結婚してから三ヶ月。私はようやく、自分がとんでもない男を夫に選んでしまったのだと、嫌でも思い知らされていた。
私の名前は日野あゆ。三十歳で、在宅ワーカーとして細々と仕事をしている。夫のかなりの、五歳年上の男性と結婚して、ちょうど三ヶ月が経ったばかりだ。彼との結婚は、私にとって初めての結婚だった。
もちろん、これまで恋人がいなかったわけではない。二十四歳の頃、ずっと付き合っていた男性がいた。その人とは順調に交際を重ね、このまま一緒になるのだろうとばかり思っていた。しかし、二年前、とんでもない事実が発覚したのだ。なんと、その彼にはすでに家庭があったのだ。
そして、自分の妻だと名乗る女性と一緒に私の前に現れた彼は、信じられないような言葉を吐いた。
「この女がしつこく言い寄ってきて困ってたんだ。俺は家族を裏切るつもりはないって言ってるのに」
私は必死に訴えた。ずっと独身だって言っていたじゃないか、と。けれど、私の言葉が届くことはなかった。逆に、私は泥棒猫扱いされ、慰謝料まで請求されてしまったのだ。
この一件で、私は恋愛に対して深いトラウマを植え付けられてしまった。それから先、なかなかまともに恋愛ができず、気づけば三十歳になっていた。そんな時、周りの友人たちが次々と家庭を築いていくのを見て、焦りのようなものを感じるようになった。
半ばやけくそになって登録した婚活アプリ。そこで出会ったのが、今の夫であるかなりだった。
彼の第一印象は、一言で言うなら「いい人」だった。一緒にいてもいつも穏やかな笑顔を浮かべていて、私の愚痴やつまらない話も、嫌な顔一つせずに聞いてくれる。
「なんかごめんね。いつも私ばかり喋っちゃって」
「なんで? 俺は楽しいよ。あゆのことを、もっとたくさん知ることができるし」
そう言って微笑む彼の優しさが、私の恋愛への恐怖心を、少しずつ溶かしていってくれた。傷ついた心が癒えていくのを感じ、私は次第に彼との将来を夢見るようになった。この人と一緒になれたら、どんなに幸せだろう。そう思う日が増えていった。
そんなある日のことだった。
「あゆと一緒に人生を歩んでいきたい。俺と、結婚を前提に付き合ってください」
私が気持ちを伝えるより先に、かなりの方から告白してくれたのだ。まさか彼も同じ気持ちでいてくれるなんて。嬉しさのあまり、私は泣き崩れてしまった。
こうして私たちは交際を始めた。彼は大手企業に勤めていると言い、「結婚したら楽をさせてやる」と、いつも言っていた。
交際からわずか二ヶ月。私たちは結婚を決めた。周りからは「早すぎるんじゃないか」と反対されたが、最近はゼロ婚という言葉もある世の中だ。それに、彼との出会いに救われた私には、これも何かの縁なのだと信じたかった。
両親にも結婚のことを伝え、私たちは結ばれた。
結婚式の費用を貯める余裕がなかった私たちは、とりあえず入籍だけを済ませることにした。
「式も挙げられないからね。今は節約しながら、しっかり貯めていこう」
「そうだね。俺もそれに賛成だよ」
お互いに考えていたことは同じだったようで、この件に関しては問題なく話がまとまった。新しい部屋を借りるのもお金がかかると思い、私たちは、それまで私が住んでいたマンションで一緒に暮らすことになった。
二人暮らしになれば、光熱費や食費も上がるだろう。そう考えた私は、一度、月々の支払いについて話をしようと、彼に切り出した。
「ねえ、かなり。お互いの生活費のことなんだけど……」
しかし、私が話題を切り出した瞬間、彼は笑顔でこう言ったのだ。
「生活費全般は俺が出すよ。だからあゆは気にせず仕事して」
「え……でも、それじゃ負担が……」
「心配しなくて大丈夫」
申し訳なさはあったが、その言葉に、私は頼もしさを感じた。こんなふうに支えてくれる旦那さんがいる生活は、本当に素晴らしいものになるに違いない。そう、この時は本気で思っていたのだ。
私のそんな思いは、あっという間に打ち砕かれることになる。
結婚生活が始まり、はじめての給料日。宣言通り、かなりは生活費を渡してくれた。
「……えっと、これだけだと足りないかな」
「は? なんで?」
彼から手渡されたのは、なんと、たったの一万円だけだったのだ。
マンションの家賃や、諸々の光熱費を考えれば、到底支払いができる額じゃない。最初は彼なりの冗談かと思ったが、彼の表情からは、これが本気であることがありありと読み取れた。
「あのね、かなり。よく考えて。月々の支いが、一万円で済むわけないでしょ」
「いや、それはおかしいよ。なんで一万円で足りないんだ」
「足りないも何も……」
「贅沢言わないでくれ」
本気で言っているのかと、突っ込みたくなるような発言だった。家庭によって、一ヶ月の生活費が異なるのは当然だろう。それでも、一ヶ月一万円で生活しろというのは、普通に暮らしていたら、まず無理な話だ。
