夕食の席で、長男の嫁のみきが言い放った。年金暮らしの人間を、いつまで私たちが養うんですか。目の前には、私が作った味噌汁と煮物が並んでいる。長男の尚弥は味噌汁を一口すすると、私と目を合わせずにぽつりと言った。母さん、もう同居は無理だと思う。この部屋も、そろそろ結衣の個室にしたいんだ。九歳になった孫娘の結衣は、困ったようにうつむいている。私は箸を置き、二人に確認した。本当に、私が出ていけばいいのね。みきは肩をすくめた。悪く思わないでください。今は家事をしてもらっていますが、そのうち介護が必要になるでしょう。年金しかない人を、ずっと支える余裕はありませんから。尚弥も小さくうなずいた。それを見た私は、最後の確認をした。分かりました。では、今後、私のことも頼らないでくださいね。二人は、私の言葉の意味を理解していなかった。私が名古屋に残すつもりだった、八千万円のことも。
私の名前は佐千子。六十七歳。夫の正を失ってから、三年が経つ。夫とは、結婚してから四十年近く、小さな印刷工場を営んでいた。夫が機械を動かし、私は事務や経理を担当する。景気が悪い時には、二人で頭を下げて仕事をもらい、夜くまで納品の準備をした。贅沢とは無縁だったが、一人息子の尚弥を大学まで進学させ、住宅ローンの返済も終えることができた。そして夫が病気にかかり、工場を閉じた時、土地と建物を売却した。長年の貯金と売却代金を合わせ、私たちの手元には八千万円ほどが残った。夫は亡くなる前、私に言った。これは俺一人の金じゃない。佐千子が一緒に働いたから残せた金だ。息子のためだけじゃなく、佐千子自身のためにも使ってくれ。私はうなずいたけれど、心の中では、できるだけ子供に残してやりたいと考えていた。私たちが苦労した分、息子と孫には安心して暮らしてほしかったから。
夫が亡くなった後、尚弥から同居を持ちかけられた。母さんを一人にするのは心配だ。うちに来れば、結衣も喜ぶよ。みきも、お母さんがいてくださると私も安心です、と笑ってくれた。私は長く暮らした家を売り、必要なものだけを持って、息子夫婦の家へ移った。最初は穏やかな毎日だった。朝食を作れば、みきはお礼を言ってくれた。結衣を学校へ送り出し、帰宅時間にはおやつを用意する。共働きの二人に代わって、掃除や洗濯、夕食作りも引き受けた。私は自分の年金から毎月八万円を生活費として渡していた。食材を買い足す時も、結衣の文房具や服を買う時も、ほとんど自分の財布から出した。夫との預金には、なるべく手をつけない。日々の暮らしは年金の範囲に納める。それが、長年染みついた私の生活だった。
ところが、月日が経つにつれ、息子夫婦からの感謝の言葉は消えていった。朝食が少し遅ければ、家にいるのに、どうして間に合わないんですか。煮物を出せば、年寄り向けの料理ばかり。友人と外食へ出かけると、年金暮らしなのによく外食できますね、と言われる。私は、みきが作った夕食を、ほとんど食べたことがなかった。それでも、彼女の中では、私は息子夫婦に養われている、お金のない老人になっていた。
ある日、尚弥夫婦が住宅ローンについて話していた。残りはおよそ二千万円。私は以前から、七十歳になったら一部を援助しようと考えていた。結衣の大学費用も、別に用意するつもりだった。正確な資産額は教えていなかった。ただ、尚弥には、お父さんが残したお金があるから、将来は少し助けられると話したことがある。その時の尚弥は、母さんの老後のためのお金なんだから、無理しなくていい、と言った。私は、その言葉を信じていた。しかし、みきは、私の地味な服装や、年金だけで暮らす姿だけを見て、大したお金は持っていないと決めつけていたようだった。
やがて、みきは私の部屋を気にするようになった。結衣も大きくなったから、自分の部屋が必要ですよね。私も在宅勤務の日が増えたので、仕事部屋が欲しいんです。最初は、家具の配置を変えられないか、という相談だった。ところが次第に、近くに高齢者向けの住宅がありますよ。年金で入れる部屋もあるみたいです、と資料を渡されるようになった。私はまだ、介護を必要としていない。通院も買い物も、一人でできる。それでも、みきは、元気なうちに移った方が、私たちも安心です、と繰り返した。安心するのは、私ではなく、自分たちなのでしょう。それでも、尚弥なら、最後には止めてくれる。どこかで、そう期待していた。しかし、あの夕食の日、私が作った味噌汁を飲みながら、尚弥は言ったのだ。もう同居は無理だ、と。
