「お母さん、結婚式のお金、あと300万円お願い。」
娘のリナにそう言われた私は、通帳ではなく、一枚の離婚届をテーブルに置いた。
「そのお金なら、お父さんに頼みなさい。」
「何を言ってるんだ?」
夫の哲夫が立ち上がった。
「うちには貯金があるだろう。それに、なんだこの離婚届は?」
私は引かなかった。
「ないわよ。お父さんの葬式に使って、次は結婚式のお金。私が貯めたお金を、何だと思ってるのよ。」
そして、私は夫を見た。
「あなた、私に隠し事してるわよね。」
夫の顔から、一瞬で血の気が引いた。
これは、家族のために老後資金を削り続けた妻が、最後に自分の人生を取り戻した話です。
私の名前はよ子、58歳。夫の哲夫とは結婚して32年になる。私たちには、29歳になる娘のリナがいた。
夫は昔からお金に無頓着な人だった。欲しいものがあれば買う。飲み会に誘われれば断らない。家計が苦しくても、なんとかなるさ、というのが口癖だった。
だから私は、夫の退職後に困らないよう、少しずつ貯金を続けた。スーパーでは値引き品を選び、服は何年も同じものを着た。友人に旅行へ誘われても、「今は忙しいから」と断ったりもした。
本当は、一度くらい夫婦で温泉へ行きたかった。でも、老後に子供の世話にならず、夫婦二人で穏やかに暮らすこと。それが私の夢だった。
20年以上かけて貯めたお金は、720万円。通帳を見るたびに、私は少しだけ安心できた。年金と少しの貯金、そして家。裕福ではないけど、暮らしていける。そう思えた。
ある日、義父が亡くなった。夫は長男。実感が湧く前に、葬儀の準備を急いだ。
葬儀場との打ち合わせで、夫は一番高いプランを指さした。
「父さんの最後なんだ。立派に送ってやりたい。」
見積もり額は、180万円。
「家族葬で十分じゃない?」
私がそう言うと、夫は露骨に顔をしかめた。
「長男の俺が、質素な葬式を出せるかよ。でも、お母さんにも少しは出してもらえるでしょ。」
すると、義母のフミエは、涙を拭いながら言った。
「私にはお金なんてないわよ。息子夫婦が出すものでしょ。」
結局、夫は私に相談もせず、その葬儀を決めた。支払いに使われたのは、私が貯めた老後資金だった。720万円あった残高は、540万円になってしまった。
それから3ヶ月後、娘のリナが結婚すると報告に来た。相手は誠実そうな青年で、私も心から嬉しく思った。
ところが、リナが見せた式場の資料には、350万円という金額が書かれていた。
「こんなに高いの?」
私が驚くと、夫は笑っていた。
「一人の結婚式だぞ。盛大にやればいい。」
「でも、二人の貯金もあるんでしょ。」
「お父さんが200万円は出してくれるって。」
リナの言葉に、私は夫を見た。そんな話は、初めて聞いたからだ。
「あなた、勝手に約束したの?」
「娘のためだろう。老後の金を少し使ったって、バチは当たらない。」
私は反論した。
「少しじゃないわ。お葬式でも使ったばかりでしょう。」
すると、夫は不機嫌そうに言う。
「金がうるさいな。家族の祝い事より、通帳の数字がそんなに大事なのか。」
その言葉に、リナまで悲しそうな顔をした。私は悪者になるのが嫌で、何も言えなくなった。
その頃、私はスーパーの品出しとして週4日働いていた。ところが、店の閉店が決まり、突然パートを失った。月8万円ほどの収入だったが、家計には大きな支えだった。
それでも、夫はどこか他人事だった。
「また探せばいいだろう。58歳で、すぐに見つかると思う。俺が働いてるんだから、焦ることないさ。」
そう言っていた夫が、1ヶ月後、暗い顔で帰宅した。
「会社が危ない。来月でやめることになった。」
私は耳を疑った。
「退職金は?」
「会社に金がないんだ。ほとんど出ない。」
住宅ローンは残り4年。娘の結婚式も控えている。さらに、義母のフミエが「一人では不安だ」と、私たちの家へ転がり込んできた。
フミエはお金がないという割に、毎日のように通販で買い物をしている。高級な化粧品、健康食品、1万円以上する下着。
「少し控えてください。」
私がお願いすると、フミエは鼻で笑った。
「年寄りに我慢させるなんて、冷たい嫁ね。」
夫も、「母は父さんをなくしたばかりだ」と、かばうだけ。
夫は無職。私はパートを失い、義母との生活費まで増えた。それでも、夫は娘に約束した200万円を取り消そうとしなかった。
「もう無理よ。貯金がなくなる。娘に恥をかかせる気? 私たちの老後はどうするの?」
「老後老後って、まだ先の話だろ。」
私はその言葉を聞いて、愕然とした。夫は61歳。老後はもう目の前だった。
そんなある日、夫のスーツを整理していると、内ポケットから見慣れない銀行の封筒が出てきた。
中には、残高通知が入っていた。そこに記されていた金額は、1260万円。
