彼女が私を押しのけた瞬間、私は理解する間もなく体が宙に浮いていた。何が起きているのか、危険も痛みも考える余裕はなかった。周りの誰もが言葉を失う中、夫となるはずだった男は、信じられない一言を口にした。
「あなた、誰ですか?」
私の名前は加島亜美。二十六歳。都内でデスクワークをしている。婚約者の隆司と付き合ってもう二年になる。友人の紹介で知り合った隆司は、優しくて頼りになる人だった。働いてばかりで私に社交性がないのを可哀想に思った友人が、紹介してくれたのだ。初対面の印象は、気さくで思いやりのある人。強く惹かれたけれど、自分にはもったいないと思って、素直になれなかった。でも、そんな私の気持ちを見透かしたように、彼はずっと真っすぐに想いを伝えてきてくれて、付き合うことになった。
付き合い始めてからも、隆司は誠実な人だった。デートを重ねて、一年後には結婚を意識して一緒に暮らし始めた。お互い一人暮らしが長かったから、家事は半分ずつ。できる方ができるときにやる。無理はしすぎず、互いに支え合いながらの生活は、初めて誰かと暮らすとは思えないほど自然で、心地よいものだった。
小さな喧嘩はあった。物を元の場所に戻さなかったり、買い出しを忘れたり。でも、それは育った環境が違えば当然のこと。話し合って理解し合えば、二人の絆を強くしてくれる糧になっていた。そう信じていた。
そして、記念日の夜。隆司が突然プロポーズしてくれた。驚いたけれど、迷うことなく「はい」と返事をした。そこからはお互いの仕事の合間を縫って、少しずつ結婚式の準備を進めていった。両方の実家への挨拶も、何とか無事に済ませた。私たちの両親に会いにいく道中、隆司は珍しく緊張しているようだった。私の父は大柄で、一見すると威圧感がある人だから。でも、父は見た目に反して優しい人で、両親は隆司をすっかり気に入ってくれた。帰り道、安堵したようにため息をつく隆司を見て、思わず笑ってしまった。
「次は俺の番だよ」と隆司が拗ねたように言う。その言葉に、今度は私が緊張する番だった。隆司の実家は東京ではなく、車で数時間の場所にある。ドライブがてら気分を紛らわせながら向かい、無事に挨拶を終えることができた。
この日は本当に、すべてが順風満帆だった。そして、この後あんなことになるなんて、その時は夢にも思っていなかった。
あれは、結婚式の日が近づいてきた頃のこと。最初は本当に小さなことだった。郵便受けに、心当たりのない手紙が届くようになった。差出人は書かれていない。中には私を中傷する言葉が綴られていた。最初は悪戯だと思った。でも、日を追うごとにエスカレートしていく。怖くなってSNSを鍵付きにしたのに、今度は自宅に直接、脅迫めいた手紙が届くようになった。
隆司が浮気をしているのではないか。そう疑わずにはいられなかった。普段の優しい隆司を知っているからこそ、信じたい。でも、頭に浮かんでしまった疑念は、もう簡単には消せなかった。気になって仕方なくて、隆司の一挙一動を目で追ってしまう自分がいた。携帯をいじっているのを見れば、誰と連絡を取っているのか。もしかして、と考える。結婚前にそういうことをする人は多いと聞く。居ても立っても居られなくなったけど、もし詰め寄って、もしも勘違いだったら。隆司を失いたくなくて、何も言い出せなかった。
私の両親にも相談した。初めは半信半疑だった父も、私の真剣な様子に話を聞いてくれた。しかし、ついに父は隆司の悪口を一切言わず、「隆司君に限ってそんなことはない」と信じて疑わなかった。頼みの綱の両親にまで否定され、私は不安を抱えたまま、結婚式の準備を進めるしかなかった。
式の日が近づくにつれて、嫌がらせは激しくなっていった。それでも、私は隆司のことを信じたかった。たとえもし、仮に浮気をしていたのだとしても、本当に一時の気の迷いなら、許そう。そう思うようにしていた。式が滞りなく終われば、あとは新しい生活が始まる。披露宴の合間に、もしも些細な違和感を感じることがあったら、ちゃんと話し合おう。覚悟を決めたら、これまであれほど長く感じられた時間が、嘘のようにあっという間に過ぎた。隆司は嬉しそうに笑っていて、私も自然と笑顔になれた。このまま幸せな一日が終わるのだと、そう信じていた。
その女が、突然現れるまでは。
披露宴が始まって、しばらく経った頃。女性の甲高い声が、会場の華やかな雰囲気を打ち破るように響き渡った。肩で息をしている女性が、たいまつみたいに立っていた。そして、私を睨むと、「この泥棒猫!」と叫びながら、力いっぱい私の頬を叩いた。
あまりの出来事に、会場の誰もが息を呑んだ。あの騒がしかった会場が、一瞬で静まり返った。
「私が誰か分かってるんでしょ!隆司さんを奪った泥棒女!」 女性は錯乱した様子で、私を指差して喚き散らした。痛みで頭がくらくらする。恐怖で体が震えて、涙が止まらなかった。まさか、この人が隆司の浮気相手なのか。疑いが確信に変わった瞬間だった。きっと、ここ数ヶ月ずっと私を苦しめてきた張本人も、この女なんだろう。
「隆司さん!」 女性は今度は隆司の胸元に飛び込んだ。「私ですよ!ずっと待っていたんです!あなたが大学を卒業したらプロポーズしてくれるって、約束したじゃないですか!それなのに、こんな女と結婚するなんて!」
