玄関をくぐった瞬間、嫌な空気が肌にまとわりついた。里帰り出産から戻ったばかりの私は、抱きかかえた赤ん坊の重みに慣れないまま、リビングの奥へと足を踏み入れた。夫の強志がいる。いつもの笑顔はそこにはなく、挙動不審なほどそわそわと落ち着かない様子だ。
「お帰り、彩子」
強志の声は上ずっていた。目の周りは赤く、まるで何かに追い詰められているような焦りがにじんでいる。何かあったのだろうか。赤ん坊を抱き直しながら、私は強志から目を離せずにいた。
「あの……ごめんな」と強志が言いかける。だがその先の言葉を聞く前に、私は寝室の扉に目をやった。開け放たれたその先に、誰かが横たわっているのが見えた。予感めいたものがあって、私はゆっくりと扉に近づいた。強志が「待ってくれ!」と焦った声を上げるが、私は構わなかった。
扉をくぐって、私たちのベッドに視線を落とした瞬間、息をのんだ。
見知らぬ女が、シーツにくるまって、当然のように眠っている。若い女だった。どこか気だるげな雰気をまとい、髪を乱しながらすやすやと眠るその姿は、とても他人の家のベッドで寝るとは思えない堂々としたものだ。
一瞬、目を疑った。しかし現実は消えない。心臓が早鐘を打ち、足が震えた。背中に冷や汗が伝う。
「強志……この人は誰?」
振り返って訊くと、強志は蒼ざめた顔で立ち尽くしていた。口を開けたり閉じたりして、言葉を探しているように見えた。
「これは、その……火星府の美春さんだ」
火星府。確かに、住み込みの家事手伝いを頼むと前に言っていた記憶はある。だが、なぜその火星府が私たちの寝室のベッドで眠っているのか。
「美春さんが、寝室で寝るの?」
私がそう問い詰めると、強志は挙動不審に目をそらした。
「いや、それは……ちょっとした事情があって」
明らかに嘘だ。声が震えている。私の存在に気づいた証拠に、彼は何かごまかそうとしながら、部屋の隅でオロオロしている。
そのとき、ベッドの上の女がゆっくりと体を起こした。美春、と呼ばれた女だ。眠い目をこすりながら、私を見て驚いたふりをする。
「あら、お帰りなさい。まあ、お顔色が悪いこと。育児で疲れているんじゃないかしら」
言い放たれたその言葉は、挨拶とは思えないほど軽薄なものに感じられた。
強志は美春に「おい、寝てないで家事を手伝えよ」と命じる。美春は不服そうにしながらも、渋々ベッドから立ち上がり、キッチンへ向かった。その背中に、私は見覚えがなかった。何かがおかしい。はっきりとそう思った。
美春の態度は、それから急速に露骨になっていった。私が掃除をすれば、彼女はわざと部屋を散らかす。洗濯物を畳んでいると、汚れた衣類をわざと混ぜる。台所では、洗剤と間違えて食器用洗剤に漂白剤を混ぜるような仕業を繰り返す。
「あら、ごめんなさい。間違えちゃって」
そう言って笑う美春の目は、少しも笑っていなかった。強志も、美春の行動を見ても注意をするどころか、逆に私を叱ることが増えた。
「彩子、美春にきちんと教えてやらないと。俺は仕事でいないんだから、ちゃんと任せたぞ」
任せるも何も、美春は何も手伝ってはいない。むしろ私の労力を奪うことばかりしていた。食事の席では、美春が作ったという料理を強志が褒めちぎる。
「美春の料理は本当にうまいなあ。彩子の手料理よりずっと美味しいよ」
その発言に、胸の奥が締めつけられた。私は傷ついたが、赤ん坊を守るのが先だと、ぐっと堪えた。彼らに文句を言えば、ますます家に居づらくなるだけだ。
それでも耐えかねて、私はある夜のこと、居間で美春に直接言いに行った。
「ねえ、美春さん。聞きたいことがあるんだけど」
美春は携帯電話をいじったまま、面倒くさそうに顔を上げた。
「何? 急に改まって」
「あなた、強志とどういう関係?」
質問すると、美春の手が一瞬止まった。そして、口元をゆっくりと歪めた。
「どういう関係って……あなた、気づいてないの?」
その言葉に、血の気が引いた。
「何のこと?」
「私はね、強志さんの恋人よ。あなたが里帰りしている間に、正式にこの家に入ることになったの。あなたこそ、いつまでその家に居座るつもり?」
馬鹿な。体の中の血液が一瞬で逆流する感覚がした。震える手を握りしめながら、私は部屋を飛び出した。洗面所に駆け込んで、吐き気をこらえるように便器に向かった。しかし何も出てこない。
強志に問い詰めた。リビングで、美春も同席したままの話し合いだ。
「強志、本当なの? 美春さんと、その……付き合っているの?」
強志は決まり悪そうに頭を掻いた。
「まあ、そういうことだ。彩子、出て行ってくれないか。この家でやり直したいんだ。美春と」
「やり直すって……私たち、結婚してるわよ。子供がいるじゃない。赤ん坊がいるのよ!」
「それはお前が作った子じゃないか。俺は関係ない……」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
「関係ないって……どういうこと、それ?」
強志は再び口を開いたが、美春がそれを遮った。
「要するにね、その子はあんたの連れ子でしょ。強志さんの子供じゃないんでしょ? 私たち、そういうことを言っているのよ」
何を言っているのか分からなかった。
