午前の低地中央銀行、常南支店。重い扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。磨き上げられた床、吹き抜けの天井から降り注ぐシャンデリアの光。平日の午前中だというのに、ロビーには既に数人の客が順番を待っていた。紺の作業着に油染みのついた古いジャンパーを羽織った私、桐生巌が足を踏み入れた瞬間、ロビーに漂っていた空気がわずかに変わった。スーツ姿のビジネスマンや、ブランド品を身につけた夫人たちが、一…

午前の低地中央銀行、常南支店。重い扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。磨き上げられた床、吹き抜けの天井から降り注ぐシャンデリアの光。平日の午前中だというのに、ロビーには既に数人の客が順番を待っていた。紺の作業着に油染みのついた古いジャンパーを羽織った私、桐生巌が足を踏み入れた瞬間、ロビーに漂っていた空気がわずかに変わった。スーツ姿のビジネスマンや、ブランド品を身につけた夫人たちが、一...

朝の低地中央銀行、常南支店。重い扉を押し開けた瞬間、冷たい空気が肌を撫でた。磨き上げられた床には靴音が乾いた音を立てて響き、吹き抜けの天井からはシャンデリアの光が降り注いでいる。平日の午前中だというのに、ロビーには既に数人の客が順番を待っていた。カウンターの向こうでは、スーツを着た行員たちが忙しなく書類を処理している。

紺の作業着に油染みのついた古いジャンパーを羽織った老人、桐生巌。彼が足を踏み入れた瞬間、ロビーに漂っていた空気がわずかに変わった。スーツ姿のビジネスマンや、ブランド品を身につけた夫人たちが、一斉に彼へ視線を向ける。その目には軽蔑とも好奇心ともつかない色が浮かんでいた。

しかし、桐生は気にした様子もなく、窓口へと歩み寄った。カウンターに立っていた中年の行員が、彼の姿を見るなり露骨に眉をひそめる。隣の同僚と何事か囁き合い、目を逸らしてしまった。それでも、一番端の窓口にいた若い女性行員だけは違った。彼女は一瞬戸惑ったような表情を見せたものの、すぐに穏やかな笑顔を浮かべて立ち上がる。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」

名札には「久保田」と書かれている。二十八、九歳といったところか。清潔感のある髪を一つに結び、澄んだ目で桐生を見つめている。その視線に、桐生はわずかに心が軽くなるのを感じた。

「設備更新のための融資を受けたいんです。金額は三千万円程度で考えています」

「承知いたしました。ご要望は十分に理解いたしました。詳しいお話は支店長が担当いたしますので、少々お待ちいただけますか」

案内された応接室は、高級そうな革張りのソファと重厚な木製のテーブルが置かれた、いかにも格式を重んじる銀行らしい部屋だった。壁には低地中央銀行の歴史を示す額縁が掛けられている。桐生はソファの端に静かに腰を下ろし、テーブルの上に事業計画書を置いた。

待つこと三十分。ようやく扉が開き、現れたのは高級そうなスーツに身を包んだ五十代半ばの男だった。鷲島伸太郎と書かれた名刺を差し出しながら、彼は一瞬だけ桐生を頭の先からつま先まで値踏みするように見つめたが、その表情はすぐに失笑に歪んだ。高級レストランに間違って迷い込んだ客を迎えるかのような、露骨な不快感が滲んでいた。

鷲島は返事もそこそこに、桐生が差し出した事業計画書をパラパラとめくる。そして、軽く鼻で笑うと、それをテーブルの上に置いた。

「町工場ですか。失礼ですが、桐生ファクトリー……初めて聞く社名ですね。従業員は何名ほどですか」

「五人です。年間売上は一億円程度です」

桐生がそう答えると、鷲島は興味なさそうに頷いた。視線は既に計画書の端々ではなく、窓の外へと向けられている。

「正直に申し上げて、当支店ではこの規模の案件はお取り扱いしていません。三千万円ですか……失礼ですが、当支店の一日取引にも届かない数字です。担保や保証人の用意はおありですか」

「担保にして頂けるものなら、工場の土地と建物があります。ただ、それは融資の返済が難しいと判断された場合の話です。設備投資で利益を上げ、きちんと返済していくつもりです」

桐生がそう言いかけると、鷲島は遮るように手を挙げた。目には笑っているが、笑っていない薄ら寒い光が宿っている。

「設備投資のご計画ですか。ああ、この工作機械の更新の話ですね。申し訳ありませんが、零細企業向けの融資枠は既に締め切っておりまして。どうしても融資が必要なら、窓口で紹介しているノンバンクを利用されてはいかがですか。金利は高めですが、審査は早いですよ。何しろ、こちらはお客様を選ばせて頂いているのです」

その言葉に、応接室の空気が凍りついた。カチリと着ていたジャンパーのファスナーに触れていた桐生の手が、わずかに動きを止める。桐生は深く息を吸い込み、静かに立ち上がった。

