「もう一度家族に戻れないか。一緒に暮らしてくれないか」——離婚して三年、元夫の修二が私の前でそう言った。私はしばらく黙ってから聞いた。「今さら、どうして」。彼は震える声で「失って初めてわかったんだ。俺はお前たちを愛してた」と答えた。私は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、ずっと心の中にあった言葉を返した。「それを、どうして家族だった時に言ってくれなかったの」。三十年前に結婚し、作家になる夢…

「もう一度家族に戻れないか。一緒に暮らしてくれないか」——離婚して三年、元夫の修二が私の前でそう言った。私はしばらく黙ってから聞いた。「今さら、どうして」。彼は震える声で「失って初めてわかったんだ。俺はお前たちを愛してた」と答えた。私は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、ずっと心の中にあった言葉を返した。「それを、どうして家族だった時に言ってくれなかったの」。三十年前に結婚し、作家になる夢...

「もう一度家族に戻れないか。一緒に暮らしてくれないか」

離婚して三年。元夫の修二は私の前でそう言った。私はしばらく黙ってから聞いた。

「今さら、どうして」

夫は震える声で言った。

「失って初めてわかったんだ。俺はお前たちを愛してた」

私は笑わなかった。怒りもしなかった。ただ、ずっと心の中にあった言葉を返した。

「それを、どうして家族だった時に言ってくれなかったの」

これは、家族を失って初めて愛に気づいた夫と、もう二度と同じ場所には戻らないと決めた妻の話である。

私の名前は直美、五十八歳。元夫の修二とは三十年前に結婚した。一人息子の公平は今二十七歳になる。修二は昔から作家になるのが夢だった。結婚した頃は小さな出版社で働きながら、夜になると小説を書いていた。私はそんな夫が好きだった。夢を語る時だけ、子どもみたいに目を輝かせる。いつか本を出す。直美と公平に楽をさせるから。私はその言葉を信じた。

生活は決して楽ではなかった。夫は働きながら書き続け、私はスーパーでパートを始めた。家賃、食費、保育園代、息子の学用品。毎月、少しずつお金は消えていった。それでも私は夫の夢を応援していた。

ところが、息子が小学校に上がった頃、夫は突然言った。

「会社をやめる」

私は驚いた。

「どうして」

「本気で書かないと、一生このままだ。俺は作家になりたいんだ」

私は反対した。でも夫は「俺の人生だ」と言い、「俺なら作家になれる」と言って会社を辞めてしまった。それから家計を支えたのは、ほとんど私だった。昼はスーパー、夕方は弁当屋。休みの日には近所の清掃の仕事もした。一方の夫は、朝から喫茶店に行き、夜まで小説を書いていた。

もちろん、何もしなかったわけではない。雑誌に短編が載ったこともある。小さな賞の最終候補に残ったこともある。でも生活できるほどのお金にはならなかった。それでも夫は言った。

「あと少しなんだ。次こそ行ける。これから作家として忙しくなるぞ」

その「あと少し」を、私は二十年以上待った。

息子の授業参観の日。「締め切りがある。今大事な時なんだよ」と言って、夫は来なかった。息子の運動会の日は、朝だけ顔を出して「いい場面が浮かんだ」と言い、途中で帰った。息子の高校受験の日、私は朝から弁当を作り、駅まで送った。夫は前の晩まで起きていたせいで、眠っていた。息子が寂しそうにしていても、私は夫をかばった。

「お父さんは夢を追ってるから。きっといつか、全部報われるから」

でも一番苦しかったのは、夫が家族を愛していないように見えたことではない。夫は家族を愛しているつもりだったこと。家族のためではなく、自分のためしか考えていなかったことが、一番悲しく苦しかった。

夫は私の誕生日に時々花を買ってきた。息子が熱を出せば、心配そうに様子を伺っていた。でも、家族が本当に必要としている時には、いつも自分の夢を優先していた。

ある夜、私は夫に言った。

「少しだけ私の話を聞いて。大事な話なの」

夫はパソコンから目を離さず答えた。

「今じゃなきゃだめか。集中してるんだ」

その言葉を聞いた瞬間、何かが覚めた。私は話したかっただけ。パート先で人が減って仕事が倍になったこと。母の体調が悪くて病院に付き添っていること。息子が大学をやめようか悩んでいること。でも夫にとっては、私の話より原稿の方が大事だった。

