風評が流れ始めたのは、いつからだっただろう。私は山口静、夫を亡くしてから十年、ひとりで娘のしおりを育ててきた。しおりが結婚した時は、心の底から安心した。夫を失った悲しみを娘にだけは味わわせたくないと願ってきたからだ。しおりに寄り添ってくれる人が現れたことが、何よりありがたかった。
娘はやがて子どもを授かり、母になった。もう私一人で心配しなくてもいい。そう思っていた。けれど、いつからか私だけが、しおりの嫁ぎ先で「いない人」のように扱われるようになっていた。
最初はそんな場所ではなかった。しおりの姑、かよ子さんはいつも穏やかに笑う人だった。「しおりちゃんはもう私たちの娘も同然ですから」と言って、季節の贈り物を欠かさずくれた。子どもが生まれた時には「子育ては大変でしょ。うちで一緒に住んでもいいのよ」とまで手を差し伸べてくれた。親族の人たちも、最初の頃は私に優しかった。夫をなくしてから一人で娘を育ててきたと話すと、「大変だったでしょう」「立派なお母さんね」と声をかけてくれた。私は娘を良い家へ嫁がせることができたのだと、誇らしくさえあった。
それなのに、いつの頃からか親族の集まりに顔を出すと、私の周りだけ会話がふっと止まるようになった。私の若い頃の話を誰かが尋ねると、かよ子さんが決まってこう言うのだ。「静さんも昔は苦労されたの。詳しくは聞いてあげないで」。私はそれを、私をかばってくれているのだと受け取っていた。夫をなくし、若くして娘を授かった私を気遣ってくれているのだと。
けれど親族が私に向ける目は、なぜか少しずつ冷たくなっていった。あんなにかよ子さんが気遣ってくれているのに、どうして。理由がどうしても分からなかった。きっと夫のいない私だから、居心地が悪いのだろう。娘の嫁ぎ先に顔を出すと、あの子まで気を使わせてしまうかもしれない。そう思って、私は自分の存在をどんどん小さくしていった。
ひとつだけ、気になることがあった。かよ子さんの夫がそばに来ると、しおりがひどく固くなるのだ。俯き、体を強張らせる。それを見たかよ子さんが「お疲れみたいね。無理しないで」と娘の背をさすってくれる。私はその優しさに甘えて、娘のそっけなさを恥ずかしく思った。子どもが生まれて間もないし、繊細な時期なのだろう。夫の前でまだ緊張しているだけなのだと、私は深く考えないようにしていた。
その頃、親族の一人が私に妙なことを言うようになった。
「静さんも、昔は色々と大変だったのね。でも、今は落ち着いているなら良かったわ」
何のことか分からずに聞き返すと、相手は困ったように笑って話を濁した。
帰り道、私は何度も自分の人生を思い返した。夫と結婚した時、私は高卒だった。若くしてしおりを授かったけれど、それは誰かに笑われるような人生ではなかったはずだ。私は誰にも恥じないように、真面目に生きてきたつもりだった。
しおりが泣きながら私の家に来たのは、その集まりから数日後のことだった。玄関に立った娘は、靴も揃えられないほど慌てていた。
「お母さん、ごめん」
その一言で、胸の奥が締め付けられた。しおりはかよ子さんの家で起きていたことを、途切れ途切れに話し始めた。
食事を作れば「実家ではこれくらいも教えてもらえなかったのね」と笑われる。子どもをあやせば「そんな育て方では将来が心配」と口を出される。親族が集まる日は朝から台所に立たされ、座る場所も与えられない。育児手当てが入るたびに「済ませてあげているんだから」と、毎月七万円を渡すよう求められていたという。
「それって、私の我慢が足りないのかな」
しおりは泣きながら言った。私は娘をかばうべきだった。でも、その時の私はまだ、真実を直視できなかった。私が知っているかよ子さんは、いつも優しい人だ。少し厳しいところがあっても、悪い人には見えなかった。どこの家でも、最初はお互い気を遣うものではないか。無理だけはしないで、と私は娘に言った。
