幼稚な夫が海外出張から帰ってきた夜、玄関で私の顔を見るなり言い放った。「低学歴のお前に、俺の世界は分からない」その隣には、同じ会社の若い女が勝ち誇った笑みで立っていた。私は貿易会社で人事をしている。もとは契約社員だったけれど、今は経営の一部まで任されている。夫の蓮とは会社のプロジェクトで出会い、彼の資料を陰で直し続けてきた。出世したら一番に恩返しすると言った彼の言葉を、私は本気で信じていた。…

幼稚な夫が海外出張から帰ってきた夜、玄関で私の顔を見るなり言い放った。「低学歴のお前に、俺の世界は分からない」その隣には、同じ会社の若い女が勝ち誇った笑みで立っていた。私は貿易会社で人事をしている。もとは契約社員だったけれど、今は経営の一部まで任されている。夫の蓮とは会社のプロジェクトで出会い、彼の資料を陰で直し続けてきた。出世したら一番に恩返しすると言った彼の言葉を、私は本気で信じていた。...

私は美緒。貿易会社で人事の仕事をしている。もとは契約社員だったのが、いまでは経営の一部まで任されるようになった。自分でも不思議な話だと思う。

夫の蓮とは、同じ会社の海外展開プロジェクトで出会った。蓮は海外バイヤー向けの営業を担当していて、いつもスーツをきっちり着込み、英語の資料を抱えていた。見た目は、いかにも仕事ができそうだった。

でも、実際に一緒に働いてみると少し違った。会議では勢いよく話すのに、肝心の企画は浅い。海外に行きたい、大きな案件を任されたい。その気持ちばかりが先に出て、なぜその商品を扱うのか、具体的な戦略がまるでない。周囲は半ば呆れて笑っていたけれど、私はそういう人を見ると放っておけない性格だった。

「ここをもう少し変えたほうがいいよ。こうしたら通りやすいと思う」

最初はただの仕事の助言だった。ところが蓮は、私が資料を直すたびに目を輝かせた。

「美緒ってすごいな。俺、こういうの苦手でさ。美緒がいてくれたら、俺もっと上に行ける気がする」

その言葉が素直に嬉しかった。私が直した資料が通り、蓮が上司に褒められる。そのたびに、まるで自分のことのように嬉しかった。付き合い始めたのはプロジェクトが終わった春。結婚したのは、その一年後だった。

蓮はいつも言っていた。

「俺が出世したら、一番に美緒に恩返しするから」

その言葉を信じて、私は蓮と結婚した。

結婚してしばらく経った頃から、夫に少しずつ違和感を覚え始めていた。結婚後も、私は蓮の仕事を手伝っていた。表向きは夫婦の会話という名目だったけれど、実際には提案資料まで一緒に作っていた。それもすべて蓮のため。蓮が評価されるのが、とにかく嬉しかった。夫が出世するなら、私も支えたい。そう思っていた。

ある夜、蓮が珍しく早く帰ってきた。

「今日は久しぶりにゆっくりしようかな」

その言葉に、胸が少し踊った。最近は、抱き合って横になることも減っていた。付き合っていた頃は蓮の方から手を伸ばしてくれていたのに、いつの間にか私が頼る側になっていた。その夜も我慢できずに抱きついたけれど、蓮のスマホが鳴った。

「悪い、海外の会社からだ」

海外との時差があるから、夜中に連絡が来ることもあるのは知っていた。だから私は何も言えなかった。

「仕事なら仕方ないよ」

そう笑ったけれど、胸の奥には小さな寂しさが残った。

それから、そんな夜が増えていった。蓮は「忙しい」の一点張り。会話は減り、夫婦の時間もなくなった。やがて私は、夫が不倫をしているのではないかと疑うようになった。相手として頭に浮かんだのは、同じ会社の契約社員、さやかだった。

さやかは経理回りの雑務を手伝うことがあり、蓮が領収書の扱いについて相談していた相手だった。通常の経理には相手にされなかったらしく、蓮はさやかに話しかけるようになったらしい。最初は領収書の相談だったのに、いつの間にか二人で悪だくみでもするようにこそこそと笑う姿を見るようになった。

ある日、さやかが私に近づいてきた。

「今度、蓮さんお借りしますね」

その言い方に、胸がざわついた。私が蓮に問い詰めると、彼は露骨に不機嫌になった。

「疑ってるのか? 手伝ってもらったから飯を奢るだけだろ。お前、人事のくせに人を見る目ないんじゃないの?」

私は黙るしかなかった。そんな中、さやかはわざと見せつけるように笑った。蓮の態度は日に日に強くなっていった。

「俺は忙しいんだよ。低学歴のくせに、分かったようなこと言うな」

私は少しずつ孤立していった。こんなはずじゃなかった。私はただ、夫を助けたかっただけなのに。できない人を見ると、何かしてあげたくなる。それが私の悪い癖だった。

そんなある日、蓮に初めての海外出張が決まった。まずはアジア圏。期間はおよそ二週間。仕事とはいえ寂しかったけれど、それ以上に気になることがあった。さやかもまったく同じ時期に休みを取っていたのだ。さらに、二人が会社に遅刻する日も同じだった。私は確信した。やっぱり、不倫している。