そして、息子が無事に大学を卒業した年、私は夫に離婚を切り出した。

「もう疲れた。終わりにしましょう」

夫は本気で驚いていた。

「何がどうしたんだ、いきなり」

その一言で私はわかった。この人は本当に何も見ていなかったんだと。

「俺は浮気もしてないし、暴力も振ってない。家族を捨てたこともないだろう」

「そうね。でも、家族の中にいたこともなかった」

夫は黙った。

離婚の話は半年かかった。夫は何度も言った。

「これから変わる。もっと家のことをする。話も聞く」

でも私には響かなかった。なぜなら、それは私が二十年間言い続けてきたことだったから。夫は、私が言ってきたことをようやく自分に置き換えて言っているだけだった。

結局、私たちは離婚した。家は売り、残ったお金を分けた。私は小さなマンションへ移り、一人暮らしを始めた。寂しくないと言えば嘘になる。でも、家に帰って夫の機嫌を伺う必要もない。夕食を作って、覚めるまで待つこともない。自分の好きな時間に好きなものを食べる。そんな小さな自由が、こんなに楽だとは思わなかった。

一方、夫は一人になっても作家を諦めなかった。でも思うような結果は出ない。それでも書き続けた。

それから二年後、夫の父親が亡くなった。私は葬儀には行かなかった。でも、息子から後で聞いた。亡き父の部屋を片付けていた時、夫は一冊の古いノートを見つけたらしい。そこには、亡くなった父が家族に言えなかった言葉が書かれていた。

「仕事ばかりで妻と息子を寂しくさせた。いつか時間ができたら埋め合わせるつもりだった。でも、そのいつかは来なかった」

夫はその文章を何度も読んだそうだ。そして気づいた。自分がずっと嫌っていた父親と同じ生き方をしていたことに。

夫はよく父親のことを責めていた。家にいても仕事の話ばかりだった。母さんの話なんかろくに聞かなかった。俺は絶対にあんな夫にはならない。でも、そんな夫も、家族のそばにいながら自分の世界の中だけで生きていた。そのことに気づいたのは、家族を失った後だった。

ある日、息子から電話があった。

「母さん、父さんと会ってくれないか。そろそろ父さんを許して、会ってやってくれよ」

私は断ろうとした。でも、息子の声が少しだけ寂しそうで、一度だけ会うことにした。

待ち合わせ場所に現れた夫は、以前よりずっと老けて見えた。夫はしばらく黙っていた。そしてようやく言った。

「ごめん」

私は何も答えなかった。

「俺、ずっと家族のために夢を追ってたと思ってた。成功すれば全部返せると思ってた。でも違った。家族が欲しかったのは、いつかの成功じゃなくて、その時の俺だったんだよな」

私は静かに頷いた。夫は泣いた。三十年一緒にいて、初めて見た涙だった。

「もう一度、家族に戻れないか」

私はしばらく黙ってから言った。

「それを、どうして家族だった時に言ってくれなかったの」

夫は何も言えなかった。私は続けた。

「あなたが悪い人だとは思ってない。私も、楽しかった時間まで否定したくない。息子が生まれた日。三人で旅行した日。あなたの小説が初めて雑誌に載って、三人で喜んだ日。全部、大事な思い出よ」

夫は顔を上げた。

「じゃあ……」

「でも、もう戻れない。あの時、あなたは夢を選んだ。私はそれを止められなかった。今さら、あなたの背中を追いかけることはできないの」

夫は何度も「ごめん」と繰り返した。私は首を振った。

「謝らなくていい。あなたの夢を応援していた気持ちは、今も本当よ。でも、それは愛とは違った。私は、あなたの夢の二番手でいるのに疲れたの」

私たちは、その日を境に会わなくなった。私はマンションで一人、静かに暮らしている。息子は時々顔を見せに来る。公平が結婚して、孫が生まれたと聞いた時は、本当に嬉しかった。夫から何か連絡があったとは聞いていない。息子も、父の話はもうあまりしなくなった。

ある日、私は古い段ボール箱を整理していた。その中に、夫が昔、初めて小説を載せた雑誌が出てきた。ページをめくると、家族の写真が挟まっていた。息子が小さくて、三人で海に行った日の写真。夫も私も若くて、みんな笑っている。私はその写真をしばらく見つめて、そっと箱に戻した。そして、今日は何の日だったかと思い出す。何の日でもない、ただの日だ。私はコーヒーを淹れ直して、テーブルに着いた。窓の外では、優しい日差しが降り注いでいる。その光を、私は何の気兼ねもなく眺めていられることが、ただ嬉しかった。

「さよなら、修二。あなたが夢を見ることは、もうしない。私は私の人生を、これからは自分で歩いていく」

私はカップを手に取り、一口飲んだ。コーヒーは、ほどよい温かさだった。

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