「そうですか。では、他の銀行を当たってみます。ただ、その前に一つだけよろしいですか」

「何でしょう」

「あなたは、この町にどれだけの工場が潰れていったかご存じですか。どれだけの職人が路頭に迷ったかを。私が作っている部品は、この国の中枢で回る機械に使われています。ですが、それを説明する前に、あなたは私の作業着しか見ていませんね」

鷲島は鼻で笑い、ソファに背を預けた。

「個人資産というフレームに過剰に反応されたようで、失礼しました。桐生様の会社の存続より、この支店の数字が大事なのです。お分かり頂けましたか」

「ええ、よく分かりました。私個人の資産とも取引を検討させて頂きます」

「お好きにどうぞ」

「本当にいいんですね。後悔なさらないで下さいよ」

鷲島は最後まで余裕の笑みを崩さなかった。桐生は何も言い返さず、静かに応接室を後にした。扉が閉まる瞬間、背後で聞こえた小さな舌打ちの音に、桐生はただ静かに微笑むだけであった。

金属を削る旋盤の音が、薄暗い工場に規則正しく響き渡る。窓から差し込む午後の陽が、舞い上がる細かな金属粉をキラキラと照らし出していた。油の匂いの染み込んだ空気の中、桐生は黙々と精密部品の検品作業を続けている。手に取った部品の表面を指先でなぞると、0. 01ミリ単位の誤差も見逃さない感覚が脳に染みついていた。

六十七年の人生で培われた技術。かつては全く違う世界、いわゆる大企業のデスクで数字と向き合っていた。だが出世よりも機械を触ることの喜びを選び、四十代でその世界を飛び出した。数字の上でしか見えなかったものが、こうして手で触れられる形になる。その喜びは、デスクワークの何倍も自分を満たしてくれた。

視線を上げると、工場の片隅に置かれた古い写真が目に入る。そこには、若かりし頃の自分と、誇らしげに笑う妻の姿があった。三十年前に病気で逝ってしまった妻。彼女は何も言わずに、この工場を立ち上げることを一番に応援してくれた人だった。

「あなたは本当に物作りが好きなのね。奇跡の職人よ」

いつもそう言ってくれた。その言葉通り、桐生はようやく自分の居場所を見つけた気がしていた。

「社長、また検品ですか? 俺たちがやりますから、少し休んで下さいよ」

声をかけてきたのは山岸。六十代半ばのベテラン職人で、桐生がこの工場を始めた頃から一緒に働いてくれている仲間だ。その言葉には、心からの心配が滲んでいる。

桐生は首を振りながら、完成した部品を丁寧に箱へと収めた。

「山岸、旋盤の調子はどうだ」

「正直、厳しいですね。昨日も二回ばかり精度が狂いまして。もう三十年前の機械ですから、限界が近いのかもしれません」

桐生は深くため息をついた。主力設備である旋盤が老朽化している。この機械が止まれば、工場の強みである超精密部品の製造ができなくなる。取引先からの信頼を失えば、五人いる従業員の生活が立ち行かなくなってしまう。

新しい設備を導入するには、三千万円ほどの資金が必要だ。桐生は銀行から融資を受けることを考えていた。

実は、桐生には誰にも言えない秘密がある。長年の仕事で気づいた、ある資産のことだ。その資産を使えば融資など必要ない。だが、桐生はわざと使わなかった。銀行という組織が、顧客をどう扱うのかをこの目で確かめたかったからだ。

数字だけを追い求め、目の前の相手の顔を見ようとしない姿勢。効率を重視するあまり、地域の中小企業を切り捨てる方針。そういうものが、社会を蝕んでいると感じていた。作業姿の老人として窓口へ赴けば、組織の本質が見えてくる。あの日の自分は、そんなことを考えていた。

一週間後、桐生を乗せた車は、都内の高級ビル街へと向かっていた。時刻は午後二時。アポイントもなく、いきなりの訪問である。

タワービルの二十二階。エレベーターを降りると、一面にガラス張りが広がるフロアが現れた。床には真っ黒な絨毯が敷き詰められ、スタイリッシュなソファが点在している。壁には大きな社名ロゴが掲げられ、受付には若い女性が二人立っていた。

「低地中央銀行の桐生と申します。融資のご相談で参りました。恐れ入りますが、こちらの書類を御覧いただきたいのですが」

桐生が差し出したのは、ずっしりと重みのある分厚い封筒。女性受付係は半信半疑の面持ちでそれを受け取り、中身を確認すると、たちまち顔色が変わった。

「あ、あの……大変申し訳ございません。代表が現在席を外しております。少々お待ちいただけますか」

桐生は穏やかな笑みを浮かべた。

「いえ、結構です。代表宛てにご伝言を頂けますか。私は桐生ファクトリーの桐生巌といいます。近いうちに、改めて御社の代表に直接お会いしたいと。そして、この書類の内容を、ぜひご確認いただきたいとお伝え下さい」

