昼休みの食堂は、いつものようにざわついていた。俺、瀬戸玲奈は、設備点検の作業服のまま、給湯室の端で弁当を広げていた。入社して三週間。この劇場カンパニー本社ビルの設備管理を請け負う下請けの作業員として、俺は毎日ここに来ている。正社員たちが集うこの食堂で飯を食うのも、もう四回目だ。その度に、必ずあの男が現れる。
「おい、お前。なぜここにいる。偉そうに社員食堂を使うな」
低く響く声。振り返らなくても分かる。代表取締役社長の黒沢巽だ。高級スーツに身を包んだ男が、鋭い目つきで俺を睨みつけている。周囲の社員たちの会話がぴたりと止まり、不自然な沈黙が食堂全体を包んだ。
「外注の分際で、正社員と同じ飯を食おうなんて、片腹痛いんだよ」
黒沢は見下すように言い放つ。だが、俺はゆっくりと立ち上がり、逃げもせず、すくみもせず、まっすぐに彼を見つめ返した。胸の奥で、確かに何かが燃えているのを感じる。
「何を見てる。さっさと出て行け」
俺は静かに、作業服の胸ポケットに手をやった。取り出したのは、一枚のカード。それを黒沢の目の前へ、ゆっくりと差し出した。
「私は、客の人間ですが」
黒沢の顔色が、一瞬で固まった。俺は知っている。彼が何も知らずに罵倒している、この作業服の女が何者なのかを。これは、十年の歳月を得て、この男に立ち向かうことになる、一人の女の物語だ。まずはチャンネル登録をお願いします。
――本社ビル地階の設備管理室。薄暗い蛍光灯が無機質なコンクリートの壁を照らす中、俺はポケットからメモ帳を取り出して、何かを書き込んでいた。俺、瀬戸玲奈、四十二歳。三週間前からこのビルに通っている、設備点検の作業員だ。だが、このメモ帳に並ぶ文字は、点検記録とは少し違う。フロアごとの人員の動き、退社する時刻、管理職の言動――まるで、誰にも知られてはいけない何かを、丹念に記録しているようだ。
メモ帳を閉じた時、設備管理室のドアを控えめにノックする音がした。
「お疲れ様です。今日も遅くまで」
穏やかな声とともに顔を覗かせたのは、総務部の桐山翔吾、六十三歳。白髪交じりの髪を丁寧に整え、柔和な目元に深い皺を刻んだ老人が、紙コップを二つ手に立っていた。定年後も嘱託として残り、長年この会社の管理業務を支えてきた人物だ。桐山は、俺の顔を見た瞬間、ぴたりと足を止めた。
「瀬戸さん……あの、もしかして」
「桐山さん、お久しぶりです。十年ぶりですね」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。俺は立ち上がり、ドアの外を確認する。誰もいない。俺は桐山のそばに歩み寄り、小声で、昔のことを話した。桐山の表情が、みるみるうちに変わっていく。その顔には、驚きとともに、長年の疑問が解けたような感情が現れていた。
「そうだったんですか……。だから、あなたは」
「ええ。あなたも、あの件を覚えていらっしゃる」
「もちろん。私もずっと気になっていたことがあって、記録しているものがあります」
「それは、助かります。ぜひ、お借りできますか」
桐山は深く頷き、部屋を出て行った。入れ替わりに、同じ作業服を着た、まだ二十代前半の青年が入ってくる。玲央。同じ下請けの作業員だ。彼は人懐っこい笑顔を浮かべながら、自分のデスクに座った。
「瀬戸さん、お疲れ様です。今日は早いですね」
「ああ、点検ルートが空いてたんで」
「へえ。瀬戸さんって、不思議な人ですよね。設備の点検の仕事なのに、なんか雰囲気が違うっていうか」
「そうか? ただの作業員だよ」
「いや、だって、見てて分かりますよ。前は、もっとすごい仕事されてたんじゃないですか?」
その問いには答えず、俺はメモ帳を胸ポケットにしまい直した。
「夕方の点検、行ってくる」
