正月、私は勇気の前でお年玉の封筒を開けた。中には五千円札が一枚入っている。十四歳になったばかりの孫は、封筒をひらひらさせながら鋭い笑みを浮かべた。
「え、五千円だけ? りつ子バーバは三万円くれたよ。友達なんて五万円だって。バーバって貧乏なの?」
その言葉に、私は言葉を失った。隣にいた嫁は何も言わない。いや、言わなかったのではなく、言う気がなかったのだろう。
「そんな本当のこと言ったら、バーバがかわいそうでしょ」
息子までが、私を確かめるようにそう言った。
「母さん、勇気ももう中学生なんだから、五千円じゃ足りないよ」
私は同案子、六十七歳。夫を亡くしてから、この二階建ての家で一人で暮らしている。一人には広すぎる家だった。二階に上がるたびに膝が痛み、庭の手入れも年々辛くなっていた。
以前、駅や病院に近い小さなマンションへ移ろうかと息子に話したことがある。しかし息子は言った。
「せっかく父さんが残してくれた家なんだから、売ることないだろう。いずれ僕たちが住めばいいんだし」
勇気が遊びに来ることも嬉しかった。私は住み替えを諦めた。いつか息子家族へ譲るのなら、それまで私がこの家を守っておこう。そう思っていた。
勇気は、私と嫁の母であるりつ子さんにとって、たった一人の孫だった。
一昨年まで、あの子はこんな子ではなかった。
その年の春、家族全員で食卓を囲んだ。進学の話になり、勇気が大学へ行きたいと言った。私は嬉しくなった。
「それならバーバも、今から少しずつ積み立てておこうかしら」
りつ子さんも笑った。
「じゃあ私は塾代を担当しようかしら。留学したいって言ったら、そっちも出しちゃおうかしら」
私たちは本気で張り合っていたわけではない。ただ勇気の未来を想像するのが、幸せだった。嫁も笑った。
「勇気は幸せ者ですね。おばあちゃん二人もいて。お母さん、塾代はうちの母が持つって言ってるんでしょ? 私たちは少しずつでいいから」
私は冗談だと思って聞き流した。
数日後、嫁は勇気に持ちかけた。
「バーバに問題集を買いたいって言いなさい。五千円必要だって」
勇気は嫌がった。
「問題集なんて千五百円くらいだよ。それ、嘘じゃん」
「全部あなたのためでしょ。バーバもあなたの役に立てたら嬉しいのよ」
「でもバーバを騙すみたいで嫌だよ」
「結果を出した人が報酬をもらう。これがビジネスよ。覚えておきなさい」
勇気は、私が断って失敗すればいいと思いながら、頼んだらしい。
「バーバ、もっと勉強を頑張りたいんだ。問題集を買うから、五千円くらい必要で」
私は疑わなかった。
「自分から勉強したいなんて偉いね。五千円で足りる?」
私は喜んで渡した。
勇気は、あまりにも簡単に成功したことに驚いたという。実際に買ったのは千五百円ほどの問題集一冊だけだった。
嫁は残ったお金から、勇気へ千円札を渡した。
「はい、初めての成果報酬」
勇気は迷った。
「でも、これバーバのお金だよ」
「もうあなたがもらったお金でしょ。相手が払える金額まで出させた。それがあなたのせいかよ」
勇気は千円札を握った。
「こんなに簡単なんだ」
嫁は満足そうに答えた。
「バーバはあなたに嫌われるのが一番怖いの。そこを使うのよ」
数日後、勇気は近所の友達に自慢した。
「バーバに問題集代って言って、五千円もらったんだ。本当は千五百円だけど」
「俺も千円もらったよ」
友達は顔を顰めた。
「それ、ビジネスじゃなくて、ばあちゃんを騙しただけじゃん」
「バーバも喜んで払ったんだから、いいんだよ」
「俺なら、自分のばあちゃんにそんなことできない」
それでも勇気はやめなかった。
夏の夕方、散歩をしていた私に、その友達が声をかけてきた。
「すみません、勇気君が問題集のお金として五千円を渡しましたか?」
友達は話した。勇気が問題集を一冊しか買っていないこと、残りを成果報酬として受け取っていること、嫁がそれを「ビジネス」と呼んでいること。
「余計なことだったらすみません。でも、僕のばあちゃんが同じことをされたら、嫌だから」
私は礼を言ったが、信じきれなかった。子供同士の話が大きくなったのかもしれない。勇気が嫁に怒られまいとして、うまく言い繕っただけかもしれない。私は勇気を信じる理由を探した。
勇気から電話が来た。
「英語の教材に、一万二千円必要なんだ」
「それなら、一緒に本屋へ行こう。必要なものをその場で買ってあげるから」
勇気の声が硬くなった。
「一緒に来なくていい。お金だけちょうだい」
電話の向こうから、嫁の小さな声が聞こえた。
「細かく聞かれたら、勉強する気がなくなると言いなさい」
私はお金を渡さなかった。
それでも、嫁から話せば勇気も戻れると思っていた。
そして冒頭の正月を迎えた。
「勇気が、りつ子さんは三万円くれたって言ってたのよ」
りつ子さんが首をかしげた。