「お母さんも、かよ子さんの味方なんだね」
しおりは絞り出すように呟いた。その声に、何かが間違っていると気づかされた。
「違う。違うわ。だったら、一度だけ、みんなの前で話させて。二人きりだと、あの人は全部勘違いで片付けてしまうから」
しおりの目は、引き下がらない強さを湛えていた。私はようやく、今まで娘の言葉を聞いてこなかったことに気づいたのだ。
「分かった。今度はお母さんが場所を作る」
そう答えた時、しおりの肩が小さく震えた。週末、かよ子さんの家に親族が何人か集まる予定があった。私はかよ子さんに電話をかけた。
「しおりが、みんなに聞いてほしい話があるそうです。私も同席します」
少しの沈黙の後、かよ子さんはいつもの柔らかい声で言った。
「あら、そうなの。しおりちゃんがそんなに思い詰めているなら、みんなで聞いてあげましょう」
数日後、私としおりは親族が集まる部屋に並んで座った。しおりの夫も、かよ子さんの夫もいる。かよ子さんは綺麗な着物を着て現れ、心配そうに眉をひそめた。
「静さん、何か気に触ることがあったのかしら。私、ずっと心配していたのよ」
その優しい声を聞いても、私はもうしおりの手を放さなかった。しおりが立ち上がり、かよ子さんを見据えた。
「かよ子さん。覚えていますか。私があなたにされたこと」
かよ子さんは首をかしげた。
「え、しおりちゃん。急にどうしたの?」
しおりは鞄からスマートフォンを取り出し、机の上に置いた。
「お母さん、私、ずっと録音していました。一つだけじゃありません。何日分もあります」
かよ子さんの顔から、笑みが消えた。
最初に流れたのは、台所での声だった。
「あなたお母さん、高卒の出来の悪いくせに、親戚の前で立派な母親みたいな顔をしていたでしょ。ああいう人はね、少し噂を添えるだけで、勝手に下に見られるのよ」
部屋の空気が止まった。次の音声では、かよ子さんが低く笑っていた。
「最初はね、親戚の人たちがあなたに同情していたのよ。でも、私があなたの昔話を少し話してあげたら、見る目が変わったわ。だって、若い頃に男に手をかけて、無理やり結婚したような女だもの」
私の体から血の気が引いていくのを感じた。しおりは続ける。
「今度は、私が姑にいじめられている時に録音したものです」
「あの子、きっと夫の稼ぎで楽をしているだけよ。実家の母親も、ろくな教育をしていないんだから」
「しおりちゃん、最近の様子はどう?」
「育児もろくにできないのよ。あの子の育てた子どもなんて、まともに育つわけがないわ」
風呂上がりの浴室に聞こえるのは、泣き声を押し殺した咳だけ。私は怖くて体を動かせなかった。
部屋の中は重い沈黙に包まれた。かよ子さんは青ざめた顔で立ち上がると、声を張り上げた。
「ちょっと、あなた! そんな機械で撮ったものを見せられて、私が何て言われると思っているの! あれは全部、私があなたのことを思って言ったことよ。社会に出れば、そんなことなんて何でもないの。あんた、まだ子どもなのよ! 」
しおりは静かに首を振った。
「違います。これは、私をこき使ってきた記録です。あなたは私に、旦那さんが帰ってくるまでに掃除を終わらせろと言いました。そして、それが終わらないと、お前の育て方が悪いと怒鳴りました。私はあなたの道具ではありません」
かよ子さんは言葉を失い、夫の方を向いた。だが、夫は何も言わなかった。しおりは続けた。
「私が母から教えてもらったのは、人を傷つけるような嘘を言わないこと。誰にでも平等に優しくすること。あなたは、それができなかった」
私は椅子に力なく座り込んだ。息が苦しい。知らなかった。娘がこんなに苦しんでいたなんて。これまで私は、かよ子さんの優しさを信じて、娘の味方になろうとしていた。それなのに、目の前で娘は壊れかけていたのだ。
「ねえ、あなた、何か言ってくれないの!