「あ、はい。お疲れ様です」
廊下に出ると、三階の営業フロアから、鋭い声が聞こえてきた。グラス張りの社長室の前だ。
「三枝、この程度の資料に三時間もかけたのか? 使えない新人だな」
黒沢だ。若い女性社員が、抱えた書類を胸に押し当て、唇を噛みしめながら俯いている。三枝カナ、二十四歳、入社三ヶ月の新人社員だ。黒沢は、彼女の手から書類を奪い取ると、目も通さないまま、床に放り投げた。
「大体、お前みたいな新人が先輩たちの仕事を邪魔するのが間違いなんだ。見ろ、誰一人、まだ帰ってないだろう」
「も、申し訳ございません……。今後、改善いたします」
消え入りそうな声で謝る三枝。黒沢は満足そうに鼻を鳴らして、社長室へ戻っていった。周囲の社員たちは、全員がモニターに目を落とし、誰一人として顔を上げない。隠蔽体質。この会社の空気だ。
俺は壁の時計を確認した。午後七時を過ぎている。五階の営業フロアには、まだ二十名の社員が残り、疲れ切った表情でパソコンに向かっている。俺は目を閉じ、静かに記録を書き加えた。
「午後七時十五分、五階営業フロア、残留者十九名。タイムカードの打刻は六時の社員が大半。実態との乖離を確認」
メモ帳を胸に仕舞い、残業が続くオフィスを眺めていると、一人の女性が立ち上がり、疲れた足取りで給湯室へ向かうのが見えた。三枝カナだ。少し迷ったが、俺は彼女に歩み寄った。
「お疲れ様です。大丈夫ですか」
カナは驚いたように顔を上げ、俺の作業服の姿を見て、少しだけ表情を柔らげた。
「ありがとうございます。大丈夫です……もう、慣れましたから」
「慣れた方がいいこともあるけど、慣れない方がいいこともありますよ」
レナはその言葉を聞いて、少し考えるように俯いた。
「瀬戸さんって、不思議な人ですね。作業員の方なのに、なんか雰囲気が違うというか」
「……昔、そういうことに、関わったことがあって」
「そうなんですか? 経験があるんですか?」
「ええ、少しだけ。――それより、休憩、もったいないですよ。今日はもう上がったらどうですか」
「そう、したいんですけどね。でも、明日の朝、またこの仕事が待ってるかと思うと、気が重くて」
カナは苦笑いを浮かべた。
「この会社って、前からこうなんですか? 残業も多いし、あの人の当たり散らしも酷いし」
「……前から、って言うか。いつの時代も、上の人間のパワハラがなくなることはなかったですね。私が入った頃から有名でした」
「止められないんですか?」
「止めたい人は、何人もいましたよ。でも、言ったら最後。どうなるか分かっているから、みんな言わないんです。この会社がどういう場所か、身に染みて分かってるから」
「……それ、分かります。私、この三ヶ月で、ようやく理解しました」
カナの声は、諦めに満ちていた。俺は、その横顔をじっと見つめた。十年ぶりに、昔の記憶がよみがえってくる。
――十年前。俺は、別の会社で働いていた。そこでも、誰かが声を上げれば、潰された。権力を持つ者が、弱い者を踏みつける。そんな日常に、俺は耐えられなくなっていた。そして、ある日、俺はあることを知ってしまった。この劇場カンパニーの、裏の闇を。――
「瀬戸さん」
カナの声で、俺は現実に引き戻された。
「また、なんかあったら……相談してもいいですか? こう、なんか、瀬戸さんと話すと、落ち着くんです」
「……ああ、いつでもいいよ」
俺は頷いた。胸の奥で、何かが静かに動き始めるのを感じていた。
数日後の昼休み。俺が休憩室で弁当を広げていると、また廊下から怒鳴り声が聞こえてきた。
「霧山! この棚の整理は、いつになったら終わるんだ!」
黒沢だ。霧山というのは、おそらく営業部の社員だろう。俺は、こっそりと廊下を覗いた。
