もっとしっかりした嫁が良かったわ。この言葉、一体何度言われただろう。
田中由里奈、二十八歳。食品会社の企画部で働く私は、数か月前に離婚したばかりだ。元夫の裕二とは同じ会社で、部署こそ違うものの隣同士だから、顔を合わせない日はない。仕事は楽しいし、辞めるつもりもない。元夫も辞める気配がない。だから我慢するしかなかった。
あの日、街中で元義母に声をかけられるまでは。
裕二との出会いは二年前の会社のバーベキュー大会だった。年に二回、グループに分かれて開かれるその行事で、たまたま同じグループになった。スマホのアプリゲームが同じだと分かって意気投合し、数回のデートを重ねた後、「結婚を前提に付き合ってほしい」と告白された。優しくて誠実で、顔もそこそこいい。企画部の中でも裕二を狙っている女性がちらほらいるのを知っていた私は、「私なんかでいいのか」と思ったほどだ。それでも裕二を好きだったから、その場でOKを出した。
交際中も裕二は優しく、常に私を気にかけてくれる人だった。きっとこの人と結婚する。そう思っていた。その予感は的中し、二十八歳の誕生日、景色の綺麗なレストランでプロポーズを受けた。嬉しさのあまり号泣しながら、私はYESと答えた。
両親への挨拶を済ませ、次は裕二の母に会いに行った。義父は数年前に亡くなっていて、裕二は実家で母と二人暮らしだった。不妊治療でやっと授かった一人息子ということもあって、義母は裕二を小学生の子供のように扱っていた。
「ゆうちゃんが結婚なんて…。お母さん悲しいわ。何でも買ってあげるから、結婚なんてやめたら?」
結婚の挨拶でまさかそんなことを言われるとは思わなかった。驚いたが、「親一人子一人でずっと暮らしてきたから、寂しいのかもしれない」と自分を納得させた。裕二が必死に説得してくれて、義母はしぶしぶ結婚を許してくれた。ただし、条件があった。
結婚後は、義母と一緒に実家で同居するということだった。
「新婚早々の同居は…。近所に引っ越すのはどうですか?」
私がそう提案しても、義母は首を縦に振らなかった。
「母さんもこう言ってるし、将来的なことを考えたら、俺も同居した方がいいと思う。そうだろ?」
裕二も同居に賛成だった。反対は私だけ。どうしても裕二と結婚したかった私は、その条件を受け入れた。今思えば、あの時同居を断っていれば、離婚することもなかったのかもしれない。
同居が始まってからは、毎日が地獄だった。
「あなたの稼ぎから月十万は入れなさい。裕二の給料は裕二が使うべきなんだから、嫁が贅沢する必要はないわ」
そう義母に言われた時は驚いた。裕二が一円も入れないのに、私だけ十万。しかしマンションを借りれば家賃や光熱費でそれくらいかかる。家事は義母が手伝ってくれるだろうと思い、承諾した。
現実は甘くなかった。同居二日目の早朝、私は義母に叩き起こされた。
「嫁なのに、いつまで寝てるんだ」
それから朝の出勤まで、食事の準備、洗濯、掃除、ゴミ捨て、庭の水やりと、ありとあらゆる家事を言いつけられた。バタバタのまま出勤する私に、義母は「帰ってきたら続きよろしくね」と言い放った。
その日を境に、義母はすべての家事を私に押し付けてきた。朝五時から夜二十三時まで、毎日動きっぱなし。ベッドに入るのは日付が変わってから。その間、裕二と義母は自分の好きなことをするだけで、何ひとつ手伝ってくれない。
「少しは家事を手伝ってほしい」
そうお願いしても、二人は口をそろえて「家事は嫁の仕事だ」と言った。
「このくらいの家事ができないのなら、嫁失格ね。もっとしっかりした嫁が良かったわ」
義母は口癖のようにその言葉を繰り返し、私はいかにダメな嫁かと近所の奥さんと比較された。裕二は営業で残業もなく、ほとんど定時上がり。私の企画部は残業が多く、帰宅が二十一時を回ることもある。遅く帰っても家事をさせられ、二人は自分たちの分だけ頼んだ出前を食べ終えると、さっさと自室に戻っていく。
