両家の顔合わせの日、俺は重い空気のレストランで、目の前の光景が信じられなかった。三年前から付き合い、先日プロポーズしたばかりの婚約者・明里が、隣に座る兄の腕に自分の腕を絡ませている。それも、ただ絡ませているだけではない。まるで恋人同士のように、体を寄せ合うようにして。
「高さんって、本当に素敵な方なんですね」
にこやかに、いや、うっとりとした目で言う明里に、俺は言葉を失った。兄は兄で、困ったような、しかし悪い気はしないような、曖昧な笑みを浮かべたまま、何も言わない。
「あ、明里……。今日は、俺たちの結婚の報告って話だよな?」
俺が恐る恐る口を挟むと、明里はこちらを一瞥して、ふっと鼻で笑った。
「渉さんは、まだわかってないみたいですね」
わかってない? 何をだ? そう聞き返すよりも早く、明里は兄の腕をきゅっと抱きしめながら、両親に向かって宣言した。
「私、渉さんじゃなくて、高さんと結婚することにしました」
沈黙が、重く流れた。俺は、数秒の間、何が起きたのか理解できなかった。
「だって、考えてもみてください。渉さんは、ただの会社員じゃないですか。でも、高さんは、お父様の跡を継いで社長になる。将来の約束がある。お給料も、立場も、何もかもが、高さんの方が上ですから」
あっけに取られる俺を余所に、明里は澄ました顔でとんでもないことを言い放った。
「私は、渉さんには、最初からずっと言いたいことがあったんです。仕事が落ち着くまで結婚を待って欲しいって言い出した時も、それに従ってやってきたじゃないですか。私のことを一番に考えてくれてるって思ってましたから。でも、もう無理ですね。渉さんは、私が支えてきたんです。一生懸命仕事を頑張るって言うから、私がどれだけ色々なことを犠牲にしてきたと思ってるんですか?」
彼女の言葉は止まらない。
「私がご飯を作って、家事をやって、愚痴も聞いてやって、やってきたんです。なのに、結婚しても、この人の出世の見込みはない。この人に、未来はないんです。高さんと結婚すれば、私はもっと良い暮らしができる。どうせこの人も、実の両親に捨てられたような寂しい奴ですし」
その言葉に、血の気が引いた。
「……明里、今、何て言った?」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえる。これまで誰にも話したことのなかった、自分の生い立ち。実の両親が既に他界し、今の両親に養子として引き取られたという、心の奥に封印してきた過去だ。それを、彼女にだけは打ち明けた。唯一の救いだと思っていた。違う人だと。みんなが腫れ物に触るように接するから、誰にも言わなかった。でも、明里は違った。彼女なら、理解してくれると思った。自分を不幸だと思ったことはないし、今の家族に愛情をもらったから、小さい頃に苦しい思いをしたことも、今の家族と出会えたから意味があったと思っている。そう、胸を張って言える家族を持てたのは、この家に迎え入れてくれた両親と兄のおかげだと思っていた。それを、彼女は。いや、裏切っておいて、貶めるための方便として使うのか。
「あら、聞いてないんですか? 自分から話してきたことでしょう? 養子って、可哀想ですよね。本当の親に先立たれて、他人の家に拾われて。私の父も母も、ちゃんと実の娘ですから、そういう屈折した家の娘よりはずっとマシなんですよね」
「……っ、お前っ!」
思わず立ち上がりかけた俺の腕を、父が掴んだ。父は、どこか悲しそうな、それでいて現実を受け入れようとするように、静かに首を横に振った。母は、目を押さえている。
「……ここらで、勘弁してやれ」
突然の出来事に、頭が真っ白になり、うまく整理ができない。立ちすくむ俺の耳に、優しい兄の声が届いた。
「渉。ごめんな。俺も、明里さんから色々と相談を受けていて……。ずっと、言い出せなかったんだが」
「……兄貴?」
兄は、ゆっくりと明里を見た。明里は、恥ずかしそうに頬を染めて、兄の腕にすがりついた。さっきまでのきつい言葉は何だったのか。俺の前でだけ見せていた、健気な婚約者の姿はそこになかった。
「今日は、明里さんのご両親に、事の次第を報告するつもりだった。渉には、申し訳ないと思っている」
「……何を、言ってるんだ。俺と明里は、ついさっきまで結婚の話を進めてたんだぞ。今日だって、そのための顔合わせじゃないか!」
「どれだけ、高さんと一緒にいる時間が楽しかったか。お兄様には、何もわかってないんですね」
明里の言葉が、トドメを刺した。お兄様、だと。俺は、婚約者の口からそんな言葉を聞きたかったわけじゃない。もしかしたら、ずっとずっと前から、明里の心は兄の元へ向かっていたのかもしれない。俺がプロポーズした時、本当に嬉しいと言ってくれたのは、本心じゃなかったのか。あの日々は、何だったんだ。
「……明里、お前……」かすれて絞り出すのがやっとだった。
「私、渉さんとは、ちゃんと別れます。お母さんたち、嫌なんでしょう? 渉さんみたいな、素性の知れない血の繋がらない人が家に来るのは。私が、邪魔者を、始末してあげますからね」
そして彼女は、かつて俺に向けていた優しい言葉を、全く別の勢いで変えていった。
「本当に、今までの無駄足だった。時間を返してほしいくらいよ。あなたの夢物語に付き合ってやってたんだから。さ、高さん。私たち、出ましょう。もうこの家の人間には、用はありませんから」
そう言って席を立つ明里を、兄は困ったように止めようとはせず、ただ立ち上がった。二人が入口に向かおうとした、その時だった。
