夜明け前、午前五時半。柊葬介は静かに布団から起き上がった。窓の外はまだ暗く、街灯がぽつりぽつりと点いているだけだ。五十四歳の体には朝の冷えがこたえるが、それでも彼は欠伸のひとつも漏らさない。スーツの肘は擦り切れ、靴底はすり減っている。それでも背筋だけは誰よりもまっすぐだった。
「母さん、行ってくるよ」
薄暗い部屋の隅で、八十二歳になる母がこちらを見ている。けれど、その目は息子を捉えてはいない。
「どちら様ですか」
その一言に、柊は一瞬だけ動きを止めた。胸の奥で何かがきしむような音がする。けれど彼はすぐに優しい笑みを浮かべた。
「そうすだよ、母さん。会社に行ってくるね」
「ああ、うちの息子はもう帰ってきていないのよ。まだ帰ってこないわ」
「じゃあ、お昼ご飯は冷蔵庫に入れておくから」
「ありがとうございます。でも、どなたでしたっけ」
「気にしないで。レサービスの人が来たら、一緒に行ってね」
「はい、わかりました」
柊は母に背を向けた。ドアを閉めた瞬間、彼の顔から笑みが消えた。母が息子を認識してくれないのは今に始まったことではない。それでも毎朝この瞬間だけは、どうしても慣れなかった。
リビングの時計を見る。まだ五分も経っていない。彼は食器棚の引き出しから古い写真立てを取り出した。若い頃の母が、幼い自分を抱いている。父は柊が高校生の時に亡くなった。それからずっと、母と二人きりだ。父の遺影を拭きながら、柊はそっと呟いた。
「ちゃんとやっているよ、親父さん」
冷蔵庫から母の朝食を取り出し、テーブルに並べる。母はご飯を一口も口にしない日がある。それでも作らないわけにはいかないのだ。すべて一人で抱え込む。そうしなければ、この生活は成り立たなかった。
ピピピピ、ピピピピ。スマートフォンが鳴る。派遣会社からのメールだ。本文には「余裕があれば本日もよろしくお願いします」とだけ書かれている。柊はため息をついた。全く、気の抜けた話だ。自分は五十を過ぎて、まさか派遣社員として身を粉にして働くことになるとは思わなかった。けれど、母の介護と家計を支えるためには、融通の利く働き方が必要だった。急な呼び出しにも対応できるように。こちらの都合で会社を休むなどという自由は、契約社員にも派遣社員にも許されない。それでも柊は選んだ。自分の命の限り、働ける場所を。
オフィスに到着すると、まだ誰もいなかった。誰よりも早く自分のデスクに着き、パソコンを立ち上げる。営業報告書に目を通しながら、今日のアポイントメントを確認していく。そして、共有スペースへと向かう。コーヒーメーカーを洗い、会議室の椅子を整える。誰に頼まれたわけでもない。ただ、自分にできることをやるだけだ。それが柊の生き方だった。
やがてオフィスに社員たちが集まり始める。朝の空気を切り裂くように、黒崎優一郎が現れた。
黒崎は四十八歳。エリートコースを歩み、嵐の中の燈台のように、あるいは獲物を狙う鷹のように、部下たちを見下ろしている。高級スーツに身を包み、目には信念の光ではなく、支配欲の光が宿っている。
「朝だ。連絡事項がある。今日の朝礼だが、今週の目標売上を発表してもらう。一同、起立」
朝礼が始まる。各部署の係長が得意げに数字を読み上げていく。柊のデスクには何の書類も置かれていない。営業社員ではないためだ。それなのに、なぜか今回の朝礼には柊を皮肉る声が含まれていた。
「そういえば、柊。お前、派遣社員だよな」
突然、黒崎が話を振ってきた。社員たちの視線が一斉に柊へ向かう。
「はい、ですが、それが何か? 」
「はっ、昨日、俺のところに来て、大口案件が取れたらしいじゃないか。どうせ派手な事実だけでかっこつけてんだろ。お前の数字なんて、たまたまだろ」
柊は唇を噛んだ。確かに、その大口案件は三か月かけてやっとこぎつけたものだった。アポイントを取るまでに何十回も足を運び、何度も断られ、ようやく得た結果だった。しかし、それを黒崎が知ったところで、評価が変わることはない。
「違います。こちらの提案が評価され、契約をいただきました」
「まあ、何が正しいかだな。だが、忘れるなよ。お前がその程度の年まで残っているのは、お前がいい歳して中卒だからだ。今後、俺の目に留まるようなことをするなよ。派遣に必要以上に期待するな。できることを、黙ってやっていろ。いいな」
柊は何も言い返せなかった。前の職場でも、こんな扱いを受けたことが何度もあった。学歴がないことにもの申すべきではない。言ったところで何も変わらない。ただ、心の中ではっきりとわかっていた。これは単なる差別だ。自分が何か失敗したわけでもない。生まれながらに持った学歴の有無だけで、人間の価値を決められようとしている。腹立たしさと悔しさがせめぎ合う中、それでも柊は頭を下げた。
「……承知しました」
「そうか。よく出来たな。だが、どうせお前はこれからも結果は出せない。所詮、俺たち「高学歴の正社員」の尻を引っ張るのがお前の役目だ」
その言葉に、周囲の数人がくすくすと笑いを漏らした。それでも、ほとんど誰も本気で笑ってはいなかった。皆が目をそらし、見なかったことにしている。
朝礼が終わり、それぞれが業務に散っていく。柊は席に戻ると、目の前の書類を整理し始めた。腹の底では燃えるような怒りが燻っているのに、それを表に出すことは決してない。母を思えば、ここで食い扶持を失うわけにはいかない。生活費、介護費用、医療費。すべては、この小さな机の中に詰まっている。強くなることを余儀なくされた男の、静かな闘いの始まりだった。
その日の午後、三時過ぎ。柊は倉庫の在庫整理をしていた。本来、営業部が倉庫の整理をするはずもない。ましてや、そのために手が止まることを黒崎もわかっている。倉庫には段ボールが積み上げられ、彼の仕事は山積みだった。
そこへ、若手社員の神谷誠がやって来た。二十八歳。正義感が強く、柊の応援をしてくれる数少ない社員だ。彼もまた黒崎の行動に胸を痛めていたが、立場上、何も言えない。
「柊さん。手が空いてますか? 」
「ああ、今ちょうど一段落したところだ。何か用か? 」
「いえ、その、アトラス商事の件なんですけど……」
「どうかしたの?

