結婚式当日。あれだけ何度も打ち合わせを重ね、当日を迎えるまでに何があったのか。控室の扉は、確かに私が鍵をかけたはずだった。なのに、その鍵はあっさりと開いていた。ドアノブに手をかけた瞬間、嫌な予感がしてならなかった。恐る恐るドアを開けると、そこには足の踏み場もないほどの惨状が広がっていた。私のドレス姿を彩るはずだった小物入れはひっくり返り、床には化粧ポーチの中身が散乱している。そして、何よりも私の目を引いたのは、テーブルの上に置いてあったはずの財布から、クレジットカードや現金が綺麗に抜き取られていることだった。
私の名前は早香、32歳。結婚を約束している啓介という男がいる。出会いは友人の紹介だった。周りが次々と結婚していく中で焦っていた私は、友人に泣きつくようにして紹介してもらったのが啓介だった。友人からは「別に今時結婚しなくても白い目で見られることはないよ」と慰められたが、私が結婚したいと強く思うのには、別の理由があった。私は大手の広告代理店で働いているのだが、上司から結婚していないどころか恋人がいないことさえ馬鹿にされるのだ。最初のうちは仕事以外のことに言及されることを無視していたのだが、「仕事はできても気が強いだけの女なんか、売れ残るだけだぞ」とある日、嫌味ったらしく言われたのだ。その言葉が、夜になると胸に突き刺さってどうしようもなくなった。何とかして恋人を作らなければ。そう思い立ったのがきっかけだった。
啓介は、いわゆる爽やか系のイケメンで、私にとても優しい。私の住んでいるアパートで事実上の同棲状態にあり、仕事帰りでクタクタに疲れた私をいつも労ってくれる。私が帰宅する時間に合わせて料理を作ってくれたり、平日にできなかった家事を進んでやってくれたりして、本当に頭が上がらない思いをしている。
ただ、一つだけ気がかりなことがあった。私は啓介がどういった仕事をしているのか、実はよく知らなかったのだ。啓介に言わせると、私と付き合う前までは就職していたが、長年溜まっていた職場への不満が爆発して、ついには自職してしまったらしい。今は私が多忙なことを考慮して、私の手が回らない部分の家事を率先してやってくれている。その優しさには感謝しているが、無職であるという事実がずっと引っかかっていた。
たまたま友人とランチをしている時、恋人の話になった。恋愛の話になると、友人は何かを考えるように首を傾げた。
「同棲しているなら、そのまま結婚も視野に入れているんじゃないの?」
「でも正直、就職もしないままプロポーズされたら怖いよね。働く気あるのかなって思っちゃう。」
友人の言うことは最もだった。私が逆の立場だったら、同じような助言をするだろう。私は「まあ、まだ正式にプロポーズされたわけじゃないしね」と答えて、その話題を終わらせた。
あれから一週間後のこと。仕事が終わると、啓介からディナーに誘う連絡が入った。待ち合わせに指定された場所に向かうと、最初は何かの間違いかと思った。指定された場所は、テレビでも紹介されるような超高級ホテルだったからだ。まさか私がこんな場所に来るなんて。そう思いながらも、エントランスを抜けてロビーへと足を踏み入れると、ソファーに座っている啓介が私を見つけて嬉しそうに手を振っていた。
「ちょっとどうしたの? こんな高級ホテルに待ち合わせだなんて。」
「実は、ここの最上階のレストランを予約したんだ。早香の喜ぶ顔が見たくて。」
私は驚いたが、素直な喜びよりも、この後のディナーの値段が心配になってしまった。まさか私が払うことになるのだろうか。もしそうなら、早く言ってほしい。だって、私は仕事帰りの格好のままだ。そんな私の心配をよそに、啓介は「早香は何を着ても可愛いから大丈夫だよ」と軽く言って、私をエスコートしようとする。
「ほら、早く行こう。」
そう言われては、断るわけにもいかず、私は彼の後についていくことにした。何だかんだ言って、テレビで見たことのあるような高級ホテルのレストランでの食事に、心が躍っていたのは事実だった。レストランに通されると、目の前に広がるのは美しい夜景。窓際の席に案内され、ワインで乾杯をした。ほどなくして運ばれてきたのは、これまた見た目も美しい料理の数々。私は感動のあまり、思わず声が漏れた。
「テレビで話題になっていた通り、見た目もすごいけど、味もすごく美味しいね。でも、どうしたの? こんな高級レストランで食事なんて。予約はともかく、値段だって相当でしょ。」
私がそう言うと、啓介は一度だけ目を伏せてから、真剣な顔つきで口を開いた。
「それなんだけど。実は、俺は早香には黙っていたけど、転職活動が終わりそうなんだ。」
「え、そうなの? それならお祝いされるのは啓介の方じゃん。」
「いやいや、早香には散々心配かけたし、サプライズで報告したいのもあったからいいんだよ。実は、それとは別で言いたいこともあったし。」
