「みささん、その方って旦那さんですか?」——会社のファミリーイベントで、後輩のナ瀬がそう言った瞬間、私は嫌な予感がした。彼女は小柄でふわふわした髪型で、誰よりも無邪気に見える女の子だった。たヤは私の夫で、昔は地味だったけど、私が服も髪も全部整えて、今では同僚に「かっこいい」と言われるようになった人。私は彼を信じていた。「俺はみさだけだから」——そう言った言葉を、ずっと信じていた。でも彼女は下…

「みささん、その方って旦那さんですか?」——会社のファミリーイベントで、後輩のナ瀬がそう言った瞬間、私は嫌な予感がした。彼女は小柄でふわふわした髪型で、誰よりも無邪気に見える女の子だった。たヤは私の夫で、昔は地味だったけど、私が服も髪も全部整えて、今では同僚に「かっこいい」と言われるようになった人。私は彼を信じていた。「俺はみさだけだから」——そう言った言葉を、ずっと信じていた。でも彼女は下...

世の中には近づいてはいけない人がいる。その人が悪人に見えるとは限らない。むしろ最初は誰よりも可愛らしく、誰よりも無邪気に見えることがある。私の名前はみさ。これは会社に入ってきた後輩に夫を奪われた話です。ただ先に言っておきます。私は夫を奪われました。でも最後に地獄を見たのは私ではありませんでした。

夫の名前はたヤ。顔立ちは整っていましたが、私と出会った頃は服も髪も全部適当で、正直かなり地味な人でした。初めて会ったのは友人が開いた小さな写真サークルの集まりでした。

「そのカメラって日本では手に入らないものですよね。」

私が声をかけると、たヤは少し驚いた顔で答えました。

「え、分かるんですか? 」

「父が同じの持ってて、よく私に自慢されてました。」

「なるほど。でもみささんのお父さんの自慢したい気持ち分かるかも。」

この会話がきっかけで私たちは仲良くなり、付き合い始めました。付き合って1ヶ月ほど経った頃、たヤが急に言いました。

「みさって服とかちゃんと作るの上手よね。」

「急にどうしたの? 」

「俺、みさの隣にいても恥ずかしくない男になりたい。」

「今でも別に恥ずかしくないよ。」

「でももうちょっとちゃんとしたいんだ。」

その言葉はとても嬉しかった。私はたヤに似合う服を選び、美容院を紹介し、眉を整え、靴や時計の合わせ方も教えました。数ヶ月後、会社でも声をかけられるようになったらしく、本人は照れながら言いました。

「今日同僚におしゃれって言われた。」

「よかったじゃん。」

「みさがいなかったら今も寝ぐせのまま出社してたと思う。」

「それは本当にそう。」

「ひどいな。でもそこも好きだったよ。」

たヤは笑って私の手を握りました。

「俺はみさだけだから。」

その言葉を私は信じました。そして私たちは順調に時間を重ね、ついに結婚をしました。

結婚生活も落ち着いて1年半ほど経った頃、私の部署に1人の後輩が移動してきました。名前はナ瀬。小柄でふわふわした髪型。一見すると守ってあげたくなるような女の子でした。初日、彼女は私の前でペコリと頭を下げました。

「ナ瀬です。みささん、よろしくお願いします。」

「よろしくね。分からないことがあれば聞いて。」

「ありがとうございます。」

ここまでは普通でした。でもその後、彼女は小さな声で言いました。

「私、女の人に誤解されやすいんです。」

「誤解? 」

「男の人と普通に話してるだけなのに、媚びてるって言われたり。」

「そうなんだ。」

私は少しだけ違和感を覚えました。まだ何も始まっていないのに、彼女はもう被害者の位置に立っていたからです。

この違和感はすぐに現実になりました。ナ瀬さんは男性社員をよく頼りました。

「このダンボール重くて持てないです。」

「いいよ。俺が持つよ。」

「ありがとうございます。かっこいい。」

アピールも欠かしません。その一方で、女性社員に仕事を頼まれると途端に顔が曇りました。

「ナ瀬さん、この見積もり数字が一桁違ってるよ。」

「え、でも急ぎって言われたから。」

「急ぎでも確認は必要だよ。」

「みささんって細かいんですね。」

「仕事だからね。」

「私、そんなに強く言われると泣いちゃうタイプなんです。」

男性社員の前では涙を見せ、女性社員の前では不機嫌。だんだんと周りも気づき始めました。

ある日、休憩室で同僚のゆ香が言いました。

「みさ、あの子ちょっと危ないよ。」

「仕事のこと?