五階の営業フロア。黒沢が霧山のデスクの前に立ち、腕を組んで見下している。霧山は四十代半ばの男性社員で、何度も突き上げられるように謝っている。
「申し訳ございません。今週中には、必ず終わらせます」
「今週中? お前みたいな使えない中高年は、若い社員の三倍は時間がかかるんだろうな。正直、邪魔なんだよ。いつ辞めるつもりだ?」
周囲の社員たちが、一層うつむく。霧山は、ただ深く頭を下げ続ける。
「すみません……精一杯、頑張ります」
「返事はいい! 明日までには、綺麗に片付けておけ!」
黒沢は吐き捨てるように言うと、足音を荒らげて去っていった。その背中を見送りながら、霧山はゆっくりと椅子に腰を下ろした。その横顔には、怒りでも悲しみでもなく、長年積み重ねてきた忍耐だけが刻まれていた。
俺は、静かにその場から離れた。そして、休憩室に戻る前に、廊下の影で携帯電話を取り出し、ある写真に手を当てた。十年前、この会社で何が起きたのか。その真相を知るために、俺はここにいるんだ。
――俺は、瀬戸玲奈。十年前までは、この会社の正社員だった。そして、うちの会社のコンプライアンス経理部で、社長を告発した人物の一人だ。結果、俺は逆に会社を追われることになった。あの日、十人いた告発メンバーのうち、今もこの業界に残っているのは、俺を含めて二人だけだ。
その日の夜、残業で賑わうオフィスの明かりを背に、昇降機に乗った。六階の階上で、人が乗り込んでくる。三枝カナだった。
「あ、瀬戸さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日は遅いですね」
「はい。ちょっと、明日の会議の準備を」
カナは、少し疲れた顔で笑った。その瞳の奥に、何か迷いのようなものを感じて、俺は質問した。
「……三枝さん。何かあった?」
「え? いや、別に……」
「辛いなら、無理することはないよ」
カナは、少しの間迷った後、静かに口を開いた。
「……あの、聞いてもらえます? 瀬戸さんなら、何か知ってるかなって、思ったんです」
「何を?」
「……さっき、社長室で見ちゃったんです。黒沢社長が、取締役の西園寺さんと、なにかモメてるみたいで。すごい剣幕でした。書類を机に叩きつけた音がして……何か、裏の数字のことだって、話してたんです。これ以上やったら、お前の人生を潰すって」
その言葉に、俺の頭の中を、十年前の記憶がよぎる。
「……本当ですか? その話」
「はい。あと、篠原って言う、経理の方が。社長室に入る時に、すごく嫌な顔してました。何か知ってるような、ずっと前から抗議してたみたいな目で」
篠原。その苗字には、聞き覚えがあった。
「……三枝さん、明日、気を付けてくださいね。何かあったら、俺を呼んでください」
「え?」
「この会社は、普通の人が声を上げたら潰される場所です。でも、黙って潰されることもない。……必ず、方法はありますから」
カナは少し驚いたように、俺の顔を見つめた。
「……瀬戸さん、何者なんですか?」
「……ただの、設備点検員ですよ。それより、もう遅い。今日は帰った方がいい」
カナは、何か言いたげにしながらも、結局何も言わずに頷いた。
「……はい。では、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
エレベーターのドアが閉まり、俺はため息をついた。十年前の、あの日の記憶。告発の翌日、俺の机の上には、解雇通知書が置いてあった。理由は、業務命令違反。上司は、何も言わなかった。同僚も、友達も、みんな誰も、何も言わなかった。俺は、十年かけて、ようやくここまで戻ってきた。だが、まだ傷は深い。