「あんた、その子を産むために実家に帰ったんじゃなかったの? 強志さんに相談もせずに」
違う。私の力で何とかしなければ。そう思って、私は勇気を振り絞って言った。
「強志、私と子供でやり直してほしい。お願い、頼むから」
すると強志は冷たい目をして、吐き捨てるように言った。
「無理だよ。もう終わったんだ。これ以上、俺に迷惑をかけないでくれ」
その場に崩れ落ちた。足から力が抜けるのを感じた。美春は勝ち誇ったように笑いながら、強志の隣に寄り添った。
「ほら、早く帰ったら? 出るなら今よ」
彼らの言い分も、もはや逃げ道も見つからなかった。私は自分の部屋に戻った。部屋の隅には、赤ん坊が泣いている。ベビーベッドの中で、両手を伸ばして泣きわめいている姿を遠くから見つめた。強志の言う理不尽さと、美春の言い分、そして目の前の現実。
私はゆっくりと歩み寄り、赤ん坊を抱き上げた。あやしながら、冷たい床に座り込んだ。
「大丈夫。ママがいるから」
そう何度も呟いた。夜は更け、窓の外では雨が降り始めた。
その夜、私は決心した。次の朝、一番に両親に電話をした。
「お母さん、もしもし。うん、ちょっと相談があって……実は……」
電話越しの母は、私の声を聞くなり「何かあったの?」と真剣な声に変えた。私は震える声で、簡潔に状況を話した。強志が女を連れ込んでいること、家事を一切しないこと、赤ん坊を否定されたこと。
「そんなことが……! 強志さんがそんなことを?」
「お母さん、私、どうすればいいのか分からないの……」
「あなたを救う方法を探すわ。まずは荷物をまとめて、子どもを連れて早く家を出なさい」
いや、待って。お母さんの言う通りにする前に、私は彼らにやるべきことがあることを思い出した。
「お母さん、少し時間をくれない? もう一度ちゃんと話し合ってみるから」
「彩子!」
母の声を遮って電話を切った。私は眠れぬ夜を過ごし、何度も何度も考えた。何の罪もない赤ん坊のために、この家で踏ん張ることも、出て行くことも、どちらも正しいようでいて、どちらも間違っているように思えた。
翌日、午前中。美春は不在で、強志がリビングで新聞を読んでいた。私は赤ん坊を抱きながら、向かいに座った。
「強志、聞いてほしいの」
彼は面倒くさそうに顔を上げた。
「何だよ、まだ文句があるのか」
「私、この家を出て行くつもりはない」
「は?」
「美春さんには出て行ってもらうか、話し合いで決着をつけましょう。あなたを裏切ったことはしていないし、私だって一生懸命やってきた」
言い切ると、強志は新聞を丸くたたんでソファに叩きつけた。
「うるさいな! 何が『一生懸命だ』! お前は最初から何も分かってないんだよ!」
そう言い残して、強志は家を出て行った。
残された私は、赤ん坊をなだめながら、窓の外を見た。遠くの空は曇り空で、晴れる気配がない。
その一週間後、私はある書類をもって、区役所を訪れていた。強志の給料から3厘でもいいから、生活費を計算するためではない。養育費を強制的に払わせるための申し立てだった。いや、違う。事実はもっと重い。私は、家を追い出される前に、この家を出て行くために、自分の居場所を確保するための行動を取らなければならなかった。
区役所を出た後、私は実家の住所に向かった。もう家に居続けることはできなかった。赤ん坊にミルクを飲ませながら、私は美春と強志に言った。
「分かったわ。出て行く。それでいいんでしょ」
美春は笑顔を見せた。
「やっと分かったの? 遅いわよ」
「ええ、もうあんたと住む気はないから」
強しは無言だった。それが答えだ。
それから数日後、私は必要最低限の荷物と、赤ん坊のものをまとめて家を出た。そして実家でしばらく暮らすことになった。
母は抱きしめて「よく帰ってきた」と言ってくれた。父も温かく迎えてくれた。家族の前では強くいられた。
しかし母は言った。
「でもね、彩子。それでいいの? こっちが何も出て行かなくてもいいのよ。あっちは犯罪行為をしているんだから」
「何の犯罪?」
「分からないけど、居座ってる女たちは不法侵入よ。あなたが告訴して、追い出せばいい」
確かに、その通りかもしれない。だが、私は子供のために権利を主張し続けるよりも、安全な方を選んだ。争いごとはあまりしたくなかった。強しの暴力を受けないうちに離れることが、賢明だと思った。
それから数年、私はシングルマザーとして働きながら、子どもを育てて育児に追われる日々を送った。つらいこともたくさんあったが、子どもが幸せそうに笑う姿を見ると、何とかやってこられた。
ある日、郵便が届いた。あて名を見て、思わず動きが止まった。強志からだった。何か用事だろうか。恐る恐る封を開けると、そこには簡単な文が書かれていた。
「君が出て行った後に、美春も出て行った。今は一人だ。会って話せないか」
便りはそれだけで終わっていた。しかし私には、この手紙に従う気はなかった。もう戻らない。それを読み終えた後、私は手紙を細かく破り、ゴミ箱へ捨てた。
「もう、あの男は私の人生にはいらない」
そう呟き、我が子の隣で、穏やかに眠る日常を感じながら、私はそっと笑みを浮かべた。あの頃の傷はまだ癒えてはいないけれど、私は私の道を歩んでいく。その積み重ねが、今の幸せなんだと信じている。