桐生はそう言うと、静かに頭を下げてその場を後にした。女性受付係は、彼が立ち去るまで書類から目を離すことができず、手を震わせていた。

その二日後、桐生の工場に一本の電話が入った。

「桐生さま、お待ちしておりました。代表から是非、直接お会いしたいとの申し出がございます。東京都心の本社屋上に、ヘリポートをご用意してございます。いかがなさいますか」

桐生は電話口の相手に、少し驚きの声を漏らした。

「ヘリポート? そちらに伺えばいいだけであれば、喜んで伺いますが」

「いえ、桐生さま。今回だけは、どうか当社の方から訪問させてください。場所をお聞かせいただけますか」

工場の位置を伝えると、電話は数分で切れた。桐生は受話器を置き、山岸を振り返った。

「どうやら、少し話が大きくなったようだ。ちょっと会社の周りを掃除しておいてくれ」

三十分後、工場の駐車場に、高級車の一団が静かに滑り込んできた。黒塗りのセンチュリーが三台。運転手を含むスーツ姿の男たちが車から降りる。先頭の車の後部座席から現れたのは、白髪を整えた初老の男だった。彼は桐生の姿を見つけると、深々と頭を下げた。

「低地中央銀行、頭取の明智です。桐生様には、この度は誠に失礼な対応をしてしまい、心よりお詫び申し上げます」

桐生は腕を組み、穏やかな口調で答えた。

「いや、謝ることはないですよ。銀行も商売でしょうから。あの歳で支店長の椅子を渡せるわけにはいかない、という見識も分からないではありません。ですが、私は工場で働く職人が、仕事を失うことが一番つらい。定年まで、面倒を見る覚悟はあったつもりです」

桐生の言葉に、明智頭取は更に頭を深く下げた。

「桐生様のお持ちのご資産。そして、その技術力。何としても当行から融資をさせていただけないでしょうか。無利子に近い条件はもちろん、融資額は御社が必要とする金額にお書きを頂いて構いません」

「融資は、必要ありませんよ」

桐生の一言に、その場にいた全員が凍りついた。桐生はポケットから、一通の封書を取り出した。

「これは、先日の融資申し込みを断られた際、預けてきたものです。中身は、低地中央銀行に所有する私名義の定期預金の預金証書と、株式の一部です。ただ、私が望んでいるのは、そんなものではありません」

桐生は封書を大事そうに抱えると、作業着のポケットにしまい直した。

「私はですね。この町の若い職人が、工場を継いでいけるような街になってほしいのです。そのための融資であれば、喜んで担保を提供します。ですが、それは当座の話。まずは、私の工場の仕事を見て欲しいのです。この、油で汚れた手で作り出される部品が、この国の何を支えているのかを」

桐生は手に取った、わずか数センチほどの部品の先革を見せた。そこには、飛行機のエンジン部品のような精密な部品が、ぎっしりと並んでいる。

明智頭取は深く息を吸い込むと、一歩前に進み出た。

「桐生様、当行の融資をご利用いただくにあたり、ぜひ年一ミリ単位でなく、御社の仕事に関するご講演を賜れないでしょうか。当行の若手行員は、目の前の数字に追われ、大切な何かを置き去りにしているのかもしれません」

桐生は少しの間、沈黙した。そして、ふっと笑った。

「講演会ですか。こんな油臭い爺の話でよろしければ、喜んで」

「ありがとうございます。では、早速日程を調整いたします。融資の条件は、あらためてこちらから提示させて頂きます。何卒、当行にその機会を与えてください」

明智頭取は寄りの深々と頭を下げた。その後ろで、スーツ姿の男たちも一斉に頭を下げる。桐生はその光景を、少し面白そうに見つめていた。鷲島という男には、会って話す機会はおそらく来ないだろう。だが、あの時のことを、きっと後悔することになるだろう。

工場では、午後も旋盤の音が響き続けている。桐生は工具箱を手に取り、山岸の元へ歩み寄った。

「山岸、機械の修理だ。三十年間、好きに使わせてもらった機械だ。まだまだ働いてもらわんとな」

「……ええ。ですが、社長。修理はどこで」

桐生は作業場の奥に目をやり、静かに言った。

「知り合いの会社に、いい技術屋さんがいるんですよ。明日、会いに行ってきます。仕事が終わったらでいいんで、ちょっと付き合ってくれませんかね。新しい機械を見に行くための、下見を兼ねて」

山岸は何かを悟ったように、深く頷いた。

その夜。桐生は工場の事務所で、机の引き出しから一通の羽根ペンで書かれた古い手紙を取り出した。そこには、こう書かれていた。

「将来、何か大きな壁にぶつかった時は、この手紙を開けなさい。あなたなら、きっと正しい道を選べる。

— 妻より」

桐生は何度も読んだその手紙を折りたたむと、そっと机の引き出しにしまった。そして、事務所のカレンダーを見上げた。明日は久しぶりの休日だ。久しぶりに、街へ出てみるのも良いかもしれない。

Thumbnail