祖母の前で、俺は告げた。ミキとの間に子供ができた。結婚しようと思っている。その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。祖母はミキに視線を移し、じっと見つめた。そして微笑みを浮かべたまま、静かでいて鋭い口調で訊ねた。
「子供ができたのは、借金じゃないの?」
俺は伊藤友明、二十五歳。都内の建設会社で働く普通の会社員だ。ミキと出会ったのは、ちょうど一年前の秋。紅葉が見頃の公園で開かれた、友人のバーベキューだった。正直、あの日は仕事が忙しくて、参加を断ろうかと思っていた。しかし友人がしつこく誘うものだから、仕方なく顔を出した。
そこに十数人が集まっていて、ミキもいた。彼女は友人の知り合いで、初対面の俺にも気さくに話しかけてくる、明るい女性だった。最初は、よく笑う元気な人だなという印象だったが、その自然な振る舞いに、どこか惹かれるものがあった。
バーベキューが進み、俺が焼き係として肉を焼いていると、ミキが近づいてきて、「手伝いますよ」と笑いながら声をかけてくれた。その笑顔が妙に眩しくて、少し緊張しながら「じゃあ、これお願いします」とトングを渡した。そこから自然と会話が始まった。彼女は人と話すのが上手で、不器用な俺の返しでも、うまく話題を広げてくれる。話しているうちに、彼女がただ明るいだけじゃなくて、どこかに影を抱えているような印象を受けた。それが気になって、俺は彼女にもっと興味を持つようになった。
バーベキューが終わり、みんなが解散する直前、ミキが言った。
「友明さん、楽しかったです。また、どこかでお会いできたらいいですね」
その言葉で、もう一度会いたいという気持ちが芽生えた。思い切って連絡先を聞くと、ミキは快く教えてくれた。その後、俺たちは何度か食事に行くようになった。笑顔が絶えない楽しい日々だった。仕事の愚痴や、好きな音楽の話をしながら、少しずつ距離を縮めていった。
彼女の口から出る言葉は、どれも前向きで、「こんな人と一緒にいられたら、毎日が楽しくなるんだろうな」と思わせてくれた。だが、今思えば、その明るさの裏には彼女なりの計算があったのかもしれない。彼女の過去について深く聞こうとすると、上手に話題をそらされたことが何度かあった。その時は深く気にしなかったけれど、今となっては、それが伏線だったと思わざるを得ない。
半年後、俺たちは付き合うことになった。ミキといる時間は居心地がよく、些細な喧嘩をすることはあっても、大きな問題はなかった。結婚の二文字が頭をよぎることもあったが、まだ先のことだと思っていた。そんな平凡な毎日が、人生を揺るがす出来事で一変するまでは。
俺が一人暮らしをするアパートに、ミキが「話がある」と言って訪ねてきたのは、その日だった。珍しく緊張した面持ちで部屋に入ってきたミキに、少し疑問を感じたが、きっと慣れない場所だからだろうと思った。ミキはソワソワと落ち着かない様子で俺の前に座ると、お腹にそっと手を当て、上目遣いで俺を見つめて言った。
「ねえ、聞いてくれる? あのね、私、赤ちゃんができたの」
一瞬、意味が理解できなかった。ミキはまだ二十二歳になったばかりで、やりたいことがいっぱいあると話していた。俺も、仕事で精一杯だし、結婚なんてまだ先の話だと思っていた。頭が混乱した。現実感がなかった。
「本当に?」
「そうよ。お医者さんに行ったら、妊娠二ヶ月ですって言われたの。これ、見てくれる?」
ミキが差し出した白黒のエコー写真を見た瞬間、これは本当なんだと実感した。ミキはその写真を握りしめ、微笑んだ。
「私、産んでいいんだよね? 結婚して、二人で頑張ろうね」
