母のスマホ越しに届いた父からの返信は、いつものように素っ気ない一文だけだった。『無理だ。』そのたった一言で、俺たち親子の関係は全て語られていた。高校生の俺には、その一言が何よりも重くのしかかった。家計を支えるために始めたコンビニのバイトも、母の入院費と家賃を考えると焼け石に水だった。
母が倒れたのは、俺が高校一年の秋のことだった。もともと体が弱い方ではなかったが、朝から晩まで働き詰めの生活が祟ったのだろう。病院のベッドで眠る母の顔は、とてもじゃないけど働ける状態じゃなかった。だから俺は学校から帰るとすぐにバイトへ行き、休日は一日中働いた。それでも足りない。家賃を滞納しそうになった時、俺は藁にもすがる思いで、母のスマホから父にメールを送った。今月だけでいいから家賃を振り込んでくれないか、と。
だが返ってきたのは、たった一言の『無理だ』だった。毎月送られてくる養育費は、あの程度の額で、父にとっては気まぐれなものに過ぎなかったのだろう。母のスマホから送ったメールに、父が気づいていたかどうかは分からない。いや、気づいていたに違いない。あの男は、自分に関係ないことには一切興味を示さない人間だった。俺は母方の親戚に頭を下げて、どうにかその月の家賃を工面した。その時、はっきりと悟った。金のかかることに、情は関係ない。金は金だ。そして、金のない現実は、どれだけ嘆いても変わらないということを。
あれから数十年。ついこの間まで、俺は高校時代のことを思い出すたびに、あの時の苦しさが蘇ってくるようだった。高校を卒業してから、俺は地元のビルメンテナンス会社に就職した。大手の建設会社のような派手な仕事じゃないが、清掃の仕事は肉体労働の割にはやりがいがあった。高校生の頃に経験した底辺の生活に比べれば、給料は安くても、毎月安定してお金を稼げることはありがたかった。社会保険にも加入させてもらえたので、母を扶養に入れることもできた。
就職してからも、俺は同窓会とは無縁の生活を送っていた。中学時代の友人とも疎遠になり、高校時代の友人に至っては、もう誰が誰だか分からない。何年も前に同窓会の案内が来た時も、俺は行く気になれなかった。あの頃の冴えない自分を見せるのが恥ずかしかったし、仮に会場に行ったところで、楽しめるとは思えなかったからだ。きっと、俺と同じように底辺の生活を送っている連中が数人、誰も来ないんだろうな、と思っていた。
そんな時だった。同窓会の案内状が届いたのは。封筒には、『還暦同窓会』の文字。還暦って、60歳のことだよな。もうそんな歳になったのかと思いながら、俺は案内状を机の上に置いた。そして、その時が今回の物語の始まりだった。熱か。還暦同窓会の会場は、都内の高級ホテルだと書いてあった。高いシャンデリアが輝き、シックなスーツに身を包んだ連中が歩いている。ここに俺の着るような安物のスーツで行くのは、やはり場違いなのかもしれない。だが、今回ばかりは行くと決めていた。亡くなった母に、漸く恩返しができる、とは思わない。だが、長年苦労をかけてきた母のために、俺は何か一つでも、母を安心させられるようなことがしたい。そう思ったからだ。
受付を済ませ、会場のドアをくぐると、そこには想像通りの光景が広がっていた。昔はあんなに仲が良かった友人たちも、今は見る影もない。白髪交じりの頭を撫でつけ、恰幅のいい体をスーツで包み込んだ男、華やかなドレスに身を包み、周りの目を気にするように辺りを見回す女性。みんな年を取った。そして、きっと俺と同じように、どこか昔の自分を取り戻したいと思っているのかもしれない。そんなことを考えながら、俺が会場の端で料理に手を伸ばしていると、後ろから懐かしい声が聞こえてきた。
「まあ、まさか裕也が来るなんてね。同窓会なんて、一度も顔を出さないと思ってたよ。」
振り向くと、そこには高校時代に隣の席だった、弓香が立っていた。彼女も年を取ったが、その微笑みは昔と変わらず、優しげな雰囲気を醸し出していた。
「久しぶりだな。弓香も、元気にしてたか?」
「ええ、ぼちぼちね。で、この後、時間ある?」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。その笑顔を見て、俺はある予感がした。嫌な予感、というやつだ。この後、何が待っているのか。それを知るのは、そう難しいことじゃなかった。