結婚して五か月を迎える頃には、私は体も心も限界だった。体重は十キロ以上落ち、仕事でミスも増え、同僚に心配される始末。
「これ以上は無理です。二人とも協力してください」
涙ながらにお願いしても、返ってきたのは決まって同じ言葉だった。
「ちょっと根性足りないんじゃない? こんなこと当たり前よ。何でも人を頼るんじゃないわよ」
「そうだぞ。母さんの言う通りだ。由里奈は頑張りが足りないよ」
「こんな嫁だと先が思いやられるわ」
その言葉を聞いた時、私はもう無理だと思った。その日のうちに荷物をまとめて実家へ帰った。両親に結婚してからのことを話すと、母は泣き、父は怒った。「実家に戻らなくていい」と、二人とも言ってくれた。
私はすぐに離婚を決意し、父に紹介してもらった弁護士に依頼した。裕二とは一度も会わずに離婚が成立した。義母は当初、文句を言っていたらしい。「あんな出来損ないの嫁は必要ない。裕二にはもっと素敵な嫁がすぐできる」と弁護士に話していたそうだ。しかし医師の診断書を見せると、裕二はあっさりサインした。
半年で離婚。少し落ち込んだが、あのまま地獄のような日々を送るくらいなら、バツがつくことなんてどうでもよかった。
離婚後、私は少しずつ回復し、結婚前の自分を取り戻した。仲の良い同僚には離婚の経緯を話した。外面のいい裕二のことだから、最初は信じてもらえなかったが、離婚後にどんどん元気になっていく私を見て、事実だと信じてくれた。裕二は裕二で「離婚の原因は由里奈の浮気だ」と吹聴しているらしく、それを信じている社員から白い目で見られることもあったが、企画部のみんなが味方してくれて、なんとかやっていた。数か月もすれば、そんな噂も消え、平穏な生活を取り戻していた。
あの日は土曜日だった。買い物に出かけ、帰ろうと街中を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「久しぶりね。意外に元気そうじゃない?」
振り返ると、そこには義母が立っていた。実家を出て以来、数か月ぶりだ。よく話しかけてこれるものだと呆れつつも、大人として適当に対応した。
「急に挨拶なしに離婚するなんて…」
義母の小言を聞き流しながら、どうやって逃げようかと考えていると、義母が突然嬉しそうに話し始めた。
「そうそう。裕二、もう新しい恋人がいるのよ。やっぱりうちの息子はかっこいいから、すぐに女性が寄ってくるのね」
裕二に新しい恋人ができたらしい。近々結婚するかもしれないと自慢げに話す義母。
「あなたは家事もろくにできないし、美人でもないから、恋人どころか結婚も難しいかもしれないわね」
似ついた顔でそんなことを言われた時、同居時代の嫁いびりを思い出し、腹がにえくり返った。私は、義母に知っている事実を教えてやることにした。
「裕二さんの彼女さんなら、よく知ってますよ。お母さんと同級生の、総務部の山岸部長ですよね。結婚の予定は知りませんでしたけど」
義母は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「私と同級生って…五十七歳ってこと? そんなはずないわよね」
「確か五十七歳だったと思いますよ。山岸部長もバツイチで、確かお子さんは私くらいじゃないですかね。バツイチ同士、お似合いですよね」
私の言葉に、義母はさらに固まった。
この話はつい先日、総務部の同期から聞いたばかりだった。離婚後、ずっと私を気にかけて飲みに連れ出してくれている同期が、仕事帰りに「ビッグニュースがある」と私を居酒屋に呼び出し、裕二と山岸部長の関係を教えてくれた。二人の関係は私と結婚する前かららしい。付き合って半年は経っている。しかも、驚くべきことに、裕二は熟女好きだった。マザコン気質だとは思っていたが、まさか熟女好きだったとは。同期が山岸部長に色々聞いたところ、山岸部長は何のためらいもなく、裕二とのことを語ってくれたそうだ。