Thumbnail

」

「それもだけど、男の人への距離が近すぎる。」

「まあ、そういうタイプなんだろうね。」

「違うって。あれ絶対に選んでやってるよ。」

私は苦笑いしました。

「さすがに考えすぎじゃない? 」

ゆ香は紙コップのコーヒーを見つめながら言いました。

「考えすぎならいいけどね。」

ナ瀬さんが移動してきて3ヶ月ほど経った頃、会社主催のファミリーイベントがありました。社員の家族や恋人も参加できる軽い交流会のようなものです。私はたヤを連れて行くか迷っていました。

「無理してこなくていいよ。知らない人ばかりだし。」

そう言うと、たヤは笑いました。

「俺、写真係りでもやるよ。」

「本当に? 」

「うん。こういうイベント嫌いじゃないし。」

当日会場に入ると、数人の同僚が声をかけてきました。

「みさの旦那、またかっこよくなってるじゃん。」

たヤは照れながら頭を下げました。

「いつもみさがお世話になっています。」

その時です。少し離れたところにいたナ瀬さんの視線がたヤに止まりました。次の瞬間、彼女はいつもの甘い声で近づいてきました。

「みささん、その方って旦那さんですか? 」

「うん。夫のたヤ。」

「え、嘘?

すごい。みささん、こんな素敵な旦那さん隠してたんですか? 」

たヤは苦笑いしました。

「いや、そんな。」

ナ瀬さんはたヤのカメラを見てパッと目を輝かせました。

「カメラやるんですか? 」

「少しだけね。」

「私、写真撮られるの苦手なんですけど、たヤさんなら自然に撮ってくれそう。」

私は少しだけ眉を潜めました。初対面で下の名前で呼ぶことに。でもたヤは気づいていない様子でした。

「集合写真なら後で撮りますよ。」

「本当ですか? 嬉しいです。じゃあ後でお願いしますね。」

その夜、ナ瀬さんは何度もたヤに話しかけていました。

「たヤさんって普段どんな写真撮るんですか?

」

「風景とか街のスナップが多いかな。」

「ええ、素敵。私も撮って欲しいな。」

「いや、人はあまり得意じゃなくて。」

「でもみささんのことは撮るんですよね。」

「まあ、たまにね。」

「いいな。愛されてる奥さんって感じ。」

その言い方に私は少し引っかかりました。愛されてる奥さん。なぜかその言葉が褒め言葉ではなく確認のように聞こえたのです。

イベントの帰り道、私はたヤに言いました。

「ナ瀬さん、距離近かったね。」

たヤは少し慌てました。

「そうかな? 若い子ってあんな感じなんじゃない? 」

「下の名前で呼んでたよ。」

「まあ悪気はないと思うよ。」

「悪気がない人が一番困るんだよ。」

たヤは笑っていました。

「大丈夫だよ。俺がみさ以外にフラフラするわけないだろう。」

その言葉に私は無理やり納得しました。でも数日後、最初の違和感が起きました。たヤのSNSにナ瀬さんからフォロー申請が来ていたのです。

「会社の人からフォロー来てるけど。」

私が言うと、たヤはスマホを見て言いました。

「ああ、イベントの写真送って欲しいって。」

「私経由で良くない? 」

「まあそうだけど、断るのも変だし。」

これが全ての始まりでした。

ナ瀬さんがたヤをフォローしてから、夫の様子が少しずつ変わっていきました。最初は本当に小さなことでした。

「みさって仕事できるよな。」

夕飯の後、たヤが急にそんなことを言いました。

「何、急に?

