その声が窓口に落ちた瞬間、フロアにいた十数人の客が一斉に振り返った。入行三年目の行員・加屋が、カウンター越しの老夫婦を見下すように笑っていた。私と妻は、五十年使い込んだ通帳の更新に来ただけだった。ところが加屋は「残高五円の通帳を五十年も持ってるって、どうなんですかね」と言い放ち、その通帳をシュレッダーに押し込んだ。ガリガリガリ。私たちの人生が、目の前で粉々に裁断されていく。「この銀行、潰しま…

その声が窓口に落ちた瞬間、フロアにいた十数人の客が一斉に振り返った。入行三年目の行員・加屋が、カウンター越しの老夫婦を見下すように笑っていた。私と妻は、五十年使い込んだ通帳の更新に来ただけだった。ところが加屋は「残高五円の通帳を五十年も持ってるって、どうなんですかね」と言い放ち、その通帳をシュレッダーに押し込んだ。ガリガリガリ。私たちの人生が、目の前で粉々に裁断されていく。「この銀行、潰しま...

窓口にその声が落ちた瞬間、フロアにいた十数人の客が一斉に振り返った。声の主は、入行三年目の窓口担当行員、加屋だった。その目はカウンター越しに座る老夫婦を見下すように細められ、口元には隠しきれない嘲笑が浮かんでいた。

「待ってくれ。それは――」

ソースケがそう言いかけるより早く、加屋は通帳をシュレッダーの投入口に押し込んだ。ガリガリガリ。五十年来の思い出が詰まった古い通帳が、老夫婦の目の前で粉々に裁断されていく。

「あなた、私たちの通帳が……」

「はい、すっきりしましたね。通帳の切り替えは隣の窓口へお願いします」

そこへ奥から出てきた市川店長までもが、老夫婦を邪魔者扱いして追い払おうとする。

「加屋君、時間がかかりすぎている。次のお客様をご案内して」

「はい、店長。じゃあそういうことなんで、出口はあちらです」

老人はゆっくりと立ち上がり、一言だけ静かに残した。

「この銀行、潰します」

「は? 潰す? この銀行を?」

「おじいちゃん、面白すぎるんですけど」

加屋たちは腹を抱えて笑い転げた。しかし――。

翌朝八時、東洋第一銀行の全国に設置された四千二百台のATMが、一斉に緊急停止した。コンビニ店内のATM画面にはエラーメッセージだけが無機質に表示され、全国で大勢の人々が混乱の渦に巻き込まれた。瞬く間に社会問題へと発展した。傲慢な行員たちの顔が、みるみるうちに引きつっていく。

あの作業着のおじいちゃんが、一体何者だったのか――。

十一月の冷たい風が吹く穏やかな午後、蒼介は今日も妻の千寿と肩を並べて歩いていた。二人は夫婦。蒼介は六十七歳、妻の千寿は六十五歳だ。今日この銀行を訪れたのは、古くなった通帳の更新手続きのためだった。

この銀行に口座を開いたのは、蒼介が十七歳の時。給料は二千円。土木の見習いをしていた頃の話だ。初めて稼いだ給料を、泥だらけの恰好で窓口に差し出した。その翌年、千寿と結婚した時、蒼介はこう言った。

「この口座を、俺たち二人の記念にしよう。毎年少しずつ入れていく。減ることもあるだろうが、年を取った時に開いたら、俺たちが歩んできた道が全部見える。そういう通帳にしたい」

「素敵ね。じゃあ、これは二人の人生の通帳ね」

以来、この口座は生活のための口座ではなく、二人の人生の節目を刻む記念の口座となった。子供が生まれた日。会社を立ち上げた日。初めて大きな橋の工事を受注した日。蒼介はその都度、小額をこの口座に入金し続けてきた。

表面上の残高は、わずか五円。しかしこの通帳を開けば、蒼介と千寿が歩んできた五十年の軌跡がそのまま蘇る。金額ではなく、五十年の記録そのものに意味がある通帳だった。

蒼介は今でも毎朝五時に起き、作業服に着替えて全国の建設現場を回っている。岩城インフラグループ。橋梁、トンネル、高速道路の建設を手掛ける、年商四千億円規模の巨大企業グループを、一人で築き上げた創業者だ。高級スーツを着ることも、運転手付きの車で乗り付けることも一切しない。今日もいつもと同じ、洗いざらしの作業服と安全靴での来店だった。