「何やかんやで、俺たちも年を取ったってわけだ。」
弓香と連れ立って会場の中心へと向かうと、ひそひそとそんな声が聞こえてきた。噂をすれば何とやら、黒崎新一がいた。彼は相変わらず、高価そうなスーツを着こなしていた。グレーの光沢のあるスーツが、ホテルの明かりを反射してキラキラと輝いている。周りには、何だかんだで取り巻き連中が数人いる。彼は俺たちに気づくと、わざとらしく驚いた顔をして見せた。
「おお、これはこれは、我らが底辺生活者、裕也君じゃないか。こんな場所で会うなんて、奇遇だな。」
にやにやと下品な笑みを浮かべて、黒崎は話しかけてきた。相変わらず、一言目からケンカを売ってくるような言い草だ。昔からそうだった。黒崎は高校時代、生徒会長を務めるような学校の中心的な存在で、ルックスも頭も家柄も良かった。いわゆるエリートというやつだ。そして、俺のような存在を見下すことで、自分の優位性を保つのが得意な男だった。こいつは、今も昔も、何も変わってないらしい。
「久しぶりだな、黒崎。元気にしてたか。」
「元気も何も、見て分からないか。俺は一流企業の役員を務めてね。今更、底辺生活者の俺に気を遣ってくれてるのか?」
と、言って、げらげらと笑い始めた。周りの連中も馬鹿みたいに合わせて笑っている。
「ま、勝手に笑ってろよ。」
俺がそう言って、その場を離れようとすると、黒崎は俺の肩を掴んで引き戻した。
「まあ待てよ。せっかく久しぶりに会ったんだ。昔の話でもしようぜ。ところで、裕也は何をやってるんだ?相変わらずの清掃員ってところか。ああ、そうだ。悪いことは言わない。今の仕事を辞めて、俺の会社で働かないか?給料は今より倍は出してやる。ただし、俺の言うことを何でも聞くってのが条件だけどな。」
にやにやと笑いながら、嫌な言い方をする黒崎。その言葉を聞いて、俺の堪忍袋の緒が切れた。
「悪いな、黒崎。俺は今の仕事に誇りを持ってる。人の下について働く気はないんだ。それに、お前みたいに、金と権力に物を言わせて人を見下すクズの下で働くなんて、まっぴらごめんだ。」
俺の言葉を聞いて、周りがざわついた。黒崎は、今までにないほど顔を真っ赤にして怒り出した。
「何が誇りだ!清掃員の分際で!お前は一生、この下の人間にへこへこと頭を下げて生きてればいいんだ!」
彼の言葉に、俺は流石に怒りを覚えた。小さい頃から母を苦しめてきた『金』というもの。そして、その金を理由にお前のような奴がのさばっていることを。俺は、彼に言い返すことにした。
「黒崎。俺はお前みたいに、人の心を踏みにじることしか能のない人間には、なりたくないな。確かに、俺は清掃員かもしれない。だが、俺の仕事は、誰かの生活を支えているんだ。お前みたいに、企業を潰して路頭に迷わせるような仕事をするより、どれだけマシか分からない。」
そう言って、睨みつけると、黒崎は悔しそうに歯を食いしばった。俺の言葉に、会場のあちこちから、ひそひそという声が聞こえてくる。そして、それを聞いた黒崎は、今度は何を思ったか、急に落ち着いた口調で、こう言った。
「…そうか。裕也。せっかくだ、俺がお前に、本当の『底辺の世界』ってものを教えてやる。」
周りの会話が、ピタリと止んだ。黒崎はスーツの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。そして、それを俺に見せる。
「見ろ。これが、今のお前の姿だ。」
写真には、ある店の入口が写っていた。店の名前を見て、俺は血の気が引く思いがした。それは、俺が高校生の時、生活費を稼ぐために夜のバイトをしていた、いかがわしい風俗店の写真だった。この写真を撮ったのは誰だ?あの時、店に通っていたのは、俺をいじめていた連中も含めて、確か……
「どうした?何か言ったらどうだ?」
黒崎は勝ち誇ったように笑っている。こいつ、俺を嵌めやがったな。どうやら、昔から俺のことを逆恨みしていて、こういう機会をずっと狙っていたらしい。だが、こいつの思い通りにはいかない。俺は、こんな写真で負けるようなタマじゃない。
