銀座の路地裏にひっそりと構える老舗寿司屋。その暖簾をくぐった老夫婦を、カウンター越しに待ち構えていたのは獰猛な視線だった。三代目大将は、高級な着物に身を包んだ老女を一瞥し、何の躊躇いもなく言葉を吐き捨てた。
やれるもんならやってみなよ。笑っちゃうね。貧乏人は貧乏人らしく、回転寿司にでも行けばいいのに。
隣の席にいた銀行員らしき男が、下卑た笑い声を上げて続ける。
そうそう。こういう店に来るなら、それなりの格好をしてこいって話だよな。店内に笑い声が響き渡る。誰もが、目を潤ませている老婦人に哀れみの視線を向ける。しかし、老夫婦、現一郎と妻のよしえを助けようとする者はいなかった。いや、助けられる者なんて、この場には誰もいなかったのだ。よしえの目から涙がこぼれ落ちる。四十五年もの間、現一郎を支え続けてきた妻が、公然と辱められている。
現一郎は静かに割り箸を置き、霧島と名乗った大将の目をまっすぐに見据えた。
もし、この店が営業できなくなったら、どうしますか?
何言ってるんですか?そんなことあるわけないでしょ。
隣の銀行員が勝ち誇ったように口を挟む。
そうそう。ここは、うちの大手の銀行がスポンサーについてるんだからな。安心して飯を食っててくださいよ。
現一郎は、静かに微笑んだ。では、やってみせましょう。近いうちに、あなたたちは自分たちの過ちに気づくことになる。
誰も知らない。この、どこにでもいる年金暮らしの老人が、どれほどの力を持っているのかを。そして、その老人の静かな怒りが、傲慢な者たちの世界を音を立てて崩し始めることを。これは、一人の老人が、誰にも知られることなく、静かに正義を貫く物語である。
朝の光が差し込む銀行のロビー。磨き上げられた床に、使い込まれた革靴の音がコツコツと響く。現一郎は、受付番号札を手に取り、妻が座る隣りの待合椅子に腰を下ろした。六十八歳。色あせたジャケットに、何度も洗濯を繰り返したワイシャツ。その姿は、どこにでもいる物静かな老人にしか見えない。
今日は、少し冷えますね。
ああ、上着を持ってきて正解だったな。
四十数年に及ぶ連れ添いは、多くの言葉を必要としない。すっと差し出した夫の手を、よしえが静かに握り返す。その何気ない仕草の中に、二人の絆の深さが現れている。かつて現一郎は、ここにある大手証券会社で長年働いていた。定年まで真面目に務め上げ、今は妻と二人、質素だが穏やかな暮らしを送っている。
贅沢には興味がない。必要なものは、すでに全て手に入れている。愛する妻との穏やかな日常。それだけで十分だ。ただ、一つだけ、深い心の傷を抱えていた。三年前、一人娘のみさを三十五歳で亡くしたのだ。仕事に明け暮れ、娘との時間を十分に取れなかった後悔。それが、今も胸の奥でチクチクと痛む。
あなた、またみさのこと考えてるのね。
ああ、すまない。
謝らなくていいのよ。私も同じだから。
よしえがそっと現一郎の手に触れる。その温もりが、心の奥底をほんの少し癒してくれる。その時、受付窓口の方から若い女性の声が聞こえてきた。
ありがとうございます。では、こちらにご記入いただけますか?
現一郎は何気なくその方向に目を向け、そして動きを止めた。窓口に座る女性行員の横顔が、亡き娘のみさの面影と重なったのだ。同ようにしっかりと開かれた大きな瞳。誠実さが滲み出るその佇まい。書類の書き方が分からずに困っている高齢の顧客には、自ら席を立って、横に並んで丁寧に記入を手伝っている。
あの子、みさに似てるわね。
ああ、そうだな。きっと、真面目な子なんだろうな。
現一郎は、窓口の女性、柿崎蒼井という名前のその行員を、いつまでも目で追っていた。彼女は確か二十七歳。真面目で誠実な性格が、その丁寧な接客態度の端々に現れている。そして、その銀行の一室では、今まさに、ピリピリと張り詰めた空気の中で、一人の若手社員が上司から厳しい叱責の嵐を浴びせられていた。
営業課長の黒田平也。パリッとしたスーツに、高そうな腕時計。磨き上げられた革靴。そして、ワックスで固めた髪。自信に満ちた堂々とした態度の裏には、人を見下す傲慢さが隠れている。彼がロビーを歩くたびに、周りの行員たちは緊張で身を固くする。この男が、この職場の空気を支配しているのだ。
お前、今月のノルマ達成率、知ってるのか?
