あの日、いつも通り始まったはずの朝が、すべてを変えた。「奥さんって、みささんだったんですね」——会社の廊下で知らない女性にそう声をかけられた瞬間、私は自分が何も知らなかったことを悟った。彼女は夫の直斗が最近力を入れている取引先の担当者だった。雨の日、傘を差し出してくれた優しい人を信じて結婚した。でも、その人はもういなかった。深夜に帰る夫の鞄から出てきた使いかけの口紅。問い詰めても「仕事相手だ…

あの日、いつも通り始まったはずの朝が、すべてを変えた。「奥さんって、みささんだったんですね」——会社の廊下で知らない女性にそう声をかけられた瞬間、私は自分が何も知らなかったことを悟った。彼女は夫の直斗が最近力を入れている取引先の担当者だった。雨の日、傘を差し出してくれた優しい人を信じて結婚した。でも、その人はもういなかった。深夜に帰る夫の鞄から出てきた使いかけの口紅。問い詰めても「仕事相手だ...

私は地獄に落ちろ。赤いドレスを着て、会社の代表として壇に立つ私。会場には各国の取引先や役員たちが並ぶ。夫を裏切った私を、あの人は許さないだろう。でも、もう戻れない。

私の名前はみさ。食品メーカーで広報を担当する、どこにでもいる会社員。あの日までは、ただの普通の妻だった。

夫の直斗と出会ったのは、毎朝の通勤電車の中。最初はただの顔見知りで、同じ会社に勤めていることだけを知っていた。直斗は営業部で成績が良く、誰にでも感じがいい人だった。

ある雨の日、駅を出た瞬間に急に雨足が強くなった。傘を忘れて立ち尽くす私に、直斗が近づいてきた。

「よかったら、入りますか?」

振り向くと、直斗が傘を差し出していた。でも、あなたが濡れてしまう。そう言うと、彼は笑って言った。

「僕、雨の日の街って嫌いじゃないんです」

その言葉に、私は思わず笑ってしまった。会社までの道すがら、私たちは初めてちゃんと話をした。直斗は旅行が好きで、営業として経験を増やすためにあちこちへ足を運ぶうちに、それが趣味になったのだと言う。私は写真が好きだった。広報の仕事でSNSを担当しているうちに、自分でも写真を撮るようになっていたのだ。

「旅行と写真って、相性いいですね」

直斗はそう言って、子供みたいに笑った。

それから私たちは、休日に一緒に出かけるようになった。海の見える町、古い商店街、雪の残る温泉地。直斗が旅先で感じたことを話し、私はそれを写真に残す。付き合い始めるのに、時間はかからなかった。

彼は人当たりが良く、優しくて、仕事もできる。そんな直斗の隣にいられることが、私の誇りだった。

「みさ、俺とずっと一緒にいてほしい」

プロポーズの時、直斗はそう言ってくれた。私は笑って頷いた。直斗を支えて、温かい家庭を築く。専業主婦になるのも悪くない。私の帰る場所はここだと思っていた。

そんな未来を、心から幸せだと思っていた。

でも、結婚して2年が過ぎた頃、直斗の笑顔にほんの少しだけ影が見えるようになった。直斗は順調に昇進していた。営業マンとして成績も良く、上司からも取引先からも評判がいい。でも、そのぶん付き合いが増えた。飲み会、急な呼び出し、取引先との会食。直斗は誘いを断れない人だった。

それでも私たちは、毎月一度の旅行だけは欠かさなかった。

「今度は桜、見に行こうか。営業先との話題にもなるかも」

「いいね。行こう」

そう言ってくれるだけで、私は嬉しかった。旅先での経験が彼の仕事の引き出しになるなら、それだけで幸せだった。

ある夜、久しぶりに直斗が早く帰ってきた。私は少しだけ期待していた。夕食を作り、お風呂を沸かし、いつもより丁寧に髪を整えた。でも、食事の途中で直斗のスマホが鳴る。

「ごめん。取引先から呼び出しだ。今から少しだけ顔を出してくる」

その夜、彼が帰ってきたのは深夜だった。スーツのままソファーで眠ってしまった彼に、私は毛布をかけた。仕方ない。忙しいんだから。頑張っているんだから。そう自分に言い聞かせる。でも、寂しさは消えなかった。

