夕食の後、息子が突然「母さん、明日から一人で暮らしてくれ」と平然と言った。三十八年間、パートと内職で食いつないで、たった一人で育ててきた実の子の口から、そんな言葉が飛び出すなんて信じられなかった。隣にいた嫁は「この家を私たちだけで使いたいんです」と申し訳なさそうな顔をしながらも、その目は冷たかった。私は黙って頷いた。「分かったわ。明日には出ていく」。でも、私はもう一つのことを決めていた。彼ら…

夕食の後、息子が突然「母さん、明日から一人で暮らしてくれ」と平然と言った。三十八年間、パートと内職で食いつないで、たった一人で育ててきた実の子の口から、そんな言葉が飛び出すなんて信じられなかった。隣にいた嫁は「この家を私たちだけで使いたいんです」と申し訳なさそうな顔をしながらも、その目は冷たかった。私は黙って頷いた。「分かったわ。明日には出ていく」。でも、私はもう一つのことを決めていた。彼ら...

夕食後のリビングで、息子のり太が淡々とした口調で言った。

「母さん、明日からは一人で暮らしてくれ」

実の息子の口から出た言葉とは思えなかった。私は固まってしまった。三十八年間、パートと内職で稼ぎを得て、必死に息子を育ててきた私に向かって、こんな言葉が本当にあるのだろうか。

「お母さん、申し訳ないんですけど……この家を私たちだけで使いたいんです」

隣に座っていた嫁の美由が、申し訳なさそうな表情を作っていた。しかしその目は冷たく、私を見つめていた。

「でも、この家は私が頭金の五百万円を出して……」

「はあ? いつの話をしてるんだよ。もう過去の話だろうが」

息子夫婦の顔を交互に見つめながら、私の中で何かが確実に変わっていくのを感じた。

「分かったわ。明日には出ていく」

翌朝、荷物をまとめながら私は過去を振り返っていた。三十八年間、よく頑張ってきた。夫を早くに亡くし、女一人でり太を育ててきた。パートと内職で必死にやりくりし、息子の教育費を捻出してきた。三年前、り太が美由を連れてきた時、私は家を建てる際の頭金として五百万円を出した。息子のためを思ってそうしたのだ。

「お母さん、一緒に住みませんか? 私たちがお世話しますから」

美由の言葉を信じて、私はこの家に移ってきた。やっと家族と一緒に暮らせる。最初の数ヶ月は本当に幸せだった。孫の葉斗の世話をし、家事を手伝い、家族の時間を過ごした。でも、やがて私の居場所は奪われていった。

「お母さんは二階の物置き部屋で十分ですよね。この先長くない年寄りに広い部屋はもったいないですから」

狭い部屋に追いやられ、年金十五万円も全額彼らの口座に振り込まれるようになった。

「お母さん、年金は全額家計に入れてもらいます。振込先を私の口座に変更してください」

「でも、少しは手元に……」

「何に使うんですか? 住費も食費も全部こっちで出してるのに」

結局、月十五万円の年金は全て彼らの口座に振り込まれることになった。小遣いすら渡されず、必要なものがあればお願いする屈辱的な生活が始まった。

「お荷物は早く片付けないとね」

昨夜、美由が私の荷物を指差しながらり太に言った言葉が残っていた。お荷物。私は息子夫婦にとって、ただの荷物だったのか。

同居が始まって半年が過ぎた頃から、美由の態度は露骨に変わっていった。

「お母さん、明日から朝五時に起きて全員分の朝食を準備してください」

週三日のパートを仕事と言い張る美由。私は三十八年間、パートと内職を掛け持ちして働いてきた。それでも黙って従った。

「このお味噌汁、薄くないですか? お母さんって料理下手なんですね。三十八年頑張ってきて、これですか?」

「母さん、もう少し味付け考えてよ。美由の方がずっとうまいんだから。見習ったら?」

「おばあちゃんには近づかないで」

美由がそう吹き込むと、純真な孫は信じてしまった。ある日、孫に「おばあちゃん、触らないで」と言われた時、胸が痛んだ。同じ家に住んでいるのに、孫を抱くことも一緒に遊ぶことも禁じられた。