翌朝、私は小さなキャリーケースに衣類と夫の写真を詰めた。通帳や大切な書類は、元々金庫へ預けてある。結衣が玄関で、私の袖を握った。おばあちゃん、どこへ行くの。少しの間、別の場所で暮らすのよ。私、おばあちゃんのご飯、好きだよ。私はしゃがみ、結衣を抱きしめた。この子に罪はない。けれど、孫が可愛いからという理由で、自分を犠牲にし続けることは、もうできなかった。尚弥は気まずそうに封筒を差し出した。当面の生活費。中には三万円が入っていた。でも、私は受け取らなかった。必要ありません。これまで渡した生活費の残りを、結衣のために使って。みきは少し驚いた顔をした。それでも、私を引き止めることはなかった。
私はアパートへ移り、翌日、銀行を訪れた。長年お世話になっている担当者へ、息子への住宅資金の援助と、相続の予定を見直したいと伝えた。担当者は慎重に尋ねた。ご家族ともう一度、話し合われなくてもよろしいですか。はい。見直しを進めてください。私は夫の言葉を思い出した。佐千子、これはお前のために使ってくれ。私は、母親である前に、一人の人間。残りの人生を、自分で選ぶことにした。手続きを終えても、八千万円という数字は変わらない。けれど、そのお金の意味は変わった。息子に残すためではなく、私が生きるためのお金になったのだ。
私は以前、夫と旅行した海辺の町を訪ねた。夫は、そこで仕事をやめたら、海の近くで暮らすのもいいな、と笑っていた。私は、駅から少し離れた場所に、小さな平屋を見つけた。決して大きな家ではない。けれど、誰の目を気にすることなく、自分の時間を過ごせる家だ。庭には、夫が好きだった向日葵を植えた。窓からは海が見える。朝、起きて、カーテンを開けると、目の前に穏やかな海が広がる。夫の写真に、ただいま、と声をかける。返事はないけれど、夫が隣にいるような気がする。
みきが、私がいなくなってから、どれほど家事が回らなくなったのか、私は知らない。尚弥が、私の作った味噌汁を思い出して、何かを感じることがあったのか、それも知らない。ただ、一つだけ確かなことは、私はもう、誰かのために生きる必要がないということだ。結衣から手紙が届いたことがある。おばあちゃん、元気ですか。また、おばあちゃんのご飯が食べたいです。私は、その手紙を何度も読み返した。そして、結衣が遊びに来た時は、一緒に海辺を散歩し、スーパーで買った材料で、簡単な料理を作ってあげる。結衣は、おいしい、おいしい、と笑って食べてくれる。その顔を見ると、私は、これでよかったのだと思える。
時々、息子夫婦から、体調はどうですか、と連絡が来る。しかし、それは、私を心配しているからではない。もしかしたら、残りのお金を探しているのかもしれない。父さんの遺産は、どうなったんですか、と聞かれたことはない。けれど、私が自由に使えるお金を持っていることを、二人が知っているのは事実だ。私は、その問いには答えない。これまでの生活費、といって、私は何のためらいもなく、これまで通り、自分のために使う。
ある日、私は小さなノートを買い、これからのことを書き始めた。旅行に行きたい場所。食べたいもの。読みたい本。やりたいこと。私は、それを実現するために、貯金を使うことにした。私は、もう、誰かのために、自分を削ることはしない。その第一歩として、私は、自分のために、新しい人生を始めたのだ。
海辺の町に住み始めて、季節がひとつ巡った。今年の夏は、結衣を初めて、一人で遊びに来させた。駅まで迎えに行くと、結衣は、真っ黒に日焼けした顔で、おばあちゃん、と手を振った。家に着くなり、結衣は、海を見て、あ、海だ、と目を輝かせた。結衣は、都会では経験できない、たくさんのことを、この町で覚えていった。カニを追いかけ、波と遊び、夜は、私が作った料理を食べながら、学校の話を聞かせた。結衣が帰る日、みきが迎えに来た。みきは、私の家を見渡し、きれいなおうちですね、と言った。私は、ありがとう、とだけ答えた。みきは、何か言いたげだったが、結局、何も言わずに帰っていった。
私は、あの日、家を追い出されて、不幸になったわけではない。むしろ、私は、あの家にいたからこそ、自由を手に入れられたのかもしれない。夫が遺してくれた八千万円は、私に、残りの人生を、自分らしく生きることを許してくれた。私は、これからも、この海辺の町で、静かに、しかし、自分の足で立って、生きていく。誰かの期待に応えるためではなく、私自身のために。朝、目を覚ますと、窓の外で、カモメが鳴いている。私は、コーヒーを淹れ、海を眺めながら、今日は何をしようか、と考える。それは、誰にも縛られない、私だけの時間だ。
誰かのためだけではなく、自分のために迎える朝を、私はようやく手に入れた。夫が教えてくれた、本当の幸せを噛みしめながら、今日も、私はこの町で生きていく。