昔は直斗の方から手をつないでくれた。旅先で寒いと言えば、肩を抱いてくれた。何気ない触れ合いが、私たちにはたくさんあった。それが少しずつ、なくなっていった。

決定的だったのは、毎月の旅行が中止になった日だった。

「ごめん。今月は行けない。仕事。化品メーカーの案件で、ちょっと外せなくて」

その化粧品メーカーは、直斗が最近力を入れている取引先だった。数日後、直斗がお詫びだと言って韓国コスメを渡してきた。

「これ、人気らしいよ」

「ありがとう。でも私、これ欲しいって言ったことあった?」

「取引先で進められてね。みさに似合うと思って」

嬉しいはずなのに、胸の奥がざわついた。

「直斗のこと、何も知らない」

その考えが頭を離れない。それでも私は、直斗を信じようとした。あの日、雨の中で傘を差し出してくれた人だから。

ある日、会社の廊下で女性に声をかけられた。

「奥さんって、みささんだったんですね」

振り返ると、化粧品メーカーの広報担当、レナさんだった。華やかで距離の近い女性。一度だけ数時間の打ち合わせをしたことがある。

「直斗さん、あなたのご主人の話ばかりしてますよ」

一瞬、息が止まった。え、何のこと?

「喧嘩するほど仲がいいってやつですね」

意味が分からなかった。直斗が私の愚痴を話している? 直斗とレナさんが、どうして?

その夜、私は直斗に聞いた。

「レナさんと、何かあるの?」

直斗の顔が一瞬だけ暗くなる。

「は? 何だよ、それ」

「だって、あの人が私の話をしてたから」

「あの人は大事な仕事相手だぞ。分かるだろう」

最後は強い口調だった。それ以上、私は何も言えなかった。これ以上言い合いになりたくなかったから。

でも、その日から直斗はますます家にいなくなった。帰ってきても、スマホばかり見ている。話しかけても、返事は短い。

「最近、無理してない?」

「してない」

「何か私にできることがあれば」

「ない」

馬鹿にしているのか? そんな気なんて、さらさらない。ただ、不安なだけ。会社では毎日のようにレナさんが出入りする。その度に、私は不安になる。直斗とレナさんは、いつも楽しそうに笑っていたから。

こんなはずじゃなかった。私は直斗を支えたかっただけなのに。

その不安を、私は仕事で上書きした。家で泣いている時間。直斗が相手にしてくれない夜。私は海外向けの広報資料を読み込んだ。英語のメールも、最初は翻訳ツールを使いながら、少しずつ自分で返せるように頑張った。いや、頑張るつもりなんてなかった。ただ、考えたくなかっただけ。

ところが、その積み重ねが思わぬ形で評価された。海外事業部の一条さんから、急に声をかけられたのだ。

「みささん、この前の資料、すごく良かったですよ」

「いえ、私は頼まれたことをしただけで」

「いや、あなたは会社に必要な人です」

その言葉に、思わず目頭が熱くなった。私を必要と感じてくれる人がいる。それだけで、救われる気がした。

嬉しい出来事も束の間、深夜のリビングで直斗の鞄に書類を入れようとした時、見覚えのない女性用の口紅が出てきた。しかも新品ではなく、使いかけのリップ。

何これ。

直斗は眉をひそめた。

「ああ、それ? 会社の仲間が忘れてたのを、俺の鞄に入れてただけ」

「そんなわけない。使いかけのリップなんて、ありえないでしょ」

「だから、あの人が大事な仕事相手なんだって。分かってくれよ」

その日も、私は何も言えなかった。ただ、涙が止まらなかった。

翌朝、私は直斗に言った。

「私、仕事を辞めようと思う」

「は? どうして?」

「だって、あなたは一人で頑張ってる。私はもう、何も言えない。何もできない」

直斗は何も言わなかった。その沈黙が、何より辛かった。

数日後、会社で一条さんに呼び出された。

「みささん、海外企業との顔合わせがあります。あなたに出席してほしいんです」

「私がですか?」

「ええ。あなたが作った資料、海外の取引先で大評判です。ぜひ、直接説明してもらえないかと」

「でも、私……」

「いや、これはあなたの手柄ですよ。遠慮することはありません」

その顔合わせが、私の運命を変えることになるとは、その時は知らなかった。

会場には、各国の役員や取引先が並んでいた。私は赤いドレスを着て、会社の代表として壇に立っていた。あの日、直斗が何をしていたのか。レナさんと何があったのか。それももう、どうでもよかった。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」

私はマイクを握った。震えはしなかった。もう、何も怖くなかった。これまで泣いて過ごした夜。直斗の背中を見つめるだけの夜。その全部が、今の私を作っている。

会場の端で、直斗が青ざめた顔で立っているのが見えた。彼が知らない未来が、もう目の前に広がっている。

お前は地獄に落ちろ、と私は心の中で思った。でもそれは、お前の地獄ではない。私自身が歩く道なのだ。

そして、その道は私が決めた。もう二度と、誰かに寄り添って生きる必要はない。私は私の道を歩いていく。そう決めた夜から、私の物語は始まっていた。

壇上で、私は静かに微笑んだ。

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