そう言うと、彼はジュエリーショップと書かれた紙袋を取り出し、その中から小さな箱を取り出してテーブルの上に置いた。
「俺は、早香と一緒にこの先も生きていきたいと思ってる。」
箱の中には、綺麗な指輪が入っていた。私は思わず息を呑んだ。
「さすがに、就職していないうちにプロポーズするのは良くないと思ってさ。来週からまた出勤するようになるから、早香と一緒にいるために、俺は頑張って働くよ。」
私は啓介の顔をまっすぐ見つめた。今、この瞬間、彼は私のために何かをしてくれている。私が支えられるのは、仕事だけじゃない。この人と一緒にいたい。そう思った。
「私だって、啓介のことが好きだし、一緒にいたい。こちらこそ、よろしくお願いします。」
「ああ、良かった。断られたらどうしようかと思って、昨日から気が気じゃなかったんだ。」
そう言って安堵の表情を浮かべる彼を見て、今度は私が啓介を支える番だと思った。ただ、一つだけ気になることがあった。啓介は、私の家よりも、元々住んでいた自宅の方が会社に近いと言う。だから、私の家に来る頻度は以前よりも少なくなることを申し訳なさそうに伝えてきた。
「ごめん、さやか。俺の家の方が会社に近いから、どうしてもそっちを拠点にしちゃうと思うんだ。」
「ううん、いいんだよ。その代わり、週末は一緒に過ごそうね。結婚式の準備もあるし。」
そう言うと、啓介も嬉しそうに頷いた。彼の話によると、最終職は中小企業の営業職だったらしい。無理はしないように伝え、私は新しい勤務先へと出勤していく彼を見送った。
それからというもの、週末になるたびに、私は啓介と結婚式の準備を進めていった。会場の手配、招待状の作成、引き出物の選定。彼はいつも優しく、私の意見を尊重してくれた。
「啓介、疲れてるでしょう? 私が一人でできるところは進めていくから、休んでいて大丈夫だよ。」
「いや、俺はさやかと一緒にいたいだけなんだ。だから、気にしないで。」
そう言われると、こちらが恥ずかしくなって何も言えなくなってしまう。啓介は、こういったセリフを顔色も変えずに、さらっと言えてしまうのだ。本当に、顔の良さも相まって、女心を弄んでいるのではないかと思ってしまう。
月日はあっという間に過ぎ、ついに結婚式当日を迎えた。式には、職場の同僚やお互いの両親、友人を招待した。ただ、啓介は「職場の人とはまだ知り合って時間が経っていないから」という理由で、今回は招待しなかった。まあ、そういうものなのかもしれない。私は控室で支度をし、準備を整えた。貴重品は取りあえず見えるところに置いたままにして、施錠だけして部屋を後にした。結婚式当日に、盗もうなんて人がいるわけがない。そう過信していたのは、正直なところだった。まさか、あんなことになるとは思わずに。
式の開始時刻が近づいても、一向に啓介の姿が見えない。私はスマートフォンを取り出し、彼に連絡を取ろうとした。だが、何度呼び出しても、彼は出ない。もしかして、何かあったのだろうか。そう思った時、控室にいたアテンドのスタッフが青ざめた顔で私のところへやってきた。
「さやか様、少々よろしいでしょうか。」
「どうしました?」
「控室の鍵が開いておりますが、何かご存じですか? それと、お荷物が…。」
嫌な予感がした。私は急いで控室へと向かった。そして、ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、見渡す限り散乱した部屋だった。財布は空っぽで、クレジットカードや現金が抜き取られている。私はその場に立ち尽くすことしかできなかった。そして、スタッフの案内で警備員が駆け付け、警察に通報することになった。
通報を受けた警察官が式場に到着し、私は事情聴取されることになった。警察官の話によると、場内の監視カメラに、不審な動きをする啓介の姿が映っているという。私は信じられなかった。まさか、そんなはずはない。だが、警察官が見せてくれた映像には、確かに啓介が写っていた。彼は、式の開始前に控室にこっそりと入り込み、私のバッグから財布を取り出していたのだ。
「この人物に心当たりはありますか?」
警察官に問い詰められ、私は何も言えずにうつむくことしかできなかった。やがて、警察官は冷静な口調で言った。
「式の準備を進められている最中に申し訳ありませんが、この事件について重要参考人としてお話を伺わせてください。」
その時、控室のドアが勢いよく開いた。息を切らした啓介が、そこに立っていた。彼は私を見ると、怒ったような、焦ったような、複雑な表情を浮かべる。
「ちょっと、どういうことだよ! 早香から連絡が来るから、何かあったのかと思ったら…。」
「啓介…。」
「どうして警察がいるんだ? それに、俺の名前を出して何かあったのか?」
啓介は、私を見つめたまま言った。だが、私は口を開かない。沈黙が続く中、私は彼に対してはっきりと言った。
「警察に通報したのは私よ。この部屋、荒らされていたの。財布から現金もカードも抜き取られていたわ。」
