二十年前、夫の優馬と結婚した日、五歳だった連れ子のあみを私は心から家族として迎え入れた。あみの実母は既に他界していて、幼い彼女の母親になることを決めるのは、正直かなりの覚悟が必要だった。優馬と付き合い始めてすぐにその存在を知らされた時は驚いたけれど、私は前向きにあみの母になることを選んだ。最初は恥ずしそうにしていたあみも、時間が経つにつれて私に懐いてくれ、明るく元気に遊んでくれるようになった。夫と何度も話し合い、あみの気持ちを最優先にしようと決めた。そしてプロポーズの時、私が「あみの母親になりたい」と伝えると、あみは「いいよ」と笑ってくれた。あの小さな口から「家族が増えて嬉しい」と言ってもらえた時は、本当に胸が熱くなった。こうして私たちは三人で新しい家族としての一歩を踏み出したのだ。
結婚してからは、夫の希望もあって私は仕事を辞め、専業主婦として家族を支える毎日を送るようになった。元々仕事が好きだった私にとって、キャリアを手放すのは少し寂しかったけれど、それ以上に家族の幸せを優先したいと思った。夫は残業が多く出張も多い仕事だったため、私が家にいてあみの寂しさを少しでも埋めてあげたいという思いもあった。あみが小学生の頃は、帰ってくると学校であった出来事を嬉しそうに話してくれた。些細なことでも全部報告してくれるあみの姿が、私はただただ愛おしかった。夫がいない日は二人で買い物に出かけたり、あみの好きなご飯を作ったりして、少しずつ本当の親子の絆を育んでいるのだと感じていた。
しかし、その幸せな日々は、あみが中学生になった頃から少しずつ音を立てて崩れ始める。最初は態度が冷たくなり、口数が減った。小学校まではあんなに話してくれていたのに、何を聞いても無視されるようになったのだ。最初は反抗期なのだろうと思い、「時間が経てば元に戻る」と自分に言い聞かせていた。しかし、その態度はどんどんエスカレートしていき、ついには私が話しかけると冷たい目つきで睨みつけるようになった。何か私が怒らせるようなことをしたのだろうかと、毎日悩んだ。だが、決定的だったのは、あみが私にだけひどい態度を取るということだった。夫の前では今まで通り優しく話しかけてくるのだ。まるで何かを演じているかのように。夫に相談しようと思ったが、夫の前でのあみの態度を見ている以上、信じてもらえるかどうか分からず、結局言い出せずにいた。
このままモヤモヤしているよりはっきり聞いた方がいいと思い、私は勇気を振り絞ってあみに話しかけた。
「ねえ、あみ。最近私のことを冷たくしない?何かあみを怒らせるようなことしちゃったかしら」
なるべく優しく、機嫌を損ねないようにそう聞いてみた。すると、あみは面倒くさそうな顔をして、ふん、と鼻で笑った。
「はあ?家族でもないのに、母親ぶらないでくれる?」
その言葉に、私は頭の中が真っ白になった。冗談だと思った。だって、ついこの間まで一緒に笑い合っていたのに。
「どうして急にそんなこと言うの…前は仲良くしてくれてたじゃない」
震える声でそう言うと、あみはケラケラと笑いながら追い打ちをかけた。
「あれは気を使ってただけだし。私、今まで一度もあんたのことを母親だと思ったことないから」
そう言い放って、あみは楽しそうに笑いながらその場から立ち去っていった。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。夢であってほしかった。あの日から、あみは私の前で完全に本性を現すようになった。
「あんたは母親じゃなくて、ただの家政婦だから」
あみは毎日のようにそう言って、私に冷たく命令してくる。皿洗いを押し付けるように頼み、掃除や洗濯も文句ばかり言う。私はどうしたらいいのか分からず、あみの不機嫌そうな顔を見るのが怖くなってしまった。夫に相談しようと思ったが、夫の前であみはまた優しい娘を演じるのだ。夫に何か言ったら許さないと口止めもされている。私が何か言えば、あみが夫に「お母さんにひどいことを言われた」と嘘をつくのが目に見えていた。私はどうすることもできず、毎日あみの悪口に耐え、言われるがままに従うしかなかった。