」

「褒めてるだけだよ。」

ただ、たヤは少し言いにくそうにしました。

「男ってもう少し頼られたい生き物なんだよな。」

私は箸を置きました。

「誰かに何か言われた? 」

「別に、俺が思っただけ。」

それからたヤは何かにつけて私に言うようになりました。

「みさは1人で何でもできるからな。」

「家のこと。俺よりみさの方が上手いし。」

「みさって本当に可愛げないですね。」

ある日、休憩室にナ瀬さんが現れました。彼女は私の隣に座ると、突然こう言いました。

「みささんって、旦那さんに何か言ったんですか? 」

「何のこと? 」

「だって、最近たヤさん元気ない気がして。」

私は思わず笑ってしまいました。

「ナ瀬さんがたヤさんを心配する必要はないよ。」

「でも、同じ職場の先輩として放っておけなくて。」

「私の夫のことよ。心配してくれるのはありがたいけど、私たち夫婦の問題だから。」

ナ瀬さんは少し悲しそうにうつむきました。

「そうですよね。私が余計なこと言ってすみません。でも、もし何かあったら私で力になれることがあるかもしれないので。」

その言葉に、私は彼女の本当の意図を見抜くべきでした。でも、まだ私は信じたくなかったのです。

それから数週間後、私たちは夫婦で新しい家を買う話を進めていました。将来のことを考えると毎日が楽しくて、私はそのことばかり考えていました。たヤとの関係が壊れていることに気づかないふりをしながら。

ある夜、たヤが言いました。

「みさ、少し話せないか?

」

「うん、何? 」

「ナ瀬さんのことなんだけど。」

私は固くなりました。

「何かあったの? 」

「いや、何でもない。仕事の愚痴みたいなもの。」

「ふうん。」

「結構しつこくて。写真のことばかり聞いてくるんだ。」

「写真? 」

「うん。カメラが趣味だからって、色々聞かれて。」

私は深呼吸をしました。

「たヤ、ナ瀬さんはあなたに気があるよ。」

「何言ってるんだよ。そんなことないって。」

「私が女だから分かるの。あの子、あなたに近づいてきてる。」

「みさ、いくら何でも考えすぎだよ。」

「いいから。もうあの子と話すのやめてくれない?

」

その瞬間、たヤの表情が少し固くなりました。

「それは無理だよ。同じ職場なんだから。」

「なら、もうフォローも外して。」

「なんでそんなこと言うんだよ。みさがそんな厳しい人だと思わなかった。」

「厳しい? 私が? 」

「仕事の話だって、ナ瀬さんはただ真面目にやってるだけだよ。」

私は立ち上がりました。

「もういい。私が何を言ってもあなたには通じないのね。」

その夜から、私たちの間には見えない壁ができました。たヤはソファで寝るようになり、私は寝室で一人で泣きました。

1週間後、私は出張から帰る新幹線の中で偶然ナ瀬さんを見かけました。彼女は誰かと話しながら楽しそうに笑っています。よく見ると、その相手は私の夫のたヤでした。二人は何度も会っているようで、自然に寄り添い合っていました。

私はその場から動けませんでした。降りる駅を一つ間違えて、気づいたら終点まで乗っていました。家に帰ると、たヤは何食わぬ顔で出迎えました。

「おかえり。出張どうだった? 」

「たヤ、ナ瀬さんと会ってるでしょ。」

「は?

何言ってるんだよ。」

「新幹線で見た。二人で楽しそうに話してた。」

たヤは一瞬顔を歪めました。でもすぐに平静を装いました。

「ああ、あれか。仕事の待ち合わせだったんだ。」

「出張先で? あなたの仕事、関わらないような場所でしょ。」

「何でそうやって詰め寄るんだよ。俺は何もしてない。」

「なら、携帯見せて。」

「は? なんで俺が。」

「見せられないんでしょ。」

「みさ、お前今すごく病んでるよ。」

その言葉に、私は何も言えませんでした。黙ってリビングを出て、その夜は一睡もできませんでした。

次の日から、私はたヤの様子を探り始めました。スマホのパスワードが変わっていることには気づいていました。休日に出かけると嘘をついて、外で何時間も過ごすようになっていました。

そんなある日、たヤがシャワーを浴びている間に、彼のスマホが鳴りました。画面にはナ瀬さんからのメッセージが表示されていました。

「愛してる。また明日、いつもの場所で。」

私はその場に座り込んでしまいました。頭の中が真っ白になるというのはこのことだと、その時初めて分かりました。たヤがシャワーから出てきた時、私はまだ画面を見つめたままでした。

「みさ? どうしたんだ、その携帯。」

「これは何。」

「何の話だよ。」

「ナ瀬さんからこれ。愛してるって。」

たヤの顔色が変わりました。汗が一筋、彼のこめかみを伝いました。

「これは、その、向こうが勝手に。」

「向こうが勝手に送ってきたの?