「何言ってるんだよ、それが俺と何か関係があるって言うんだ…。」
「監視カメラに映っていたの。あなたがこの部屋に入ってくる姿が。」
その瞬間、啓介の顔色が一瞬で青ざめていった。それでも、彼は必死に取り繕おうとする。
「そんなの、間違いだ! 俺は何もしていない!」
「じゃあ、なぜあなたは式が始まる前にここに来たの? しかも、私のバッグから財布を取るようにして…。」
「だから、それは…。」
啓介は言葉を濁した。私は、彼に問いかける。
「啓介、あなた、本当は仕事をクビになったんじゃないの? いや、最初からそんな仕事はなかったんじゃない? 私に隠れて、借金でも作ったんじゃない?」
その言葉を聞くと、啓介は何も言えずにうつむいてしまった。私は、震える声で続けた。
「今日、結婚式なのよ。あなたと、この結婚式を挙げるために、私は一生懸命準備をしてきたんだから。それなのに、あなたは私のお金を盗もうとしたの?」
「違うんだ、さやか! 俺は、ちょっと金に困ってて…。」
「もう、いい。」
私は、彼の言葉を遮った。警察官は、何かを悟ったように一歩前に出た。
「ご結婚おめでとうございます、と申し上げたいところですが、事情が事情なもので。」
警察官が手錠を取り出したのを見て、啓介は後ずさりした。
「待ってくれ! 俺は、さやかが好きなんだ! 本当に結婚するつもりだったんだ!」
「嘘よ。」
私は、はっきりと言い切った。
「あなたが言っていた『転職活動が終わりそう』っていうのも、プロポーズも、全部私を騙すための嘘なんでしょ? 私がどれだけあなたを信じていたか、分かっているの?」
その瞬間、啓介の顔から感情の色が消えた。そして、下卑た笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
「へっ、バレてたのかよ。」
「…やっぱり、そうだったのね。」
「ああ、そうだよ。俺はな、金づるになる女を探してたんだよ。仕事は辞めてやったし、これからどうやって食っていこうかと考えた時、お前みたいな世間知らずで、結婚に焦ってる女がいるって聞いてな。適当に言い寄ってりゃ、そのまま引っかかってくれると思ったんだが、まさか警察を呼ぶとはな。」
私は、啓介の豹変ぶりに言葉を失った。たった数分前まで、私に優しかった男が、今は見知らぬ他人のようにしか感じられない。
「婚約者を騙すような奴に、無職でブラブラしてる奴に、何が分かるの? 私の気持ちも知らないで。」
「気持ち? はっ、お前こそ、顔がいいからって調子に乗ってるんじゃねえよ。彼氏がいないからって焦って、俺みたいな男に引っかかってるような女の気持ちなんざ、知ったこったねえよ。」
私は、警察官の方を向いた。
「この人を、窃盗の現行犯でお願いします。」
「ええ、承知しました。」
そう言って、警察官が啓介に近づこうとした瞬間、啓介が突然、走り出した。ドアの外へと逃げようとする。だが、待ち構えていた別の警察官が、その前に立ちはだかった。
「逃がすか!」
啓介は反転し、窓へと向かう。だが、そこは二階。飛び降りられるはずもない。追い詰められた啓介は、壁に背中をつけてこちらを睨みつけた。
「くそっ…。」
「観念しなさい。」
警察官が手錠をかけると、啓介は力なくその場にうずくまった。私は、その光景をただ見つめることしかできなかった。式場には、緊張が走っていた。私を迎えに来た友人たちも、何が起こったのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしている。
私は、警察官に付き添われて、控室を出ようとした。その時、迎えに来ていた母が心配そうに声をかけてきた。
「さやか…。大丈夫? あの男は一体…。」
「大丈夫よ、お母さん。ちょっと、片付けることがあるだけ。」
私は、精一杯の笑顔を母に向けた。母は、何かを悟ったように、それ以上は何も言わなかった。
あの日、私は友人に「仕事はできても気が強いだけの女」と上司に言われた。その言葉に傷つき、ただ誰かに認めてほしかった。だから、結婚に焦った。誰かと一緒になることが、自分の価値を証明することだと思っていた。そして、その歪んだ思いに付け込んだのが、啓介だったのだろう。
私は、自分の愚かさを呑みながら、式場を後にする。結婚式は、当然のように中止になった。招待状を出した大勢のゲストに、私はなんと説明すればいいのだろうか。ただ、事実を淡々と伝えるしかない。私は、これからどうやって生きていけばいいのだろう。上司のあの言葉は、今も私の胸に突き刺さったままだ。
ただ、一つだけ確かなことがある。私は、もう二度と、見せかけの愛情に惑わされたりしない。たとえ、誰から何を言われようとも、自分自身の人生を歩んでいかなければならないのだ。そう心に決めて、私は今日という一日を終えた。すべてを失った代わりに、自分を取り戻すために。