現場では若い作業員たちが蒼介に声をかけてくる。

「親方、今日はずっとこの現場ですか?」

「いや、お前らの飯の味見が終わったら別の現場だ」

「また目当てで来たんすか。もう毎回そればっかりだ」

「親方、今日の弁当は唐揚げですよ。多めに取っときますよ」

「気が利くな。お前は出世する」

「え? 俺、お前はもうちょっとだ」

笑い声が現場に響く。銀行最大の個人顧客が、今日も変わらず社員と同じ弁当を食べ、同じ釜の飯を食う。一緒に笑い、一緒に働く。それが蒼介の生き方だった。

しかし、この窓口の誰も、目の前の老人の正体を知らない。加屋は三人の客が何気なく口を開いた。

「帰りにでも、貯めませんか? たまにはちょっといいところで」

「回転寿司でいいだろ。どこも同じ魚だ」

「もう、せっかくだからたまには奮発してもいいんじゃないの?」

「大天寿司の何が不満なんだ? うまいだろうが」

「美味しいですけど」

「あなたって本当に変わらないわね」

千寿は口元を緩めながら、黙って前を向いた。二人にとって、ごく普通の午後の外出のはずだった。

その日の朝、東洋第一銀行の窓口が開く前、係の間ではこんな会話が交わされていた。

「加屋さん、また今月も数字トップだって」

「市川店長が、朝からめちゃくちゃ機嫌いいじゃん」

「当たり前でしょ。不良債権だけ抑えとけばいいんですよ。この支店は、無駄な客に時間を使ってたら数字なんて作れない。まあ、戸塚店長も同じ方針だしね。先輩たちもみんなそうしてきたんでしょう。それで回ってるんだから、正解じゃないですか。見た目で分かりますよ。客になるのが」

加屋が窓口に戻ると、後ろで同僚たちがこそこそと話している。

「あの人さ、店長のお気に入りだから、何やっても怒られないんだよね。それにしたって、ひどい接客だと思うけど」

「まあ、数字出してるしね」

加屋は入行三年目。有名大学の経済学部を出て、店内で常にトップの営業成績を誇る。市川店長のお気に入りだ。富裕層への営業で結果を出す一方、見込みのない客への対応は露骨に手を抜く。それは加屋一人の問題ではなく、この支店が長年かけて育ててきた文化でもあった。止める者はいない。むしろ効率的だと黙認されてきたのである。

「三番窓口でお待ちのお客様、どうぞ」

放送と共に番号が呼ばれ、蒼介と千寿は並んでカウンターへと歩み寄った。二人とも質素な作業服姿で、蒼介の手には使い込まれた一冊の通帳が握られていた。表紙の文字はかすれ、角は丸く擦り減り、ページには長い歳月の染みがついていた。

加屋は老夫婦を一瞥し、瞬時に見下した。

「え、この通帳ですか? 年期入ってますね」

加屋は蒼介から受け取った通帳を指先でつまむようにして広げると、わざとらしく前屈みになった。画面に表示された残高を見た瞬間、口元がさらに歪んだ。表面上の残高は、わずか五円。

「あの、この口座、残高なんですけどね。こんな口座の更新に手間をかけるのは、正直どうかと思いますよ」

声はフロア全体に響く大きさで、明らかに周囲に聞かせることを意図した音量だった。隣の窓口の同僚が口元を手で隠してくすくすと笑い、後方のデスクからもちらちらと視線が飛んでくる。

「あの、この通帳は主人にとって大切なもので……。時期が弱くなってきたので、新しいものに切り替えていただければと」

「大切って言われましてもね。残高五円の通帳を五十年も持ってるって、どうなんですかね。銀行としては、維持管理のコストだけかかって、利益ゼロどころかマイナスなんですよ。正直、この口座は解約してもらっても構いませんよ。預金者側がそれを選べないなら、銀行側からお願いしますって言いたいくらいです」

千寿が蒼介の腕をそっと掴んだ。不安そうな顔で夫を見上げる。しかし蒼介は黙ったままだった。怒っているわけではない。ただ、この係員がどれほど自分たちの人生を貶めたのか、それを噛み締めているかのように静かだった。

「まあ、そう言わずにね。おじいちゃん、おばあちゃん。この銀行のやり方に文句があるなら、別の銀行に行けばいいじゃないですか。ね? 他にも銀行なんていくらでもありますよ。どうせうちに来てても、大した手数料も稼げないんだから」