最初は何かの間違いだと思った。しかし、口座名義は間違いなく夫の哲夫。
私は震える手で明細を確認した。2ヶ月前、会社から1400万円が振り込まれ、その直後、140万円が別の口座へ送金されていた。
夫は、会社の倒産で退職金が出なかったわけじゃない。希望退職に応じて、多額の退職金を受け取っていたのだ。
私はその夜、何も知らないふりをして尋ねた。
「本当に、退職金は出なかったの?」
夫は平然と答えた。
「ああ、会社が苦しいんだから仕方ない。」
32年一緒に暮らした夫が、まばたき一つせず嘘をつく。その姿を見た瞬間、私の中で何かが切れた。
翌日、私は銀行と弁護士事務所へ行った。夫の口座を勝手に動かすことはできない。でも、私名義の老後資金を守り、離婚に備えることはできる。
さらに調べると、夫が送金した140万円の相手は、義母のフミエだった。
私はフミエにも、何も知らないふりをして聞いた。
「お母さん、本当に貯金はないんですか?」
「ないって言ってるでしょう。」
しかし、案の定、フミエの部屋からは定期預金の証書が見つかった。金額は、800万円。
葬儀費用を出せなかったのではなく、出したくなかっただけ。夫もフミエも、自分たちのお金は守り、私が貯めた720万円だけを、家族のために使わせていたのだ。
そして、娘の結婚式の打ち合わせの日。リナは追加費用の資料を持ってきた。
「料理を少し豪華にしたくて。あと300万円、お願い。」
私は通帳ではなく、離婚届をテーブルに置いた。
「そのお金なら、お父さんに頼みなさい。」
「何を言ってるんだ? それに、なんだこの離婚届は?」
夫が立ち上がった。私は銀行の残高通知を見せた。
「退職金、1200万円も残ってるでしょう。」
リナが驚いて、夫を見た。
「お父さん、退職金はなかったんじゃないの?」
「結婚式の費用は、これで解決ね。」
夫は言葉に詰まった。
「これは、俺たち夫婦の老後のための金だ。」
私は思わず笑ってしまった。
「私が20年以上貯めたお金は家族のために使わせて、自分のお金だけは老後のため。それは、違うでしょ。」
「何が違うの?」
私は葬儀の領収書と、フミエの定期預金の写しも並べた。
「お母さん、800万円ありますよね。」
フミエの顔が引きつった。
「勝手に人のものを見たの!」
「ないと嘘をついて、私に葬儀代を払わせたんですよね。」
「嫁なんだから、それくらい当然でしょ。」
すると、見かねたリナが大きな声を出した。
「当然じゃないよ!」
全員がリナを見た。
「私、お母さんも賛成してるって、お父さんから聞いてた。」
夫は慌てた。
「リナ、これは大人の話だ。」
「私、お母さんの老後のお金を削ってまで、豪華な式なんてしたくない。」
リナは式場の資料を閉じた。
「結婚式は小さくする。足りない分は、私たちで働いて払う。」
私は胸が熱くなった。娘まで、私のお金を当てにしていたわけではなかった。夫が、私の気持ちを勝手に決め、娘にいい顔をしていただけだった。
夫は私に近づき、声を落とした。
「よ子、離婚なんて大げさだ。退職金を隠しただけだろ。」
「だけ?」
私はパートを失って、毎日お金の心配をしてた。それなのに、あなたは1200万円を隠して、私の貯金を使い切るつもりだった。
夫は黙った。
私は続けた。
「この家も売ります。住宅ローンを清算して、残った分は半分よ。お母さんとの同居も、今日で終わりです。」
フミエが叫んだ。
「私はどこへ行けばいいのよ!」
「800万円あるなら、自分で考えてください。」
夫は青ざめた。
「母さんを追い出すのか。」
「あなたが一緒に暮らせばいいでしょう。」
「俺は仕事もないんだぞ。」
「退職金があるでしょう。」
夫自身が私に言い続けた「なんとかなる」という言葉を、夫はもう口にしなかった。
その後、私は夫と離婚した。家を売却し、住宅ローンを清算。財産分与で受け取ったお金と、守り抜いた貯金を合わせると、一人で暮らすには十分だった。
夫は、義母のフミエと古い賃貸住宅で暮らし始めた。フミエは相変わらず浪費を続け、夫の退職金は急速に減っているそうだ。
娘のリナは、家族だけの小さな式を挙げた。派手ではなかったけれど、笑顔の絶えない、とても温かい結婚式だった。
式の最後、リナが私に言った。
「お母さん、自分のためにも、お金を使ってね。」
私はその言葉に背中を押され、ずっと断り続けていた友人との温泉旅行を予約した。
老後のために必要なのは、お金だけではない。一緒に笑える人と、安心して過ごせる時間も必要だ。でも、家族だからという理由で、一人だけの我慢や犠牲を当然にしていいわけではない。
私はこれから、誰かのためにではなく、自分の人生のために、大切なお金と時間を使っていく。
