女帝と呼ばれた女が、ついにその肩書きを剥がされる瞬間が来るとは、誰が想像しただろうか。社宅の集会室。緊急総会として集められたその場所で、よしみは堂々と胸を張っていた。営業部長の妻として、この夫人会で絶対的な権力を持つ自分。その自分に盾をつくなど、言語道断だと言わんばかりに。
「私の旦那は部長よ。盾つくなんて身の程知りなさい。」
そう言い放った瞬間、場の空気が凍りついた。46歳のよしみの鋭い視線の先にいたのは、総務部員の妻であるさえ、48歳。彼女は静かに、しかしはっきりと口を開いた。
「役職は関係ありません。おかしいことをおかしいと言わせていただいただけです。」
「あなた、いい加減にしなさい。馬鹿。」
その言葉とともに、カップの茶が勢いよくさえの顔面に浴びせられた。鈍い音が集会室に響き、茶色い液体が白いブラウスを濡らしていく。胸元から腹部へとじわりと広がる染み。周りにいた夫人たちは息を呑んだ。
「うるさいわね。あなたみたいな人間がこの会社に必要だと思ってるの?」
「…これが部長夫人のやり方ですか?」
さえは震える声でそう言い返すのが精一杯だった。周りの誰もが、よしみに逆らうことの恐ろしさを知っていた。誰も助けに入らない。いや、入ることができないのだ。
バン。
その瞬間、集会室のドアが勢いよく開いた。飛び込んできたのは、さえの夫である慎吾54歳。備品管理を担当する地味な正社員だ。彼は妻の濡れた姿を見た瞬間、その目に静かな怒りの炎を灯らせた。そして、その隣には異厳のある男が一人。さらにその横には、なんと女帝の夫である部長が、小さくなって俯いて立っているではないか。
「え?なんであなたが…?」
異厳のある男が衝撃的な一言を放つ。
「部長、お前は地方に飛ばす。」
え、というよしみの声は、誰の耳にも届かなかった。社の夫人会で女帝として君臨してきた部長夫人。その肩書きが一瞬にして消える日が来ることを、この時まで思ってもいなかったのだ。
───
東京郊外の緑が残る住宅街の一角に、劇場エンタープライズの社宅はある。三棟の集合住宅が立ち並び、朝7時を過ぎるとスーツ姿の男たちが次々と駅へ向かっていく。それがこの社宅の変わらない日常だった。
その流れに逆らうように倉庫へ向かう男がいる。慎吾54歳。総務部で部品管理を担当する正社員だ。颯爽と出勤する若い社員たちの横を、作業着姿で段ボール箱を運ぶ。すれ違い様に挨拶すらしない者もいるが、慎吾は気にする素振りも見せない。
「慎吾さん、おはようございます。お、今日も頼むぞ。」
倉庫番の男たちは、彼のことを誰よりも信頼していた。30年前、慎吾は都内の町工場で旋盤を振っていた。歯ブラシみたいな手で金属を削り、クロンタイの精度を叩き出す職人だった。しかし、その工場は10年前に倒産。最終職の壁に何度もぶつかった末、あるコネでこの会社に拾われた。そのコネが誰なのか、社宅の住人たちは誰も知らない。
夕方6時。慎吾が家の玄関を開けると、味噌汁の香りが鼻をくすぐった。台所に立つ妻のさえ48歳。結婚して26年、子供たちはそれぞれ独立して家庭を持ち、今は二人暮らしだ。食卓には肉じゃがと小鉢が三つ並んでいる。
「お疲れ様。今日はどうだった?倉庫の整理、終わったの?」
「ああ、なんとか片付いた。いい匂いだなあ。肉じゃがか。」
「あなたの好きなちょっと甘めに作ったわ。」
「助かるよ。お前の飯が一番うまい。」
そんな温かみのある夕食が、慎吾の疲れをゆっくりと溶かしていく。さえは社宅の若い奥さんたちの面倒をよく見ていた。手作りの漬け物を近所に配り、子育ての相談に乗ることもよくあった。
「さえさんって、本当に優しいですよね。」
「お互い様よ。困った時はみんなで助け合わないと。」
誰に対しても分け隔てなく接する。そんな女性だった。しかし、この社宅には、そんな穏やかな空気とは正反対の人物がいた。
───
夫婦会の定例会が開かれる集会室。上座にどっかと座り込むのは、営業部長の妻、よしみ46歳。季節ごとに変わるブランドバッグを椅子の横に置き、指先には大粒のダイヤモンドを光らせながら、彼女は優雅にお茶を口に運ぶ。それだけで場の空気が引き締まる。それがいつもの光景だった。そして、常に子分たちがそばにいた。
「よしみさん、そのバッグ新しいんですか?素敵ですね。」
「本当に。さすがですわ。」
「そう。まあ、部長夫人として恥ずかしくない格好はしないとね。この社宅のルールは私が決めるんだから。」
