度こそ本当に強くなるから。だから、ずっとそばで見守っていてくれないか」
「もちろんよ。私はあなたの母だもの。この先も、ずっと、何度でも」
あの日、私は息子に捨てられた。けれど、私は家族を失ったんじゃなかった。私を本当に愛してくれる人の元へ、ようやく帰ることができたのだ。
高一は今でもたまに、甘ったれたことを言ってくる。そんな時、私はそっと高一の頭を撫でてやる。すると高一は、昔のように恥ずかしそうに笑うのだ。
私は今、幸せだ。この温かい日常が、何よりの宝物だと知っている。