こうなったら、逃げも隠れもできない。腹をくくった。ミキと、お腹の子を大切にしよう。そう思った。
「ミキ、結婚しよう」
結婚を決めて、次は家族への報告だ。なんとなく、両親には申し訳ない気持ちがあったけれど、素直に事情を説明した。両親は驚いていたが、父は黙って頷き、母は少し渋い顔をしながらも「責任を取るなら、しっかりやりなさい」と言ってくれた。その言葉に、少しほっとした。
ただ、一つだけ条件がつけられた。父方の祖母に、ミキを連れて挨拶に行くことだった。祖母は田舎に住んでいて、子供の頃から夏休みや正月に訪ねるのを楽しみにしていた。祖母は、俺にとって頼りになる存在で、人生の節目節目で的確な助言をくれる人だ。地元では「不思議な力を持つおばあさん」と噂されることもあり、誰もが一目置くような存在だった。そんな祖母に、ミキが認められるのか。少し心配になった。
ミキに「田舎に住む祖母に会ってほしい」と伝えると、彼女は少し驚いた様子だったが、「是非、お会いしてみたい」と言ってくれた。俺は早速、週末に祖母の家を訪ねる計画を立てた。その間にも、ミキは何度か体調が悪そうな様子を見せた。「大丈夫?」と尋ねると、「ちょっと、つわりがね」と答えた。お腹に子供がいるというのは、大変なことなんだと改めて実感した。妊娠初期だから、無理をさせないように気を遣った。
週末になり、俺たちは一泊の予定で祖母の家へ向かった。車で高速道路に乗り、しばらく走ると、町の景色は緑豊かな田舎の風景へと変わっていった。遠くに見える山々のシルエットが近づき、季節の移り変わりを感じさせる、心地よい道のりだった。助手席のミキは、最初のうちは楽しそうに窓の外を眺めていた。俺もその様子に安心して、結婚後の新しい生活について話を振った。
「新居、どんな家がいいと思う?」
ミキは、最初は笑顔で答えてくれた。
「うーん。明るいリビングがいいな。でも、友明君が決めてくれるなら、それでいいよ」
その答えに少し嬉しくなり、家族の将来を思い描きながら会話を続けた。けれど、途中からミキの表情が曇り始めたのに気づいた。何かを考え込むように、窓の外をじっと眺めている。時折、小さなため息をつく。どうしたんだと尋ねると、ミキは一瞬だけこちらを見て、すぐに目をそらした。
「何でもない」
その言葉には、どこか気持ちの濁りがあった。俺の中に、小さな不安が芽生えた。「疲れたなら、途中で休もうか」と声をかけたが、ミキは「大丈夫」と首を振るだけだった。祖母に会えることへの緊張かもしれない。そう思うことにした。
祖母の家に着いた。昔ながらの木造の家で、庭には手入れの行き届いた花が咲いている。玄関をくぐると、懐かしい畳の匂いがした。奥から、ゆっくりとした足音が聞こえてきて、祖母が姿を現した。歳を重ねた祖母は、しかし背筋をぴんと伸ばし、見る人を射抜くような鋭い目をしていた。穏やかな雰囲気とは裏腹に、その目は何もかも見透かしているかのようだ。
「よく来たね、友明。そちらが、ミキさんかい?」
「はい、初めまして。ミキです」
ミキは丁寧にお辞儀をした。祖母はミキを一瞥し、「上がりなさい」と案内してくれた。居間に通され、祖母と対面する。茶をすすりながら、俺は切り出した。
「おばあちゃん、話があるんだ。僕たち、結婚することにしたんだ」
「ふん。聞いておるよ。お前の両親からな」
祖母は、チラリとミキを見た。ミキは緊張した面持ちで、膝の上で手を握りしめている。
「で、その前に聞くが」と、祖母は言った。「子供ができた、ということは、本当の話かね?」
「は、はい。本当です」
「そうか。で、そちらのミキさん」と、祖母はミキに向き直った。「君は、ウチの孫と結婚して、本当に幸せになれると思うのかね?」
ミキは一瞬戸惑ったが、すぐに気を強く持って答えた。
