六十五歳の米津工作は、先祖代々続くレモン農園を営んでいる。娘の由香は二十八歳で、都内のホテルにフロントとして勤めている。そんな由香から、婚約者との顔合わせの連絡が入った。
「お父さん、今週末、健太さんのご両親と会うことになったの。お願い、絶対に来て」
期待と不安が混ざった声だった。私はできる限りの準備をした。普段着では失礼にあたる。新しいスーツを買い、髪も整えた。
当日の朝、私はレモン畑を見回っていた。収穫シーズンを控えた大切な時期だ。レモンの木の状態を確認し、従業員の小町に指示を出していた。午前中の作業は順調で、問題はなかった。
「ああ、よかった。それじゃあ午後は……」
その時、電話がかかってきた。
「お父さん、ごめん。時間を一時間早めてもらえない?」
「どうしたんだ?」
「健太さんのお父さんが、急に会議が入ったって。午後三時からに変更になったの」
「分かった。大丈夫だ。三時で間に合う」
時計を見ると、午後三時まであと三時間。スーツに着替えてホテルへ向かえば、十分間に合うはずだった。私は家に戻り、シャワーを浴びた。新しいスーツを着て、鏡で確認する。時間には余裕がある。もう一度鏡を見た、その時だった。
従業員の小町から緊急の連絡が入った。
「工作さん、すぐ来てください。レモン畑の灌漑設備が故障して、水が止まっています」
「なんだって」
すぐに向かった。これは大問題だ。灌漑設備が故障すれば、レモン畑全体に影響が出る。収穫を控えたこの時期、水の管理は死活に関わる問題だった。私は迷った。しかし、農業者としてこの状況を放置することはできなかった。
「農家としての責任がある。農家仲間に声をかけてみる」
スーツの上に作業着を羽織り、レモン畑へと向かった。設備の故障は想像以上に深刻だった。近所の農家の人たちも駆けつけてくれ、みんなで作業を始めた。
「米津さん、この設備、このままじゃレモン畑全体がやられちゃう」
「ああ、みんなで協力しよう」
泥だらけになりながら、二時間かけて灌漑設備を修復した。作業が終わった時、時計を見ると午後二時半。ホテルまで車で三十分。シャワーを浴びている時間はなかった。私は作業着を脱ぎ、スーツに着替えた。手と顔を洗い、できる限り清潔にした。しかし、髪の毛には少し泥が残っていた。爪の間にも作業の跡が残っている。これ以上は無理だった。時間がない。しかし、これは農家として避けられない責任だった。私は車に乗り込み、ホテルへと向かった。
ホテルに到着したのは午後三時五分。五分遅れたが、なんとか間に合った。フロントで由香が待っていた。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、間に合ったよ」
由香は私の服装を見て、少し驚いた表情を浮かべた。しかし、何も言わずに私の腕を取ると、レストランへと案内してくれた。レストランの個室に入ると、すでに三人が座っていた。健太と、見知らぬ男女。健太の両親だった。
健太が立ち上がった。
「こちらが私の両親です。お父さん、お母さん。こちらが由香さんのお父様です」
健太の父、伊藤俊介は立ち上がり、私を見た。一瞬、表情が固まった。健太の母、孝子も明らかに嫌な顔をした。
「米津工作と申します。お時間をいただき、ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。俊介は形だけの笑顔を浮かべ、椅子に座った。孝子はわざと聞こえるように、小さくため息をついた。由香の表情が曇った。健太も気まずそうに視線を落としている。
料理が運ばれてきた。しかし、誰も箸を進めない。俊介が口を開いた。
「失礼ですが、お仕事は何をされてるんですか?」
「レモン農家を営んでいます。先祖代々続くレモン畑で、レモンを栽培しています」
孝子が鼻で笑った。
「農業ですか? それで生活できているんですか?」
由香の顔が一瞬青ざめた。
「はい。誠実に仕事をしています」
「誠実に、ですって? でも農業って不安定じゃないですか? 天候次第で収入が左右されるし」
「そうよね。私たちはIT企業を経営してるから、安定的な収入があるけど」
私は答えなかった。実際、農業は天候に左右される。しかし、私たちは何十年も続けてきたのだ。健太が小さく声をかけた。
「お父さん、お母さん、今日は……」
俊介が手を上げて健太を遮った。
「健太、お前は黙ってろ」
健太は再び口を閉じた。由香の目に涙が浮かんでいた。孝子がさらに言い放った。わざと鼻に手を当てながら。
「あの、失礼なんですけど。何か匂いがしません? 土の匂いっていうか、埃の匂い?」