」
かよ子さんが夫を突いた。夫は顔を上げ、静かに言った。
「すみません。私からもお願いします。これ以上はやめてください」
その短い言葉に、かよ子さんは何かを悟ったように口をつぐんだ。しおりの夫が、初めて口を開いた。
「かよ子さん。最初は土日だけあがればいいと言っていたのに、いつの間にか毎日通うようになっていた。あなたが俺の妻に『実家が居心地良くなければ、ここにいればいい』と言ったのも覚えています。あの子はずっと、あなたの言葉に従って必死に耐えてきた。でも、あなたはずっと許さなかった。違いますか? 」
部屋の中に、涙を拭う音だけが響く。しおりの夫は、震えながらも続けた。
「母さん。あなたは俺に、『あの子は夫を取られたって仕方ない女だ』って言った。実際、子育てに精一杯で、俺にかまってくれないのは不満だった。でも、あの子を傷つける必要はなかったはずです」
その言葉に、かよ子さんの表情が凍りついた。
「何を言ってるの。私はあんたの為を思って…」
「母さんの為に生きてる人間なんていません。俺は自分の妻を選びました。これ以上、あの子を傷つけるなら、俺は…」
しおりが主人の袖を引いた。
「いいの、悠人くん。もういいの」
悠人さんは妻の手を握り返し、何も言わなかった。かよ子さんは膝から崩れ落ちるように座り込んだ。数秒の沈黙の後、一人の親族が私に向き直った。
「静さん。私、あなたに言わなければならないことがある」
親族の一人が立ち上がり、深く頭を下げた。
「あの、かよ子さんから聞いたの。あなたのことが…噂になっているって。あなたが昔、子どもを連れて逃げたことがあるって。若い頃に男を作って、娘を置いて家出したって…」
私は息を飲んだ。そんな話はまったく知らない。
「最初は、親戚の人たちがあなたに優しくしていたの。それで、かよ子さんが『あの人、実はね』って言い出したのよ。あの人があなたを心配しているふりをして、あなたの噂を流していたの」
親族の一人が私に頭を下げた。
「私たちはあの人が、あなたを心配しているのだと思っていました。確かめもせずに、あなたを避けてしまった。本当にごめんなさい」
一人が頭を下げると、他の親族たちも続いた。私は言葉を失ったまま、ただ座っていた。今、ようやく分かった。私が嫌われているのだと思っていた。けれど、本当は誰も私を嫌っていなかった。かよ子さんが作った嘘のせいで、私は皆から遠ざけられていたのだ。
しおりが黙って私の手を握った。
「お母さん、私、知らなかったの。ごめん」
「いいの。私も、あなたの言葉を聞いていなかった。お互いさまよ」
私はしおりの頭をそっと撫でた。十年間、孤独の中で育ててきた娘。今度は、ちゃんと気づくことができた。
帰り道、しおりは泣き続けていた。私は何度も大丈夫、大丈夫と声をかけた。娘の涙を見るのは辛いけれど、もう見ないふりはしなかった。
家に着き、しおりはまだ静かに泣いていた。
「お母さん、私、逃げ出したくなかったの。あの家から」
「分かってる。そうだったのね」
私は娘を抱きしめた。冷たい体が、少しずつ温まっていく気がした。しおりの夫も、何も言わずに私たちのそばに立ち、手を握ってくれた。三世代家族が、助け合って生きて行く場所がある。私には、もう何も怖くない。
それから数日後、かよ子さんから電話があった。声はいつもの柔らかさではなく、か細かった。
「静さん…。今、しおりちゃんに電話をしているの。あの日のことは、本当に謝らなければならないと思って。私…」
「かよ子さん、今は結構です。しおりは今、ほとんど口も利きたくないみたいですから。あなたはあの日、何一つ謝っていない。私はその姿しか見ていません」
長い沈黙があって、電話は切れた。私は受話器を置き、深く息を吐いた。今度こそ、私はもう、疑われることを怖がらない。私は、誰からも迷惑をかけられる生き方をしない。
後日、しおりから連絡があった。かよ子さんは自ら、親族全員の前で土下座し、これまでの非を認めたという。私は笑顔を浮かべ、その言葉を信じることにした。人は、変われる。私も、かよ子さんも、しおりも。みんな、試されているのだ。
風の音がやさしく、遠い将来の希望を運んでくる。にわか雨の日は、どうか誰かを思い出して。いつの日か、この苦しみも、笑い話に変わりますように。それまでにもう少しだけ、私たちは、静かに寄り添い続ける。それが、ゆるやかでいて、確かな幸せへの道だと、私は信じている。