母の骨揚げが終わったあとの食事の席だった。まだ喪服のままで、自分が何をしているのかも分からなかった。母は夜の見通しの悪い場所で車にひかれて、突然いなくなった。あれほど私の幸せだけを願ってくれた人が、前触れもなく消えてしまった。隣では夫が黙って背中を撫でてくれていたから、どうにか立っていられた。10年ぶりに連絡した父は、葬儀だというのに上機嫌で、私を見るなり笑顔でこう言った。「やあ、大きくなっ…

母の骨揚げが終わったあとの食事の席だった。まだ喪服のままで、自分が何をしているのかも分からなかった。母は夜の見通しの悪い場所で車にひかれて、突然いなくなった。あれほど私の幸せだけを願ってくれた人が、前触れもなく消えてしまった。隣では夫が黙って背中を撫でてくれていたから、どうにか立っていられた。10年ぶりに連絡した父は、葬儀だというのに上機嫌で、私を見るなり笑顔でこう言った。「やあ、大きくなっ...

母の葬儀が終わって、骨揚げを済ませたあとの食事の席だった。私はまだ、喪服のままの自分が何をしているのかも分からないような気持ちでいた。母が突然いなくなってしまった。交通事故だった。夜の見通しの悪い場所で、車にひかれてしまったのだと、後から聞いた。あれほど私の幸せだけを願ってくれていた母が、何の前触れもなく、私の前から消えてしまった。

私は泣くことしかできなかった。隣で夫が黙って私の背中を撫で続けてくれていなければ、本当にそのまま崩れ落ちてしまっていたと思う。夫は何も言わずに、ただずっと私のそばにいてくれた。そのおかげで、なんとか私は気持ちを立て直すことができた。母の葬儀をどうするか、私は冷静に考えた。そして、ふと頭に浮かんだのは、父と弟のことだった。

父と母が離婚してから、もう10年以上が経つ。私は母に引き取られ、弟は父のところに行った。離婚の理由は、父の暴力と母への暴言だった。父は気に入らないことがあると、すぐに母に手を上げた。私は物心がつく前から、そんな両親の喧嘩を当たり前のように見て育ってきた。父のことはあまり好きではなかったが、それでも父と弟が母の死を知らないのは変な気がした。葬儀に呼ばないわけにもいかないだろう。私は勇気を振り絞って、10年ぶりに父へ連絡をしたのだった。

葬儀の日が来た。10年ぶりに会った父は、母の葬儀だというのに、なぜか機嫌がよさそうだった。いや、むしろ上機嫌ですらあった。弟はというと、対照的に暗い顔をして、うつむきながら立っていた。

「やあ、大きくなったな、アヤ。お前とまた会えてうれしいよ」

父は満面の笑みを浮かべて、私にそう話しかけてきた。母が亡くなったことには一切触れずに、私と再会できたことがよほど嬉しいのか、延々と話し続ける。私は、今日は母の葬儀だと言っても、父は「そんなの分かってるよ」と面倒くさそうに言うだけで、遺影の前でさえも、自分の昔話を続けていた。

葬儀が終わり、食事の席に移ったときだった。父が突然、私に言ったのだ。

「お前も母さんがいなくなって、寂しいだろう。そうだ。今度から俺たちと一緒に暮らさないか。4人で」

「は?」私は耳を疑った。私にはもう夫がいる。しかも、今この瞬間も、私の隣には夫が座っている。そんな中で何を言い出しているんだ、この男は。私はもう父のとんでもなさを忘れていたのだ。父は、私たち兄弟を2人とも引き取ろうとしたのに、母が邪魔をした。だから自分は被害者なのだ。父は昔の話を持ち出してきて、そのくせ「母さんの悪い影響が染みついてるんじゃないか」と言い出した。

「いい加減にしろよ。母さんの葬儀が終わったばかりだろうが。母さんの悪口を聞かせるために、俺たちはここにいるんじゃないんだぞ」

そう言ってくれたのは、私ではなく、弟だった。父の暴言は、弟のその一言でようやく止まった。弟は、昔から父と母の仲を調停するように、いつも自分の感情を押し殺してきた。父が「お前は母さんの方に行くのか」と言い出した時も、弟は「そうしたいなら、そうする」とすら言えずにいた。それなのに、今回だけはっきりと父に立ち向かったのだ。

「おい、帰るぞ」

弟は父の腕を掴み、そのまま強引に会場から連れ出した。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。

それから1ヶ月が経った。母の死の悲しみは、時間が経つにつれて少しずつ、しかし確実に癒えていった。夫が本当に優しかった。何も言わずにそばにいてくれて、私が夜中に泣いていると、黙って抱きしめてくれた。父のことはほとんど話題にしなかった。私はあらためて、この人と結婚できて本当に良かったと思った。あのまま何もなければ、きっと私はこのまま毎日を穏やかに過ごしていたのだろう。そう、何もなければ。