加屋はにっこりと笑いながら言った。周りの同僚もクスクスと笑っている。蒼介は少しの間、加屋の顔を見つめていた。その目はひどく落ち着いていた。

「……わかった」

蒼介は静かに立ち上がった。千寿がそれに続く。窓口を離れかけた時、蒼介は振り返り、加屋を見つめた。

「この通帳、無くしてくれてありがとう。お陰で、これから始められる」

「は? 始められるって、何を?」

「いいや、何でもない。お若いのに、どうかお元気で」

蒼介の声はひどく穏やかだった。それが逆に不気味で、加屋は一瞬言葉を失った。

そして二人はゆっくりと銀行を後にした。

その夜、蒼介は自宅の書斎で電話をかけていた。

「もしもし。俺だ。今日、東洋第一銀行に、俺の生涯で最大の顧客を紹介した。明日の朝一だ。準備をしておいてくれ」

「親方、どういうことです?」

「いやな、預金五円の通帳をシュレッダーで捨てられてな。これは由々しき事態だ。あの老害どもを、ちょっと締め上げてやろうと思う」

蒼介は電話を切ると、千寿が茶を持ってやってきた。

「あなた、随分はしゃいでるわね」

「千寿、お前、あの時の通帳に何が入ってるか知ってるか?」

「もちろん。あなたがせっせと入れてきた、二人の人生よ」

「いや、そうじゃない。あの通帳にはな――」

蒼介は机の引き出しから、一通の書類を取り出した。それは、東洋第一銀行が抱える巨額の不良債権の一覧表だった。蒼介は長年、この銀行の経営状態を調査し続けていた。普通の客としてではなく、投資家として。そして今日、その調査の結果に基づき、ある計画を立てたのだった。

「あの銀行、五年後に潰れるよ。確信した」

「あなた、まさか……」

「決めたよ、千寿。俺たちの人生の通帳を、あんな屑みたいな銀行に踏みにじられる筋合いはない。株を取得する。今年度中に、東洋第一銀行の発行済み株式の三十パーセントを集める」

「そんなこと、できのするの?」

「覚えていないのか? 俺はこの岩城インフラを、ゼロから創った男だ。銀行にだって、何度も冷たい態度を取られた。でも、俺を助けてくれた中小の信用金庫もあった。銀行っていうのは、金のある奴には擦り寄り、無い奴には見向きもしない。その象徴が、今日のあの対応だ」

蒼介の目は、現役を引退した老人の目ではなかった。

「もう一度だけ言わせてくれ。俺はこの日本で一番の土木技師だ。そして、一番の投資家でもある。あの銀行の本部を、来週中に買収する。いや、買収して見せる」

「どうやって?」

「長年、取引のあった証券会社に頼んで、株式を集積させた。こっちは資金に糸目は付けない。数週間のうちに、市場から三十パーセントを確保する。そして、臨時株主総会で、取締役を解任する。あの加屋という若造の県いじめに付き合っている暇はない」

蒼介は、通帳のことを思い出していた。十七歳の時に作った口座。泥だらけの作業服で開いた口座。そこで妻と結婚し、子供が生まれ、会社を大きくしてきた。その五十年分の記録を、ただの残高五円と笑ったあの若造に、人生の重みというものを教えてやる。

「あなた、本当にやるのね」

「やるさ。あの日のことを、一生忘れない」

「私も手伝うわ。あなたのここまでの人生、全部見てきたもの」

千寿はそっと、蒼介の手を握った。蒼介は握り返し、優しく微笑んだ。

「ありがとう。だが、俺がやる。この戦いは、俺の人生のための戦いだ」

翌朝、東洋第一銀行の店頭には、いつもと違う光景が広がっていた。銀行前に、黒塗りの高級車がずらりと並んでいる。スーツ姿の男たちが降り立ち、厳しい表情でビルを見上げている。

加屋が出勤すると、銀行の前がいつもと違って騒がしいことに気づいた。

「何があったんですか?」

「知らないのか? 今朝未明、どこかの投資ファンドが、当行の株式を大量に取得したらしいんだ。それも、発行済み株式の三十パーセント超えだ」

加屋は顔色を変えた。三十パーセント。そんなもの、誰が。

その時、加屋のスマホが鳴った。本店の秘書課からだ。

「加屋君? 緊急事態だ。すぐに会議室に来てくれ。株主総会を開く。全支店の責任者が呼ばれている」

会議室に集められた行員たち。そこに、昨日の老夫婦の姿が浮かんだ。

「何で、俺が……」

加屋は震えながら席についた。そして、会議室の扉が開く。

そこには、作業服のままの蒼介が立っていた。傍らには、千寿が立っている。そして蒼介は、静かに言った。

「よう。銀行の窓口ってのは、客を選ばないもんだと思ってたが、どうやら違うみたいだな。俺の通帳、五円そこらの価値しかなかったようで、“なんだかごえ”だったか? まあいいさ。今日から、この銀行の主なんだ。お前たちの上司ってやつだ」

加屋の顔から、一瞬で血の気が引いていった。

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