あみが幼い頃に母親を亡くしているということもあり、私は「仕方がないのかもしれない」と自分を言い聞かせた。変わらずに愛情を注ぎ続ければ、いつか分かり合える日が来るかもしれない。そう信じたかった。優馬の仕事は以前より忙しくなり、家にいる時間が減っていた。二人きりの時間が増えるほど、あみの態度はエスカレートしていく。それでも私は、あみとの結婚式の日を楽しみにしていた。花嫁姿を見られることが、心から嬉しかった。色々あったけれど、やっぱり私の娘には変わりない。そう思っていた矢先のことだった。
ある日、あみが突然私に言った。
「ねえ、もしかして結婚式に来るつもり?」
その口調は、まるで何か当然のように軽いものだった。私は息を呑んだ。
「来るつもり、って…当たり前でしょ?あなたの晴れ姿を見たいわ」
精一杯の笑顔でそう答えた。しかし、あみは冷めた目をして私を見つめ返した。
「来ないでくれる?あんたに来られたら、せっかくの結婚式が台無しだから」
私はその言葉が信じられなかった。二十年間、実の娘のように育ててきた。食事を作り、学校行事にも行き、泣いている時は抱きしめた。なのに、この子は何てことを言うのだろう。
「あみ…そんなこと…」
「あんたは私の母親じゃないって言ってるの。分からない?あんたがいたから、私はどれだけ辛い思いをしたと思ってるの。お父さんに気を遣って、優しい娘を演じるのがどれだけ大変だったか」
あみの言葉は、一つ一つが刃のように私の心に突き刺さった。何も言い返せずにいると、あみは私の返事を待たずに足音を荒らげて自室へと戻ってしまった。私はその場にしゃがみ込み、声を殺して泣くことしかできなかった。
それでも、私は諦められなかった。もしかしたら、何か勘違いをしているのかもしれない。何か取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。何とかしてあみと話し合おうと、何度も試みた。しかし、あみは私の姿を見ると舌打ちをし、目も合わせようとはしなかった。優馬に話すことも、恐くてできなかった。優馬は今も私に優しく、私は何の不自由もなく過ごせている。だけど、その生活はあみの悪意の上に成り立っていたのだ。
結婚式の前日、あみは私に言い渡した。
「明日は私の顔を汚さないでよ。どうせ来るんだったら、端っこの方でおとなしくしてなさいよ。誰にもお母さんだって言わないで」
私はただ黙って頷くことしかできなかった。明日が来なければいいのに。そんな現実逃避のような気持ちを抱えながら、私は式場へと足を運んだ。
式が始まり、あみが美しい白いドレス姿で入場してきた。本当に綺麗だった。あみが笑顔でいるのを見るのは久しぶりで、私はこみ上げるものを必死で抑えていた。しかし、その幸せな雰囲気が一変したのは、披露宴の中盤に差し掛かった時だった。乾杯が終わり、友人代表のスピーチや余興が進む中、司会者の進行で、新郎新婦の両親への謝辞や花嫁の手紙の時間となった。壇上でマイクを握ったあみは、一呼吸置いてゆっくりと口を開いた。
「今まで育ててくれた両親に感謝しています。特に…」
私は固唾をのんで見守った。あみが私の名前を口にする。そう思った瞬間だった。
「私は、実のお母さんじゃない人に育てられてきました。義母です」
一瞬、会場の空気が凍った。ざわりと動揺が広がる。あみは続けた。
「私は小さい頃から、この義母にずっと耐えてきました。実の母親としての愛情を求めてはいけないと思い、我慢してきました。義母は、お父さんに気に入られようと、私の前では優しいお母さんのふりをして」
会場から、ひそひそという声が漏れる。私のことを見る視線が痛い。頭がくらくらする。違う、違う、あみ、何を言っているの。思わず立ち上がりかけたが、足が動かなかった。
「この人が私に言ったんです。『あんたの実の母親なんて、どうせあんたを捨てたんだろう』って。ずっとずっと言われてきました。私は悲しくて悲しくて、何度も泣きました。そんな義母が、今日の結婚式にも当然のように来ています」
