須藤啓介がそう言い放った瞬間、同窓会の空気が凍りついた。四十年ぶりに再会した同級生たちの視線が、一斉に総一郎へと向けられる。シャンデリアの光が煌めく高級ホテルの宴会場で、グラスの触れ合う音や懐かしい笑い声が響いていたが、その一画だけは妙に静かだった。
「いや、最初は同席してやろうかと思ったんだけどさ。やっぱお前、何も変わってないわ」
須藤は、さっきまで優しく心配を装っていた顔を、高校時代と同じ傲慢な笑みへと変えた。総一郎は静かにグラスを置いた。
「じゃあ、もういいか」
「なんだと? 今何て言った? お前が後悔する瞬間は、今からだぞ」
「意味がわからんなあ。まさか俺に立ち向かうつもりか。底辺のくせに」
「すぐにわかるよ」
その言葉の意味を須藤が理解することになるのは、わずか数分後のことだった。四十年間、高校時代から人を見下してきた男には、思いもよらない絶望が待っていた。
*
高校二年の秋。学校から帰ると、母親が泣きながら玄関で待っていた。
「そう、一郎。お父さんが……」
父親が会社の連帯保証人になっていたことが発覚したのだ。その会社が倒産し、数千万円の借金が一家にのしかかった。父親は責任から逃げて姿を消した。残された母と息子には、膨らむ借金だけが残された。
一夜にして家庭は崩壊した。翌日から、学校での総一郎の立場は一変した。
放課後の教室。総一郎の机の周りに数人の生徒が集まっていた。その中心にいたのが須藤啓介と村瀬孝志だった。須藤は裕福な家庭に生まれ、親の財力を背景に学校で幅を利かせていた。勉強ができるわけでも、スポーツが得意なわけでもない。ただ家柄と金を盾に、周囲を支配することだけは得意だった。
「おい女。お前の父親、借金で夜逃げしたんだってな」
「マジで。うわあ、かわいそう」
取り巻きたちが笑い声をあげる。須藤が総一郎の机を蹴り飛ばした。教科書が床に散乱する。
「おっと、手が滑っちゃった」
村瀬がそう言って、総一郎の鞄を窓から投げ捨てた。三階の窓から鞄が校庭に落ちていく。さらに村瀬は総一郎の弁当箱を掴むと、中身を確認してゴミ箱に投げ捨てた。母親が早朝から作ってくれた弁当が、無残に崩れていく。
「貧乏人は学校に来るなよ。お前みたいな奴がいると、クラス全体の品が下がるんだよ」
総一郎は何も言い返せなかった。言い返せば、さらにひどいことをされるのが分かっていた。
その時、教室の隅で別の生徒が泣いていた。田中誠だ。田中も家庭が裕福ではなく、須藤と村瀬の標的になっていた。
「おい、田中。お前さ、俺に土下座してみろよ」
「え……」
「早くしろよ。須藤さんが言ってるんだぞ」
田中は震えながら床に膝をついた。
「違う。ちゃんと頭を地面につけろ。そして『須藤様、私は貧乏人です』って言え」
「そ、そんな……」
「早くしろ」
須藤の声が冷たく飛ぶ。おとなしい性格の田中は逆らうことができず、涙を流しながら頭を床につけた。
「す、須藤様、私は貧乏人です」
「聞こえないなあ。もっと大きな声で」
「須藤様、私は貧乏人です」
「やっぱ、本当に言ったよ」
須藤と村瀬、そして取り巻きたちが爆笑した。総一郎はただ見ていることしかできなかった。自分もこれ以上ひどい目に遭うのが怖くて、助けることができなかった。
卒業式の日。総一郎は大学進学を断念せざるを得なかった。借金を返すために、すぐに働かなければならなかったからだ。須藤はクラス全員の前で、総一郎に言い放った。
「おい、そ一郎。お前、大学行かないんだってな。まあ、お前みたいな貧乏人には無理だよな。俺たちは一流大学に行って一流企業に就職する。お前は工場で一生働いてろ。お前とは住む世界が違うんだよ。分かるか?」
クラス全員が笑った。総一郎はただ黙って耐えるしかなかった。
卒業式の後、田中が総一郎に声をかけた。
「そ一郎、俺たち、本当に情けないな。三年間ずっとあいつらに嫌がらせされて、何もできなかった」
田中の目には涙が浮かんでいた。
「でも、いつか必ず見返してやる。絶対に」
総一郎も静かに頷いた。
「ああ、いつか必ず」
二人はその日、心に誓った。必ずあいつらを見返すと。
*
卒業後、総一郎はボロボロのアパートで、疲れ果てた母親と向き合っていた。畳の上には請求書の山。十八歳の少年には、あまりにも重すぎる現実だった。
「そ、一郎、ごめんね。お母さんのせいで大学も……」
「いいんだよ、お母さん。俺が働くから。大学なんて行かなくても、なんとかなる」
「でも、お前の夢は……」
「俺、プログラミング勉強してるから。絶対に這い上がって見せる。母さんを楽にしてやる」
母は涙を流しながら、息子の手を握りしめた。その夜、総一郎は工場の夜勤に向かった。年中休まず、借金を返済しながら働く日々が続いた。
*
そこから四十年。総一郎は同窓会に参加していた。貧乏時代を経験した総一郎にとって、高級なスーツや時計に価値は感じられなかった。質素な服でも十分だという価値観が、あの頃の経験から生まれていた。
今夜、総一郎はあえて普段よりも質素な服装を選んでいた。地味なグレーのジャケットに、くたびれたスラックス。高そうな時計も、ブランドのアクセサリーもなかった。それは、須藤を欺くためだった。
須藤の本性を最終確認する。もし少しでも反省しているなら、総一郎が準備してきたものは使わないつもりだった。しかし、もし四十年経っても何も変わっていないなら──。