母が亡くなってから、ちょうど1ヶ月が過ぎた頃のことだった。今度は夫が、同じように夜間の、しかも見通しの悪い場所で車にひかれて、亡くなってしまったのだ。

あまりの出来事に、私は現実を受け止めることすらできなかった。母の葬儀の時とは比べ物にならないほどの衝撃だった。私は呆然とし、何も手につかず、自分が泣いているのかすら分からなかった。気がついたら、夫の葬儀の準備は、夫の親族がすべて進めてくれていた。私は本当に、そこら辺の記憶がない。

そして、葬儀当日。私は夫の親族に連れられて、なんとか式場に立っていた。すると、そこにいたのだ。父が。母の葬儀には来なかったわけではないが、あの時はああだった。今度はなぜか、父が夫の葬儀にも現れたのだった。

「この度は、ご愁傷さまです」

父はそう言って、私の前に立った。私は無意識に体を強張らせた。そして、母の葬儀の時と同じことが、また始まろうとしていた。

葬儀が終わり、また食事の場になった。すると、父が何の脈絡もなく切り出した。

「アヤ、お前も大変だろう。一人になったら、また俺たちと一緒に暮らさないか」

「何を言ってるんですか」

「いやだから、お前も一人じゃ寂しいだろう。だから、俺たちと一緒に暮らすんだ」

「何を馬鹿なことを言ってるんですか。私は今、夫を亡くしたばかりです。それに私にはもう、たとえ夫がいなくなっても、自分の家があるんです」

「お前、何を言ってるんだ。そんなの、おかしいだろうが。せっかく俺が、こうして誘ってやってるのに」

父は、また同じように怒り出した。今度は私に対してではなく、私の周りの誰かに当たり散らすように。

「やっぱり、母さんの血が入ってるからだな。あの女と同じで、何を考えてるのか分からない」

「今、何て言いましたか」

「言ったんだ。お前は、母さんと同じで頑固なんだ。昔からそうだ。俺が悪者にされがちだが、本当はあっちが悪いんだ。俺はな、お前に辛い思いをさせたくなかったんだ。母さんが勝手に離婚だって言い出して、お前を連れて行ったんだぞ。そんなことも分からなくなってるのか」

「もういい加減にしてください」

私は、震える体を抑えながら言った。

「父さんは、今日のために何か言いに来たんですか。私のためを思って言ってるなら、本当にやめてください。もう何も聞きたくないです」

「何だと? せっかく俺が気を使って言ってやってるのに、その態度は何だ。この前と言い、今日と言い、お前は大人になって全くいいところがないな。母さんに育てられたから、そんなに素直じゃないんだな。あの女の教育がなってないってことか」

「父さん、今のは言いすぎだ」

そう言ったのは、いつの間にかいた夫の親族の一人だった。私の父ではない、夫の父、義父だった。

「お言葉ですが、初めに言っておきます。私は、アヤさんにそう言ったつもりはありません。ですが、あなたの今の言葉は、この場にいる誰が聞いても、ただの逆ギレにしか聞こえませんよ」

「何だ、お前。俺はこう見えても、娘を思って言ってるんだ。こいつがどれほど心配か、分かってるのか? 」

「心配? あなたがですか?

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今日だって、あなたは初めから戻ってきたとき、何も言わなかったじゃないですか。娘さんが悲しんでいても、知らん顔で飯を食っていたのは、あなたの方じゃないですか」

義父の言葉に、父は一瞬たじろいだ。しかし、すぐに悔しそうな顔をすると、今度は私に向かって怒鳴った。

「アヤ! お前、俺のこと何だと思ってるんだ! せっかく泣いて喜んでくれるかと思って来てやってるのに、お前は何だ、その態度は! もういい!

お前なんか、知らん! 俺は、お前の母親と違って、こんなに優しくしてやってるのに、全く感謝の気持ちってものが、これっぽっちもないんだな! 」

「父さん、もういい! 」

弟が立ち上がった。弟もまた、かなり怒っているようだった。

「姉さんは、今、旦那さんを亡くしたばかりなんだぞ。母さんが亡くなってから、ちゃんと話も聞いてもらえなくて、一人でずっと頑張ってきたんだ。それなのに、父さんは何も分かってない。今日、父さんが言ったことは、全部、自分勝手だって、どうして分からないんだ」

「お前まで、そんなことを言うのか!