あみは、まっすぐに会場の端に座る私の方を指差した。全員の視線が一斉に私に集中する。責めるような目、好奇の目、侮蔑の目。私にそんなことを言ったことなど、一度もない。それどころか、私はあみの実母を一度も悪く言ったことはなかった。だけど、そんなことは誰も知らない。私は必死に首を振ったが、声にならない悲鳴が喉の奥で渦巻くだけだった。
「あんたに、母親の資格はない」
あみの一言で、会場は完全に水を打ったように静まり返った。夫の優馬も、驚きと困惑の表情で私を見ている。義両親たちも、何が何だか分からずにおろおろしている。私はただ、その場に立ち尽くすしかなかった。涙すら出てこなかった。二十年間の歳月が、この瞬間にすべて無意味に塗りつぶされていくようだった。
その時だった。
「ふざけんな!!!」
鋭い怒号が、凍りついた会場に響き渡った。今の声は誰だ。全員が声のした方へと振り向いた。席を勢いよく立ち上がったのは、新郎の親族のテーブルに座る一人の若い女性だった。彼女は、肩を震わせながら、怒りで表情を歪めて壇上のあみを睨みつけている。見たところ、あみと同じくらいの年の頃だった。私は誰だか分からなかったが、隣に座っていた夫の優馬が、その女性を見て息を呑んだ。
「…理沙…?」
そう言ったのだ。その女性は、テーブルを押しのけて歩き出すと、壇上に上がることもせず、あみの方をまっすぐ見据えた。
「今、何て言った?もう一度言ってみろ」
その言葉に、あみは一瞬怯んだようだったが、すぐに態度を変えた。
「何よ、あなたには関係ないでしょ。誰、あなた」
「誰だと思います?私、理沙と言います。この男の、花嫁の旦那さんの元彼女です」
会場がどよめいた。新郎は真っ青になって立ち上がる。
「り、理沙!何を言うんだ!」
「黙ってて。私があなたの本性を全部話すから。聞いてください、皆さん。この新郎はね、つい最近まで私と付き合ってたんです。なのに、妊娠したっていうから結婚しようって言って、その腹を確かめるために結婚するって言った男なんですよ」
新郎が何か言おうとするが、理沙という女性は構わず続ける。
「私はあなたに捨てられて、堕ろすように言われた。この男、金持ちの女なら誰でもよかったんです。そして、この花嫁も、旦那さんの金が目当てなんでしょ?だって、この新郎、実は多額の借金があるんですよ。私が調べて分かってる。どうです、奥さん、あなたが義母さんをいじめてるって噂、私の友達から聞きましたよ。逆に、義母さんがあなたにどれだけ尽くしてきたか、知ってますか?」
あみは言葉を失い、顔を青ざめさせた。新郎も何か言おうとしているが、言葉が出てこない様子だ。
「私はね、あなたに言われたこともないこと、私にされたこともないことを話してるんじゃない。あなたが今やったことが、どれだけ人を傷つけることか、よく分かってる。私も、あなたと同じようにやったことがあるから。親を恨んで、周りの人を傷つけて、何もかも失ったことがあるから。言っておくわ。あなたが今からその結婚を続けても、絶対に幸せになれない。なぜなら、あなたは一番大事なものを自分から捨てたから」
そう言い放つと、理沙は壇上のあみを一瞬見つめ、そして私の方を向いて、ほんの少しだけ微笑んだ。私は何が起きたのか、全く理解できなかった。ただ、会場が先ほどの静寂とは違う、重い沈黙に包まれていることだけは分かった。あみはプルプルと震えていて、新郎は何も言えない。優馬も立ち上がって何か言おうとしている。
すると今度は、新郎側の母親らしき女性が立ち上がった。
「ちょっと待ってください、お義姉さん。今の話、本当ですか?うちの息子に借金があるって…それに、この方の言うことは本当なの?」
この一言で、会場は一気に喧騒に包まれた。新郎は「ち、違います!この人、ストーカーなんです!」と必死に言い訳を始めるが、全く言い訳になっていない。あみは真っ青な顔で新郎を見て、声を震わせた。
「え、何…借金って、何?あなた、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「あみ、落ち着け!こいつの言うことを信じるのか?」
「信じるも何も、借金があるの?ないの?」