」

「違う、そうじゃなくて。」

「どういうことよ、たヤ。」

「落ち着けって。」

「どうやって落ち着けばいいのよ! 」

私はスマホを床に叩きつけました。画面がひび割れて、割れた音が部屋に響きました。

「明日、離婚届を出すわ。」

「みさ、待ってくれ。ちゃんと話そう。」

「これ以上何を話すの? 全部分かってるわ。あなたはあの娘を選んだのよ。」

「そうじゃない。」

「じゃあ何? どうせ私みたいな仕事人間じゃなくて、ああいう可愛い女の子が良かったんでしょ。」

「そういう問題じゃないんだ。」

「もういい。」

私は自分の部屋に入り、鍵をかけました。激しい涙が止まりませんでした。一晩中泣いて、次の日、私は弁護士のところへ行きました。別居はしたくなかったけれど、このまま一緒に暮らすことは無理でした。

1ヶ月後、私たちは正式に離婚しました。別れ際、たヤは言いました。

「ごめん。俺がバカだった。みさがどれだけ大切だったか。」

「もういいわ。幸せになりなさい。」

「ナ瀬とは、もう終わったんだ。」

「それは分からないけど。」

「本当なんだ。彼女、俺のこと利用してただけだった。お前と別れたら出世できないって分かってたから。」

私は笑ってしまいました。

「やっぱりね。あの子はそういう子だったのよ。」

「みさ、やり直せないか?

今なら。」

「無理よ、たヤ。あなたが選んだんだから。あの時、私を信じなかったんだから。」

それが最後の会話でした。たヤはそれから毎日のように電話をかけてきましたが、私は一度も出ませんでした。徐々に電話も減り、半年後には完全に連絡が来なくなりました。

それから1年後、会社の元同僚から噂を聞きました。ナ瀬さんはたヤと別れた後、今度は別の男性社員のところに行ったそうです。そしてまた同じように取り入り、その男の結婚も壊したと聞きました。

私はその話を聞いて、何の感情も湧きませんでした。ただ、胸の中で小さく思いました。

「私が地獄を見たのはあの時だけ。でも、あの二人は自分から地獄に飛び込んでいったのね。」

私は今、新しい仕事を探しています。写真はやめてしまったけれど、週末は好きなカフェで本を読んで時間を過ごしています。親しい友人も数人しかいませんが、それでいいと思っています。ゆ香からは週に一度は連絡が来ます。

「みさ、元気? 」

「うん。元気だよ。」

「最近どう? またちゃんと飯食ってんの?

」

「もちろん。ちゃんと生きてるよ。」

「それならいいけど。でも何かあったら絶対言ってよ。」

「ありがとう。」

幸せって、大きなことじゃないんだと思います。毎日ご飯を食べて、温かい布団で寝て、誰かを心配できる人がいること。あの時はそれに気づかなかった。でも今なら分かります。近づいてはいけない人と無理に近づき続けても、幸せにはなれないんだって。

私の夫だった人は、今どこにいるのか分かりません。でも私は彼を責めるつもりはありません。彼はただ、誰かのことを大事にできる優しい人だった。それが間違った方向に進んでしまっただけのことです。

世の中には近づいてはいけない人がいます。その人が悪人に見えるとは限りません。むしろ最初は誰よりも可愛らしく、誰よりも無邪気に見えることがあります。でも本当に怖いのは、相手を疑うことをやめた瞬間です。私はあの日から、自分の心に正直に生きようと思えました。決して二度と、誰かの言葉を無条件に信じすぎないように。

それが私の選んだ道です。今、部屋の窓から見える夕日は、あの日見た景色より少しだけ美しく見えました。たぶんそれは、私がやっと自分自身を取り戻したからでしょう。