「……待て」
俺ではなく、父の重い声が響いたのは。ずっと静観を決め込んでいた父が、ゆっくりと口を開いた。
「高志。娘さんを連れて帰ってきたのは、事の次第を報告するためではない。渉の結婚相手として、俺たちが紹介されたかったからだ。会社を継ぐという以前に、お前には、経営者としても、兄としても、何が間違っているのかがわかっていない。」
父は、立ち上がると、ポケットから一つの封筒を取り出した。中には、明里が夢中になっている兄の将来像のために、もう一つの道を準備していた。
「渉。会社を辞めたのは、お前の意思か?」
突然の父の質問に、脳が追いつかない。確かに、俺は少し前に、新しく会社を立ち上げるための準備を始めていた。だが、それはまだ動き出したばかりで、誰にも言っていなかった。それは、明里にまでプロポーズする前からの夢だった。将来、父を超えるために、自分で道を切り開きたかったからだ。その夢を、兄が知らないはずもない。あるいは、明里も知っていたのか? いいや、彼女は、俺がやりたいことのために結婚を我慢しているとは言ったが、具体的な計画は話していなかった。ただ、俺の状況を察したのか、「無理しなくても、高さんみたいな立派な会社なら、安心なのにね」と、最近は繰り返し言うようになっていた。会社を継ぐことがどれほどの覚悟と努力を必要とするか、明里は何もわかっていない。兄も兄だ。おそらく、漠然とでも、いつかは継ぐものだと思っていた。でも、その兄は、今、簡単に捨てようとしている。いや、もしかしたら、兄は、明里に唆されているうちに、本気で自分のものにしたくなったのかもしれない。
「渉が、明日から営業の第一線を外れて、経営の勉強を始めると言い出したら、俺は、いよいよ身を引くべきだと思った」
兄は突然、自嘲したように笑いながら、言った。
「明里さんは、俺が店を継げば、きっと今よりも楽な生活になると思ったんだろう。渉が何を考えているか、こっちは全部知ってるつもりだ」
そして兄は、明里に向き直った。にこやかだった表情が、これまでに見せたことのないほど歪んだ。
「ゴメンね、明里さん。俺も、渉を落とし物で見ることはできなかったんだ。これ以上、お前みたいな女に、弟の未来を狂わせるわけにはいかない」
「ふざけないでください!」
鋭い声が、レストランに響いた。立ったまま怒り狂う明里に対して、兄は静かに言った。
「すぐに、決算報告書を見せてもらうぞ。お前がここの経営状況をどれだけわかっているのか、じっくりと目に焼き付けろ」
「……! 何を言って……、あなた、今日のことをお父様に話すと……」
「話せばいいでしょう。私は、弁護士を立てて、お前たち親子に、どう落とし前をつけてもらうか、きちんと考えている。ところで、渉」
兄は、引きつった顔の俺を振り返った。
「お前、彼女に、会社のこと、全部話してないんだろ。だから、こんな馬鹿な女にかっつかれるんだ。今日は、大事な話があるんだったんじゃないのか?」
その言葉で、ようやく合点がいった。プロポーズを受け入れてもらえた時、明里が「仕事が一段落したら、ちゃんと全部の話をしようね」と、妙に優しい笑顔を見せていたのは、このことか。俺が、無事にプロジェクトを成し遂げたら、会社を畳んで、新しく独立するつもりでいたとは、思ってもみなかったのだろう。いや、話そうとは思っていた。しかし、この三か月間、彼女は明らかにそわそわしていて、まともに話を聞いてくれる気配がなかったのだ。不安を感じる俺に、まさかあんな形で来るとは。
「……わかった。もういい。俺の負けだ。」
力なく呟き、ゆっくりと立ち上がる。兄も、父も、母も、皆が安堵したように、しかし複雑な表情を見せた。
「高志。お前は、今日からしばらく、海外の店舗へ出張してもらう。俺は、お前の新しい道を、既に考えてきた。これは、私からの命令だ」
父の言葉に、兄は従った。明里は、勝ち誇ったような顔をしながら、兄の腕にすがりつこうとした。しかし、兄はその腕を振り払った。そして何も言わずに、二人は店を出て行った。
残されたのは、呆然とする俺と、ため息をつく両親だけだった。母が、そっと立ち上がり、俺の隣に来て、背中をさすってくれた。
「悲しいことは、別にないんじゃないか。何しろ、この家の息子でいる間は、ずっと逃げられないことだったんだからな」
父は、窓の外に去っていく二人を見つめながら、静かに言った。
あの日から、俺は一人で会社を立ち上げる準備を進めてきた。順調とは言えなかったが、もし父の会社を経営していたら、どのみち自分の力では何もできなかっただろう。一人前になったと胸を張れるまでは、恋愛をするつもりはない。この人は、いざという時に、一緒に茹で上がる男だと思いたかったが、現実は違った。
それから数年後、俺は細々となんとか会社を続けていた。あの時、父が兄を放逐し、もし父の会社を継いでいたとしたら、俺は、今頃あの二人のように、自分の限界を人に押し付けるような人間になっていただろう。そう思うと、あの裏切りは、俺にとって、むしろ最良の決別の機会だったのかもしれない。父は、今日も会長として、近くで俺を支えてくれている。今までの会社で学んだことを活かしながら、毎日業務に励んでいる。二人の父が必死に守ってきた会社を、今度は俺が守ろうと思う。そして、あの日、二人で行くはずだったレストランの前を、足早に通り過ぎながら、俺は思うのだ。
今度こそ、何もかも失わない、大切なものを。静かに、しかし確かに、かつてないほどの決意を胸に。