「申し訳ございません。急な作業をしていたものですから」
「ふうん。農業ってそんなに忙しいものなの? 時間管理ができないんですか? そういうのを見ると、やっぱり農業は不安定だなと思いますね。うちの会社なら、緊急事態でも対応できる人員がいるから。人材育成ができていないと、こうなるんですよ」
「農業もチームで仕事をしています。信頼できる従業員がいて、今日も一緒にトラブルを解決しました」
孝子がわざと大きくため息をついた。
「従業員? 農業に従業員なんて、まさか。家族手当ても出してるんですか?」
「はい。正規の雇用契約を結んでいます」
「まあ、それはいいでしょう。でも率直に申し上げますと」
俊介がゆっくりと口を開いた。
「我々の家計は、社会的地位というものを大切にしてきました。農業という職業は、もちろん大切な仕事です。しかし、社会的地位という点では、正直言ってあまり評価できません」
孝子が続けた。
「娘さんは短大卒ですよね。私たちの息子は有名大学の経営学部を卒業して、IT企業でエンジニアとして働いています。その差は明らかですよね。学歴も家柄も、全て違います」
私の胸が熱くなった。しかし、ここで感情的になっては由香の立場が悪くなる。
「学歴や職業で、人の価値を判断するものではないと思います」
孝子が声を荒げた。
「価値? 価値って何ですか? 現実を見てください。農業なんて、いつ潰れるか分からない。天候次第で収入がゼロになるかもしれない。学歴もない。それでうちの息子と結婚する資格があるんですか? 娘さんをそんな環境に放り込めると思ってるんですか?」
由香が立ち上がった。
「お父さんのことを、そんな風に言わないでください」
「あら、娘さん。現実を見なさいよ。あなたは何ができるの? あなたの仕事って、ホテルのフロントだったっけ? それ、誰でもできる底辺の仕事でしょ? 結婚しても、ずっとフロントで働き続けるんですか? 私たちの息子の負担になるだけよ」
健太が小さく声を出した。
「母さん、やめてくれ」
「健太、お前は黙ってろ。これは大切な話だ」
私は深く息を吸った。そして、静かに立ち上がった。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
「お父さん」
「由香、すまなかったな。お前には何も悪いところはない」
私は由香の肩に手を置いた。由香の目から涙が溢れた。孝子がわざと聞こえるように言った。
「やっぱり、こんな人と縁談を進めるわけにはいかないわね。農業なんて下層階級の仕事でしょ。私たちの家計にはふさわしくない」
「そうだな。健太、お前も分かっているだろう。結婚は家同士の問題なんだ」
健太は何も答えなかった。私は静かに部屋を出た。廊下を歩きながら、私の心は重く沈んでいた。自分の存在が、娘の幸せを邪魔している。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
ホテルの外に出ると、冷たい風が吹いていた。私は車に乗り込み、家へと向かった。車を走らせながら、伊藤夫妻の言葉が頭の中で反響していた。農業なんて下層階級の仕事。いつ潰れるか分からない。結婚する資格がない。その言葉の一つ一つが、私の胸を刺した。
家に着いたのは三十分後だった。私は書斎に入った。机の上には、先祖代々の農業の記録がある。何十年もかけてこの仕事を続けてきた。技術を磨き、品質を追求してきた。しかし、今、その全てが否定された。書斎の壁には表彰が並んでいる。農業功労者表彰、品質優秀賞、地域貢献賞。しかし、それは今、何の意味も持たないように感じられた。
その時、私は思い出した。人材を育て、信頼できる仲間を作ってきた。それは経営者としての私の誇りでもあった。しかし、伊藤夫妻の言葉は、その全てを否定した。農業に従業員なんて。人材育成ができていない。その言葉が、私の胸を深く刺した。
その時、由香から電話がかかってきた。
「お父さん、ごめんね。私がもっとしっかりしていれば」
「由香、お前は何も悪くない。むしろ、お父さんが悪かった」
「違う。お父さんの仕事は、素晴らしい仕事よ。私はお父さんを誇りに思ってる」
「ありがとう。でも、お前の婚約は……」
「健太さんが、お父さんたちを説得してくれるって」
「そうか」
由香の言葉に、私の目が熱くなった。しかし、電話を切った後、私は考えた。健太が説得しても、伊藤夫妻の考えが変わるはずがない。私たちを下層階級と見なした人たちが、簡単に考えを変えるわけがない。