」
「いえ、あの、特に何かあったというわけではないんです。あの、少しお聞きしてもいいでしょうか」
「ああ、かまわないよ。廊下の真ん中で立ち話もなんだろう、入り口のところで」
二人は倉庫の段ボールに腰を下ろした。アトラス商事は柊が請け負っている案件で、大規模な再開発事業の一角を担う企業だ。発注元の担当者は柊の仕事ぶりを気に入ってくれており、今度新しく、別の業務も頼めるかどうか打診したいと話していた。
「その話、私がもらえないかと思いまして。営業部のままで、うちの部署を任せてもらえるなら、何とか回していきますので」
「いや、そうじゃないんだ。今の俺のままだと、どうしても注意が散ってしまう。むしろ、お前ぐらいしっかりやれる若手が変わってくれた方が、先方としても頼りになるはずだ」
「でも、俺じゃ先方の期待に応えられるか……」
「誠、お前が十分やれる奴だってのは、俺が一番わかってる。自信を持て」
神谷は少し迷っていたが、やがてうなずいた。
「わかりました。でも、どうして俺に任せようと思ったんですか? 」
「……信頼してるからさ。あとは、俺がもう少し自由に動けるように、だな」
「……そういうことですか。納得しました」
「すまないな。本来ならもっと早く切り替えられるべきなんだが、今の俺の身一つでは、何が起こっても自己責任だ。何かあれば、必ず俺に言え。絶対に一人で抱え込むなよ。黒崎さんには、そう伝えておく」
「伝えておくって、部長にですか? 」
「ああ。ちゃんとした上司に、ちゃんと引き継ぎをする。それが誠意ってもんだ。お前、部長室に来るか? 」
「いいんですか?
」
「ああ。これは仕事の話だからね。俺一人では決められなかった。俺たちで決めたってことで、先方の了承をもらいに行こう」
神谷は顔を明るくしたが、次の瞬間、複雑な表情を浮かべた。
「あの……柊さん。本当に、無理はしないでくださいね」
「何言ってるんだ。俺の心配より、自分の心配をしなさい。さあ、行こう」
神谷は力強くうなずいた。
柊は数日の間、黙々と倉庫の整理を続けた。黒崎は課長たちに指示を出し、柊を目の前でこき下ろすこともあった。それでも神谷や他の社員たちの様子が少しずつ変わっていくのを、柊は感じていた。
「よう、柊さん。倉庫整理も丁寧だな」
若手社員の一人が声をかけてきた。昔なら、黒崎の目を恐れて誰も柊に近づこうとしなかった。しかし、今は違う。彼の誠実さに気づき、尊敬の念を持つ社員が増えていた。
「こんなもん、何の技術もいらないよ。ただ、ものを丁寧に扱うだけだからな」
「うちの部署の連中は、ものを丁寧に扱う数はやってんだけどな。モノじゃなくて。人を」
「ははは。妙に刺さるなあ、その一言」
「真面目な話、柊さんが残ってくれなかったら、うちの部署は先が見えてたんですよ。いつか俺たち、柊さんを助けられる」
そんな会話をかわしながらも、黒崎の嫌がらせが終わることはなかった。倉庫から戻ると、机の上には謎の書類が置かれている。
「柊、ちょっと来い。倉庫の整理が終わったか? 」
「はい、だいぶ片付きました」
「そうか。なら、これから今日中にこれをまとめて、隅々まで掃除しておけ。明日、外部の監査が入るんだ。物の置き場は把握してるだろうが、ほかの社員に見られてわかるようにするんだぞ。いいな」
「……はい、承知しました」
「それと、アトラス商事の件、お前は待機だ」
「は? 」
「勘違いするな。大事な取引だから、若手を育てるという意味だ。お前には、もう任せられない」
「……了解しました」
「はい、がつんぼでに水を差すようなことを言うんじゃない。さあ、さっさと倉庫を済ませろ」
黒崎は柊に背を向けると、部下の前で大げさに鼻を鳴らした。
「まったく、年寄りは思い込みが激しくて困る。自分がいなくなったら、この部署が回らないとでも考えてるんだろう」
「あの、部長、言い過ぎでは」
「あ? てめえは黙ってろ。それとも何か?