会話がかみ合わない。もはや披露宴は完全に台無しだった。私の頭はパンクしそうだった。あみが私にしたこと、そして、今起きているこの混乱。何が何だか分からない。私はそのまま気を失うように意識を手放してしまった。
次に気が付いた時、私は式場の控え室のソファに横たわっていた。慌てて起き上がると、そこには優馬がいた。心配そうな顔で私の手を握っている。
「舞、大丈夫か?」
「…あみは? あみはどこ?それに、あの人は?」
「落ち着け。あみは、今はちょっと外に出てる。…あの人のことは、すまなかった。まさか、あんなことになるなんて」
優馬は、申し訳なさそうにうつむいた。どうやら、私が倒れた後、新郎とあみの口論が始まり、最終的には新郎が借金と浮気が発覚し、あみが新郎を激しく責めたことで、新郎側が怒り出して、結婚式は中止になったらしい。新郎は「こんな嫁いらない」と言い放って、新郎側の親族を連れて会場を去っていったのだそうだ。
「結婚式、中止になったの…」
「ああ。あみには、新郎側から慰謝料請求でも何でも好きにさせろ、って伝えた。こんな男、こっちから願い下げだって」
優馬は疲れた顔でそう言った。私は何と言っていいのか分からなかった。嬉しいはずなのに、全然嬉しくない。あみがかわいそうだとは思わないけれど、胸がチクリと痛んだ。あみは、自分の選んだ道で幸せになりたかったのだろう。なのに、私は何もしてやれなかった。
それから暫くして、あみが控え室に戻ってきた。化粧が涙でぐちゃぐちゃになって、髪も乱れていた。私を見るなり、あみは足を止めた。そして、顔を伏せて、小さな声で言った。
「…お母さん…」
その一言に、私の心臓がどきりと跳ねた。あみが「お母さん」と呼んだのは、あの日以来、初めてだった。
「あみ…」
「…ごめん、なさい。私…ずっと間違ってた。お母さんにひどいこと言って…。お父さんと結婚してくれて、私のことを本当の娘のように育ててくれて…。なのに私…」
あみはぽろぽろと涙を零した。私は何も言わずにあみを立ち上がらせて、ゆっくりと抱きしめた。
「いいのよ。…私こそ、ごめんね。あなたの気持ちを分かってあげられなくて」
「ううん…。私、ちゃんとお母さんのこと、見えてなかった。……でも、あの人が全部嘘を言ってたって分かったの。お母さんが私の実の母のことを悪く言うはずがないって。……私、これからはちゃんと、本当の親子になりたい。……もう一度、お母さんって呼んでもいい?」
私の胸の中であみがそう言った。私は涙でぼやけた視界の中で、優馬を見た。優馬も目を潤ませて、静かに頷いた。
「…もちろんよ。あなたは、私の大切な娘だから」
私は、あみの頭をそっと撫でた。二十年前と同じように、今度は娘として私の胸に飛び込んできたあみの頭を。心のわだかまりが、少しずつほどけていくような気がした。結局、私たちはその日、会場をあとにした。家に帰ると、あみは真っ直ぐに自分の部屋ではなく、リビングのソファに座って、今日のことを話し始めた。
「お母さん、私…、今日から、この家を出て行こうと思う」
その言葉に、私はまた驚いた。
「どうして…」
「だって、私がいたら、お母さんに迷惑をかけるし。それに…、今日のこと、思い出すのも嫌だし…」
「そんなこと言わないで。私はあなたを迷惑だと思ったことなんてない。それに、出て行く必要なんてない」
「あみ、父さんも、お前のことは大事な娘だと思ってる。今日からやり直せばいいんだ」
優馬もそう言ってくれた。あみは少し迷っていたけれど、うつむいて、小さく頷いた。そして、またゆっくりと顔を上げて、私を見た。
「…ありがとう。お母さん」
その日から、あみはゆっくりとではあるけれど、確実に私と向き合ってくれるようになった。一緒に料理をしたり、テレビを見て笑い合ったりする時間も増えた。あの日、式場で起きたことが何だったのか、理沙さんが本当に何を考えてあの場で話をしたのか、全ては分からない。でも、あの場にいた誰かがあの真実を暴いてくれなければ、私たちはいつまでも嘘の親子のままだったかもしれない。あみを失っていたかもしれない。そう思うと、理沙さんには感謝している。そして、あみが自分の幸せをちゃんと考えられる大人になれるように、私はもう一度、母親として、娘と向き合っていこうと決めたのだった。