「黒崎。残念だったな。それだけの準備をしてきたお前には悪いが、俺はそういう手口には何度も引っかかってないんだ。確かに、俺は昔、生活のために必死だった。だが、それはここにいる俺と同年輩の連中も、きっと同じはずだ。人の過去を責めるのは、もうやめにしないか?それに、その写真、一体誰が撮ったんだ?」
気がつくと、俺の隣に来ていた弓香が口を開いた。
「黒崎君、十分よ。」
その言葉を聞いた黒崎は、一瞬たじろいだように見えた。
「弓香…いや、これは俺のビジネスの話だ!」
「ビジネス?ふざけないで。そんなことのために、今日この場を借りたの?」
弓香の言葉に、黒崎の顔色が変わる。何のことだろう。二人のやりとりが、どうも噛み合っていない。
「…まさか、お前、俺を陥れるために、この同窓会を利用したんじゃないだろうな?」
黒崎が、今度は逆に慌てたように叫ぶ。
「黒崎君。あなた、昔から考え方が嫌な方に強引すぎる。この写真は、私が見つけたの。あなたの会社の人間が、あなたを嵌めようとしているって知ったから。あなた、最近会社でやらかしたでしょ。隠し続けているようだけど、もう全部、お仲間にバレてるみたいよ。」
弓香の言葉に、黒崎の顔が真っ青になる。どうやら、黒崎は自分の周りから疎まれていて、何者かが陥れようとしているらしい。そして、その手助けを弓香が買って出た、というわけだ。
「どうやら、俺たちのエリートさんも、人望がないと大変だな。本当の『底辺』ってのは、こういうことを言うんじゃないのか。」
俺がそう言うと、黒崎は唇を噛みしめ、何も言わずにその場を立ち去った。周りの連中も、何が何だか分からないという顔で、ひそひそと話をしながら散り散りになっていく。残ったのは、俺と弓香と、そして一つの確かな真実だった。
「助かった。助かったよ、弓香。しかし、お前が黒崎を嵌めるためについてくれたとはな。驚いたぜ。」
「別に、あなたのためだけじゃないわ。あの男、思った以上に過激になってたから、困ってたのよ。私も、もう彼の慈善事業に付き合ってられないからね。」
「慈善事業?」
俺が聞き返すと、弓香はふふっと笑った。
「ええ。彼、高校の時から、あなたのことを気にかけて、陰ながらお世話してたらしいのよ。だから、あなたを見下しながらも、本当は色々とやっていたんだって。今回のことも、あなたを守ろうとしたんじゃないかって、私は思ってるけどね。」
「は?あいつが俺を?冗談だろ。あいつは俺の敵だ。」
「そうかもね。でも、あなたの言うことも分かるわ。実はね、私、黒崎君に頼まれて、あなたのことを見張ってたの。」
弓香の言葉に、俺は言葉を失った。
「何年か前から、黒崎君、あなたのお母さん宛てに、毎月隠れて仕送りしてたらしいのよ。お母さんが亡くなってからは、今度はあなた宛てに。」
「何だって!」
「私は、最初はただの気まぐれかと思ってた。でも、どうやら違うみたい。あなた、黒崎君の家に行ったことある?」
「家?あの見せびらかすような豪邸のことを言ってるのか?あるわけがないだろ。」
「じゃあ、彼の会社には?」
「ないよ。急にそんなことを聞いてどうしたんだよ。」
「だって、あなた、黒崎君のことを『見知らぬ人』扱いしてるけど、黒崎君は、あなたのこと、随分昔から知ってるみたいよ?高校の時、あなたが働いていたあの店に、何かと通い詰めてたらしいじゃない。」
俺は、弓香の話していることが全く理解できなかった。あの店に、黒崎が?あの時、店の客はみんな、俺のことを『底辺のガキ』と馬鹿にしていた、まるで人形のような奴ばかりだった。そんな中で、黒崎が一人だけ違ったとしても、何の警戒もなかっただろう。だが、もしかすると、こいつは俺の過去を全て知った上で、気を遣っていたのかもしれない。
「そんなに長く生きてても、分からないことはまだまだあるもんだな。」
俺がそう呟くと、弓香は優しく微笑んだ。
「そうね。でも、忘れないで。あなたが底辺の生活を強いられていた時も、見てる人はちゃんと見ていたってこと。あなたは、十分に頑張ってきたんだよ。」
そう言って、弓香は俺にグラスを突き付けた。乾杯というには少し遅すぎるが、俺はそれに応えて、グラスを掲げた。あの日のことが少しだけ報われたような、そんな気がした。俺の人生は、この同窓会を機に、一体どこへ向かっていくのだろう。それは、還暦を迎えた俺にも、まだ分からない。
