「やれるもんならやってみろよ。回転寿司がお似合いだぜ、じいさん。」高級料亭の座敷に、その下品な笑い声が響き渡った瞬間、42年間連れ添った妻の千鶴が唇を震わせて涙を拭う姿が目に入り、私の中で何かが静かに、しかし確実に弾けた。私は年金暮らしの老人に見えるだろう。質素なジャケットに擦り切れた襟元、手提げ鞄には小遣い程度しか入っていないと思われても仕方ない。だが、この男は知らなかった。私が東洋物産の…

「やれるもんならやってみろよ。回転寿司がお似合いだぜ、じいさん。」高級料亭の座敷に、その下品な笑い声が響き渡った瞬間、42年間連れ添った妻の千鶴が唇を震わせて涙を拭う姿が目に入り、私の中で何かが静かに、しかし確実に弾けた。私は年金暮らしの老人に見えるだろう。質素なジャケットに擦り切れた襟元、手提げ鞄には小遣い程度しか入っていないと思われても仕方ない。だが、この男は知らなかった。私が東洋物産の...

「やれるもんならやってみろよ。回転寿司がお似合いだぜ、じいさん。」

高級料亭の座敷に、下品な笑い声が響き渡った。痩せた客たちの箸が止まり、沈黙した空間に鶴見の声だけが反響していた。

「言っとくけどな、俺の親父は昭和銀行の重役だ。てめえみたいな年金暮らしのじいさんとは格が違うんだよ」

遠取りの息子という肩書きを振りかざし、質素な老夫婦を見下すその態度は、人としての品性の欠片も感じさせないものだった。

「お父さん、帰りましょう。私、もういいから。お家で何か作るからね」

隣で妻の千鶴が唇を震わせ、耐えきれない涙を拭う。その姿を見た瞬間、御影蒼一郎の胸の奥で何かが静かに、しかし確実に弾けた。

「一つ聞いてもいいかね。もしこの店が明日から営業できなくなったとしたら、どうするかね」

「はっ。なんだってうちが提示してるこの店が営業できなくなるってんだ。やれるもんならやってみろよ。回転寿司がお似合いだぜ、じいさん。大体、いくら持ってるんだ? その手提げ鞄、年金生活者の小遣いで何万円だ? ここの一人前のお値段、分かってるのか?」

鶴見が腹を抱えて笑い、高級料亭の店員である梶原もそれに追従するように薄笑いを浮かべた。

「……では、やってみせましょう」

翌日、そのニュースを目にした遠取鶴見は顔面蒼白になり、手にした新聞がばさりと床に落ちた。42年間連れ添った妻の涙を、この男たちは笑い物にした。その代償の重さを、この男はまだ知らない。

その朝、銀行のロビーに一組の老夫婦が静かに足を踏み入れた。男性は襟元がわずかに擦り切れたベージュのジャケットに地味なスラックスを身にまとい、女性は丁寧にアイロンのかかった淡い色のワンピースを着ている。どこからどう見ても、年金暮らしの穏やかな夫婦にしか見えなかった。

「千鶴、足元に気をつけて。段差があるから」

「ありがとう、お父さん」

総一郎は妻をエスコートしながら周囲を見渡した。50代半ばの銀行員が、カウンターで若い客に説明しながら書類を指さしている。その横顔は、どこか色褪せて見えた。彼もまた、目の前の数字を数えることだけに必死で、本当に大切なものを見失っているのかもしれない。

「ねえ、今日は混んでいるわね」

「ああ、少し待つかもしれないな。急ぎのようじゃないから、ゆっくり行こう」

「そうね。待つのも久しぶりね。昔はいつも待たされてばかりだったけれど」

「……俺が仕事で帰れなくて、お前を待たせていたということか」

「あら、そんなことは言ってないわ。ただ、昔の思い出しただけよ」

総一郎は少し苦い顔をしてから、血に促されるようにして番号札を取り、静かに椅子に座った。総一郎、68歳。かつて大手商社・東洋物産の副社長として世界を飛び回り、退任後も個人資産だけで80億円を超える資産家でありながら、本人は質素な暮らしを好み、高級車にも豪邸にも興味を示さない男である。窓口の行員たちは、誰一人として彼の正体を知らなかった。そして、総一郎はそれを望んでいた。人間を肩書きではなく、その言葉と行いで判断するという心情が、長年の商社マンとしての人生の中で培われたものだからだ。