他の若い夫人たちは愛想笑いを浮かべるだけで、誰も本音を言えない。よしみの夫は営業部長として社内で発言力を持ち、その権力が社宅にまで及んでいた。よしみに逆らうことは、夫の立場に逆らうことと同じだと、誰もが肌で感じていた。
数日後、夫人会の定例会が開かれた。テーブルの上座には当然のようによしみが座り、子分の二人がその両脇を固めている。入居して日の浅い夫人たちは端の席に座り、誰も口を開こうとしない。
「今月の掃除当番ね。入居したばかりの人たちがやってちょうだい。私たちベテラン組にはもっと大事な仕事があるの。」
「そうよね。当然よね。」
よしみに指を差された新しい夫人たちが、重い足取りで当番表を受け取った。新しく入居してきた28歳の亜希の顔が青ざめた。赤ちゃんを抱えながら、一人で何週間分もこなさなければならない量だ。しかし、逆らうことはできない。ただ俯くだけだった。
その様子を見ていたさえは、当番表に目をやった。どう見ても不公平な割り振りだ。空気を読むことは大切だと思っている。しかし、これは見て見ぬふりができる話ではなかった。
「よしみさん、この当番の割り振りなんですが、少し偏りすぎていませんか?特に、引っ越して来られたばかりの亜希さんは、まだ赤ちゃんが小さくて体も大変な時期なんです。」
集会室が水を打ったように静まった。よしみの目が鋭く細められ、子分たちが息を飲む。
「さえさん、余計な口を挟まないでくれる?ここのルールは私が決めるの。分かった?」
「ルールは大切です。でも、無理な負担を押し付けることとは違うと思います。」
よしみの顔が一瞬歪んだ。しかし、すぐに冷たい笑みを浮かべ、さえを一瞥して背を向けた。
「次の議題に移りましょう。」
集会が終わり、部屋を出た後、亜希が駆け寄ってきた。
「さえさん、ありがとうございます。あんなこと言ってくれる人、初めてです。」
「当然のことを言っただけよ。気にしないで。」
微笑んで見せたが、それが精一杯だった。子分たちはその表情を見逃さず、互いに目くばせをした。その日を境に、さえへの態度が露骨に変わった。
次の夫人会では、さえの席だけお茶が用意されていなかった。さりげない嫌がらせだったが、その場にいた全員が気づいていた。誰も何も言わない。子分たちがよしみの顔色を伺いながら、さえを見て小さく笑う。その視線が、さえの居場所を少しずつ削っていった。
「よしみさんに意見するなんて、よっぽど度胸があるのね。」
「度胸というより、空気が読めないだけじゃないかしら。」
さえは何も言わず、ただ耐えて笑顔を振り絞った。社宅の共有スペースでも、すれ違っても挨拶が返ってこない。まるで空気のように扱われているようだった。
───
その夜、慎吾がリビングでくつろいでいると、ふと異変に気づいた。さえの声が、いつもより小さく聞こえた気がしたのだ。覗いてみると、さえが夕食の支度をしている。その手がわずかに震えていた。
「なあ、最近何かあったのか?」
「え?別に何もないわよ。」
「嘘をつけ。何かあったんだろ。最近、顎の調子も変だし、お前、何か隠してるな。」
さえは一瞬戸惑ったように口を閉じたが、すぐに無理やり笑顔を作った。
「何でもないってば。ほら、ご飯にするわよ。」
しかし、慎吾は見逃さなかった。さえの目が、わずかに赤く腫れていたことを。何かを隠しているのは明らかだった。
───
その週末、慎吾は妻の異変の原因を突き止めるために動いた。近所の奥さんたちにそれとなく聞いて回るうちに、夫人会で何があったのかを徐々に知ることになる。よしみの嫌がらせの数々。そして、さえが陰でどれだけ傷つけられていたのかを。
慎吾の目が、静かな怒りで燃え上がった。彼は何をすべきか、頭の中で整理し始めていた。彼には、この会社で誰よりも信頼を集める技術があり、そして誰よりも人間関係を大事にする心があった。だが、それ以上に、彼には「誰がこの会社の本当の力を持っているのか」を知っていた。決して表に出ない、しかし絶対的な権力を持つ人物。それが誰なのかを、彼は知っていたのだ。
───
翌週の夫人会。いつものように集会室に集まった夫人たち。よしみは上座に陣取り、いつものように嘲笑を浮かべている。さえは端の席で、俯きながら自分の番を待っていた。
「今日は、新しい当番表を配ります。今月はね、」
そこまで言って、よしみが不気味な笑みを浮かべた。その笑みに、さえは嫌な予感がしてならなかった。