私は、これまでの請求額の明細を見せながら、毎月の支払いがどれだけかかるのかを、必死に説明した。しかし、彼は自分が正しいとばかりに、こう言い放った。
「家にいるのは、あゆの方が長いんだから、お前がもっと節約すればいい話だろう」
さすがに、この言葉には言葉を失った。まるで、私が無駄遣いをしているかのような言い草だ。
「まさかあゆは、金目当てで結婚したのか? 俺が大手企業に勤めてるからって」
「ち、違うよ! そんなわけないじゃない!」
どれだけ説明しても、かなりは納得してくれない。これ以上何を言っても無駄だろうし、これ以上機嫌を損ねて喧嘩になるのは、正直避けたかった。
元々、一人暮らしをしていた時は、生活費は全部自分で払っていたのだ。納得がいかない部分もあったが、価値観は人それぞれ。一緒に暮らしていけば、いつかは分かってくれるはずだ。そう自分に言い聞かせながらも、これまで見たことのない彼の様子に、戸惑いを感じずにはいられなかった。
そして、現在。この三ヶ月で、かなりから受け取った生活費の合計は、なんと三万円だけだった。
「全部出す」と言いながら、彼は毎月決まって、一万円しか出そうとしない。残りのお金は、すべて自分のために使ってしまい、生活費の支払いには一切、協力してくれないのだ。
さすがにもう限界だ。私は改めて、彼と話し合うことにした。
「かなり、こんなこと言いたくないけど……やっぱり生活費一万円は、さすがに無理があるよ」
「またその話か。一体、何がそんなに不満なんだ?」
彼は、不機嫌そうな顔を浮かべた。しかし、このままでは、生活が立ち行かない。今はまだ子供がいないからいいものの、このまま一緒に暮らし続けて、もし子供ができたとしても、育てていくことなんてできない。
私は、これまでの請求額を並べながら、毎月の支払いを説明し、どうしてもこの金額では足りないのだと訴えた。しかし、彼はやはり、自分が正しいとばかりに言い返す。
「家にいる時間が長いあゆが、もっとやりくりするべきだろ。俺は毎日、外で働いているんだから」
「それは分かってる。でも、流石にこれは無理だよ」
「お前が無駄遣いしてるからだろ。俺みたいに、月に八万円稼いでみろよ」
「はぁ? 八万円って、どういうこと?」
私は一瞬、彼が言っていることの意味が理解できなかった。月に八万円。それは、私が在宅ワーカーとして稼いでいる金額のことか。確かに、私の収入は平均すると月にそれくらいだ。
「月に八万円しか稼げないお前が悪いんだろ。俺はこれだけ働いてやってるんだ。文句があるなら、もっと稼げばいいだろ」
彼の言葉に、私は全身の血の気が引いていくのを感じた。確かに、私の収入が少ないのは事実かもしれない。しかし、それは私が遊んでいたからではない。家にいながらにして、少しでも家計の足しになればと、コツコツと仕事をしてきた結果なのだ。
「確かに……私の収入が少ないのは事実だよ。でも、だからって、そのことをそんな言い方をすることないんじゃない?」
「うるさい! 専業主婦のくせに、偉そうなんだよ! 俺が働いてるから、お前は生活できてるんだぞ!」
そう怒鳴り散らすと、かなりは、突然立ち上がった。そして、何を思ったのか、部屋の引き出しから、一枚の書類を取り出した。
「ほら、これだ! もうたくさんだ! 離婚だ!」
「え……離婚?」
私の手に、無理やり押し付けるようにして渡されたのは、離婚届だった。
「俺は、こんな自己中な女とやっていく自信がない! 出て行け!」
そう言い捨てると、かなりは、そのまま家を出て行ってしまった。
パタン。という、静かなドアの閉まる音が、やけに大きく響いた。
私は、渡された離婚届を、ぼんやりと見つめることしかできなかった。理解が追いつかない。たった、さっきまで普通に会話をしていたのに。確かに、生活費のことで喧嘩はしたけれど、まさか、いきなり離婚なんて……。
あの日、彼が「生活費は全部出す」と笑顔で言ってくれたのは、嘘だったのだろうか。あの優しい言葉も、穏やかな笑顔も、すべて演技だったのだろうか。
彼にとって私は、金銭的に都合のいい、ただの女だったのだろうか。
結婚してわずか三ヶ月。この短期間で、彼の本性を思い知ることになった。でも、もし、もっと早く気づいていたら。私がもう少ししっかり見極めていたら、こんな結末にはならなかったのだろうか。
悔やんでも、悔やみきれない。それと同時に、これで良かったのだと、ホッとしている自分もいた。
一人になった部屋で、私は改めて思った。次に誰かと恋愛することになったら、ちゃんと理解し合える人と関係を築いていきたい。最初から相手を「いい人」と信じ込むのではなく、しっかり目を見て、話を聞いて、お互いを理解し合える人と。
たった三ヶ月の夫婦生活は、私にとって、確かに一つの大きな教訓となった。
これからは、人を見る目を養い、焦らずに、ゆっくりと人生を歩んでいこう。たとえ、それがいつになるか分からなくても、私は私の人生を、ちゃんと歩いていくのだ。