私は隆司の顔を見た。しかし、隆司は女性をじっと見つめたまま、困惑した表情を浮かべている。私が想像していた「弁解」や「言い訳」とは違う反応に、妙に冷静な自分がいた。
「……あの、あなた、どなたです?何をおっしゃっているんですか?」
隆司の口から出たのは、私にではなく、その女性に対する「誰ですか?」という言葉だった。一瞬、会場がどよめきに包まれた。
「何言ってるんですか、私ですよ!子供の頃、いつも一緒に遊んであげていたじゃないですか!『僕と結婚して』って、何度も言ってくれたじゃないですか!」
女性は隆司の腕を掴みながら、縋りつくように言う。隆司は必死に首を振った。
「すみません、本当に分かりません。私は会ったことのない方だと思います」
「嘘!だって、あなた、私が引っ越す日に、『絶対に迎えに行くから』って言ってくれたじゃない!」
女性の剣幕に、隆司は一歩後退った。そして、何かを思い出したように、ポツリと呟いた。
「……まさか……愛莉さん?」
その名前を聞いて、女性の顔がパッと輝いた。
「そう!愛莉よ!分かってくれたのね!」
しかし、隆司の表情はますます曇っていく。
「……でも、愛莉さんは確か、『俺のことは好きか』って……いや、たしか……」
隆司は頭を抱えながら、何かを必死に思い出そうとしているようだった。やがて、顔を上げると、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「確かに、君の遊び相手はしていました。でも、『結婚する』なんて言った覚えはありません。それは絶対にない。僕がそんな約束をするはずがない。それに、君、俺の家がどこにあるか知ってる?」
「知ってるわ!だって、あなたをお見かけするために、何度も前まで通ったんだもの。今日だって、ちゃんと式を挙げるって聞いて、いても立ってもいられなくて……」
「……小さい頃の記憶ですが、君は俺に言ったはずです。『あなたのことは好きになれない。今まで遊んでくれてありがとう』って。そう言って、君は引っ越して行ったんじゃないですか?それっきり、会ってもいない」
隆司の言葉に、会場がどよめいた。そう言われた女性は、一瞬虚をつかれたような顔をし、唇を震わせた。
「そんなはずない!あなたの言葉を信じて、私はずっと待っていたのに!あなたは私を裏切ったの?」
女性の様子がおかしいと判断したのか、私の父が立ち上がり、祭壇前に座っていた何人かの男性に合図を送った。男性たちは素早く立ち上がると、女性の両脇を抱えて取り押さえた。
「何するのよ!放して!」
女性はジタバタと暴れた。そんなことをお構いなしに、父は私と隆司の元へ歩み寄ってきた。
「もう大丈夫だ。お前たちは下がっていなさい」
父は現役の刑事だった。私が隆司の浮気を疑った時、警察官の父に相談して、気にかけてもらえるようにお願いしていたのだ。今日も、私の安否を気遣った父の同僚の方々が、私を逮捕するであろう事件に備えて、私の警護を兼ねて来賓として参列してくれていた。まさか、こんな形で本当にお世話になるとは思わなかった。
女性は「嘘よ!嘘って言って!」と叫び続けながら、駆けつけた警察官に確保され、連れて行かれた。会場は重い沈黙に包まれ、その後の披露宴は、何とか滞りなく進行した。ゲストの皆さんが心配して声をかけてくれたことだけが、唯一の救いだった。
あの女性は、その後、取り調べに対し、こう供述したらしい。自分は幼い頃から隆司のことが好きで、引っ越してからもずっと忘れられずにいた。成人してから私のもとに戻ってきたけれど、手紙を何通も送っても無視され、むしろ真剣な想いに気づいてもらえないまま月日が流れた。どうしても想いが通じないのなら、他の女性には渡したくない。その一心で、二人の縁を壊そうと、私と隆司の結婚を阻止するために嫌がらせをしていたと。隆司の家の近くをうろうろしているうちに、私たちが結婚の挨拶に訪れる姿を偶然見かけて、いても立っていられなくなってしまったらしい。彼女の指先は、ずっと爪を噛む癖があったのだという。
私が隆司の浮気を疑い、隆司も私から変だと思われるのが怖くて、どこかよそよそしくなっていたのは、そのころの話だ。お互いがお互いを疑い、すれ違っていた。
事件の後、彼女の両親は心から謝罪し、式場への損害賠償も支払ってくれた。隆司と私は、今回の件で、互いに隠し事をしていたことを反省し、これからは何かあったらすぐに話し合おうと約束した。辛い経験ではあったけれど、この試練があったからこそ、二人の絆は前よりも強くなれたような気がする。あれから何年か経って、あの日のことを思い出す度に、私は隆司と結婚することができて本当に良かったと思う。もし、あの時、無関係の誰かが怒鳴り込んできたあの日がなく、何も知らないまま結婚していたら、私は一生、隆司の心の内を疑い続けていたかもしれない。ガタガタと震える手で、私は祝福されたばかりの部屋を見渡した。
そして、今も。私たちの間には、健やかな日々がある。あの時の教訓を胸に刻んで、どうかこの想いが、いつまでも続きますように。