「葉斗、おばあちゃんはあなたを愛してるのよ」

でもその言葉は届かなかった。美由が吹き込んだ言葉が、孫の心に深く刻まれていた。

夜、自室で一人食事をしていると、隣から美由の電話の声が聞こえてきた。

「うちの姑ね。ああ、本当にお荷物よ。目障りだし邪魔なのよね。早く施設にでも入ってくれればいいのに。でも年金は全部もらってるから、まだ利用価値はあるけどね」

その日の夜、自室に戻った私は古い書類入れを開けた。中からある書類を取り出した。

「よかった。あの日のままだわ」

書類を開いて、私は静かに頷いた。三十八年間、必死に生きてきた。でも、これからは自分のために生きる。私は静かに微笑んだ。そして、深く息を吐いた。

翌朝六時、私は最後の朝食の準備を始めた。

「母さん、今日で最後なんだからちゃんと作ってよ。三十八年間パートと内職しかしてなかったんだから、せめて最後くらいはちゃんとやってくれ」

息子の口から出たその言葉に、もう何も感じなかった。

「ええ、最後だから特別なものを用意したの」

テーブルに並べたのは、り太が子供の頃大好きだった卵焼き、味噌汁、焼き魚。

「り太が小さい頃、この卵焼きを食べていつも笑顔になってくれたのよね」

でも今のり太には、その思い出も意味をなさない。私は静かに微笑んだ。

「これで思い残すことはないでしょ。感謝しなさいよ」

朝食後、私は小さなバッグ一つだけを持って玄関に立った。

「もう行くんですか? 逃げ足が早いのはいいことですね」

「ええ、お迎えが来るから」

私は振り返ることなく玄関を出た。タクシーに乗り込み、運転手に告げる。

「実家までお願いします」

車が走り去る時、振り返る息子夫婦の表情が目に入った。二人はまるで重荷を下ろしたように、安堵の笑みを浮かべていた。

「最低な笑顔ね」

私は静かに窓を閉じた。

翌日の朝十時、玄関のチャイムが鳴った。美由が玄関を開けると、スーツ姿の男性が立っていた。

「山田不動産の者です。土地と建物の新所有者からの通知をお持ちしました。こちらの土地と建物は、昨日、池田正美様から弊社を通じて売却されました。所有権はすでに移転済みです。建物に居住されているり太様には、立ち退きを一ヶ月以内にお願いします」

「なんだって? 母さんが土地と建物を売ったのか?」

「でもこの家は俺の名義だろ。俺がローン払ってたんだぞ」

「いえ、登記簿を確認しましたが、土地も建物も全て池田正美様の名義でした。法的には、所有者である正美様に売却の権利があります」

「そんなバカな。俺がローン払ってたのに」

「申し訳ございませんが、売却手続きは完了しており、取り消すことはできません」

り太は呆然としていた。その時、宅配便が届いた。中を開けると、母親からの手紙が入っていた。

「り太へ

驚いているでしょうね。でもこれが現実です。土地と建物の件ですが、あなたは俺がローンを払っていたというかもしれないけど、忘れたの? あなたが契約社員で審査が通らなかったから、私が名義人になったのよ。今も名義は私のまま。あなたはずっと自分の家だと思い込んでいたようだけど、法的には全て私の所有物よ。

あなたが私に言った言葉を覚えていますか? 独身、居候、金のない老人。私がいなくなって楽になりましたか? 朝食は誰が作るのでしょう?

売却代金三千五百万円は私が受け取った。あなたたちには一円も渡しません。

さようなら」

手紙を読み終えたり太の手が、激しく震えていた。

「くそ、やられた」

「家と土地がお母さん名義だったってどういうことよ。聞いてないわよ」

嫁の美由が混乱した様子で叫んだ。その時、り太の携帯にメールが届いた。銀行からだった。

「土地と建物の所有権が移転したため、繰り上げ返済をお願いします。期限は二週間以内です」

「そんな急にローンの一括返済なんて無理だ」

残されたリビングで、り太と美由はただ座り込むだけだった。

「ちょっと、これからどうするのよ」

「うっさいな。アパートでも探すしかないだろう」

その時、朝食の準備がされていないことに気づいた。洗濯物も溜まっている。

「家事は誰がやるのよ」

「お前がやれよ。パートだろ?」

「じゃあ、あんたこそもっと稼いでよ」

初めての夫婦喧嘩が始まった。その様子を近所の人たちが窓から見ていた。

「あの家、最近騒がしいわね」

「聞いた? あの家、お母さんが出ていったらしいのよ」

「そうなの? でも息子夫婦が追い出したって噂よ」

「でもお母さんが家を売ったって聞いたわ。三千五百万円で」

「まあ、それは息子夫婦がかわいそうじゃない?」

「でも、あの息子夫婦、お母さんをひどく扱ってたって聞いたわよ。自業自得じゃない?」

周囲の噂はすぐに広がっていった。

新しいアパートの窓から見える景色は、静かで穏やかだった。土地と建物を売却した三千五百万円で、私は小さなアパートを購入した。年金十五万円とこの売却代金があれば、残りの人生を穏やかに過ごせる。

携帯が鳴った。り太からだ。

「母さん、お願いだ。会ってくれ。土地と建物だけでも買い戻させてくれ」

「もう新しい所有者のものよ」

「じゃあ、金を貸してくれ。頼む」

「あなたに渡すお金なんてないわよ」

私は淡々と電話を切った。あの日、息子夫婦が私に投げかけた言葉を、そのままお返ししただけのこと。

噂によると、り太と美由は破産の瀬戸際にいるらしい。家を失い、今は地区五十年の古いアパートで暮らしているという。

近所の主婦たちは私のことをこう言っている。

「正美さん、よく頑張ったわね。三十八年間も一人で息子を育ててきたのに、あんな扱いを受けて」

「正美さん、あなたは間違っていない。自分の権利を守ったのよ。私はあなたを支持するわ」

もしあのまま息子夫婦の家にいたら、私は本当に壊されていたかもしれない。でも私は逃げなかった。自分の権利を守り、自分の人生を取り戻した。

窓の外を見ると、夕日が静かに沈んでいく。三十八年間、必死に生きてきた。でもこれからは、自分のために生きる。年齢なんて関係ない。大切なのは、自分を大切にする勇気だけ。

Thumbnail