何か文句あるのか? 」
「……いえ」
神谷が何か言いかけたが、すんでのところで飲み込んだ。隣のデスクでペンを持つ手が震えている。柊はそれを見て、そっと首を振った。大丈夫だ、と言うように。
その日の仕事が終わり、柊はいつものようにアポイントを確認していた。すると、懐かしい人物――アトラス商事の担当者である桐ヶ谷から、電話が入った。
「柊さん、お久しぶりです。覚えていますか? 」
「桐ヶ谷さん、お元気そうで何よりです」
「ええ、まあ。あの、酷な言い方になってしまうんですが、あの契約の件で、お伺いしたいことがありまして」
「はい、何なりと」
「実は先日、黒崎部長に話をしたんです。あなたの評価と、今後のことついて。そしたら、『派遣社員の分際で図に乗るな』と一蹴されてしまって」
電話越しの声に、柊はぞくりとした。
「…………」
「柊さん、黙ってないでください。私も馬鹿ではないので、あなたの置かれている状況は薄々わかっていました。ですが、まさか、ここまで酷いとは思いませんでした」
「桐ヶ谷さん、ちょっと待って。これは私の個人的な問題です」
「個人的な問題で済ませるつもりですか? あなたの能力を買って契約したのに、それをあなたに伝えずに、あの若造が『自分たちの部署の手柄だ』と言ってこようとしているんですよ。しかも、自分の部下でもなんでもないあなたの成果なのに」
「それは……あの」
「聞きたいのは、あなたの上司が正しい人間かどうかです。私はあなたを信じています。あなたが怒るなら、私はその証言をします」
「桐ヶ谷さん、あなたはどういうつもりですか?
」
「どういうつ気も何も、正しい人間と仕事がしたいんです。あなたはもう知っていますよね、うちの会社の取引先が、どれほどあなたを評価しているか」
確かに、桐ヶ谷の言葉は、柊だけに限った話ではない。昔から、柊の仕事を皮肉り、鼻で笑う人間はいる。だが、それ以上に、助けになる人間もいる。この数年で、柊の誠実さに気づいてくれる人たちと出会ってきた。そして、その一人である桐ヶ谷が、こうして声を上げようとしている。それは、柊にとって大きな意味があった。
「……ありがとうございます。ですが、今はまだ」
「柊さん。あなたが黙っていれば、またあいつらが何をしているかわかりませんよ。それでもいいんですか? 」
柊は押し黙った。母がいる。明日の生活がある。リスクを冒すことが、どれほど恐ろしいことか。彼は身に染みて知っている。それでも、このまま黙っていれば、きっと自分は死んだも同然だ。
「時間をください。冷静に、考えさせてほしいんです」
「……承知しました。ただし、あまり長く待たせるような真似はしないでください。こちらにも、都合ってものがありますから」
電話が切れた。しばらくスマートフォンを握ったまま、柊は何も見えない場所を見つめていた。
そのころ、黒崎部長は、部下の前で酒を煽りながら、引きつった笑顔を浮かべていた。
「柊のやつ、アトラス商事にちょっかいを出したらしいぜ。あいつが自分から何かをやるタマじゃないって、どうやら思い知らされたようだな。まったく、出る杭は打たれるってやつだ」
必死に笑おうとして、うまく笑えていない。部下たちは、たとえ泥水を飲まされようとも、懸命に微笑みを絶やさない。
そんな彼らの様子が、黒崎には逆に腹立たしかった。
「おい、土下一人くらい、今から飲み直すぞ。誰か奈落の底に付き合えよ。もちろん、俺が奢る。お前たちには、俺の目にかなう“仕事”をしてもらう」
「は、はい!! 」
笑顔の陰で、誰もがひそかに思っている。「次は、自分ではないといい」と。黒崎の胸の内では、すでに次なる罠が渦巻いていた。
柊は帰宅後、母の介護を一段落させてから、自分のスマートフォンを手に取った。情報が多すぎる。少しずつ整理する必要がある。彼は桐ヶ谷との電話を思い出しながら、ある資料を探し始めた。
数時間かけて、彼は三年前の契約書を取り出した。そこに書かれていたのは、たしかに黒崎の署名だった。
「やっぱりな……。これは、万が一のときの“保険”になるかもしれない」
そして、柊の決断が、黒崎の将来を大きく変えることになる。運命の歯車は、確かに動き出そうとしていた。