その時、私は思い出した。伊藤俊介の言葉。うちの会社なら、緊急事態でも対応できる人員がいるから。その言葉には、何か引っかかるものがあった。しかし、今はそのことを考える余裕がなかった。自分の存在が娘の幸せを邪魔している。その思いが、私の心を押しつぶしていた。
その夜、私はレモン畑に戻った。深夜、誰もいないレモン畑。月明かりだけがレモンの木を照らしている。私は農場の倉庫に入った。壁際の棚には、古いアルバムが並んでいる。埃をかぶった茶色い表紙。手に取ると、懐かしい匂いがした。ページを開く。十二年前の写真だ。台風十九号が来た日だった。写真には、農場の倉庫の中に敷かれたダンボールベッドが映っている。毛布にくるまった子供たち、不安な表情の母親たち、そしてポータブル電源を運ぶ作業着姿の私。
あの日、私たちの農場は地域の避難所になった。行政の避難所が満員になり、行き場を失った人々が次々と訪れたのだ。私は迷わず農場の倉庫を解放した。作業場の床を水で拭き、ダンボールを敷き詰めた。自宅から毛布を運び、妻と一緒に炊き出しをした。ポータブル電源を並べ、携帯電話の充電場所を作った。近所の農家の人たちも駆けつけてくれた。三日間、農場は避難所として機能した。
私は思い出す。あの時、誰かに褒められたいと思ったわけではなかった。ただ困っている人がいた。それだけだった。写真の中に、一人の少年が映っている。十歳くらいだろうか。濡れた服のまま、ダンボールの上で丸くなっていた。母親は仕事で外出中。連絡が取れなかったのだ。私は自分のジャンパーを脱いで、その少年にかけた。
「大丈夫だ。お母さんは、必ず帰ってくる」
少年は震えながら頷いた。その夜、少年の母親が農場に駆け込んできた。泥だらけのまま息を切らして、息子を抱きしめながら何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
誰も見ていなくていい。やるべきことをやるだけだ。それが私の信念だった。
アルバムを閉じようとした時、足音が聞こえた。振り返ると、若い男が立っている。小町だ。小町は私たちの農場の若手リーダーである。
「工作さん、まだいらしたんですか?」
小町は心配そうに近づいてきた。
「ああ、少し……」
小町がその写真を覗き込んだ。そして息を呑む。
「これ……あの時」
声が震えていた。小町はあの日の少年だったのだ。
「小町、まさか……」
私は驚いた。知らなかったのだ。小町があの少年だったことを。小町は続ける。
「僕はあの日、工作さんに救われたんです。だから、この農場で働きたいと思いました。農業を工作さんに教えてもらいたいと思いました」
「そうだったのか」
「工作さん。あの時の恩は、一生忘れません」
小町の目に涙が浮かんでいた。
「工作さんがいてくれて、本当に良かったです。十年前、僕は何も知らなかった。でも、工作さんが教えてくれて、今は一人で責任を持って仕事ができるようになりました。それは工作さんのおかげです。だから、工作さん。諦めないでください。工作さんは素晴らしい人です。そのことを、私たちは知っています」
私の目が熱くなった。倉庫の外で夜風が吹いているけれど、私の胸には温かいものが広がっていた。人は見ていないかもしれないけれど、確かに誰かに届いていた。そうか。まだ諦めるには早いな。私は立ち上がった。まだ、戦う力がある。
その時、私は思い出した。伊藤俊介の言葉。うちの会社なら、緊急事態でも対応できる人員がいるから。その言葉には、何か引っかかるものがあった。IT企業。それは確かに現代的な企業だ。しかし、その企業が本当に誠実に経営されているのか。私は決意を固めた。農業という仕事を守るために。娘の幸せを、自分の力で取り戻すために。
翌日、私はパソコンの前に座り、インターネットで調べてみた。ネクストテクノロジー、伊藤俊介。検索結果が表示された。いくつかの記事が出てきた。その中に、気になる記事があった。ネクストテクノロジー、個人情報保護に関する問題が指摘される。複数のユーザーから、個人情報の不正利用の疑いがあるとの報告が上がっている。さらに調べると、農業協同組合のサイトに気になる情報があった。農薬の違法使用に関する通報を受け付けています。農薬メーカーとの不正な取引の疑いがある企業の情報を求めています。
私の頭の中で、何かが繋がり始めた。ネクストテクノロジー。農薬メーカー。私はさらに詳しく調べた。そして発見した。ネクストテクノロジーが農薬メーカーとの取引で、違法な農薬を流通させている疑いがあること。その過程で、個人情報も不正に利用されていること。私の心に、冷たい決意が芽生え始めていた。これは単なる復讐ではない。正義のためだ。