翌日、俺はいつものように早朝の点検を終え、一階ロビーの清掃をしているふりをしながら、エレベーターホールの動きを観察していた。朝の出勤ラッシュ、社員たちが忙しなく行き交う中、黒沢を始め、重役連中が出勤してくる。俺は、手元のメモ帳に、入ってくる人間の顔と時刻を記録していく。
午前九時十五分。取締役の西園寺が、いつもとは違う足取りでエントランスを横切り、専用エレベーターに乗り込んで行った。その後ろ姿には、明らかな緊張感があった。
あれから、更に数時間経った昼休みのこと。俺が給湯室で湯を沸かしていると、管理室のドアが静かに開き、桐山さんが顔を覗かせた。
「瀬戸さん。ちょっといいかな」
「はい、桐山さん。どうぞ」
桐山さんは、周りを気にするように、声を潜めて言った。
「あのな……昨日の話だけど、もう少し正確な中身を教えようと思う。せめて、俺だけでも、伝えておきたくて」
「……いいんですか?」
「ああ。俺も、長いこと知っていて見て見ぬふりしてきたっていう負い目があったからな。だが、そろそろ潮時だと思ったんだ。瀬戸さんが再び来たってことは、もう始まるってことだろう?」
桐山さんは、どこか達観したような目をしていた。十年前、社内監査を統括していた頃の、男の顔だ。
「……桐山さんが若かった頃の、その事務所のことですか?」
「ああ。昔の話だよ。この会社が、まだ今よりずっと小さな、下請けの組だった頃だ。私は、大企業から出向してきてね。ここに来るまでは、何も知らなかったんだ。そして、着いたその日に、あの部屋を見てしまった。地下の、事務所を」
桐山さんは、遠い目をした。
「書類がね。山のようにあった。過剰請求の記録や、裏金の帳簿。表の数字とは、別の会社の金が動いていた。西園寺の名前も、あちこちにあったよ。昔から、この体質は、今よりずっと酷いものだったんだ。今のように、大企業の顧客に取り入るための、露骨な裏の金とかではなくてな」
「……その帳簿が、もし今もどこかにあるなら」
「あるさ。それはもう、隠すようにしてな。誰にも言うなよ。あの部屋のこと知ってるのは、私と、そして西園寺……それから黒沢だ」
「黒沢が?」
「あの男は昔から社長の腰巾着だった。裏のことも、高々と知ってる。だから、今も平気で居られるんだ。あの部屋を取り壊すには、あの男が実権を握ってる限り無理だ。俺は、それをずっと見てきた。西園寺が、いまだにビクビクしながら動いてるのも、何かやましいことがあるからだろう」
「……分かりました。でも、どうやって、あの部屋にたどり着くんですか? 地下の三階は、入り口自体が分からないようになってるって聞きました」
「あそこへは、非常階段の一番下から下りるんだ。老朽化で鍵もかかってない。ただし、すぐにバレるぞ。監視カメラは作動してないんだが、定期的に見回りが来る。あのフロアは、あの男の目が行き届く場所だからな」
「でも、時間はかからない。俺と、そして――」
「お前さん、一人で行くつもりか? 危険だぞ。もし黒沢に見つかったら、それこそ、本当に終わりだ」
「それでも、決めたんです。十年かけて、ようやく、ここまで来たんです。もう、泣き寝入りはしない」
桐山さんは、深くため息をついた。
「……分かった。助けられるのは、せいぜい、警備のタイミングを教えるくらいだぞ。今週の金曜日、夜の三交代の入り替わりの時間だ。あの時間帯だけは、地下の警備が手薄になる。三分は、確保できる」
「……ありがとうございます。桐山さん」
「瀬戸さん。無事に、帰ってきてくれよ。俺は、もうこの年だ。いざとなったら、自分で被る。だから、お前さんだけは、表の世界で、しっかり生きてくれ」
そう言って、桐山さんは管理室を出ていった。
