同窓会の宴会場で、黒田正彦が突然こう叫んだ。「月収10万だと?人生の敗北者が、よくこの場所に来れたな。恥ずかしくないのか?」四十年前の卒業式以来、顔を合わせていなかった同級生たちの前で、六十三歳の神崎誠一郎は静かに立ち尽くしていた。着古した作業着に擦り切れたスニーカー。周囲の視線が一斉に突き刺さる。黒田は手に持ったビールをわざと傾け、琥珀色の液体が神崎の肩から胸元へと流れ落ちた。「おっと、手…

同窓会の宴会場で、黒田正彦が突然こう叫んだ。「月収10万だと?人生の敗北者が、よくこの場所に来れたな。恥ずかしくないのか?」四十年前の卒業式以来、顔を合わせていなかった同級生たちの前で、六十三歳の神崎誠一郎は静かに立ち尽くしていた。着古した作業着に擦り切れたスニーカー。周囲の視線が一斉に突き刺さる。黒田は手に持ったビールをわざと傾け、琥珀色の液体が神崎の肩から胸元へと流れ落ちた。「おっと、手...

黒田正彦の声が高級ホテルの宴会場に響き渡った。月収10万だと? 人生の敗北者が、よくこの場所に来れたな。恥ずかしくないのか? 四十年前、卒業式の日に別れて以来の同窓会。華やかなシャンデリアの明かりが降り注ぐ中、六十三歳の神崎誠一郎は静かに立ち尽くしていた。彼の姿は明らかに場違いだった。よれよれになった作業着。擦り切れたスニーカー。周囲の視線が一斉に彼へと向けられ、ひそひそと囁く声が聞こえる。

黒田は手に持ったビールグラスをわざとらしく傾けた。琥珀色の液体が神崎の肩から胸元へと流れ落ちる。

おっと、手が滑った。清掃員なら汚れには慣れてるよな。

周囲から嘲笑が巻き起こる。神崎は表情一つ変えなかった。ただ静かに、濡れた胸元を拭い、一歩だけ前に出た。そして内ポケットから一枚の名刺を取り出し、黒田の目の高さに差し出した。

これで十分か。

黒田の喉が鳴った。笑いが止まる。目だけが泳いだ。名刺にはこう刻まれていた。金融庁 特別監査官。

はあ…。

乾いた声が漏れた。それだけだった。会場が一瞬にして静まり返る。神崎は名刺をしまい、何事もなかったかのように会場の隅へと歩いていく。背中には静かな決意が宿っていた。

黒田の顔が紅潮していた。しまった、という思いがひしひしと伝わってくる。しかし、もう遅い。

時計の針を十五年前に戻す。当時の神崎は、優秀な銀行員として東洋第一銀行で将来を嘱望されていた。真面目で誠実。顧客からの信頼も厚く、順風満帆な人生を歩んでいた。

だが、ある日突然、上司の不正を告発した。その結果、全ての責任を押し付けられ、銀行を追われることになる。名誉は地に落ち、再就職先もままならず、最後には働きすぎで倒れ、そのまま職を失った。

残された家族。そして、最愛の弟の健二。彼もまた同じ銀行で働いていた。健二は、神崎の無実を信じ、社内で必死に声を上げ続けた。しかし、それも虚しく、健二もまた左遷された末、鬱病を患い、十五年前に自ら命を絶った。

残された手紙には、ただ一言こう書かれていた。

「兄さん、最後まで頑張った。後は頼む」

神崎はポケットから写真を取り出す。そこには、健二と、当時十三歳だった健二の娘、メイが写っていた。神崎は写真を胸に抱き、呟く。

「健二、もう少しだけ待ってくれ。もう終わらせるから」

あれから十五年間、神崎はこの日のために全てを捨ててきた。銀行を追われた後、彼は清掃員として働きながらも、同窓会の情報を集め続けた。そして、金融庁の特別監査官として任命されたのだ。

彼の本当の目的は、銀行を牛耳る黒田たちの不正を暴き、健二の無念を晴らすこと。そのための準備は、すべて完了している。

早朝五時。港区赤坂のビル。神崎は清掃作業着に着替え、モップとバケツを持ってビルの中へと入っていく。六十三歳とは思えない切れ味だ。誰に見られることもなく、淡々と床を磨き続ける。

一階のロビー。二階の法律事務所。三階の会計事務所。順番にフロアを清掃していき、六時半に五階へ到着する。

五階にあるのは神埼商事という小さな会社。この時間、誰もいない。神崎は他のフロアよりも時間をかけて、丁寧に清掃する。特にゴミ箱。社長室のゴミ箱。経理担当のデスク横のゴミ箱。