申し訳ございません。先月は、七十八パーセントでした。
七十八%?笑わせるな。うちでは最下位だぞ。お前みたいな使えない社員がいると、俺の評価まで下がるんだよ。分かってるのか?この給料泥棒が。
黒田の声は、ロビー中に響き渡るほど大きい。待合椅子に座っている客たちが、気まずそうに視線をそらす。しかし、黒田はそんなことを気にする様子もなく、さらに言葉を続けた。
いいか、お前みたいなのは、窓口でニコニコ笑ってりゃいいんだよ。営業なんて無理なんだから、身の程をわきまえろ。大学出てるからって調子に乗るなよ。お前、この書類の処理も遅いんだよな。他の連中は三十分で終わるのに、お前はいつも一時間以上かかってるじゃないか。
申し訳ございません。丁寧に確認しながら進めておりまして。
丁寧なわけないだろ。それは言い訳だ。お前は窓口でヘラヘラ笑ってるだけが取り柄なんだから、余計なことはするな。分かったら、さっさと席に戻れ。
蒼井は唇を噛みしめ、必死に涙をこらえている。しかし、黒田の言葉は容赦なく続く。
どうせ、また来月も最下位だろうな。まったく、期待してないよ。お前の顔を見てるだけで、こっちの気分まで悪くなるわ。
黒田がオフィスの奥へ戻る。蒼井は、何とか気持ちを立て直そうと、こっそりと深呼吸を繰り返していた。その光景を、待合椅子から見つめている者がいた。現一郎である。彼の目には、蒼井の必死な姿が、かつて自分が働いていた娘を思い出させるようでもあり、あるいは、どこか他人とは思えないものがあった。
いらっしゃいませ。ご予約のお客様でいらっしゃいますか?
受付に立った現一郎。その澄ました声に、蒼井は顔を上げた。いえ、予約はしていないのですが、ぜひとも御融資のお願いがありまして。
一見さんお断り、とは聞いておりますが、こう言う形で伺いました。
現一郎は、スーツの内ポケットから、一通の封書を取り出して、静かにカウンターに差し出した。蒼井は、その封筒を受け取り、何の気なしに差出人の名前を見て、目を見開いた。
まさか……あなたが、現沼商事の現一郎様でいらっしゃいますか?
ええ、まあ、そういうことになりますね。
蒼井の手が、微かに震えていた。彼女は急ぎ足で奥の部屋へと消え、暫くすると、店の奥から慌てた様子の黒田と、今しがた蒼井を叱りつけていた支店長らしき男が現れた。二人は、現一郎の姿を認めるや、まるで遠慮会釈もなく頭を下げた。
こ、これはこれは!現沼商事の現会長が、なぜこのようなお粗末な支店に足をお運びになられたのですか?
お粗末?と、現一郎は静かにつぶやいた。確かに、これはお粗末すぎるな、と思いましたよ。何せ、私の妻が散々に侮辱され、そして、御社の社員が理不尽なパワハラに耐えている姿を、目の当たりにしてしまいましたからね。
黒田の顔が、一瞬で蒼ざめた。しかし、時すでに遅し。現一郎の静かな、しかし、重みのある一言が、その場にいた全員の心を揺さぶった。
こ、これは、どうか御容赦を。すぐに、この無礼な輩は懲戒にしますので!