裕二は最初から私のことが好きだったわけではない。ずっと山岸部長が好きだったが、当時山岸部長は既婚者だった。だから仕方なく、妥協して私と結婚した。ところが私と結婚して少し経った頃、山岸部長が離婚した。それを知った裕二は、こらえていた想いを抑えきれず、山岸部長に猛アプローチ。山岸部長も離婚したてで弱っていた部分があり、そのまま流されるように裕二と付き合った。現在に至るというわけだ。
呆然とする義母に、私は知っている事実を親切にすべて伝え、その場を後にした。義母のあんな表情が見られて、少しすっきりした。だが、翌日、とんでもない事件が起きるのだった。
いつものように仕事をしていると、突然廊下が騒がしくなった。何事かと思い、同僚と廊下を覗くと、数人の社員に抑えられている義母の姿があった。義母は狂ったように叫んでいた。
「山岸って女を出しなさいよ! うちの裕二を食べ散らかした女を出せ! 絶対ただじゃ置かないんだから!」
キーキーと喚きながら暴れている。隣では半泣き状態の裕二が、オロオロと立ちすくんでいた。
「母さん、やめてよ…。こんなところで」
「裕二は黙っていなさい! 私が全部片付けてあげるから安心しなさい。脅されてる裕二がかわいそう」
どうやら私から山岸部長の存在を知った義母が、会社に乗り込んできたらしい。私との結婚すらしぶしぶだった人が、自分と同い年の女性との交際や結婚を許すわけがない。義母が何か行動を起こすだろうとは思っていたが、まさか会社にまで来るとは想定外だった。廊下には義母が破壊したであろう破片が散らばり、他の社員たちが好奇の目で覗き込んでいる。義母はお構いなしに、ひたすら喚きながら暴れ続けた。
十分後、警備員の通報で数人の警察官がやってきた。警察官が来ても義母は暴れ続け、最終的には警察官にまで手を出してしまい、公務執行妨害でそのまま連行されていった。裕二は連行される義母を、呆然と見送っていた。
騒動が落ち着いた直後、同期から連絡が来た。
「裕二と山岸部長が、社長に呼び出されたよ。多分、これだけの騒動なら解雇だろうね」
「これからが楽しみね」
私はそう答え、再び仕事に戻った。
その後、裕二は同期の予想通り解雇された。義母が暴れた時に会社の備品をいくつか壊したらしく、弁償代も請求されたそうだ。山岸部長は解雇にはならなかったが降格処分になり、平社員になった。しかし部長クラスの人間が平社員になるのはプライドが許さなかったらしく、一か月後には自主退職し、会社を去っていった。裕二と一緒になるとも思われたが、義母が二人の関係を許さなかったらしく、結局、二人は別れることになった。
その後、元夫から復縁の要請があった。その連絡で知ったのだが、義母はあの後釈放されたものの、会社に近所の旦那さんが勤めており、この騒動が近所中に知れ渡ってしまった。針のむしろ状態になった二人は、実家にも住んでいられなくなり、家を手放して遠く離れた土地へ引っ越したらしい。二人とも無職のまま、古いアパートを借り、家を売却した金で暮らしているが、何も考えずに使っているので、その金もそろそろ尽きるとのこと。食べるものにも困っているというのに、まだ二人とも働いていないと聞いて呆れた。
私に助けてもらおうと復縁を持ちかけてきたのだろうが、あんな地獄のような生活に戻るわけがない。「根性が足りない」と私に言っていたのだから、その根性とやらで頑張ってほしいものだ。
私は、あの連絡を聞き終えた後、着信拒否に設定した。
今の私は相変わらず仕事を頑張っている。元夫がいなくなり、前より仕事に身が入るようになった。近々、昇級試験に挑戦するつもりだ。恋愛や結婚はしばらくお預けになると思うが、いつかいい人ができれば、また家庭を持ちたいと思っている。今日この頃だ。