その日の午後、私は農業協同組合の事務所を訪れた。前日、電話で約束を取っていた組合長の鈴木が、私を迎えてくれた。
「米津さん、よく来てくれました。電話でのお話、重大な問題ですね」
「鈴木さん、実は詳しく調べたことがあって」
私は調べた情報を鈴木に伝えた。
「ネクストテクノロジーという会社が、農薬メーカーとの取引で不正な行為をしている可能性があります」
「ネクストテクノロジー。確かに、その会社については私たちも気になっていました。農薬メーカーとの取引で不正な行為をしている可能性があると、報告が上がっています」
「どのような不正ですか?」
「違法な農薬を、正規ルートを経由せずに流通させている可能性があります。その過程で、個人情報も不正に利用されているとの報告があります。しかし、証拠が不十分で、動きが取れない状態でした」
「それは農業にとって、大きな問題です。違法な農薬が流通すれば、安全な食品を脅かします」
「その通りです。米津さんは長年農業を続けてこられた。その経験と知識があれば、不正を暴く手がかりを見つけられるかもしれません」
私は深く息を吸った。
「鈴木さん、私にできることはありますか?」
「米津さんが証拠を集めてくれるなら、私たちも本格的に動けます。農業という仕事を守るために、必要なことです」
私は決意を固めた。
「分かりました。やりましょう」
「米津さんなら、できるはずです」
その日の午後、私は家に戻り、証拠を集め始めた。パソコンの前で、長時間調べ続けた。IT企業と農薬メーカーの取引記録。個人情報の不正利用の痕跡。農業協同組合への報告書。全ての証拠を、丁寧に整理した。その間、由香から何度も電話がかかってきた。
「お父さん、どうしてるの? 元気?」
「ああ、大丈夫だ。仕事をしている」
「そう。無理しないでね」
私はまだ何も言えなかった。計画が完了するまで、待ってもらう必要があった。
三日後、私は全ての証拠を揃えた。農業協同組合に提出し、さらに行政機関にも報告した。
「米津さん、これは重大です。すぐに適切な機関に報告します」
「お願いします。農業を守ってください」
「もちろんです。米津さんの努力に感謝します」
私は証拠を提出した。その瞬間、私の心に静かな満足感が広がった。
一週間後、証拠が提出された結果、行政機関が動き始めた。ネクストテクノロジーの本社ビルに、複数の行政機関の職員が訪れた。農林水産省。個人情報保護委員会。警察。伊藤俊介は対応に追われていた。
その日の午後、緊急の記者会見が開かれた。会見場には多くの記者が集まっていた。フラッシュが光り、カメラが並んでいる。俊介が壇に立った。額には明らかな汗が浮かんでいた。
「ネクストテクノロジーが違法な農薬の流通に関与していた疑いがありますが、コメントをお願いします」
「それは誤解です。私たちは適切に業務を行っています」
「しかし、証拠が提出されています。農薬メーカーとの不正な取引、そして個人情報の不正利用の疑いがあります。これは事実ですか?」
俊介の顔が青ざめた。
「それは……調査中です」
「調査中ということは、事実を認めるということですか?」
「いえ、そういうことでは……」
「では、なぜ調査が必要なんですか? 無実なら、調査の必要はないはずです」
俊介は言葉に詰まった。
その日の夜、テレビのニュースで報道された。本日、IT企業ネクストテクノロジーが、違法な農薬流通に関与していた疑いで行政機関の調査を受けています。さらに、個人情報の不正利用の疑いも浮上しており、同社の経営に重大な影響を与える可能性があります。そのニュースを見て、私は静かに頷いた。これは当然の結果だ。不正を働けば、いつかは明るみに出る。
その夜、由香から電話がかかってきた。
「お父さん、テレビで見たんだけど。健太さんのお父さんの会社が、大変なことになってるみたい」
「そうか」
「お父さん、もしかして……」
「由香。お父さんは、正しいことをしただけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
由香は少し黙った。
「分かった。お父さんが正しいなら、それでいい」
伊藤俊介の会社は、一気に信用を失った。取引先は次々と契約を解除していった。株価は暴落した。会社の経営は、危機的状況に陥った。
二週間後、行政機関の調査結果が発表された。ネクストテクノロジーは行政処分を受けた。事業の一部停止。そして巨額の罰金。さらに個人情報保護委員会からも、厳しい処分が下された。
その日の午後、伊藤俊介は再び記者会見を開いた。会見には、前回よりも多くの記者が集まっていた。俊介は深々と頭を下げた。