――金曜日の夜。俺は用意を整え、非常階段から地下へと続く扉の前に立っていた。時計は午後九時五十分。警備員の巡回が、ぴったりと途切れる時間だ。ゆっくりと扉を開け、薄暗いコンクリートの廊下に出る。かび臭い匂い。ひんやりとした空気。十年前に来た時から、何も変わっていない。
俺は足音を殺して、非常階段を一段一段、下りていった。地下三階。最下階の重厚な鉄の扉。そこに、あの部屋はあった。ポケットから、桐山さんから貰った古びた鍵を取り出す。長年使われていなかったのか、ギシリと錆びた音を立てて、鍵は回った。
――ドン――
重い音を立てて、鉄の扉が開く。薄暗い照明が、うっすらと部屋を照らし出す。中に入ると、大量の段ボール箱が無造作に積まれていた。そして、壁際にある薄汚れた事務机。その上には、今もなお、書類が山のように残されていた。表札に「不適切請求ノ和解記録」と書かれた、分厚い綴じ込みだ。
手に取ると、俺は窓の外に、雨が降っていることに気付いた。十年前と同じ、冷たい雨が。
「……終わらせるぞ。ここで、全部」
俺は、音を立てないように、部屋の奥へと足を進めた。そして、机の引き出しを開けた。中には、古びた封筒が一つ。そこには、黒いインクで、こう書かれていた。
「西園寺へ」
俺は封筒を開け、中身を取り出した。十年前、この会社を定義づけた男の、自筆の手紙。それは、数分後、俺がずっと探し求めていた「証拠」となるものだった。誰かの足音が、非常階段を下りてくる。警備員の巡回にはまだ早い。俺は素早く、封筒の中身をスマートフォンで撮影し、ポケットに隠した。
足音は、確実に近づいてくる。鉄の扉がゆっくりと開いた。
「……どういうつもりだ、瀬戸」
黒沢だった。影のように暗い顔で、俺を睨みつけている。
「外の人間が、よくぞ彼処まで来たな。十年ぶりに、昔の真似事でもしてみるか?」
「あんた……」
「黙れ。せっかく静かにやれると思ったのに、無粋な……」――
翌朝、雨は上がっていた。
俺は、霊査役として会社を訪れた。そして、応接室に通された直後、黒沢が現れた。スーツを着崩し、疲れ切った顔で。俺を見つけると、陰気な笑みを浮かべた。
「瀬戸さん、だったか。まさか、本当に来るとはな。昨日、私の部下が、掃除ついでに古い書類を片付けてくれたらしい。お前さんが欲しがってたのも、その近辺の書類かと思ってな。見つからなかったんだが、何か持って帰り忘れたか?」
「……西園寺さんは、何か話してましたか?」
「西園寺? 知らんな。取締役は出張だ。というか、瀬戸さん、そうやって、関係ない人間に色々尋ねてるんだったら、こっちにも考えがあるんだがな。君みたいな下請けの人間に、ここまで付き合ってもらう義務も、別にないだろ?」
「黒沢さん」
俺は、バッグの中から、刑事課の名刺を取り出した。
「警視庁捜査第二課、刑事課の者です。あなたの会社の、古い補助金の流れを調べるため、証言をいただきたくて来ました。これは、捜査関係事項照会書です。任意でお願いします。――で、昨日の夜の記録、確認しましたか? 午後九時五十分、あなたは本社ビルの非常階段から、地下三階へ向かいましたね。うちの者が、警備室のモニターで確認しています」
じっくりと待つ。すると、黒沢の顔が、見たこともないほど、歪んでいった。
「……なんだと。勝手に俺の社内を――」
「社内の何を、ですか? あなたの部下が、事故だと思えばいい。ごまかせると思っていたんですか。あんた、十年間、何も隠し通せてないですよ。篠原という、元従業員を覚えていますか? 彼女は、俺たちの監査の協力者です。一昨日、あなたが社長室で、西園寺さんに『裏の数字』を突きつけて脅してる現場も、俺たちは押さえています。三枝三佳さん。彼女に、示談書を書かせて法人化させたのは、あんただったそうですね?」