「さえさん、あなたが当番を買って出てちょうだい。どうせ、あなた暇でしょ?」
その言葉に、場が静まり返る。あれだけ嫌がらせをしておいて、さらに一方的に当番を押し付ける。さすがに酷い。しかし、誰も口を挟めない。子分たちは嘲笑を浮かべ、他の夫人たちは目を伏せた。
「…はい。」
さえは小さく頷くことしかできなかった。その瞬間、集会室のドアが再び開いた。
「やあ、邪魔してすまない。」
そこに立っていたのは、慎吾だった。作業着姿のまま、しかし、その目は静かに燃えていた。そして、彼の後ろには、あの異厳のある男が立っていた。
「な、なんでここに…」
よしみが動揺した声を上げる。しかし、慎吾はそれに構わず、ゆっくりと室内を見渡した。そして、さえの濡れた様子を見つけると、その顔が一瞬で歪んだ。
「さえ、こっちへ来て。」
慎吾の声は静かだったが、そこに有無を言わせない力があった。さえが恐る恐る立ち上がる。よしみが、何を言うでもなく、しかし、その顔は強張っていた。
「ちょっと、慎吾さん。何の用ですか?ここは夫人会の集会室よ。あなたが来る場所じゃないでしょ。」
「そうか。では、こちらの方に話を聞いてもらおう。」
慎吾がそう言って、一歩後ろに下がると、異厳のある男が進み出た。よしみの顔色が、一瞬で真っ青に変わる。その男に見覚えがあったからだ。
「あなたは…」
「夫の健一さんには、もう連絡してあります。地方の支店に移動していただくことは、先ほど話を通しておきました。」
男の言葉に、よしみの体が大きく震えた。
「ちょっと待って。一体、あなたは何の権限があって…」
「権限?私は、この会社の代表取締役社長の佐藤と申します。」
場が、一瞬で氷点下に凍りついた。社長。この慎吾の知り合いという男が、まさか、この会社の社長だなんて。よしみはもはや、何も言い返すことができなかった。
「慎吾さんには、昔、私の父がお世話になりました。この会社を継いだのも、あるいは、あの人の縁もあってのことかもしれません。」
社長の言葉に、慎吾は静かに首を振った。
「おやじさんには、何度も助けてもらいました。だから、これは当然のことです。」
慎吾はそう言って、さえの手をそっと握った。さえの手は、わずかに震えていたが、その温もりが、少しだけ安らぎを与えてくれた。
「さあ、もう帰ろう。今日の夕飯は、俺が作るよ。」
慎吾はそう言って、さえを連れて集会室を出て行こうとした。よしみは、社長の前で立ち尽くしたまま、何も言えずにいた。子分たちも、夫人たちも、皆、硬直したまま動けないでいた。
───
それからのことだ。よしみの夫は地方に飛ばされ、夫人会での取り仕切りは、もはや彼女の手に負えるものではなくなっていた。新しい扇の中心に立ったのは、他でもない。彼女たちは、自らの意思で、少しずつ周りを変えていった。
初めは戸惑いながらも、やがて自然に。
よしみは、かつての自分がしたように、夫人会で誰かを見下すことなど、もうできなかった。たった一人の、どこにでもいるような中年夫婦の男が、この社宅のすべてを変えてしまったのだ。それは、きっとあの時、さえが口にした、たった一言の勇気がなければ、決して起こり得なかったことだった。
その夜、慎吾は家族の食卓で、ことの成り行きを静かに語った。さえは、目の前の温かい夕食を眺めながら、目の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「ねえ、どうして何も言ってくれなかったんだ?」
慎吾の問いに、さえはうつむいた。
「だって…あなたに心配かけたくなかったから。あなたは仕事で大変なのに…」
「俺は、確かに目立つ存在じゃないよ。倉庫の管理とか、目立たない仕事だからな。でもな、俺にも守らなきゃいけないものはあるんだ。それは、お前のことだ。」
慎吾の言葉に、さえの目から涙が溢れ落ちた。
「ありがとう…」
「馬鹿。夫婦だろ。お前が笑ってられるなら、それで十分だ。」
慎吾は照れ臭そうにそう言って、頭を掻いた。そんな夫の姿に、さえは涙を拭い、小さく笑った。
社宅の夜は、穏やかに更けていく。そして、この出来事がきっかけで、社宅の夫人会は、以前とは違う、温かい場所に生まれ変わったのだった。女帝はいなくなった。たった一人、名もない倉庫番の男の、静かで、しかし確かな勇気が、誰も変えられなかった世界を、変えてしまったのだ。