「私は今年、一万円しか入れていないけど」
嫁が慌てた。
「去年と勘違いしたのよ」
「去年も一万円よ」
りつ子さんは静かに答えた。
話を確かめると、りつ子さんも私も、向こうのばあちゃんはもっと出していると聞かされていた。
息子は言った。
「正月から細かいことで空気を悪くするなよ」
その数日後、嫁から私のスマホに一枚の画像が届いた。表計算ソフトで作られた、月ごとの数字が並んだものだった。
「問題集代 五千円 実費千五百円 利益三千五百円 勇気への成果報酬 千円」
私とりつ子さんから引き出した金額も、別々に記録されていた。
「次回目標 大学資金を出さないなら、家に呼ばないと伝える」
続けて、嫁から文章が届いた。
「今月は思ったより増やせなかったわね。次は成功したら成果報酬を増やすから」
しばらくすると、嫁から探るような連絡が来た。
「りつ子さん、お母さん、さっき何か変なものが届きませんでしたか?」
嫁は私に贈るつもりで、誤って私のスマホにその画像を送ってしまったのだった。
私は震える指で返信した。
「いいえ、何も届いていないわ」
嫁は慌てて、自分の画面から画像を削除した。相手の画面からも消えたと思ったのだろう。けれど、私の画面には全て残っていた。
騙された金額よりも、勇気を喜ばせようとしてきた時間まで「利益」と呼ばれていたことが苦しかった。
私はりつ子さんに画像を見せた。
そこには、「祖母ごとの攻略法」まで書かれていた。
「私には勉強を頑張りたいと、会えなくなると匂わせる。りつ子さんには、りつ子バーバの方が多く出すと伝える。一番頼りにしていると言う」
私たちが勇気の未来を思って口にした言葉は、金を引き出すための「弱点」に変えられていた。
りつ子さんは呟いた。
「私たち、勇気の未来を応援していたのよね。財布として競わせられたかったわけじゃない」
それでも、私は勇気に最後の機会を与えた。嫁のいない場所で、二人きりで話した。
「お母さんが作ったグラフを見たよ。最初は嫌だったんでしょ? お友達も間違っていると教えてくれたよね。今、本当のことを話して、もうやめると言ってくれたら、バーバはまだやり直したい」
勇気はしばらく黙った。顔を上げた時、その目は諦めと、かすかな安堵が混ざった色をしていた。
「……ごめん、バーバ。バーバのこと、騙してた。問題集、一冊しか買ってない。残りはお母さんに言われて、自分がもらった」
「わかってる」
「バーバが嫌いだからとか、そういうんじゃないの。お母さんが、バーバと会えなくなるって言って……」
「勇気、バーバは怒ってないよ。悲しいのは、あなたがこんなことをしなくちゃならなかったこと」
勇気が声を詰まらせた。
「ごめん、ばあちゃん」
私は頭を撫でた。
「うん。バーバも、あんなグラフ見るんじゃなかったよ。あの子、昔はただの寂しがり屋のいい子だったんだ。今も、そうなんだろうけど」
私は、嫁には何も言わなかった。もう二度と、嫁を呼ばないようにした。勇気は時々、私の家へ顔を見せに来る。話すたびに、あの子は少しずつ、昔の優しい子に戻っていくように思えた。
年の瀬、私はりつ子さんと二人、今年もお年玉を包んだ。
「いくらにした?」
「一万円。何か買いたいものがあったら、足りない分は言いなさいって伝えたの」
「私は同じよ。勇気が無理しなくていいように、何年分も残しておいたわ」
私は笑った。
「私たち、ちゃんとおばあちゃんになったわね」
りつ子さんも笑った。
「なってなかったら、困るわよ」
翌正月、勇気は封筒を開けた。
「一万円、ありがとう、バーバ。大事に使うね」
嫁が横で何か言いかけたが、息子が制した。
「お前からは俺が渡しておいた。子供が成長するって、どういうことか、もう一度考えろ」
嫁は何も言わなかった。
勇気は初めて、お年玉の封筒をそのままポケットにしまった。
春、私は高校生になった勇気と、初めて二人きりで花見に出かけた。
「バーバ、俺さ、将来は建築の勉強がしたいんだ」
「まあ、お父さんの会社を継ぐの?」
「いや、もっと違う。この家みたいに、長く住める家を作りたいんだ」
私は黙って桜を見上げた。
「するなら、家を建てる時はバーバも呼んでよ。金色のツタが絡まない、丈夫な家にしてね」
勇気がくすっと笑った。
「あの家のツタ、覚えてたの?」
「あれで、家の壁に酷い日ができたんだもの。改修代、お年玉から出したんだからね」
「……バーバ、金の話だらけだね」
「お年玉たくさん出したのは、そういうことよ」
勇気は大人になった。少なくとも、これからは、私の後悔や愛情さえも、少しずつ返してもらえるだろう。
家は、まだ売らない。いずれ息子家族が住むかもしれないけど、それは、もう私が決めることじゃない。
私はただ、ながられている桜のように、静かに、この家を見守っていく。