黒沢の顔は、真っ青を通り越して、土気色に変わっていた。しばらくの沈黙があった。
「……降参だ。降参させてくれ。俺の負けだ。十年間、よくも、この居眠りどもが」
「言っておくけど、こっちは、あなたに罪を認めさせたいだけだ。あなたが、あんだけのことをやっていなければ、俺たちも追及しなかった。あなたは、独力で、三つの会社を潰した当事者だ」
そう言った瞬間、黒沢は椅子に崩れ落ち、覆いかぶさるようにして、テーブルに突っ伏した。しばらくして、ガラス越しに、数人の刑事たちが、素早く応接室に入ってきた。
「黒沢巽容疑者。背任と第三者への単純浄財の罪で、あなたを逮捕します」
その声に、黒沢は自分自身の首を絞めるように、項垂れた。刑事部長が、無線に向かって、短く指示を飛ばす。応接室のドアが開き、百瀬捜査官が静かに入ってきた。
「瀬戸刑事。ご苦労様でした」
俺は、ようやく重い腰を上げた。十年間の、重い幕が、ようやく下りた。
「……御苦労様。あとは、全部任せた。俺は、一足先に帰らせてもらうよ」
「お疲れ様でした」
そう言って、刑事部長が差し出した手を、俺は握り返した。手錠をかけられ、部屋から連行される黒沢。すれ違いざま、彼は疲れた声で、呟いた。
「……前のお前も、この会社にいたことを、忘れてなかったわけだな、瀬戸」
「ええ、まあ。――あなたには、ずっと就職するつもりでしたが」
その一言に、黒沢は何も言い返せず、ただ連れ去られていった。
廊下には、今日も多くの社員たちが、足を止めており、目を丸くしながら、刑事たちが去っていくのを見つめている。その中には、三枝三佳もいた。刑事が対応にあたり、通訳を介した何かが行われている。三佳は、複雑な表情で、少しだけうつむいて、涙を拭っていた。
俺は、その光景を一分ほど眺めてから、人混みの中へ歩き出した。エレベーターに乗り込み、一階で降りる。
――会社を出たところで、雨はすっかり上がっていた。空は高く、青い光が降り注いでいる。深呼吸をして、少し長めの溜息をついた。
「……終わったんだな」
「お疲れ様です」
振り返ると、三枝三佳が、帽子を取った凛々しい姿で、立っていた。彼女は刑事ではない。俺が雇った、調査会社の人間だった。
「十日間、かかりましたね」
「ああ、さんざんだったよ。三ヶ所も泊まり込みで、カルテを捏造して回った」
「でも、瀬戸さんが傍にいてくれたから、何とか乗り切れました。本当に、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。君が協力してくれたから、あの男を捕まえることができた。……ところで、君は、これからどうするんだ?」
三佳は、少しまっすぐ遠くを見つめて、答えた。
「私は、前に瀬戸さんに言った通り、数字を扱うべき人間だと思うので、やっぱりまた、勉強をし直そうかと思います。いつか、この再開発のど真ん中で、瀬戸さんに悪さをした人が、ちゃんと償いをするように。そういう世界で、働きたいです」
「……いい道だ。応援してるよ」
「ありがとうございます。あの、瀬戸さん」
「ん?」
「また、どこかで。十年後に、ぜひ」
「ああ、きっと」
俺は軽く手を挙げ、三佳は微笑みながら、その場を後にした。その背中を見送りながら、俺は思う。十年間、自分は常に何者かに追われていた。だが、もう今日で、その追う者は消えた。
――バン。
事務所の扉が閉まり、静かになった。机の上の鍵束。一つの鍵は、あのビルの非常階段のものだ。もう一つの鍵は、俺の家の鍵。
俺は鍵束を手に取り、机の引き出しにしまった。そして、誰もいない事務所に向かって、一人静かに告げた。
「お前の、十年間、ご苦労様でした」
それは、かつて、この部屋で決意を胸に眠っていた、元の自分への、最後の挨拶だった。