その夜、私は上司に呼び出された。

「美緒さん。蓮君の資料だけど、あなたが作りましたよね?」

血の気が引いた。

「他の社員から、会社の重要な資料はあなたが作ってるんじゃないかと言われてます。事実ですよね」

車内評価に関わる資料を、本人以上に私が作っていた。夫婦の形での手伝いとはいえ、会社としては見過ごせない。私は頭を下げた。

「申し訳ありません」

けれど上司はしばらく黙った後、意外なことを言った。

「怒ってはいます。ただ、同時に驚いてもいます。まず蓮君の評価についてはリセットします。今後は本人の実力を見ます」

終わったと思った。でも違った。

「そして美緒さん。会社はあなたを高く評価します。なぜ今まで裏方にいたのか、不思議ですよ」

私が作っていた資料は、海外事業の橋渡しとして高く評価された。孤独だと感じていたのは、逆に周囲が私を尊敬していたからだと知った。そして私は、新規海外人材事業の責任者候補として、一気に社内の上層部で名前が知られることとなった。

もちろん蓮は何も知らなかった。彼はまだ、自分が評価されていると思い込んでいた。

二週間後、蓮は海外から帰ってきた。けれど家に戻っても落ち着く様子はなかった。

「すぐ次の出張準備がある」

会えば私を下に見る言葉ばかりだった。

「低学歴の無能には、この世界は分からないか」

蓮は知らなかった。次の海外出張が、実は最後のチャンスだったことを。会社は彼の実力を確かめるため、あえて一度だけ機会をもうけていたのだ。

その出張前日、蓮はさやかを連れて私の前に現れた。

「美緒、離婚してくれ。すまんが、俺は出世のために、お前と結婚したんだよ」

さやかは勝ち誇った顔で私を見下した。

「気づかなかったなんて、本当にバカなんですね」

蓮は鼻で笑った。

「お前が人事にいるから利用価値があると思った。でも、もう用済みだから」

私はあまりのショックで、涙が出なかった。蓮はさらに続けた。

「俺は選ばれし者だ。海外で成功して、もっと上に行く」

私は離婚届を見つめ、静かに頷いた。

「分かった。署名する」

蓮は一瞬、拍子抜けした顔をした。

「は? 泣かないのか?」

私はペンを取って、名前を書いた。

「ようやく、今、すべて分かったわ」

すべてが繋がって、納得すらあった。私はこれまで、何をしていたんだろう。

蓮とさやかが海外へ向かったその日、私は荷物を整理し、必要なものだけを持って家を出た。

蓮が海外から戻ったのは一週間後だった。結果は散々だったらしい。商談はまとまらず、現地企業からは準備不足を指摘される始末。会社は即座に判断した。現状維持、つまり降格だった。さらに、海外出張中の領収書に不自然な点が複数見つかった。私的な飲食、さやかとの宿泊費、説明のつかない移動費。会社から返還命令が出た。

それでも蓮はまだ現実を見ていなかった。

「こんなの、なんとかなる」

しかし翌日、社内にさらに悪い噂が広がった。何もできない男。給料泥棒。無能なのに偉そう。蓮は会社にいられなくなった。

そして彼は私の前に現れた。

「お前のせいだ。お前が余計なことをしたから、俺の評価が下がった。責任取れよ」

その時、背後から低い声がした。

「責任を取るべきなのは、あなたですよ」

現れたのは、同じ会社の青木さんだった。彼は次期幹部候補と言われる人で、以前から私の仕事ぶりを気にかけてくれていた。青木さんは蓮をまっすぐ見た。

「あなたは海外に行きたいだけ。ずっと透けて見えていたんですよ。最初から、会社にいる価値はなかった」

蓮の顔が歪んだ。私は最後に、静かに言った。

「あなたが評価されなかった理由、私のせいじゃない」

蓮が何か言い返そうとした瞬間、私ははっきりと言った。

「だから、評価されないのよ」

それから蓮は何度も連絡してきた。さやかとはもう終わった。やり直したい。俺には美緒が必要なんだ。一方のさやかも現実を知って取り乱した。蓮には出世の見込みがない。返還命令という借金もある。さらには私が社内で評価されている。さやかは怒鳴った。

「話が違うじゃない! あなた選ばれた人じゃなかったの? 奥さんが低学歴の無能だって言ってたじゃない!」

蓮は何も言えなかった。二人は会社でも噂になり、居場所を失っていった。かつてあれほど偉そうに振る舞っていた男が、誰も振り向かない静かな場所へ消えていった。

ある日、蓮から細いメッセージが来た。

「戻ってきてくれ。俺を助けてくれ」

私は画面を見つめ、そのままスマホを伏せた。もう心は揺れなかった。

その後、私は新規海外人材事業の責任者に抜擢された。低学歴の無能。そう見下された私が、まさか会社の要になるなんて。自分でも少し笑ってしまった。

青木さんは、ずっと私を見ていてくれた。

「美緒さんの企画力と、人を見る目。僕は本当に尊敬しています」

そして、少し照れたように続けた。

「もちろん、見た目もずっとタイプでした」

私は思わず笑ってしまった。しばらくして、青木さんは私に言った。

「結婚を前提に、付き合ってください」

その言葉は、かつて誰かが言ったようには、私を利用するための言葉ではなかった。私という人間を、きちんと見てくれた言葉だった。だから私は、ゆっくり頷いた。

人を支えることは、悪いことじゃない。でも、自分を踏み台にする人まで支えてはいけない。本当に大切な人は、あなたの力を奪わない。むしろ、その力がちゃんとあなたの人生を照らすように、隣で見守ってくれる人なのだから。

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