今日は、二人の結婚記念日。42回目の節目を迎える。

「お父さん、明日が楽しみね。カジノさんのお料理、雑誌で見てからずっと憧れてたの。出し巻き卵と焼き松の写真が、本当に綺麗で」

「ああ、42年分の感謝だ。たまにはいい店で食べよう。俺もちゃんと調べた。評判のいい店だよ。……去年も、41年分の感謝を言ったな」

「いつもありがとう。毎年こうして覚えていてくれて、本当に嬉しいの」

「俺こそだ。退職前は仕事に追われて、お前と二人でゆっくり過ごす時間をろくに作れなかった。今更だが、それだけは詫びたいと思っている」

「詫びだなんて。お父さんが一生懸命働いてくれたから、私たちは安心して暮らせたんじゃない。こうして一緒にいてくれるだけで十分よ」

「……そう言ってくれるか」

穏やかな言葉の裏に、総一郎はいつも消えない痛みを抱えていた。10年前、一人の娘が25歳の若さで病に倒れ、あっけなくこの世を去った。綾野。仕事の山を抱えて、最後の入院中も何度か見舞いには行けたが、行く瞬間には間に合わなかった。千鶴からの電話で知らされた時、総一郎は会議室の椅子の上で、生まれて初めて思考が完全に止まる感覚を経験した。

綾野を失ったあの日、初めて気づいたのだ。仕事で得た財産も地位も、娘の笑顔を一つ守れなかったのだと。せめて千鶴には、残りの人生を全部渡そうと決め、総一郎は自ら表舞台から身を引いた。

「千鶴。綾野が生きていれば、今年で35歳だな」

「ええ……あの子も、きっと私たちが仲良く過ごしているのを喜んでくれていると思うわ。ちょっと焼き持ちを焼きながらね」

「そうだな。あいつはそういうやつだった」

「本当に、明日が楽しみね。お父さん、少しだけドレスコードってあるのかしら? 私、あの着物でいいと思うんだけど」

「桜色のやつか。よく似合っていたから、いいんじゃないか。お前に似合う格好をすれば、それがドレスコードだ」

「もう、お世辞が上手になったわね」

「最近、本当のことしか言ってないだけだ」

総一郎は静かに頷き、壁にかけられた時計の秒針がカチカチと音を刻むのを眺めた。番号が呼ばれるのを待つ間、ふとガラス越しに、一人の若い女性行員の姿が目に入った。高齢の女性客に対して身を乗り出すようにして丁寧に説明する横顔。次に、書類の記入に手間を取っているお年寄りの男性のそばに腰を折って寄り添い、一緒に指で欄をなぞってゆっくりと確認している。

あの丁寧さ、困っている人の目をまっすぐに見つめるあの仕草。娘の綾野とあまりにも重なった。総一郎は気づかぬうちに、背筋を伸ばしていた。

番号が呼ばれ、総一郎と千鶴が窓口へ向かう。対応したのは、瀬川さやという名札をつけた21歳の行員だった。入行3年目で、地方の高校を卒業して上京し、奨学金を返済しつつ都内で一人暮らしをしている苦労人だという。あの笑顔の裏にどれだけの緊張と努力が潜んでいるか。それには何となく伝わってきた。

「御影様、本日はどのようなご用件でしょうか?」

「普通預金から10万円ほど下ろしたいんだが、お願いできるかね」

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ。こちらの用紙に、お名前とご捺印をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「はい、これでよろしいかしら?」

千鶴が書類を差し出すと、さやは丁寧にそれを受け取り、目を通した。その時だった。さやの視線が、書類の一箇所で一瞬、固まった。

御影総一郎。その名前を見た時、さやは何の反応も示さなかったが、ハンコの印影を確認した瞬間、わずかに息を飲むのが分かった。

「……かしこまりました。ただいま確認いたします」

さやは一度奥へ引っ込み、数分後に戻ってきた。その顔色は、先ほどとは明らかに変わっていた。緊張ではなく、困惑に近い感情。そして、少し震える手で口を開いた。

「恐れ入ります。……このたびは、ご指定いただきありがとうございます。10万円のお引き出し、承りました。御影様、こちら明細でございます」

さやは丁寧に札を数え、封筒に入れて差し出した。総一郎がそれを受け取ろうとした時、不意に高圧的な声がロビーに響き渡った。

「おい、誰か呼んでくれないか。この書類、どうなってるんだ。何日待たせる気だ」

振り返ると、先ほど店で笑っていた痩せた男、三上市(仮名)がカウンターに寄りかかり、顔を真っ赤にして騒いでいる。その後ろには、スーツの男たちが数人、不機嫌そうな顔で立っている。