同窓会の喧騒の中、須藤は総一郎の隣に立った。太った体に、これ見よがしな高級ブランドのスーツを身にまとい、分厚い金の時計がシャンデリアの光を反射している。
「で、北条。お前、今どうしてるんだ? 借金とか、もう大丈夫なのか?」
須藤はわざとらしく相手の顔をのぞき込む。周りにいた同級生たちが、また嫌がらせが始まるのかと、遠巻きに眺めている。
「おかげさまで、なんとか」
「はっ、相変わらず弱々しい返事だな。まあ、お前みたいな貧乏人は、一生工場で働いてるのがお似合いだってことだよ」
須藤の言葉に、取り巻きの数人が笑う。しかし、総一郎の表情は微塵も変わらなかった。静かにグラスに口をつけ、淡々と答える。
「そうかもしれないな」
その落ち着いた態度が、須藤の癪に障った。わざと声を大きくして、周りに聞こえるように言い放つ。
「なんだその余裕の態度は? もしかして、最近ちょっと良いことでもあったのか? 宝くじでも当たったか?」
須藤がニヤニヤしながら、より一層声を大きくした。宴会上の空気が少しずつ張り詰めていく。
「いや、ただの平社員だよ。月収はうん十万ってところかな」
総一郎が正直に答えると、須藤はけたたましい声で笑った。
「はっはっはっ! やっぱりな! 四十年経っても、お前はその程度か! この同窓会に来てる連中の中で、お前が一番の負け組だぞ!」
その時だった。宴会場が静まり返り、スーツを着た初老の男性が、神妙な面持ちで総一郎の隣に近づいてきた。周りにいた誰もが、その男の存在に気づき、ひそひそと話し始めた。
「おい、あの人、誰だ?」
「知らないのか? あれ、莫大な投資で有名な財界の重鎮……」
須藤は男を見て、顔色を変えた。
「お、おい、総一郎。まさか、お前……」
「やあ、お久しぶりです。北条様」
その男は、総一郎に向かって丁寧に頭を下げた。その様子を、須藤は信じられないものを見るような目で見つめた。
「こ、これには訳があるんだ。俺は……」
「いいえ、構いませんよ。それより、前回の会合でお話ししていた件ですが、今日、正式にご契約を承っていただきたく」
男はそう言って、アタッシュケースから分厚い書類を取り出した。須藤は目の前で繰り広げられる光景を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。
「こ、これ、どういうことだ?」
総一郎は周りの反応を確かめるように、静かに息をついた。宴会場には、須藤の困惑の声だけが響いていた。
*
須藤の顔から、血の気が引いていく。叩きつけるように書類に目を通すが、そこに書かれている企業の名前を見て、さらに目を見開いた。
「これは……総一郎、お前……これを経営しているのか?」
須藤の声は震えていた。総一郎は、指先に残るグラスの水滴を見つめながら、淡々と言った。
「そうだよ。この四十年、工場で働きながら必死に勉強してきた。プログラミングを学び、貯金を重ね、そしてこの会社を立ち上げたんだ」
「だが、そんな……お前、さっき月収はうん十万って……」
「ああ。社員に渡す給料は、それはもう高額だからな。経営者である俺の取り分は、月々の生活費として必要な分だけしか受け取ってないんだ。会社の金は、事業の拡大に充ててる」
周りから、どよめきが起こった。その間にも、須藤の顔は青ざめ、言葉を失っていた。
「しかし、なぜこんな場所に……? この程度の集まりに、お前が来る必要が……」
「40年前の、あの卒業式の日を覚えているか?」
曖昧に頷く須藤に、総一郎は静かに続けた。
「『お前は一生、工場で働いてろ。お前とは住む世界が違うんだよ』。そう言ったのは、お前の方だろ」
須藤は、何も言い返せなかった。
「だったら、現実を見せてやろうと思ったんだ。俺の言った通り、『お前とは住む世界が違う』ってな」
総一郎は、はっきりと言い放った。その瞳は、40年前の弱々しい少年の面影はなく、強い意志と決意に満ちていた。
「こ、これは、何かの間違いだ……!」
須藤は後ずさりながら、周りの同級生たちの視線を泳がせた。しかし、彼を擁護してくれる者など、どこにもいなかった。
「どうやら、余計なことをしなくて正解だったな。村瀬のやつにも、そう伝えておいてくれ。今度、ばったり会ったら、この前の借金の申し出の返事を直接聞きたいから」
須藤の足はがくがくと震え、立ったまま耐えるだけで精一杯だった。村瀬が須藤の自慢話に乗って、投資話を持ち掛けてきたのは、つい先月のことだった。それが、この総一郎の会社に対する投資話だと気づかずに。
「あ、あの……」
「心配しなくても、陰で二人に何かしようとは思ってない。だが、これだけは覚えておけ」
総一郎は、かすかに聞こえるかどうかという声で言った。
「この世界で一番見てはいけないものを、お前は四十年間ずっと見続けてしまったってことだ。そして今日、その代償を支払う日が来たんだ」
その言葉を最後に、総一郎は背を向けた。宴会場の外では、雨が音を立てて降り始めていた。遠くで雷鳴が轟き、須藤はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
四十年の時を経て、かつて見下した男の下へ、須藤啓介という男の人生は、初めて膝をついたのだった。