「この度はご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」
「謝罪だけで済むと思っているんですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「なぜ違法な農薬を流通させたんですか? 理由を説明してください」
「それは……」
俊介は言葉に詰まった。顔には汗が浮かんでいた。しかし、その謝罪は時すでに遅し。会社の信用は完全に失われていた。取引先は全て契約を解除。従業員も次々と退職していった。会社は事実上、経営不能状態に陥った。
数日後、由香は家に帰ってきた。
「お父さん、健太さんから連絡があったの。健太さんが、お父さんとお母さんの家を出たって。自分の判断で生きていきたいって。そして、私に会いたいって言ってる。お父さん、どう思う?」
「由香。それはお前が決めることだ。お父さんは、お前の幸せを願っているだけだ」
「うん。私は健太さんが好きだから、もう一度会ってみる」
「そうか。それでいい」
由香は私に抱きついた。
「お父さん、本当にありがとう」
「由香、お前はお父さんの誇りだ。でも、困ったことがあったら、ちゃんとお父さんを頼ってくれ」
由香の目に涙が浮かんでいた。
三ヶ月後、ネクストテクノロジーは倒産した。伊藤俊介は会社の責任を取って、全てを失った。社会的地位。財産。そして信用。全てを失った伊藤俊介は、小さなアパートで暮らしていた。伊藤孝子も社会的地位を失い、寂しい生活を送っていた。
一方、健太は新しい会社でエンジニアとして働き始めた。父親の会社を離れ、自分の力で生きていくことを選んだのだ。由香と健太は、再び付き合い始めた。今度は両親の反対なく、二人の意思で。
ある日の夕方、由香と健太が家を尋ねてきた。
「米津さん、今日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ。どうぞ上がってください」
健太は深く頭を下げた。
「米津さん。以前、両親が失礼なことを言いました。本当に申し訳ありませんでした」
「それはもう過去のことだ。気にしなくていい」
「でも、私は両親の言葉が米津さんを傷つけたことを知っています。そして、その結果、父の会社が……」
「お前はお前だ。親の責任を追う必要はない。それに、お父さんの会社がどうなったかは、お父さんの行動の結果だ」
健太は深く頷いた。
「分かりました。ありがとうございます」
由香が微笑んだ。
「お父さん、健太さんは今、農業に興味を持ってるの。お父さんの仕事を見て、素晴らしいって言ってる」
「そうか。それは嬉しいな」
「米津さん。もしよろしければ、今度レモン畑を見学させていただきませんか?」
「もちろんだ。いつでも来てくれ。農業は、誰でも歓迎する仕事だ」
その夜、私は一人でレモン畑を見回った。収穫シーズンが近づいている。レモンの木には、しっかりと実がついていた。遠くから小町が声をかけてきた。
「工作さん」
「ああ、小町か」
「工作さん、今年も良い出来ですね」
「ああ、そうだな。みんなの努力の成果だ」
「工作さんがいてくれて、本当に良かったです。十年前、僕は何も知らなかった。でも、工作さんが教えてくれて、今は一人で責任を持って仕事ができるようになりました」
「小町、お前は立派な農業者だ。人材を育てるのは、経営者としての誇りだ」
「ありがとうございます。でも、それは工作さんのおかげです。これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそだ」
私は空を見上げた。星が一つ、また一つと輝き始めていた。農業は確かに大変な仕事だ。天候に左右され、収入が不安定になることもある。しかし、それは価値がないということではない。私たちは誠実に仕事をしてきた。技術を磨き、品質を追求してきた。人を育て、仲間を大切にしてきた。その誇りは、誰にも奪うことはできない。
私は家に帰った。リビングから、由香と健太の笑い声が聞こえてきた。二人の顔には、幸せそうな笑顔が浮かんでいた。由香の幸せを、自分の力で守ることができた。農業という仕事の価値を、証明することができた。その満足感が、私の胸を満たしていた。農業者として、父親として。私は誇りを持って生きていける。その確信が、私の心を温めていた。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。町は動き続けている。人生も、まだ終わっていない。新しい朝が、また来る。どんな困難があっても、誠実に仕事を続けていけば道は開ける。私はそう信じていた。