「はい。友明さんと一緒にいれば、きっと幸せになれます」
「ふん。口で言うのは、誰でもできる。本当に、大切なものが分かっているのか?」
祖母の圧に、ミキの顔が強張る。俺は間に入ろうとした。しかし、祖母の次の一言に、俺たちは凍りついた。
「ミキさん。君の家の事情は、私が聞いている。君の父君は、多額の借金を抱えて、行方をくらませているそうだね」
ミキの顔から、血の気が引くのが分かった。
「あ、なぜ、それを……」
「調べもせんと、この年から生きてきてはおらんよ。で、君は、ウチの孫を利用しようとしたんじゃないのか?」
祖母の言葉は、静かだが、重く鋭かった。ミキは言葉を失い、うつむいた。沈黙が流れる。俺は、考えるよりも先に口を開いていた。
「おばあちゃん! ミキはそんな人じゃない!」
「黙ってなさい、友明」と、祖母はピシャリと言った。「私は、ミキさんに聞いておるんじゃ」そう言うと、ミキに再び視線を戻した。
「……お前さん、食事は、きちんと取れておるのか?」
突然の方向転換に、ミキはキョトンとした表情を見せた。
「はい。ちゃんと食べています……」
「そうか。なら、良い。うまく育ててみせな。この家にいた、この友人を知っとるか?」
「知りません……」
しみじみと、祖母は語りだした。昔、ここで暮らしていたという、幼い頃の友人について。その友人は、ある男に騙されて、妊娠し、ひどい目にあったという。赤ん坊は産むことが決まったが、その後の人生の苦労は絶えなかったという。
「女一人で、子を育てるというのは、こういうことじゃ。楽しいことばかりでは、ない。お前さんも、大変な思いをするかもしれんが、それでも、やっていく覚悟はあるかね?」
ミキは、目を潤ませながらも、しっかりと頷いた。
「覚悟しています。私が、産んだ子供は、私が責任を持って育てます」
「ふん。その意気や良し。なら、良い。覚悟が決まったなら、いちいち止めはせん。ただし、もし辛くなったら、いつでもここへ来なさい。そして、友明を頼みますよ」と、祖母は言葉を濁した。
「おばあちゃん、それって……」
「ミキさんの親御さんからは、連絡があったのだろう。私にも、来た。借金の形に、娘を売り渡すとか、何とか」
異父兄妹の存在、とか。説明しづらいことがあって、逃げていた。借金が、あるんだ。ミキの事情に、いちいち触れることはできなかった。
母は、何かを言いかけたが、何も言わなかった。長い沈黙の後、母は静かに言った。
「……そう。君が、どういう人間か、分かったわ。私は、反対だったけどね。でも、もう、何も言わないわ。友明を、よろしくお願いするわね」
ミキは、何度も何度も頭を下げた。
帰りの車の中、ミキは何も話さなかった。涙をこらえているようだった。俺は、こんな気持ちになるのなら、もっと早く彼女のことを理解してやれなかったのかと、自分の不甲斐なさに胸が痛んだ。しかし、もう後戻りはできない。ミキと、お腹の子のために、前に進むしかない。
それから数日後、俺たちは市役所で婚姻届を提出した。新しい家族の第一歩だ。アパートに戻り、ミキのお腹に手を当てると、ミキは少しだけ微笑んだ。そこには、あの鋭い目をした祖母の姿はない。ただ、未来への不安と、幸せへの期待が、少しだけあった。
「……ねえ、あのね、借金が、あるの。私を育ててくれって、言ったのは、お父さんじゃないんだ。両親は、私が妊娠して、出産した時、いらないって……私、おばあちゃんちに預けられて……。本当のことを、言えて、良かった」
ミキは、そう言うと、俺の胸で泣き崩れた。何も言わず、強く抱きしめた。この人の怒りも、悲しみも、全部ひっくるめて、受け止めていくしかない。俺が、この人のことを守るんだ。そう、強く思った。