その中から、一枚一枚慎重に書類をチェックしていく。

「今日はあるか…」

小さく呟き、ある書類を取り出す。それを小さく折りたたみ、作業着のポケットにしまう。

七時。清掃を終えた神崎は、ビルの更衣室でスーツに着替える。鏡に映る自分の姿を見つめ、ネクタイを締め直す。その目には、静かな決意が宿っていた。

週末の夜。同窓会当日。高級ホテルの宴会場は、四十年前と同じように、あるいはそれ以上に華やいでいた。参加者たちは、高級スーツやドレスに身を包み、懐かしい話題に花を咲かせている。そんな雰囲気に溶け込めないまま、神崎は会場の一番隅にある席で一人、静かにコーヒーを飲んでいた。

そこへ、黒田の大げさな声が響く。

「おいおい、まさか神崎か? 久しぶりだな。いや、隣の席を空けろ。俺にも飲ませろ」

酔っ払って上機嫌の黒田が、周りの同級生たちを連れて近づいてくる。神崎は何も言わずに、足元の椅子を軽く蹴って空けた。

「どうしたよ、その作務着。いや、スーツか?

Thumbnail

いや、いくらなんでもそれはないだろ。一応俺たち、同級生ってやつだぜ? 場を弁えろよ」

周囲からまた笑い声が起こる。神崎はそれでも無表情のまま、コーヒーを一口含んだ。黒田は激高する。

「おい、聞いてるのか? 銀行を追い出された負け犬が、いつまで偉そうにしてるんだ。清掃員のくせに、俺の気持ちを逆撫でするような格好をしやがって。お前のその下賤な職業が、俺たちの思い出を汚すんだよ」

「下賤な職業、か。確かに、私の職業はお前から見ればそう映っているのかもしれないな」

神崎はようやく口を開いた。その声は、よく響く低い声だった。

「だが、黒田。君は本当に今、幸せか? 」

「はあ?

なんだその言い草は。俺は今や年収三千万。東洋第一銀行の支店長だ。何不自由なくやってるよ」

「そうか。では、それを今日この場にいる皆の前で、もう一度言ってもらおうか」

そう言って、神崎はスーツの内ポケットから一枚の書類を取り出した。そこには、東洋第一銀行の裏金取引の詳細が記されていた。

黒田の顔が一瞬で真っ青になる。

「な、なんだその書類は…どこから…」

「昨夜、懐かしい取引先の方を訪ねてね。あの時一緒に潰された中小企業の社長さんだ。君たちの銀行に融資を断られて、自殺した人だよ。その遺書と、君たちの裏金の手口が書かれたメモが残っていた。それをもとに、証拠はすべて集めた」

静まり返る会場。今までヒソヒソ話をしていた連中も、グラスを持つ手を止めて固まっている。

「十五年前、健二が死んだ。お前たちが、不正を告発するよう執拗に脅し、追い込んだからだ。後悔していないのか? 」

「ふ、ふざけるな! 証拠があるなら出してみろ! 」

「この書類が証拠だ。金融庁と、警視庁の関係部署には、コピーを送っておいた。今日もって、東洋第一銀行の経営陣は全員逮捕されるだろう。監査官として、正式に告発させてもらう」

パリン…。

グラスを持つ黒田の手が、震えていた。カランと、床に落ちたグラスが砕ける。

「ま、待て、神崎…。全部、説明はする。聞いてくれ…」

もう遅い。

神崎は、立ち上がり、名刺入れから一枚、自分の名刺を取り出した。そこには、銀行員時代の面影を残したまま、一つの役職が記されている。

金融庁 特別監査官 神崎誠一郎。

「黒田。お前はこれから、十五年前の俺の苦しみを思い知ることになるだろう。そして、いつか必ず、俺のことも許してくれる者が出てくることを願っている」

そう言い残すと、神崎は会場を後にした。背筋の伸びた、堂々とした足取りだった。

帰り際、エレベーターを待つ神崎の元に、一人の男が声を掛けてきた。高校時代の友人で、今は法律事務所を開いている男だった。

「誠一郎」

神崎が振り返る。

「その…、本当に、すべて終わったのか?

」

「ああ。ただ、俺の話はこれからだ。健二の分も、生きていかないとな」

エレベーターに乗り込むと、男が小さく手を振った。神崎は会釈を返し、ドアを閉めた。

ビルを出ると、夜の空気が頬に心地よかった。空を見上げると、雨の上がった空に星がひとつ、静かに光っていた。

「健二。これで、お前にやっと報え。「ありがとう」って、伝えよう」

神崎は、胸の内ポケットから弟の写真が入った束を握りしめ、静かに歩き始めた。そこに、急ぐ者はいない。ただ、決着をつけるべき相手に、ついに決着をつけた男の、静かな背中があった。