さやは一瞬迷ったが、総一郎に小さく頭を下げると、小走りで三上のもとへ向かって行った。

「少々お待ちくださいませ。すぐに確認いたします」

「待たせるのか? ふん、これだから地方銀行は。俺の取引額が分かってるのか」

さやは耐えるように一度目を閉じると、カウンター越しに書類を受け取った。その肩はわずかに震えている。総一郎はそれを黙って見つめていた。千鶴も、そっと腕に絡みついていた手を握る。

「……すぐに、担当の者を呼びます。少々お時間をいただけますでしょうか」

「時間だと? 俺にこれ以上待てと言うのか。いいか、お前みたいな行員に何が分かる。早く出てこい。御影とかいうじいさんから、金の無心があったんだ。聞いてるか、俺の親父のコネを頼ってきたんだぞ、このじいさんは」

三上は喚き散らしながら、総一郎の方を指差した。その瞬間、心臓が止まった。千鶴の手が、総一郎の腕を強く掴む。

「……お父さん」

千鶴の声が震えている。涙目で総一郎を見上げている。あの日、料亭で味わった屈辱が、妻の笑顔を奪ってしまう。それが一番許せなかった。

「……なるほど」

総一郎は静かに立ち上がった。その目は、沸点を超えた静けさを帯びていた。三上は勝ち誇ったように笑う。

「ほら見ろ、やっときたか。……何だ、じいさん」

「いや、君に伝えておくことがあってな。親父さんの会社は、もう立たないかもしれない。というか、明日にもね」

「は? 何言ってるんだ、このボケじいさん。親父は昭和銀行の……って、なんでてめえにそれが分かるんだよ」

「私が、東洋物産の元副社長、御影総一郎だ」

一瞬の沈黙。三上は言葉を失い、周りの客たちが注目し始めた。しかし、さやだけは、全く驚いた様子がなかった。むしろ、まるで「言うべき時が来た」とでも言うように、静かに口元をわずかに緩めた。

「御影……ですか。あ、あの、東洋物産って」

三上の声が震え始めた。しかしそれは、勘違いではなかった。東洋物産という名前を出したのは、あくまで自分の正体を明かすためではなかった。だが、その一言が呼び水になった。

「君の親父さんに伝えてくれ。私が明日、昭和銀行を訪ねると。頭取の名前は言わなくても分かるだろう。さよならだ」

総一郎はそう言うと、千鶴の手をさっと取り、その場を後にした。三上は青ざめたまま、立ち尽くしていた。しかしその後ろから、さやが落ち着いた声で言った。

「御影様、お待ちください。……」そして、三上の方を向き直り、はっきりとした口調で言い放った。

「三上市様、ですね。本日の御滞在は、お時間のむだなさったようです。どうぞ、お引き取りください」

「何だと? お前、誰だと思って……!」

「私は東亜銀行の行員です。そして、あなたが先ほどまであれほど侮辱した方を尊敬する、ただそれだけです」

三上は反論の言葉もなく、みっともなく絶望的な顔で立ち尽くすしかなかった。ロビーはしんと静まり返り、カウンターに伏せてある書類の上を、時計の秒針だけが刻む音が通り過ぎた。

総一郎と千鶴は、銀行を出たところで足を止めた。千鶴が、涙目で笑いながら言った。

「……ねえ、お父さん。あの若いお姉さん、素敵だったわね」

「ああ、よく気が付く娘だと思ったよ。最近の若い子はなって思ってたけど、俺の目は節穴だったかもな」

「ふふ。でもね、あの女の子、あなたに言いたいことがあったみたいよ」

「そうか? ……そうだな。今度、会ったら礼を言おう」

その後、総一郎は千鶴の手をとって、歩き出した。二人の背中には、穏やかな春の日差しが降り注いでいた。

そして数日後、東亜銀行のさやの机に、一通の封書が届いた。中には手書きの礼状と、一流ホテルのレストランの招待状が入っていた。差出人は「御影 総一郎」。

同席するように、とだけ書かれた一枚のメモには、添えられた一言があった。

「いいえ。むしろ、私があなたに礼を言わなければなりません。いつもありがとう、ですね」

それは、千鶴がいつも総一郎に言っていた、あの言葉。なぜこの銀行員がその言葉を知っているのか。さやは首をかしげながらも、何故か胸の奥があったかくなるのを感じた。

総一郎は言うまでもなく、妻の涙を笑い物にした男を許したわけではなかった。だが、あの日、銀行の窓口で一番大切なことを思い出させてくれたのは、美しい思い出ではなく、たった一人の、明日を頑張っている若い女の子の、その誠実な背中だったのかもしれない。

Thumbnail