私には、あなたの決定は決して覆せません。私が申しているのは、そういう話ではありません。今日は、この銀行が、従業員をどれだけ大切にしているのか、それを見に来たのです。
現一郎は、蒼井を見つめた。蒼井は、唇を震わせながらも、必死に背筋を伸ばしている。
あなたの、その真摯な姿に、我々の銀行の評価は決まりましたよ。今日、あなたが、どれだけ多くの顧客を、どれだけの思いで支えてきたのか。私には、手に取るように分かります。
黒田は、何か言い訳をしようとした。しかし、喉からは、ただ掠れた音が出るだけで、言葉にならなかった。支店長も、ただ縮こまっているだけだ。先ほどまでの、傲慢な態度は、どこにもなかった。
最終的に、この銀行の融資を、現沼商事が引き上げることはなかった。しかし、その代わりに、大きな変化がもたらされた。黒田課長は、この件に関する詳細な報告書を本社に提出することになり、それと同時に、これまで彼が行ってきたパワハラ行為の数々が、正式な調査の対象となった。結果として、黒田は人事部へと異動となり、この支店から姿を消すことになった。
柿崎さん。少し良いですか?
現一郎が呼び止めると、蒼井は少し迷ったようにして振り返った。この度は、ありがとうございました。あの、言いにくいことなんですが…。
ええ、何でしょう?
娘を、亡くしていましてね。妻は、あなたを見ていると、その娘と同い年くらいの頃のあの子を思い出す、と言うんですよ。職場で辛い思いをしている人を、見捨ててはおけないと思っただけです。
蒼井の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。嬉し涙ではなかった。悔しさと、安堵と、そしてこれまで受け続けてきたたくさんの悔しさ。その全てが混ざって溢れてきた涙だった。
柿崎さん。
はい。
あなたが、誰かのために踏み出す、その誠実さを、これからも大切にしなさい。私は、あなたを買っていますからね。
現一郎はそう言って微笑み、待合所で待つ妻の元へと歩いていく。蒼井は、深々と頭を下げた。涙は、もう止まらなかった。それが、うれし涙に変わるまでには、もう少しだけ時間が必要だった。
だが、それで終わらせてはくれないのが、世の中の常である。この銀行の支店の笑顔の裏で、今度は、まるで事の成り行きを見ていたかのような男が、蒼井を見つめていた。いつの間にか隣に立って、ロビーの光景を眺めている男。それは、他でもない、現一郎の古くからの友人で、この銀行に対しても大きな影響力を持つ、ある人物だった。
見ていたか、あの将棋倒し。
ああ、見事なものだったよ。まさか、君が表に立つとは思わなかったが。
浮かれるのは、まだ早い。あの娘さんは、これからが正念場だろう。黒田のような人間は、強制力を持って排除されなければ、また付け入る隙をうかがうからな。
君の言う通りだ。しかし、今はやることがある。
現一郎はそう言うと、蒼井の方へと再び目をやった。蒼井は、先ほどまで共にいた高齢の銀行員らしき男性の相談に乗っていた。見れば、黒田に恐れずに反論した勇敢な男ではなく、最初から蒼井を陰で見守っていた、いわゆる良心的な先輩社員だろうか。
あなた、顔色が悪いですよ。今日の昼はのどが痛くて、おかゆしか食べてないんです。
若い者に気を遣ってもらってないし、こちらこそ手間を掛けてばかりで。
また、嘘をおつきになる。柿崎さんの味方は、あのような嫌な連中だけじゃありませんよ。たとえ、この店の、この銀行の人間が全員敵に回っても、私はあなたの味方です。
現一郎は、自分が感じていた以上に、この銀行の内部にも人の温かさが残っていることを知り、静かに胸をなでおろした。そして、蒼井が自分の言葉に救われ、そして、誰かのために動くことを恐れない、本当の意味での責任感を身につけていったことは、何よりも現一郎にとって、うれしい出来事だった。
その日の夕方。自宅の居間で、現一郎とよしえは、静かに湯を飲みながら、今日の出来事を振り返っていた。
あんたが、銀行で何をしたか、評判になっていたわよ。近所の奥さんに聞いたの。
なんで僕の銀行での行動が、君の近所の奥さんにバレてるんだい?