」

「言いますよ。だって、事実でしょう。父さんは10年前から、ずっとそうだ。何かあると、すぐに人のせいにする。母さんのせいにする。今回だって、母さんが亡くなったことを、しっかり慰めればいいものを、何が『一緒に暮らそう』だ。自分の都合のいいように考えてるだけだ」

「もう黙れ! 」

父はテーブルにあった寿司の皿を、手を振り回してひっくり返した。ガチャンと派手な音がして、皿が割れ、寿司が床に散乱する。それでも父の怒りは治まらず、今度は隣にあったパイプ椅子を蹴り飛ばした。

「お前ら、よくもやってくれたな! ふざけやがって! 」

あまりの剝き出しの暴力に、周囲は騒然とした。私の父、夫の親族、みんながその場に立ちすくんだ。しかし、立っていられずに私はその場にうずくまってしまった。もう、何も聞こえなかった。自分の心臓の音だけが嫌にうるさくて、目の前が真っ白になりそうだった。

そして、ハッと我に返ったときには、父は義父と、駆けつけた数人の男たちに、無理やり羽交い締めにされていた。父はなおも暴れながら、怒鳴り散らしている。

「離せ!

離せよ! 俺は悪くないんだ! 俺は、娘を思って言ってるんだぞ! ふざけるな!

」

「姉さん…」

弟が私に駆け寄ってきた。弟は、泣きそうな顔をしていた。

「姉さん、ごめん。父さん…父さんはああいう人だから。昔言っただろ、俺は母さんを選んだって。今も、そうだ。俺は姉さんの味方だから」

弟はそう言って、私の手を握ってくれた。私は何も言えなかった。ただ、黙ってうつむくことしかできなかった。

父は最終的に、義父たちにそのまま連れて行かれた。あれから父は、あの場に戻ってくることはなかった。

私は弟にお礼を言った。すると、義父が話しかけてきた。

「アヤさん、本当に大変でしたね。申し訳ございません。まさか、こんなことになるとは」

「いいえ……こちらこそ、ありがとうございました。最初はどうなるかと思いましたが、皆さんが抑えてくださったおかげです」

「いえ、あの人も、どうやら昔からああいう性分だったみたいですね」

義父は、遠い目をして言った。

「えぇ……そうなんです。私の母は、あの人から逃げるようにして、ここまで生きてきましたから」

私はポツリとそう言った。すると義父は、「そうでしたか……」と言って何かを分かってくれたようだった。

それから、私は少しずつ日常を取り戻していった。とはいえ、夫のいない生活は、やはり想像以上に大きな穴が空いていた。朝起きて、隣にいないのが当たり前になったのは、それからずっと後のことだ。

あの事件があってから、父からは何の連絡もなかった。弟からも、特に何もない。きっと、父は自分のしたことが恥ずかしくなったのか、それとも逆に、あの場で私達に見放されたと感じたのか、どちらかだろう。

そして、あの日からさらに数ヶ月が過ぎたある日、私は一人、自分の部屋で物思いにふけっていた。机の引き出しには、両親の離婚当時、こっそりと母が私に渡してくれた日記帳があった。あの時、母は何か言いかけて、結局何も言わなかった。ただ、その日記帳を私に無理やり握らせたのだった。

「アヤ、あの人がもしもの時になったら。これは、本当に私が大事だと思った時だけ読むといいわ。それまで、あの人のことは、どうか見つめてあげて。そして、許せるときが来たら、許してあげなさい。あなたは、きっと……強い子だから」

あの母の言葉が、急に蘇ってきた。何度も読み返したいと思いながらも、なぜか読むことができなかった。母があれほど神秘的に言うのだから、きっといつか後悔しないようなことなのかもしれない。それなのに、あの日まで、一体何が書いてあるのか、私はずっと読めずにいた。

だけど、私はもう堪えきれず、その日記の表紙を開いていた。そこには、予想だにしない事実が、びっしりと綴られていた。

それは、私が生まれる前の話から始まっていた。母と父が、まだ恋愛関係にあった頃の話。母は若かりし頃、一度、本当に好きな人がいた。だけど、その人とは結ばれず、父と結婚した。その相手というのが、なんと今、私の義父、つまり夫の父親だったのだ。

私は思わず日記を読む手を震わせた。母は、私の夫のことやその父のことも含めて、何もかも知っていたのだ。私と夫が結婚した時、もしかしたら何か言おうか迷ったのかもしれない。しかし結局、母はその事実を隠したまま、私たちを祝福してくれた。これが、母のなりの親心だったのだろう。

そして、最後のページには、こう書いてあった。

「アヤが私の日記を読んでくれる時は、きっとお母さんはもうこの世にいないでしょう。もしかしたら、アヤはお母さんを恨むかもしれない。どうして黙っていたのかって。でも、教えてあげる。母さんは、アヤの幸せが一番だった。だから、この事実を伝えることで、アヤが悲しむようなことをしたくなかった。あなたのことを、ずっと見守っているから。だから、自分を責めないで。ゆっくりでいいのよ。あの子も、あの人のことも、お父さんのことも。最後には、全部を許せる日が来ることを、心から願っているわ」

私は、日記を閉じて、しばらくの間、ただ黙っていた。涙は、もう出なかった。

その代わり、私は立ち上がり、カーテンを開けて、窓の外を見た。青い空が広がっている。あの母が信じようとしてくれた、未来が、そこにはあった。