だって、あの銀行の受付の人、私が見舞いに通っていた頃、何度も声を掛けてくれたのよ。あの忙しい中、毎回、私のことを気遣ってくれてね。今日、知らせが届いたから、じゃあ、もう大丈夫だろうって。
あの、柿崎さんというのを、知っているのか?
ううん、名前は聞いてなかったの。ただ、あの、亡くなったみさと、同い年くらいの、本当に綺麗な目をしたお嬢さんだなって印象だけ。今日、あんたのことを聞いて、さっき、奥さんもわざわざ、あんたが切り替えした時の話を聞かせてくれてね。本当に、胸がすく思いがしたよ。
よしえ、少し、この街を見る目が変わっただろう。
あんたが教えてくれたんだから。この街にいる、ただの頑固なおじいちゃんじゃない。どこかの大企業の会長さんが、ねぇ。
からかわないでくれ。俺は、ただ、あの子が頑張ってるから、助けたくなっただけさ。
助けたくなった奴の数だけ、この街はきっと、優しくなるんだね。
現一郎は、手にしていた茶碗を、そっと机の上に置いた。結局、自分はあの銀行に、大きな資産を移すことはなかった。いや、移すつもりが無くなったのだ。もし、融資を引き上げるというのなら、あの日、窓口で背筋を伸ばして働いていた、あの蒼井というような真面目な行員たちが、路頭に迷うことになるかもしれない。
それは、自分の信念に反する、と現一郎は思った。ましてや、娘の命を救えなかった、若き自分を重ねていたのだろう。
ねえ、あなた。実はね、今日ね、あの銀行の支店長さんから、お詫びがてらにって、こんなものを届けてくれたのよ。
よしえは、机の上に置いてあった箱を、現一郎の方に差し出した。高級なフルーツの詰め合わせが入っているようだ。その横に、一通の白い封筒がある。現一郎は、興味なさげにそれに目をやった。
なんだ、これは?
支店長さんからの、手紙みたい。どうやら、急遽、人事が変わったみたいね。
現一郎が封書を開けると、そこには、黒田などではなく、違う人物の名前が記載されていた。差出人は、新支店長となった男性からだ。
『この度、当店は経営理念を改め、従業員が生き生きと働ける職場作りに一層注力して参ります。また、これに伴い、中堅の営業課長として、柿崎蒼井さんを抜擢することにいたしました。黒田の一連の行いを顧みましても、ご存命のお嬢さんでいらっしゃることもあり、少しでも真摯に事に当たられる方に、と思いました。まだまだ未熟なものでございますが、引き続き、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。』
じい、と現一郎はその手紙を読んだ。よしえが、そっと微笑みながら話しかける。
本当に、良かったね。あの眼鏡の女子も、営業課長か。出世じゃないか。きっと、この先も、いろんな人にいじめられるかもしけないけどね。
いじめられて育った者ほど、優しくなれるんだよ。だが、損な役回りだな。あの娘の足を引っ張る連中だけは、目を覚ましてほしいものだね。
数日後、蒼井は人事部に呼び出され、新オフィスのあるフロアへと案内された。彼女の新しいデスクには、所狭しと並べられた書類。かつて黒田が座っていた場所だ。蒼井は誰もいないのをいいことに、そっと椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
すると、背中合わせの席の社員が、優しい声で声を掛けてくる。
柿崎さん、おはよう。新しい席、慣れた?
え、あ、はい。まだ、ちょっとドキドキしますけど。
あはは、ここは大丈夫だよ。課長の柿崎さんが、こんなふうに言ってくれるだけで、みんな救われてるから。さ、今日も、張り切っていきましょう!
蒼井は、深く頷き、目の前に置かれたパソコンを立ち上げた。そこには、また一つの、新しい物語が始まろうとしていた。黒田が支配していた、古い空気は、もうそこにはない。窓から差し込む朝日が、蒼井の顔を明るく照らし出していた。彼女は今日から、導かれるのではなく、自らがこの銀行を支える側に立ったのだ。この小さな銀行の、大切な一つの歯車として。
